聖書の人物より(使徒の働き)

旧約聖書のソロモンの言葉に、「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり」とある。
そしてやや過激に、「殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」ともある。
、 さらに「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」と続く。
結びは「神のなされることは皆その時にかなって美しい」である(伝道の書3章)。
イエスの弟子達の伝道の勇気と苦闘を記録した「使徒行伝」を読むと、こんなソロモンの言葉が思い浮かんだ。
さてイエスは十二使徒を自ら選んだが、最初のひとりがガリラヤ湖で漁をしていたペテロとその兄弟アンデレ。
十二弟子の一人ユダがイエスを裏切ってローマに売り渡しのだが、イエスはユダの「裏切り」をあらかじめ知っておられた。
最後の晩餐でイエスが弟子達の足を洗う場面がある。
「イエスは彼に言われた、”すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない”。”イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、”みんながきれいなのではない”と言われたのである」(ヨハネの福音書13章)。
ともあれユダの裏切りにより、イエス十字架の死と人類の贖罪がなされたのだから、ユダはひとつの役割を果たすべく選ばれたことになる。
自害したユダに代わって「マッテヤ」が使徒に加えられる。
ペテロは、ガリラヤ湖畔ベツサイダ出身でカペナウムに住む漁師で、バルヨナ・シモン(サイモン)という名であった。
無学に近いシモン(ペテロ)と兄弟アンデレをイエスは見出して「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ福音書4章)と、声をかけられる。
それに対して彼らはすぐに応じて網を捨てて従ったと簡単に記述されているが、家庭もある身からすれば並大抵のとことではない。
ちなみに、「ペテロ」とはイエスによってつけられた愛称で、ギリシア語で「岩」の意味で、ヘブル語では「ケパ」を意味する。
「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパと呼ぶことにする」(ヨハネ福音書1章)。
そのペテロは、どこにでもいそうなお調子者である。
イエスを真似て荒れる湖に足を踏み出し、実際に歩きはじめたものの、風を見て怖くなり沈みかけたところをイエスに助けられて「なぜ疑ったのか」とたしなめられる(マタイの福音書14章)。
イエスの姿が栄光に輝き、モーセとエリヤと会話された様子を目撃したペテロは、興奮で何を言ってよいかわからず「3人のために小屋を3つ建てましょう」などと先走る(ルカの福音書9章)。
また、イエスが公生涯最後の段階で弟子たちの足を洗って愛し仕える模範を示そうとしたときも、「そんな事決してなさらないでください」と言い、「それならお前はわたしと何の関係もなくなる」とイエスに返されると、今度は「足だけでなく、手も頭も」と言ってしまい諭されている(ヨハネ福音書の13章)。
ただ、そんなお調子者のペテロが自分と真摯に向き合わなけれなならない深刻な「挫折」を体験する。
最後の晩餐で、「あなたにどこまでもついて行きます。あなたのためには命も捨てます」と宣言したにもかかわらず、イエスが捕えられてからは、イエスの予告通り、鶏が鳴くまでに3度イエスを否認してしまった(ヨハネ福音書の18章)。
同じガリラヤ湖で復活したイエスに出会い、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、赦しと使命とが与えられる。
心の痛みから解放されたペテロは約束の助け主である聖霊の力も受けて、その他の弟子たちとともに劇的に変えられていく。
それからペテロを中心に、復活のイエスがキリスト(救い主)であるという宣教が始まり、エルサレムから福音が広まっていった。
ペテロの最後は聖書に記述がなく、伝承によればローマで殉教したのではないかといわれている。
ヴァチカンの総本山サン・ピエトロ大聖堂はパウロの墓の上に建てられているという。
パウロの生立ちは、ペテロとは対照的である。
ローマの属州キリキヤのタルソという現在のトルコの南部、地中海にほど近い町で生まれた。
ユダヤ人であったが「ローマの市民権」を生まれながらもっていた。
パウロという名はギリシア語で、ユダヤ名(ヘブル語読み)ではサウロであった。ローマ市民権をもち、ギリシア語も話せるというのは、宣教の上でとても大きな意味をもっていた。
