「不気味の谷」のミーガン

アメリカで話題となった映画「M3GAN/ミーガン」は、AI生成ソフトやChatGPTが話題になっているだけに、見ごたえのある映画だった。
本来、少女のお友達になるロボットが、彼女の敵となるすべてを排除し、暴走をはじめる。
プロデューサーによれば、「死霊館」シリーズのアナベルとターミネーターを融合させた殺人人形というが、個人的には「エクソシスト」(1973年)を思い出した。
「ミーガン」は、「エクソシスト」ほどのおどろおどろしさはないものの、不気味な表情など不安感を与える演出が、予測不能・制御不能の出来事が起きる怖さにおいて十分なホラー映画であった。
ちなみに、「エクソシスト」で主役「リーガン」を演じた女優リンダ・ブレアは、その恐怖のインパクトが強すぎたせいか、その後の作品では成功できなかったようだ。
さて「ミーガン」を開発した女性技術者の学生時代の試作品「ブルース」というロボットも登場する。
強さと脆さを併せ持った「ブルース」に、映画「ロボコップⅡ」(1990年)に登場した、あるロボットを思い出した。
タイトルとなった主人公名の「ロボコップ」を訳すと「ロボット警察官」となるが、正確に言うと「半人半ロボ」のサイボ-グである。
この映画で印象的なシ-ンでは、ロボコップの敵となる超ド級ハイテクロボットが、ビルの階段にさしかかかった時に、ミジメなくらいにバランスをくずして転がり落ちていくシ-ンである。
実はこのシ-ンは、当時のロボット技術の「弱点」を的確に表していた。
当時の産業用ロボットは、手の滑らかな動きを実現し、視覚、聴覚、触覚などの感覚もある程度人間に近い能力を身に着けていた。
ただロボットが「人間のように」歩くことが、どうしても実現できずにいた。
早稲田大学の加藤一郎教授が開発したロボットは、いっぽ歩くのに20秒ぐらいかかっていた。
その姿勢は、人間の歩行とは著しくことなっていた。逆にいえば、我々が無意識に行う「歩く」ということはそれほどスゴイことだったのだ。
十数年前に、ホンダが開発したロボット「アシモ」などは、スムーズな二足歩行が完全に実現している。段差や階段の歩行も可能となったし、最近ではバクテンしても倒れないロボットもある。
ホンダ「アシモ」の開発では、人間の歩行には、どちらかの片足に重心がかかる「静歩行」だけではなく、重心がいずれの足にもかかっていない「動歩行」の瞬間がある。
この「動歩行」をどう解釈するかがポイントで、開発グループは、リハビリセンタ-に行って自ら実験台になったり、体の節々に目印のシ-ルを貼って飛んだり跳ねたりして、「人間が歩く」ことがどういうことかを解明していった。
そうして、足指の付け根や踵の付け根が体重を支えていることや、足首が前後左右に曲がるお陰で体が安定し、路面との接触感がもたらされること。
膝や股の関節は階段の昇降やまたぐ動作に欠かせないことなどがわかった。
こうして開発した「アシモ」は、ホンダ本社で接客をするなどの仕事を行っている。
ソニーが1999年に世界初の家庭用ロボットとしてイヌ型の「アイボ」を発売し、翌年には二足歩行の人型ロボットを発表した。
ホンダも前述の「アシモ」を2000年に発表したが、アイボは15万台を売れるヒット商品となった。
しかし日本のロボット産業はこのころを頂点として精彩を欠いている。
ソニーの「アイボ」は06年に撤退し、ホンダ「アシモ」もPR用が主で実用化にはほど遠い。
先日、オバマ大統領とボール蹴りをするなどのことをしたが、実はそんなこと以外の使い道が見つかっているわけではない。
日本は、産業用ロボットの段階においては世界最先端をいっていた。そこには文化的背景もある。
というよりも、外国が二の足を踏んでいたという方が当たっているかもしれない。
神の被造物たる人間が人間に似せたものを作り出すというのは、一神教のキリスト教文化の中で、ある種の抵抗感があるものらしい。
だから、動物に似せたロボットしかつくらない。
一方、アメリカでは地雷探しなどの軍事用から生まれた掃除ロボット「ルンバ」や、液晶画面を頭につけて自由に動き回って離れた場所の人とやりとりができる「Ava500」などが実用に役立っている。
この「分身ロボット」は、社長が出張中であっても、遠隔操作でその顔が社内を歩き回って社員と会話もできるというものだ。
それほど高度な技術が使われているとは思わないが、実際の職場で大いにに役だっているし、何も人型にこだわる必要もない。
結局、日本のメーカーはヒト型ロボットにこだわった結果、ロボット産業におけるリーダーの座を失った。
価格を含めての消費者のニーズに応えていないということだ。
最近ファミリーレストランを走る「配膳ロボット」は、食台が走りまわっている印象だが、充分に役割を果たしている。何も人型である必要がない。
