聖書の場面より(魚がくわえた1シケル)

聖書の中には、聖書学者も"お手上げ"かと思えるような言葉や場面が少なくない。
例えば、ペテロは集金人に「あなた方の先生(イエス)は宮の納入金を支払わないのか」と問われ、それをイエスに伝えると、イエスは次のように答えている。
「湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとシケル1枚が見つかるから、それを取ってわたしとあなたとの分として納めなさい」(マタイの福音書17章)。
荒唐無稽で漫画的にも思えるイエスの答えだが、聖書全体を重ねると、とても本質的なことが語られていることがみえてくる。
そもそも、エルサレムの神殿は、ヤハウェの神に対して、祭司が民の罪の贖いのための日々贖いの燔祭(子羊)を捧げる場所である。
仮にイエスを神(もしくは神の子)とすれば、神に対して神殿(宮)の納入金を求めたことになる。
そうなると相当滑稽な話だが、この時、多くの人々はイエスをまるで信じていなかった。
さて、イエスの答えの中の「最初に釣れた魚」という言葉に注目したい。
イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っている場面と出会った。
そしてイエスは彼らに「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言った。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った(マタイの福音書4章)。
聖書においてイエスの十二人の使徒の中で、圧倒的にペテロとの関わりが深く、イエスからすればペテロこそは、文字通り一番弟子、つまり「最初に釣れた魚」なのである。
したがってイエスは「何か」を伝えんとペテロを湖にむかわせたのだ。
第二の疑問は魚の口の中から1シケル(銀貨)が見つかることなど、ありうるのだろうか。
実は、ガリラヤ湖には、幼魚を口で育てる習性をもつ「ティラピア」という魚が棲んでいる。
自分の子供の魚を自分の口の中で育てるが、子供の魚がある程度大きくなると、口の外へ追い出すために、親魚はわざと小石を飲み込む。
子供の魚は親魚の口の中にある石が邪魔で戻れなくなり、外の世界で成長することへと導かれる。
そんな小石と一緒に、湖に落としたコインを親魚が飲み込んでしまうことがあるのだという。
ペテロは漁師であるから、当然ティアピラがコインを飲み込む習性のことも知っていた。
第三に「なぜわざわざ魚を釣りに行かねばならないのか」、そこにどんな意味があるのだろうか。これについては旧約聖書に思いあたるエピソードがある。
BC8C頃、預言者ヨナが、神からアッシリア(今のシリア)の首都ニネベに行き、悪から離れなければ滅ぼすという神の警告を伝えよという命令をうけた。
アッシリアは敵の大国、ヨナは神の言葉に従わずに逃げようとしたところ、タイミングよく反対方向のタルシシ行きの船が来て、それに乗り込んでしまう。
ところが、ヨナが乗った船は嵐に遭遇。船員たちは、突然の嵐の原因は人間にあると、クジ引きをするとヨナに当たる。
ヨナは死ぬ覚悟をきめたのか、自分を海に投げ入れるように願う。
そして海に投げ込まれたヨナは大魚に飲み込まれて、吐き出されるまでの3日3晩、不安との戦いであったにちがいないが、ともかく命だけは助かる。
そこでヨナは、神の命じられたようにニネベに向かう。
そして、人々に悔い改めなければこの町は滅びるというメッセージを伝える。
すると、その言葉を聞いたニネベの王と人々は、救いをもとめてせつに祈りをはじめる。
神はその人々の姿をみて、ニネベの町に災いを下すことを思いとどまる。
ところがヨナは、敵国の人々が救われたことが面白くなく、ニネベの町の日差しの強さも気にくわない。
そこで神は、日差しからヨナの身を守るために、トウゴマの木を生えさせる。
ヨナは日差しから解放されて大喜びするが、神は次の日に虫にトウゴマの木の葉を食べさせたため、再びヨナは暑い日差しに晒されるはめになる。
そこでヨナは神に不満をぶちまける。それに対する神の答は次のとおりである。
「あなたは、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じて、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。どうしてわたしがこの大いなる都ニネべを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万以上の、右も左もわきまえない人間と、たくさんの家畜がいるのだから」(ヨナ書4章)。
このヨナが生きた時代から、9世紀の時を隔てて生きたのがペテロだが、両者は重なるものがある。
それは、人間性を裸にされつつも、神の慈愛によって教えられていく点である。
また、ヨナが敵対するアッシリアに向かったように、ペテロも敵対するローマに向かう羽目になる。