もともとは、パリサイ派の高名な教師ガマリエルの元で律法を学んだというバリバリのユダヤ教徒であった。テント作りを職業にし、結婚はせず生涯独身であったことも書かれている。
パウロはエスの弟子たちが宣教を広めて行く「使徒行伝」において、イエスをキリストと信じる人たちを迫害する人物として登場する。
「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」(使徒行伝8章)。
ところがダマスコ(現在のダマスカス)という場所に向かう途中、天からの光に照射され、復活の主イエスの声を聴き、その声の主が自分がこれまで迫害の対象としてきたキリスト者の信じるイエス・キリストであることを知る。
回心したパウロはダマスコの弟子たちと共に、大胆にイエスがキリストであることを語り始めたが、今度はパウロ自身がユダヤ人たちの反対にあい、命を狙われるようになる。
エルサレムに逃れたパウロは、弟子たちの交わりに入ろうとするが、弟子たちは迫害者であったパウロを簡単には受け入れられなかった。
そこでバルナバという信者がパウロの仲介役をかって出たため、パウロは教会の仲間に加わることができ、後にはアンテオケという場所を拠点にバルナバと共に宣教活動に励むようになった。
そんなパウロとペテロが対立した場面がある。
「ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかってかれをなじった」(ガラテヤ人への手紙2章)とある。
ここにおけるパウロの非難は、ケパ(ペテロ)が異邦人と食事を共にしていたのに、ユダヤ人が現れると彼らに気を遣って異邦人と疎遠になって態度を変えたことに対してであった。
あくまで救いは律法ではなく、信仰による神の恩寵によるものだとするパウロにとってはそうしたペテロの日和見的態度は非難すべきことであったようだ。
実は初代教会においてキリスト教はユダヤ教の一派ぐらいの位置づけで、エルサレム教会に属していたペテロは、異邦人にキリスト教を授ける時は、まず割礼をうけさせユダヤ教徒にすることを前提としていた。
しかし、パウロを中心としたアンテオケ教会は、割礼を強要することなく、キリストの救いを施していた。これはユダヤ教からの完全独立を意味する。
そこで、エルサレム教会とアンテオケ教会は協議を行い、パウロたちの行動や考えは承認される。
そしてペテロたちはユダヤ人に、パウロたちは異邦人に伝道するという伝道圏の二分割によって一応の「円満解決」をみる。
ペテロが、パウロを同志として受け入れていたことが次の内容でわかる。
「このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである」(ペテロ第二の手紙3章)。
一方のパウロは、伝道の対象を異邦人に向けることを宣言している。
「神の言は、まず、あなたがた(注:ユダヤ人)に語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」(使徒行伝13章)。 それまでユダヤ人だけのためのものだと思われていた神の教えは、全ての人(異邦人)にも開かれたものであり、自分はそのために召されたのだということを意識していったようだ。

エルサレムで誕生した「初代教会」において十二弟子たちの働きを助けるために選ばれた7人の執事の一人にステパノという人物がいた。
ステパノは、アブラハムからイエス・キリストまでのイスラエルの歴史を滔々と語り、「あなたがたは強情でいつも聖霊に逆らっている」と責め、ユダヤ人達を怒らせる。
そのためステパノは石打ちにより死亡するのだが、その殉教の現場にいたのが、当時熱心なユダヤ教徒で、キリスト教を異端として取り締まる立場にあった「サウロ」という青年であった。
事前にステパノ処刑の決定に賛成していたサウロは、刑の執行者たちの着物の番をしていたという。
その後、異端者を捕えるために鼻息も荒くダマスコに向かう途中で光にうたれ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という神の声をきく。
その後、3日間目が見えなくなりアナニヤといわれる人物の処に導かれ視力が回復に向かうが、クリスチャン達はなかなか迫害者サウロ(パウロ)を受け入れようとはしなかった。
そんな折、使徒たちによって「バルナバ」(「慰めの子」という意味)と呼ばれていた信者がいた。
使徒行伝には、「聖霊と信仰に満ちた立派な人」(11章)と書いてある。
バルナバは、「彼(パウロ)の世話をして使徒達のところへ連れて行き、その身に起こったことを説明し、人々がパウロに対して抱いた恐れを取り除こうとした。
しかしパウロをやすやすとキリストの使徒として受け入れることはしなかったものの、バルナバの仲立ちによってパウロは使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語りユダヤ人達としばしば語り合い、論じあうほどになっていく。