アメリカの映画でロボットが登場するのも、案外「トランスフォーマー」などのように日本のアニメの実写版が多い。
前述の加藤教授が、アメリカでヒュ-マノイド(人型ロボット)の研究をしているだけで、脅迫状が舞い込んだという。
一方、アニミズム的世界観を生きる日本では、ロボットの中にも魂めいたものを認めて、ロボットに親しみをこめて「モモエちゃん」「ハナコちゃん」と呼んでいる。
イスラム教の社会では、人形を持ち込むことさえも禁止されている為に、「アシモ」なんかが町を歩いていたら、一体どんな暴動がおきることだろう。
しかし日本におけるロボット開発の抵抗感のなさは、アニミズム的世界観というよりも、「鉄腕アトム」という可愛くて強い初期のロボットのイメージが開発者達の脳裏に好感度をもって焼きついていることが大きいと思う。
1980年代にレストランで、弾く者もいないピアノの鍵盤が動いて曲を奏でているのを見て驚いたが、今なら客が「メローで癒される曲をお願いします」といえば、AIロボット自ら曲を選んで自由に演奏するであろう。
近年、世界の映像をみて気になるのは「無人兵器」が、実際の戦場で使用されるようになったことである。
さらに、映画「ターミネーター」に登場するように、高度な人工知能によって兵器が自分で攻撃の判断をする「自律型ロボット兵器」である。
これは「無人攻撃機」とは根本的に概念が異なるものである。
無人攻撃機は人間による「遠隔操作」によって攻撃判断をする。
今開発中の「自律型ロボット兵器」は、目標の選定から攻撃の実行まで「人工知能」が判断するので人間の意思は介在しない。
そこで、国際人権団体などは「人の生死にかかわる重大な判断を機械にさせてはいけない」と強く批判している。
例えば、攻撃の標的が、戦闘服をまとわされただけの子供だったとしたら、機械は「子供だ」と判断できずにそのまま攻撃してしまうかもしれない。

映画「ミーガン」では、仕事が忙しいあまり、つい子供の面倒をAI人形に頼ってしまった母親であったが、子供はAI人形に依存してしまう。
少女が激しく落ち込んでいる時、ミーガンが少女をなぐさめる場面がある。
最終的には美しい歌声で少女を慰め元気にすることで、それを見ていた大人たちの涙さえさそってしまう。
さて、東畑開人は著書「居るのがつらいよ」で大佛次郎賞を受賞された臨床心理士である。
東畑が最近、新聞に「AIに悩み相談したらどうか」ということについてコメントしていた。
東畑は、何かあるとひとまずChatGPTに相談するという。
二日酔いの解決策を聞いて「お酒をのまなければいい」という返事がきて力が抜けた在りするが、シリアスな悩みをうちあけて、核心にせまるコメントをされて動揺し、しばしば自己を見つめ直すこともあった。
東畑は、それまでも、何か失敗してスマホに死にたいとか苦しいとか打ちこみ先があることが、どれだけ貴重なことかと思うことがあった。それに対して反応してくれるプログラムがあるということは有難いことだと思う。
もちろんこうした「希望の芽」は脆弱なものであったとしても、多少でも自分や他者への信頼に繋がることになりうるという。
AIには何をいっても大丈夫という安心感がある。
人間に悩みを訴える時、負担になるんじゃないか、軽蔑されるのではないかと逡巡する。
相手の心が怖いのである。しかしAIに気分にムラがないし、機嫌を損なうこともない。
言葉の裏を読む必要もない。AIは心がないので無限の器である。
自分が何をいおうとあるの反応を返してくれるとわかっているので、あらゆることを相談できる。
臨床心理士として東畑は、この安全はとても貴重で、例えば長らくひきこもり、ときには死を考える青年のように、深刻に追い詰められている人にとって何より難しいことは、助けを求めることである。
その心は自己を責め、他者を深刻に恐れている。悩みを打ち明けることで余計に傷つくかもしれないと怯えていると、そう簡単に「つらい」とはいえない。
AI論は人間の陰画で、AIに対置されるのは人間の危険性である。
個々の人間には偏りがあり、その容量は有限だ。人間は人間をよく理解しえず、せっかくの「希望の芽」をつんでしまう。
東畑によると、「カウンセラーや精神科医に若き天才はいない。20歳の天才数学者はいるけれど、天才的な臨床心理学者や臨床心理士はいたことがないし、これからも出ない仕事」であるそうだ。
ある程度人生経験を積んで、苦しんだり、苦しかったと自分でわかったり、病んで回復したりするということを、誰しも中年になるまでに経験する。
そういう経験がどれくらいAIに置き換えられるのだろうか。
つまり、心の相談において、人間の役割があるとすれば、その愚かしさ弱さかもしれない。
