メディチ家の没落

最近、大学の「教養学科」という学科がなくなって、「リベラルアーツ」という学科に衣替えしている。
これは、どういう意味合いがあるのだろう。
「リベラルアーツ」に似た言葉に「マーシャルアーツ」という言葉がある。
「マーシャルアーツ」は「武道」という意味なので、「リベラルアーツ」も「教養学科」という取り澄ました受け身のイメージと違って、 より積極的に問題解決にあたろうというニュアンスがある。
それもより多方面の知識を吸収しながら。
「リベラルアーツ」は、「ギリシャ・ローマ」の文化的背景をもとに生まれたのであるが、「ルネサンス」においてそれらを最もよく保護したのが イタリア・フィレンツェの富豪「メディチ家」である。
フィレンツェにギリシア思想が知られたのは、1439年コジモ=デ=メディチが招聘したフィレンツェでの東西融合を目的とした「宗教会議」がきっかけである。
その際、ビザンツ帝国から皇帝自身と、ギリシア人の学者らがフィレンツェにやってきて、プラトンやアリストテレスを引用しながら盛んに議論をした。
フィレンツェの知識人はこの時初めてプラトンの「イデア論」とアリストテレスの「形相の概念」を知り、キリスト教信仰にとってどちらが真理かという哲学論争を経験した。
フィレンツェ人は「プラトンの思想」をより支持したため、プラトン学者であったゲミストゥスは感激し、コシモに「プラトン=アカデミー」の設立を働きかけたという。
1459年、コジモ=デ=メディチは、別荘の建物を改装して、「プラトン=アカデミー」とし、若い哲学者フィチーノに命じて古代ギリシアのプラトンの著作のラテン語訳に従事させた。
古代ギリシアのアテネにプラトンが作ったアカデメイアの再興をめざし、フィレンツェの学者が集まり、プラトンの著作などのギリシア哲学について盛んに議論がなされ、研究が進められたという。
フィレンツェの全盛期に君臨したコジモの孫のロレンツォも、その議論に加わっており、メディチ家の当主となってからも続けた。
「プラトン=アカデミー」にはピコ=デラ=ミランドラら、当代随一の学者、思想家が集まり、ルネサンスのユマニスムス(ヒューマニズム)の拠点となった。
プラトンは、著書「国家」の中で理想国家のあるべき姿について論じ、「この国家は、知恵があり、勇気があり、節制をたもち、正義をそなえていることになる」と述べている。
西洋哲学では、知恵、勇気、節制、正義の四つは「四元徳」とも呼ばれ、個々の人間がよく生きるために必要な倫理的な徳として重視されている。
プラトン思想は、「徳」を国家の次元で考えていることが特徴的である。
「知恵」を国家の政務や守護を担う支配階級の人々に、「勇気」を戦士階級の人々に、「節制」をそれ以外の一般階級の人々に割り当て、それぞれの階級の人々が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行なう場合、「正義」にかなっているというわけである。
国家において正義は他の三つの徳である知恵、勇気、節制がそれぞれ適切に機能してはじめて実現される。
プラトンはまた、国家の正義がどのようにすれば達成されるのかの見通しを示している。
プラトンは、国家ではなく個々の人間においても正義は同様の仕方で成立するということを述べていく。
そこで提出されるのが「魂の三部分説」である。
知恵に対応する「理知的部分」、勇気に対応する「気概的部分」、節制に対応する「欲望的部分」に置き換えられる。
このようにプラトン思想は、単なる国家論のみならず、人間論の側面も兼ね備えている。
プラトンの代名詞ともいうべきものが、「イデア論」から導かれる「哲人政治」である。
プラトンは、真の哲学者とは「真実を観ることを愛する人たちだ」としたうえで、哲学者とそうではない人々との違いを次のように述べている。
「いろいろのものを聞いたり見たりすることの好きな人たちは、美しい声とか、美しい色とか、美しい形とか、またすべてこの種のものによって形づくられた作品に愛着を寄せるけれども、”美”そのものの本性を見きわめてこれに愛着を寄せるということは、彼らの精神にはできないのだ」と。
彼らの精神にはできない」とされていること、すなわち美そのものを見ることこそ哲学者がすることであり、それがイデアを見ることでもありる。
すなわちプラトンは、真の哲学者は美と同様に、何が正しいことで何が不正であるか、その本質に見きわめることができるはずだという。
そのようにあらゆる事柄について確実な知をもつ者こそが国政を治めるべきだとプラトンは考えていて、そうした知の客観的な根拠が「イデア」と呼ばれているのである。
つまり、プラトンのイデア論は、「哲人政治」の思想と一体となっているのである。
アレクサンドリアに、フィロンというユダヤ人哲学者がいて、ユダヤ教の思想を、ギリシア思想と結びつけようとした。