ところが、パウロが命の恩人バルナバとが激しく対立する場面がある。
パウロとバルナバによる第1回の地中海伝道旅行の時、助手としてマルコを連れて行った。ところがマルコは、キプロス島伝道のあとトルコに上陸してからエルサレムに帰ってしまう(使徒13)。
なぜマルコが途中で帰ってしまったのか理由は定かではないが、第二回目の伝道旅行の際に、そのマルコが途中で退却したことが、問題となった。
バルナバはマルコを一緒に連れていくと主張するが、パウロは、途中で帰ってしまったような人など連れて行けないと、たいへん厳しい。
その際、パウロとバルナバの対立は消えず、両者は別行動をとることになり、パウロは海路バルナバとマルコは陸路をとることになる。
このことは、福音の”広がり”という観点に立てば、前進であったに違いない。
ところで、この時問題となった若者マルコは後に「マルコによる福音書」を残すほどに成長するだから、バルナバの寛大さに救われたのだろう。
そんな激しいパウロが、使徒達に書いた手紙の中に、バルナバの影響かと思わせる箇所がいくつかある。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」 (コリント人への第一の手紙13章)。
また、パウロは「信仰の実」として次のような資質をあげている。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ人への手紙5章)とも書いている。
パウロもマルコ同様に、バルナバとの出会いにより成長させられたのであろう。
成長といえば、パウロは信徒にあてた手紙に次のように書いている。
「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。 すなわち、ある人は"わたしはパウロに"と言い、ほかの人は"わたしはアポロに"と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」(ガリラヤ人への手紙2章)。
ここで登場する「アポロ」は、アレキサンドリヤ生まれのユダヤ人。
エペソの教会にて、すでに「主の道の教えを受け」ていた彼は、「イエスのことを正確に語り、また教えていた」(使徒行伝18章)とある。
その情熱と雄弁にひかれた人々は、教会の創設者パウロ以上にアポロを指導者と仰ぎ、「アポロ党」を名乗ったという。
しかし、彼ら(エペソの教会)は、聖霊をうけておらず、聖霊の注ぎも知らなかったため、使徒達によって「救い」ついて改めてレクチャーをうけたようだ。
パウロの次の言葉は、そんな肉的熱情を警告した言葉なのかもしれない。
「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(コリント人第一の手紙2章)。
最後にもう一人、クレネ人シモンはユダヤの「過越祭り」に参拝するためにやってきてイエスの十字架の場面と遭遇した人物。
群集にまぎれていたシモンは、なぜかローマの兵卒に引っ張りだされて「十字架」を背負うハメになってしまった。たまたま、そこに居たという理由だけで。
人目にさらされ「なんで自分がキリストと一緒に十字架を担うのか」という気持ちも芽生えたであろう。
ただ確実なことは、シモンはたくさんの見物人の中で唯一、イエスの担う十字架の重みを体験した人物であり、道端で見ていた誰よりも、身近にイエスを見つめた人物であったということだ。
このクレネの町は現在のリビアにあり、古代より「離散ユダヤ人」の住民が数多く住んでいた。
ところで、クレネ人シモンにとって、イエスと共に十字架を担ったという偶然は、その後の人生に大きな影響を与えたようだ。
「マルコの福音書」に「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」と書いてあるところを見ると、「クレネ人シモン」の一家がクリスチャン・ファミリーになっていることがわかる。
しかも、パウロが書いた「ローマ人への手紙」の中に突然に「主にあって選ばれた人ルポス」と出てくる。ルポスは「クレネ人シモン」の子であり、教会の中で大きな役割を果たしていたことがわかる。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、そしてわたしに従ってきなさい」(マタイの福音書16章)という言葉が浮かぶ。
映画「ベンハー」を見た人なら、クレネ人シモンこそは、ベンハーのモデルの一人であることに気づくであろう。
「使徒行伝」では、弟子達の間で様々な対立や分裂が起きているのだが、全体としては「神のみ心がなる」ということを思わせられる。
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書5章)。