キャンパスは「歴史の宝庫」

大学のキャンパスは、歴史遺産の宝庫で、かなりの学習の機会を提供する場である。
キャンパスを訪れて発見が多かったのは、熊本大学。
「赤門」といえば東京大学だが、熊本大学にも「赤門」があり、1969年に国の重要文化財に指定されている。
大学の敷地内を散策すると、夏目漱石の銅像やラフカディオ・ハーンのレリーフが目に入った。
また、日本に柔道を確立した「嘉納治五郎先生の碑」というものも発見。
夏目漱石は小説を発表する前の5年間、熊本大学の前身、旧制五高の教授として生徒に英語を教えていた。
そんな夏目漱石の銅像は左手を伸ばしており、像の横にある句碑には、五高第10回開校記念日に夏目漱石が読んだ祝辞の一説が彫られている。
またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は明治のころ英語教師として来日し、日本文化の素晴らしさを世界に広めた。
ギリシャで生まれ、アイルランドで育ったラフカディオ・ハーンは40歳の時に来日する。
その6年後には日本国籍を取得し、「小泉八雲」と名乗ることになる。
そんなラフカディオ・ハーンも五高の英語の教授をしており、構内に残る「レリーフ」は2004年、小泉八雲の没後100回忌に建てられたものである。
また、その碑には1894年に英語で演説した内容の一部が彫られている。
夏目漱石の弟子ともいえる寺田寅彦も旧制五校で学んだ。
寺田は1878年に東京市麹町平河町で陸軍会計監督をしていた寺田利正の長男として生まれた。
父親が「熊本鎮台」に単身赴任したため、1881年に祖母・母・姉と、父の郷里である高知の家に転居。
1896年7月に高知県尋常中学校を卒業して、同年9月に熊本の第五高等学校(大学予科第二部)に入学し、4月に着任したばかりの夏目漱石と出会っている。
個人的に熊本大学を訪問した目的は、「赤門」と同時期に重要文化財に指定された「五高記念館」。
そこに、戦後の高度経済成長時代の池田勇人と佐藤栄作両首相の若き日の資料がないかという期待であった。
二人は官僚出身で、旧吉田学校(吉田茂首相)の優等生といわれ、首相になったでも共通している。
戦後 岸信介首相の次に就任した池田首相は、「所得倍増」を唱え日本を政治の時代から経済の時代に転換させ日本の高度経済成長の路線を敷いた。
池田内閣が成立した時、日本の独立や安保改定など戦後処理に関する問題は解決をみて、「経済重視政策」に転換した時期である。
高度経済成長は、公害や薬害などの「影」の部分もあり、そのシンボル「水俣病」は、奇しくも熊本の水俣湾で発生している。
また池田首相は、「世論」を重視した最初の首相といってもよく、それは「寛容と忍耐」「低姿勢」「所得倍増」といった具体的かつ平易なスロ-ガンをかかげた点にも表れている。
その背景には安保改定をめぐる激しい保守革新の激突が、国民世論を無視したかたちでは出来なくなったことを示していた。
ところで池田は一高をめざしていたが第二志望の熊本五高にまわされる。
池田の次に首相となる佐藤栄作とは受験地・名古屋も同じ、五高(熊本)にまわされた点でも同じであり、一高から東大というエリートコースからは外れていた。
池田は、翌年にもう一度一高にチャレンジしようと五高を1学期で退学するが、翌年も結果は同じで佐藤の1年遅れとなる。
さらに池田は東大受験に失敗し京大法学部にすすみ卒業後大蔵省に入った。一高から東大が主流のなかで五高から京大は傍流であった。
しかも入省後、病にかかり死の境をさまよい退職を余儀なくされ5年間病床にあった。
病気快癒後、全快挨拶に東京にでてきたおり三越に立ち寄りそこから大蔵省に挨拶の電話したところ復職させてやるから戻ってこいという返事であった。
その後、池田は税務畑を中心に出世し終戦の年には主税局長になり同期とほぼ並んでいる。
佐藤栄作は運輸省に入っており、二人とも「出世コース」から離れていたおかげで、終戦時に処分されることなく、自然と地位が上がっていた。
そして経済が得意な池田が、「政治の季節」が終わった時に、経済の時代を築くべく内閣の首班となったのも歴史の「めぐりあわせ」を感じさせる。
「五高記念館」の人物紹介のコーナーでの一番の発見は、戦時中の右翼のイデオローグである大川周明が五高で学んだこと。
また、文学者の下村湖人、萩原朔太郎、梅崎春男、木下順二、永畑道子などの詩人や作家も学んでおり、その多彩さに驚いた。