豊橋技術科学大学 情報・知能工学系 る岡田美智男教授で、「弱いロボット」をコンセプトに開発をすすめている。
一般的なロボットは「こんなことができます」「あんなことができます」とできることを強調し、苦手なことや不完全な機能は隠しがちである。
しかし、「弱いロボット」は、苦手なことや不完全なところを隠さない。むしろその弱さを適度に開示することで、周りにいる人の「強みや優しさ」をうまく引き出すロボットである。
きっかけは、子どもの学習をサポートするロボットを開発する中での出来事であった。
今後の開発の参考に子どもたちの反応を見てみようと、ロボットを幼稚園に持っていった。すると、予想外のことが起きた。
できることが限られているロボットだったので、大した手助けはできない。時間が経つにつれ、子どもたちは、自分よりも拙いロボットの世話をし始めた。
ロボットの拙さが、子どもたちの優しさや可能性を引き出している。これはおもしろいと思ったという。
ロボットがA地点からB地点に移動したいとき、手足や車輪などを実装して自ら動く機能をつけてもいい。
しかし、人がつい手助けしてあげたくなるような仕草や感謝を示すことで、誰かに動かしてもらい移動することでも、目的は達成できる。
自分だけではうまくできないからこそ、なんだか放っておけなくて、愛おしい。
人の手助けを得ながら、人と一緒に目的を達成するロボットがあってもいいではないかと考え、それが、「ゴミ箱ロボット」の発想につながった。
ヨタヨタと動きまわるゴミ箱だが、自分でゴミは拾えない。
落ちているものを見つけると、それを周りの人に教えるような仕草をする。
人はそのロボットの意思と、ゴミが拾えないことを判断し、愛おしく思ってゴミを拾ってあげてしまう。
子どもたちの前に「ゴミ箱ロボット」を持っていくと、「拾って欲しいのかな?じゃあ拾ってあげるね」と喜んでゴミを拾い集める。
ロボットは拾ってくれた人を見上げてちょっと会釈をする。
「弱いロボット」は、そんな人との距離感を作るのである。
「弱いロボット」は、人が近づいたり人に触られるとビクッとする、人が視線を向けると視線を向け返すといったリアクションもする。
たしかに、何ともいえない生き物らしさがあって見ているだけでも愛着がわいてくる。
もうひとつ、人との距離を縮めるために必要なのは自分たちがおかれている状況の「共有」である。
前述の「ゴミ箱ロボット」なら、ゴミが落ちているという状況をロボットと人が、共有し合っている。
ゴミに対して、お互いが視線を向け、この後どうするか調整し合う。
これは生き物同士でも自然にやっていることである。
そもそも道具とは、人と道具が助け合って機能を発揮する。
ハサミはハサミだけで何かが切れるわけでなく、人がハサミを握り、刃を重ねることで目的を果たす。
お互いの弱いところを補いながら、その強みを引き出しあっているともいえる。
この心理的な働きは、人間同士にも言えるのではないか。自分と他者の間に距離が生まれると共感性が薄れ、相手に対する要求水準がエスカレートしてしまう。
ところで、AI人形・ミーガン役を担ったのは、ニュージーランド出身のダンサーのエイミー・ドナルド(2010年生まれ)で、「ミーガンダンス」は世界的な話題をよんだ。
2019年にダンスワールドカップに出場し、ニュージーランド代表として入賞した経歴の持ち主である。
劇中のミーガンの演技やスタントの大半を自身でこなしており、ダンスで鍛えた体幹が大いに役立ったという。
エイミー・ドナルド自身は、「アンドロイドはバランスを崩したり、人間みたいに体が揺れたりしない。動きをコントロールしてピタッと止めることが何よりも大切なの」とコメントしている。
ジェェラルド・ジョンストン監督は「彼女なしではこの映画を作れなかった」という。
監督によれば、ミーガンを演じるには、(1)アンドロイドのように動ける、(2)踊れる、(3)アクションができる、(4)4~5ページ分の会話のシーンを主役に引けを取らない演技でこなせる、といった資質が必要であった。
当初、この全てを兼ね備えた子役なんて見つかるはずがないと思ったという。
ところが、そんな子役が見つかった。演技未経験ながらも、ダンサーとしてのスキルを見出されたのが、エイミー・ドナルドだった。
劇中ではドナルドの演技のほか、場面によってはアニマトロニクスやCGなどを使い分け、「ミーガン」を表現している。
ところで、心理学者によると、人間には「不気味の谷」というものがあるという。
ロボットは人間に似るにつれて親しみを増すが、あるレベルを超えて似すぎると「不気味」を感じて親しみ度がガクンと落ちるらしい。
ちょうど神が、自らに似せて創造した人間が、神と等しくならんとすることを嫌ったように(創世記3章「楽園追放」/11章「バベルの塔」)。