特にプラトンの著作「ティマイオス」に強い影響を受けた。ちなみに「ティマイオス」は有名な絵画「アテナイの学堂」においてプラトンが左手に抱えている書物である。
同書の中に「デミウルゴス」という世界の創造者が登場する。ある種の理想郷である「イデア」に似せて現実界を作ったとしている。
この「デミウルゴス」を「神」に置き換えれば、旧約聖書の「創世記」に描かれた「天地創造」の物語と共通点がある、とフィロンは説いたのである。

イタリアを中心に西ヨーロッパで名をはせたメディチ家が衰退した原因は、何なのであったであろうか。
メディチ家はコジモの子のピエロ(1416~69年)、そして孫のロレンツォ(1449~92年)の代に最盛期を迎える。
しかし、ポルトガル・スペインの大西洋進出により、フィレンツェ経済の柱となってきた、「東西貿易」が下火になっていった。
つまり「大航海時代」の開幕は、「メディチ家を衰退」の一因ではあるが、メデイチ家は皮肉にも自ら奨励した「プラトン主義」の敗れたっという見方もできる。
とはいえ、当時のプラトン思想は「新プラトン主義」というものであった。
それはAD3世紀にプロティノスによって実質的に創始され、6世紀まで存続した哲学思潮。
その後のヨーロッパ哲学史上に「プラトン主義」の伝統を定着させる働きをした。
プロティノス自身かなり独創的な思想家であったが、自分の思想をすべてプラトン哲学からの帰結であると称していたので、18世紀に「新プラトン主義」と称される。
それは、プラトンの「イデア論」に、当時オリエントの神秘主義的な思想を加えてより徹底させた点に特徴がある。
それによると、世界は大きく四層構造になっているという。最上階が「一者」、その下が「知性」、その下が「魂」、そして最下階が「現実界」である。
すべての創造主は「一者」であり、そこが発する無限のエネルギーが「知性」に流出し、さらに「魂」に流出し、そこから「現実界」に溢れることによって世界が成り立っていると考える。これを「流出論」という。
またこういう世界観を前提として、人間が生きる目的は「肉体」という現実から離れて、「愛(エロース)」の力でこの流れを遡上し、「一者」に近ずくことであると説いた。
プロティノス自身はキリスト教には否定的だったようだが、「一者」という絶対的な存在は「一神教」を連想させる。
そのことにためにキリスト教と結びついて、その思想的な根拠となっていった。
異教を排除するために教義の理論化が必要であり、そのためにプラトンの思想を利用したともいえる。
「新プラトン主義」は、アリストテレス主義の影響を受けた「スコラ学派」によって中世を通じて「異端」とされていたが、メディチ家の私的アカデミー「プラトン・アカデミー」によって再発見される。
その影響によりイタリアにおいて「ギリシャ・ローマの神々」という「異教(非キリスト教)の神々」を主題とするルネサンス美術を生んでいく。
そして「プラトン・アカデミー」はギリシャの神とキリスト教の神を同一視することによって本来異教の思想である新プラトン主義思想とキリスト教との「折衷」に成功し、広くヨーロッパに受け入れられた。
神的世界の大宇宙(マクロコスモス)と、その写しである人間の内部の小宇宙(ミクロコスモス)という見方は「新プラトン主義」に由来している。
そして、この照応関係のため人間は内面に神を感知し得る存在とされたのである。
ところで、プラトンアカデミーを創設したメディチ家のコジモは、中世とルネサンスという「二つの世界」に生きたといえる。
ルンサンス期には、メディチ家の後押しもあって、プラトン研究がさかんになって、この時期に取り入れられたプラトンの思想は、後に「新プラトン主義」とよばれるようになる。
しかしプラトンのエリート的価値観とフィレンツェ商人の現実的・実務的価値観は、次第に相容れなくなっていく。
そして、知的エリートが社会を導くことを理想としたプラトン思想が教育や文化のモデルとされただけでなく、政治的エリート主義にもつながっていた。
ルネサンス期の新プラトン主義によれば、人間の栄光は芸術・文化・政治的業績に基づくとされ、ごく現実的・現世的な商業は必ずしも重視されなかった。
こうした背景もあり、コジモは自分たちの息子たちが卑しい商売の世界に身を置くことことをあまり望まなかったといわれる。
そして政治家の高貴な血統が家系に維持されることを望んだ。
あれほどコジモを助け、ルネサンスの開花を促す資金の捻出にも役立った会計は次第に重んじられなくなった。
それどころか下品な道徳的な習慣とさえみなされるようになっていく。
そもそもルネサンスは、中世の教会の教えに真っ向から反するものである。
アウグスティヌスは、はっきりとキリスト教徒は現世の知識に背を向け、自己実現の望みを捨てよ、信仰だけが人間を救うのだと宣言している。
