流れてきた人々

TVで「Youは何しに日本へ」という番組がある。この番組は年々増加する外国人に何をしに来たのかを取材した番組だが、その一方で「こんなところに日本人」というTV番組があった。
地球の裏側に位置するような場所で活躍する日本人がいることへの意外さが番組の企画となった。
当然ながら、その人がどうしてその地に根付いたのか、気になるところだが、こうした人の移動を「国内単位」でみても不思議に思えることがある。
さて、「流れ者」といえば、放浪者をイメージするが、必ずしも地理的な意味での隔たりとは限らない。
アメリカで軍事産業から流れてきた人々が金融工学を生み出し、リーマンショック以降はターゲット広告に進出したように、解雇された後新たな挑戦する人も含まれるとしよう。
彼らの中には、時に「落人(おちうど)」とも「社会的不適合者」とも評されることもあるが、その自由さや屈折感や社会変革の原動力となったり、人々の心を揺り動かすこともあれば、世界を変えることもある。
1978年、東京経済大学教授・色川大吉らが、埼玉県秩父(東京あきるの市・五日市)の深沢家土蔵を調査し、箪笥や行季、長持などの中にぎっしりと詰まった古文書約1万点を発見。
調査のきっかけは利光鶴松(としみつつるまつ)という人物の遺した「一片の手記」であった。
そして古文書の中に、明治期においてすでに日本国憲法にもっとも近いといわれた憲法草案がつくられていたことが判明した。
その草案作成に関わった人々は、深沢権八(山林地主)千葉卓三郎(仙台藩士)利光鶴松(小田急電鉄創業者) 北村透谷(文学者)などであった。
彼らは、なぜこの地に流れてきたのだろうか。
埼玉県の秩父地方は、江戸時代の「天領」であったため、戊辰戦争の賊軍にあたる会津藩士や仙台藩士が住みやすい条件があったことがある。
実際、明治の初め反政府的暴動(秩父事件)の震源地ともなる。
1872年に学制が発表され、五日市にも公立の「観能学校」がつくられるが、その教員になったのがこうしたいわば「流れもの」であった。
そこで勧能学校を「全国浪人引受所」と称されることもあった。
そうした流れ者の一人、千葉卓三郎は、仙台藩下級藩士のもとに生まれ幕府軍として戊辰戦争に参戦した。 敗戦を味わった卓三郎は、学問や宗教に真理探究の矛先を向け特にギリシャ正教に深く傾倒した。上京してニコライに学び洗礼を受け布教活動にも携わっていった。
その後の経緯は不明であるが、1879年頃から秋川谷の各地で教職に従事し、1880年には五日市に下宿して五日市勧能学校に勤めはじめている。
おそらくは卓三郎と同郷の勧能学校・初代校長の永沼織之丞の招きがあったのだろう。
千葉は新しい知識を求めていた五日市の民衆に受入れられ、特に山林地主・深沢名生・権八父子との信頼関係は厚く、憲法草案起草後の1882年には結核が進行し、翌年31歳の若さで死去した。
ところで秋川渓谷で伐採された材木は東京・木場へと川伝いに流される。そのために富裕な山林地主がいて、その中の一人が深沢権八でこの地域での私擬憲法案つくりの中心的役割を果たした。
深沢家には大分出身の利光鶴松という食客がいた。八王子の警察に勤めていた伯父をたよって上京、この伯父が五日市勤務となったためにこの地と縁ができた。
明治政府への反乱となった秩父事件において、利光鶴松も勧能学舎の同僚3人から参加を求められている。
利光は、自由党員より寺に呼び出され資金強奪計画をうちあけられたが、利光はきっぱりとことわっている。ちなみに大坂事件のあおりをうけた過激派は、利光の伯父によって逮捕されている。
その利光とは対照的に文学者の北村透谷は、過激化する運動からの離反や地元運動家の娘との恋愛・結婚にも懊悩し、弱冠26歳で自ら命をたっている。
利光鶴松にとって山林地主・深沢家は別の意味で人生を左右する貴重な出会いとなった。
深沢家は所有林の材木を本所・深川に送り出す大荷主なのであるが、その縁で利光は材木問屋のいわば法律顧問となり、さらに明治大学卒業で法律を学び、その後は深川に本拠をかまえ東京市議から衆議院議員にも当選した。
利光は、後に小田急電鉄を創業するにいたり、長男の利光松男は元日本航空社長である。
利光が深沢家の法律顧問だった頃残した「手記」の中で、深沢家には当時出版されていた翻訳書の7~8割の本があり、誰にでも自由に閲覧させていたと書いていた。
それが、埋もれたいわゆる「五日市憲法(草案)」発見のきっかけとなったのである。
深沢の蔵書には、ルソーの「民約論」、ミルの「自由論」、スペンサーの「社会平等論」があり、勧能学校に集まった「流れ者」達は、そうした蔵書から学び急速に天賦人権説や自由主義に目覚めていく。
さらに五日市の人々はこれらの蔵書を使って学習に励み、学芸講談会の活動を通じて地域の自由民権運動の質を高めるとともに漢詩のサークルなどを通じて地域の文化にも貢献した。