イエスはペテロに対して、「他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネの福音書21章)と預言したとうりである。
そして最も重要なことは、ヨナが海に投げ出され、3日間魚の腹の中にいたことは、十字架の死後、3日目に蘇るイエスの「復活」の型であるということだ。
実は「復活」の希望は、ヨナの時代より遡ること15C、はやくも「創世記」に見出すことができる。
アブラハムが「子イサクを神にささげよ」という試練を受けた時(創世記21章)、アブラハムはすでにイサクによって子孫をえるという約束をもらっていた(創世記17章)。これは、相反する約束である。
この点につき、パウロは信徒への手紙の中で次のように説明している。
「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 この子については、”イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう”と言われていたのであった。 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわばイサクを生きかえして渡されたわけである」(ヘブル人への手紙11章)。
イエスがペテロに「湖に行って魚を釣りにいきなさい」といった理由は、後述するように後になって「悟るべき」ことがあるからだ。
ペテロはこの時、まったく意味がわからなかったに違いない。

「宮の納入金」問題についての第四の疑問は、イエスとペテロの分「あわせて1シケル」という点である。
まずは「1シケル」とはどのような通貨であろうか。
モーセのおきてでは、「すべての者は聖所のシケルで、”半シケル”を払わなければならない」とあるように、1人あたり、銀半シケルを神殿税として納めることになっていた(出エジプト記30章)。
その後、変遷はあるものの、最終的に「1シケル=2デナリ」となっていったようだ。
ちなみに、現在のイスラエルの通貨単位が「シケル」である。
したがってイエスが納めるべき「半シケル」とペテロが納めるべき「半シケル」を合わせた分が「1シケル」ということになる。
この「イエスとペテロを合わせて1シケル」ということには深い意味が隠されている。
実は冒頭の「宮の納入金」問題につき、イエスはペテロとこの問題を共有しているのである。
イエスの側からペテロに「あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」と尋ねている。
するとペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは「それでは、子は納めなくてもよいわけである」と答えている。
しかしイエスは、「彼らをつまづかせないために」と、ペテロに対して湖で釣った魚の中に見つかった「1シケル」を支払うように命じたのである。
教会は一般に建物をイメージするが、教会とはキリストを信じる者達の「共同体」(エクレシア)を意味している。
一方、イエスはシモンとよばれた漁師に、「ペテロ」つまり「岩」という名前を授け、「あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイの福音書16章)と語っている。
つまり「1シケル」とは、イエスを頭としてペテロを基いとする「教会」をさしている。
イエスは弟子たちに「わたしは羊のために命を捨てるのである」。さらに「彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」と語っている(ヨハネの福音書10章)。ここでいう「群れ」が、教会にあたる。

第五に「1シケル」を宮(神殿)に納めるとはどういうことか。イスラエル人にとって神殿に納めるものといえば、「燔祭」(いけにえ)である。
パウロはイエスを「大祭司」になぞらえ、次のような手紙を信徒達へ送っている。
「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブル人への手紙9章)。
イエスのたとえ話の中に、「1シケル銀貨」が登場する話が他にある。
「ある女が銀貨10枚を持っていて、もしその1枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたからと」(ルカの福音書15章)。
また別の譬え話が続く。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
この2つのたとえ話から「失われた銀貨」と「見失った羊」が、同等なものとして譬えられている。
聖書では「羊」は燔祭(いけにえ)と捧げられるものであるので、「宮に1シケルを納める」とは、「燔祭」を神殿に納めることを意味する。
イエスは最後の燔祭として十字架で死をとげ、ペテロもローマで殉教した。
そうした「犠牲」だけならば「旧い契約」にとどまるにすぎない。しかし前述のように「1シケル」は「教会」という共同体を示している。
教会は、イエスの十字架の後に初代教会が成立するので「新しい契約」に関わるものである。