しかし、コジモはプラトンやアリストテレスを始め、忘れられたギリシヤ思想を人文学者たちが学ぶことを奨励し、後援した。
プラトンの著作が多くのフィレンツェ人の人々の心をとらえたのは、神が創造主だとすれば、教養を積み美を愛する「プラトン的人間」は、神の領域に近ずくと考えられたからだ。
その代表的知識人であるフィチーノは、神の創造物である自然を支配することは、自然を「知の基盤」とみなすべきだという。
そして聖書を引用して、人間の知力は神しか授けることしかできないのだから、それは美徳であるとして、ギリシア哲学をキリスト教と結びつけた。
そして「新プラトン主義」は、芸術を通じて神の創造を模倣することを求めた。より美しくよりリアリスティックであるほど、神に近いと賞賛された。
そしてコジモは、まさにこの理由から彼らを後援したのである。
古代ギリシアの哲学は、世俗の金持ちにも神に近づく道を拓いてくれたのであった。
こうして人間と神の関係に、「創造の光輝」を共有するという新しい視点が導入された。
コジモの孫にあたるロレンツォの時代、フィレンツェの代表的な知識人であるピコ・ミラ・ミレンドラ(1462~94年)は、「人間の尊厳についての演説」の中で、人間を神の高貴な被造物であると定義づけるとともに、人間の知性をたたえ、数学は自然を理解するための神聖な学問であるとした。
ただし、数学は純粋でなければならず、商売の世俗的な利益などという不純なものと関わるべきではないというとした。

ジョバンニ=ディ=メディチは、共同経営者の一人としてローマで金融業を営んでいたが、1397年に故郷のフィレンツェに本拠を移し、資本金1万フィオリーナで銀行商会を設立した。
これがメディチ銀行の実質的な創設であり、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を設け、事業を拡大していった。
銀行幹部にはメディチ家だけでなくフィレンツェの商人も採用された。
メディチ銀行の最大の顧客はローマ支店が窓口となったローマ教皇庁であった。
ジョバンニは銀行業の利益を毛織物業に投資し、またその名声からフィレンツェ市政にも関与し、芸術を保護するパトロンとしても活躍し、ブルネレスキなどが、その委嘱を受けて作品を製作した。
ジョバンニはこのようにルネサンスの保護者としてのメディチ家の基礎を築いた人物であり、その仕事は子のコジモと孫のロレンツォに継承される。
コジモは絶えず帳簿をつけていたが、それはいまや彼の精神を満たす哲学の高貴な世界とは相いれないことになったのである。
ロレンツォはフィレンツェの芸術黄金期に君臨した。
実際、ロレンツォの能力と教養は同時代から高く評価された。
しかし、ロレンツォには銀行の経営はできなかったし、その気もなかった。そしてロレンツオは、銀行の資金繰りのために、市の金庫から借用いや横領するようになった。
金融と会計に精通した人間が家系の中にいなくなり、支店の支配人の中から成績優秀な人物(サセッティ)にまかせるようになった。
ところがそのサセッティでさえも、文化に傾倒しはじめるや、経営の実務をおろそかにするようになった。
そしてサンタ・トリニエタ教会のサセッティ礼拝堂の建築に情熱を燃やす。
礼拝堂の建築が完成した1485年には、財政面では苦境に陥っていくのである。
銀行の経営を一族ではない者にまかせ、放漫経営をチェックすることもしなくなり、その財政基盤が弱体化していく。
コジモの子のピエロのころから、メディチ銀行は次第にその経営が困難になっていた。その理由は、ローマ教皇や各国王に貸し付けた資金が不良債権化したためであった。
特にイタリア戦争が長期化すると、各国王への貸付金は焦げ付き、回収できなくなり、メディチ銀行はいくつかの支店を閉鎖しなければならなくなった。
そして一時は、コジモはフィレンツェから追放されるという出来事もおこる。
その栄光は、一族から教皇(レオ10世)も、トスカーナ大公も、フランス王の妃(カトリーヌ・ド・メディス)も輩出するなどに見られた。
しかし、共和政の伝統を専横をきわめるメディチ家への反発もあり、何度か追放の憂き目にあっている。
宗教戦争の1530年、フィレンツェはハプスブルク家に敗れると、その後共和制の形態をとらず、神聖ローマ帝国皇帝から「フィレンツェ公」の地位を与えられると言う形で、フィレンツェを統治することとなった。
メディチ家はその後、その周辺の土地も合わせて「トスカーナ公」となり、1569年以降はトスカーナ大公といわれるようになる。その後は、メディチ家はトスカーナ大公の地位を世襲し、ヨーロッパ列国の王家と同列の国際的地位を保ち、18世紀まで継続したが、結局は断絶する。
メディチ家を衰退へと導いたのが「プラトン思想」ということなら、「リベラルアーツ」の推進者にしては、学びに何らかの欠落があったということになろう。