北海道から我が地元福岡に根付いた人「Youはなにしに福岡に」、反対に福岡から北海道に縁づいた「こんなところに福岡人」というケースを紹介したい。
佐々木吉夫は、1933年北海道礼文島生まれ。
生家は網元であったが、戦後、漁業権の開放で一介の漁師になった。
「大漁しても貧乏、不漁ならなお貧乏」というような貧しい村で、「村で一番偉い村長になって村を豊かにする」との決意で中学を卒業すると島を出て道立高校に進み、牛乳配達のアルバイトと奨学金、居候先には出世払いにして、中央大学に進学した。
礼文島で村長になるつもりでいたので、法律や政治を学ばなければという思いがあった。
大学に国会議員秘書の求人情報が出ており、応募した。議員秘書のとき、福岡選挙区の地域活動として、中小零細企業者の世話活動にも取り組んだ。
1975年、新幹線が延伸し博多駅まで開通したことで、構内にあった長旅相手の風呂屋の経営が行き詰まり、世話活動の一環として佐々木が引き受けた。
そこで、共働き世帯の女性の利便に資するため、その日の台所食材と生鮮食品を主力に駅構内に賑わいを作ろうと、スーパーマーケット形式の総合食料品店を開業した。
当時、構内にそんなお店はなく画期的なことで、朝9時から夜9時までの開店で大変繁盛した。
「めんたいこ」を売ろうと思いついたのは、スケトウダラの産地であった礼文島の漁師の家に生まれたことが大きい。
めんたいこはスケトウダラの卵のキムチ漬けのことで、韓国はもちろん国内でも辛子めんたい風な漬け物を売っていた店はあったと聞いていたからである。
どうしたらおいしい明太子ができるか、我が家が生臭くなるくらい試行錯誤を重ねて研究した。
そのうちに、東京に進出して大手百貨店と契約を交わし、銀座四丁目に大きな広告を掲げ、テレビでも広告を流すなどして全国に販路を広げていった。
次に福岡出身で北海道に縁づいた人の話。北海道中央部にある「月形町」という町の名前の由来は、この人物の名前である。
1878年、内務卿・伊藤博文がひとつの建議書を提出した。
それは「社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い」とするものだった。
そうして北海道に重罪犯を収容する監獄を設けることが決まるが、建設地の候補として、北海道開拓使黒田清隆長官は、蝦夷富士(羊蹄山)山麓、十勝川沿岸、樺戸郡シベツ太の3カ所をあげていた。
この場所の選定調査から立ち上げにいたる最大の功労者が、現在の福岡県中間市中底井野(なかそこいの)出身の月形潔(つきがたきよし)である。
月形は1847年、福岡藩士の子として生まれた。年上の叔父の月形洗蔵は、尊皇攘夷を唱える筑前勤王党の首領であった。
1868年、藩の命で京都に学び、奥羽を探索。江戸で藩の軍用金の警備などにあたり評価を得た。
維新ののち、潔は新政府に雇われ、執政局や御軍事局で仕事をしたのち、福岡藩権少参事となり、今日でいえば警察官僚としての道を歩むことになる。
その後、司法省(東京)に出仕し、1874年2月には佐賀の乱の鎮圧のために佐賀に赴き、8月にはプロシア人殺人事件の捜査のために函館に渡っている。
1879年には、内務省御用掛となるが、時の内務卿は、伊藤博文である。
月形は当時、初代典獄(監獄所長)に内定していて、開拓本庁で 調所広丈らから「樺戸郡シベツ太」を推薦される。
重罪人収容に適した未開の原野でありながら石狩川の水運を開発すれば札幌にもほど近く、土壌も農耕に適しているというのが理由であった。
また、月形潔はアイヌの人々に導かれるなどして、道なき道をひと月半あまりの調査行を行い、最終的に樺戸(かばと)に「樺戸集治館」が建設されることが決定した。
もともと、アイヌが時々狩り場としていた人なき原野に、千何百人の囚人を収容する巨大な建物ができることとなった。
そこを中心に御用商人や、彼らを迎える旅館であったり、たくさんの関係者が集まり原野に町がつくられていった。
最盛期には昭和30年代で約1万人にも及んだ。
北海道には網走など「集治監」を中心に発展していった町がいくつもあるが、シベツ太はその第1号となった。
1919年に監獄はなくなるが、町は発展をつづけ待望の鉄道建設がはじまり、1921年札幌から沼田までの札沼(さっしょう)線が開通し、沿線は札幌に近い穀倉地帯として栄えた。
2020年春、85年間月形町の暮らしをささえてきた札沼線(北海道医療大学~新十津川)は、北海道の鉄道整備計画により廃線となった。
樺戸集治館があった地の駅名は「石狩月形駅」で、「札沼線開通の歌」をつくったのは月形の地元福岡の小学校時代の恩師であったという。

近年、浪人が減少しているという。入学者全体の50%前後が、総合型(旧AO入試)や推薦入学になったことが原因とされる。