この「燔祭」と「教会」、つまり旧い契約と新しい契約とを橋渡しするのが「イエスの復活」である。
前述の「ヨナ記」のエピソードにみるごとく、宮に納められた1シケルは、魚の中から見つかったものであり、「イエスの復活」の型である。
イエスは、イスラエルの神殿の血注がれた最後の燔祭であるが、その死後「復活」することにより、”神殿を立て直す”。
逆にいうと、エルサレムの「神殿」はもはや存在意義を失う。それは、イエスの十字架の場面で、聖所と至聖所を結ぶ幕がきって落とされたことにシンボリックに表れている。
それは次のようなエピソードからも確認できる。
ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムの神殿にはいると、そこで商売をするもの達がいた。
イエスは憤って、彼らの商売道具と彼らを追い出そうとすると、ユダヤ人はイエスに「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」と聞いた。
そこでイエスは彼らに「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と語った。
ユダヤ人たちがこの神殿を建てるのには、46年もかかっているのに、それを3日で建て直すというのかと、神への冒涜だとして怒っている。
聖書は、「イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである」とコメントしている(ヨハネの福音書2章)。
結局、イエスのこれらの一連の言葉が神を冒涜したとして十字架の刑への導かれるが、後になってイエスのこの言葉の意味を理解することとなる。
十字架の死によって、イエス自身が完全な「いけにへ」として捧げられた以上、罪の赦しのための「いけにへ」は必要がなくなった。
そこで、「新しい葡萄酒は、新しい皮袋にいれよ」(マタイの福音書9章)というたとえにあるとおり、キリスト教徒にとっては、神殿に代わる「新しい皮袋」として完成されるのが教会である。
つまり、宮の納入金問題でイエスがペテロに語った「湖にいって最初に釣れた魚の口のシケルを宮に納めなさい」という言葉の奥には、古い契約が破棄され新しい契約が結ばれることの預言と捉えることもできる。
それは律法を守ることによって神の救いに与る神と人の関係から、イエスの贖罪によって聖霊の恵みに与る神と人との関係への転換である。
旧約聖書のエレミヤは、「新しい契約」について次のように預言している。
「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約は、わたしが彼らの先祖をその手を取ってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしが彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後に、わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは律法を彼らの内に置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ記31章)。
イスラエルは400年もの間、エジプトの地でエジプトの王・ファラオの奴隷であった。
しかし神はモーセをファラオに遣わしてイスラエルを去らせようとするが、ファラオはなかなか聞き従おうとはせず、神は紅海が割れるなど様々の奇跡や不思議を行ってイスラエルをエジプトから導き出した。
そしてシナイ山において神は指導者モーセに石の板に刻まれてた「十戒」を授けたのである。
そしてこの「戒律」を守り行えば、神はイスラエルを子々孫々に至るまで祝福するという契約であっ 新約聖書には、エレミヤ記の記述に応じるようなパウロの言葉がある。
「それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、”石の板”にではなく人の”心の板”に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」(コリント人への第二の手紙3章)。
ところでイエスは、十字架の前夜、弟子達の足をひとりひとり洗うが、シモン・ペテロの番になって「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と問うている。
それに対して、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハネの福音書13章8節)と語っている。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じたと記してある。
イエスによって最初に釣られた魚であるペテロも、イエスが語った「魚の中に見つかった銀1シケルを神殿に納めよ」という言葉を思い返し、自らが教会のいしずえ(岩)となる使命をかみしめたかもしれない。