また首都圏を中心に中高一貫6年の教育カリキュラムが首都圏を中心に私学全般に広がったことにある。
その場合、高校2年までに全過程を終え、高3で受験勉強に専念させるという「予備校化」が進んでいるからだ。
面白いのはその陰で、浪人経験者が多い50台以上には「浪人ノスタルジー」が広がっていることである。
彼らが浪人経験を肯定的に懐古するのは、当時の予備校講師たちから、勉強以上に「人生を学んだ」と考える人が多いからである。
70年代以上以降に予備校講師に多かったのは、学生運動に挫折し、堅苦しい勤めをきらって「流れてきた」人達だった。
彼らは次第に個性的な名物教師達として名をはせ、その独特な雰囲気は「予備校文化」といわれることもあった。
高校の教師にはないエネルギッシュな語り方に影響を受けた浪人生は多かった。
そうした講師の代表として思い浮かぶのが山本義隆である。
山本義隆は、1941年大坂生まれ、1964年東京大学理学部物理学科卒業。その後、同大学院で素粒子論を専攻、秀才でならし、将来を嘱望されていたが、学生運動に没入した。
学生運動の後は大学を去り、大学での研究生活に戻ることはなかった。
1960年代、東大ベトナム反戦会議の活動に携わり、東大全共闘議長を務める。
警察の指名手配を受け地下に潜伏するも、日比谷での全国全共闘連合結成大会の会場で逮捕された。
日大全共闘議長の秋田明大とともに、全共闘を象徴する存在であったが、くしくも2人は拘置所で顔を合わせることとなった。
東大闘争後は在野の研究者として研究を続ける。東京拘置所から出所した後、1979年にエルンスト・カッシーラーの『実体概念と関数概念』を翻訳し評価を受けた。
さらに、物理学を中心とした科学史の分野での著作も知られている。『磁力と重力の発見』全3巻は、毎日出版文化賞、大佛次郎賞を受賞して読書界の話題となった。
近代科学はなぜ西洋に興ったのかという『磁力と重力の発見』の問題意識は、2007年の『一六世紀文化革命』に引き継がれた。
研究者のほかに予備校講師として、駿台予備学校で物理科の講師を30年以上務め、東大を筆頭とした最上位の学校の受験生(高卒生)を主に対象にした講義を行った。
系列の駿台文庫から出版された『物理入門』および『新物理入門』は、微分積分学による高校物理の草分けとも言える参考書で、予備校での長い経験から教え子は多い。
もうひとり、予備校講師で著名な知識人に小田実(おだまこと)がいる。
小田は1932年、大阪生まれ。少年時代より小説を書き始め、一部で高く評価された。
東京大学大学院西洋古典学科在学中にフルブライト奨学金でハーバード大学へ留学。
留学後、メキシコからヨーロッパ、中近東、インドなど各地を回って綴ったエッセイ『何でも見てやろう』(1961年)が大ベストセラーになり、一躍時の人になる。
アメリカ文明に対するその鋭い批評精神が、60年代後半のベトナム戦争反対市民運動グループ「べ平連」での(中心人物の一人としての)活躍へと結実する。
文学的方法としては、近代日本に固有の私小説的伝統を排し、戦後文学を特徴づける「全体小説」を標榜。
そのなかには、常に社会の矛盾に対する批判と変革への意志・実践の契機、抑圧された人々へのまなざしが込められており、それが中村真一郎などの全体小説論とは違う独自の小説論、文学論を構成する。
その文学論をもとに、日本の各大学、ベルリン自由大学、ニューヨーク州立大学、メルボルン大学など世界各地の大学で教壇に立つ。
翌88年にはドイツと日本の文学者によるシンポジウム「日独文学者の出会い-この激動と変革の時代における文学」を企画し、東京、広島、京都、名古屋名駅キャンパス、東京各所において、河合塾講師や塾生、一般人との交流の場を作った。2007年7月逝去。
予備校時代を懐かしく語るのは、予備校で先生に大きな影響を与えられた人々であろう。
予備校文化全盛の1980年代には、個性豊かなカリスマ講師が大活躍した。
お世辞にもイケメンといえないし、鋭い目つきで凶悪そうな面構え。そしてどこがひねくれている先生。
金ピカ先生、マドンナ、暴走族出身。教室の机の前列には講師への贈り物が並び、心酔するあまり浪人を繰り返して全授業を取り続ける猛者まで出たという。
高校時代、大手予備校に通った不動産業の男性(50)は、「元全共闘議長の山本義隆が物理を教えていた。淡々とした佇(たたず)まいがカリスマ性を醸しだし、畏敬の念を集めていた」と振り返る。
講師たちは、その科目のエキスパートでありながら、自ら「社会不適合者」を任じ、挫折の影を隠さない。その彼らが自分たちに目を配り、押しつけがましくなく、手を差し伸べている。
キラキラの成功者ではない。頭は抜群によくて人間くさい彼らがいたから、人生が変わったと懐かしむ人も多い。
予備校や塾の講師たちは、若い心に爪痕を残す、アウトロー・ヒーローなのだ。