熊本大学と並んで発見が多かったのが東北大学。「東北大学博物館」に行って理工系の分野で優れた教授を輩出していることを知った。
その中でも、一番目を引いたのは、中国から留学して日本にきた魯迅(ろじん)の資料である。
魯迅(ろじん)、本名は周樹人、1881年の生まれで、生誕地は紹興(しょうこう)である。
詔興は詔強酒で有名なところでもとの名前が会稽(かいけい)、春秋時代には復讐と雪辱の郷として知られている。
魯迅の名は38歳で小説を書き始めてからの名前であるが、「魯鈍」の「魯」と「迅速」の「迅」を合わせた名前である。
周家はむかしから科挙の合格者を多く出した名門であったが、 魯迅が15歳のとき父が結核で亡くなり、一家は急速に没落していく。
その後魯迅は親戚の家に預けられ、西洋風教育にもとづいた軍学校で学んだ。
その後「礦路学堂()」で西洋の学問に刺激をうけ、明治維新を達成して日清戦争に勝利した日本に学ぶことを決意。
魯迅は、中国政府援助のもとに1902年3月、南京から日本へと向かい、中国人留学生のための予備校・弘文学院(新宿区西五軒町)に入学した。
この頃神田の古書店街で多くの書物にふれ、満州人を宮廷からおいだし中国人による政府をつくり、日本に学んで西洋の学問をとりいれるべきであると考えるようになった。
そして魯迅はついに清朝屈服のシルシである弁髪を切った。
その頃、 東京にいる中国人達の中で、清国を倒し中国に革命をおこそうという声が高くなっていた。孫文とも会い同郷の留学生を中心として「光復会」とういうグループをつくった。
1904年弘文学院を卒業した魯迅に清国政府は、彼に東京大学工学部で学ぶように命じたが、それを断りひとり東北にむかい、仙台医学専門学校に学んだ。
温和しくて真面目な印象を学友に与えていた魯迅に決定的な出来事が起こった。
細菌学の講義で映し出された日露戦争のスライドでロシア軍の間諜として日本軍に捕らえられた清国人が銃殺される場面を目の当たりにした。
この時幻灯室の、日本人学生達は「万歳!万歳!」と叫んでいた。しかしスライドの中の見物している清国人は同胞が殺されるのに別に怒りをしめすわけでもなく、かといって悲しそうなそぶりを見せるわけでもなかった。
多くの中国人のぼんやりとみているだけであった。その中国人の表情に魯迅の心の深いところで悲しみや怒りや恥ずかしさを通りこした感情が広がっていった。
魯迅はこの時、医者として病気を癒すよりも民族の病患を治療することが必要であることを悟り、精神の改造に役立つものとして文芸に向かう決心をしたのである。
ところで東北という同胞から離れたところで学ぶ孤独な魯迅にとって救いとなったのが、東北大学の教授であった藤野先生であった。
藤野先生は、魯迅のノートを細かに添削して魯迅の勉学の進路について絶えず励してくれた。
魯迅は、藤野先生の恩を一生忘れずに、藤野先生の写真をいつも座右においていた。そして藤野先生が極め細やかに添削したノートは現在、東北大学資料館に展示してある。
彼が東北大学の階段教室で見て衝撃を受けた「光景」の中の民衆の姿をシンボリックに描いたのが、彼の代表作「阿Q正伝」である。
東北大学の事務室に行って、このとき魯迅が階段教室で座っていた「座席」を確認した。前から7列目ほどの席で、魯迅の背中が見える位置に座った日本人学生のなかで、その暗がりの中、魯迅の背中が微かに震えていることに気づく者はいただろうか。
1998年、中国の国家主席の江沢民もこの階段教室を訪れ、魯迅が座っていた座席を確認したという。

我が地元の福岡の大学のキャンパスでも、面白いものと出うことがある。
例えば、東区の九州産業大学のキャンパスでは、「有田焼き」で有名な酒井田柿右衛門の「登り窯(かま)」が設置されている。
2000年当時、芸術研究科教授だった故・十四代酒井田柿右衛門が「芸術を志す若者たちに、伝統工芸の奥深さを直に感じてもらいたい」と、門外不出の柿右衛門窯を踏襲して設計されたものである。
福岡市西区の私立大学の「西南学院大学」の博物館では、2023年の夏、度特別展「戦争と学院~ 戦時下を生き抜いた福岡のキリスト教主義学校」を開催している。
民衆の生活や文化に対してさまざまな統制が行われたアジア・太平洋戦争期の日本において、キリスト教主義を掲げた学校は「敵性語」や「敵の文化」を積極的に取り入れていると批判を浴び、その多くが存続の危機に晒されていた。
欧米の文化排斥が活発化する中、全国のキリスト教主義学校は、国家に協力姿勢を示しつつ、学校の形態や授業内容、行事名を変えるといったさまざまな工夫によって学校存続を試みた。
例えば、「敵性語」である英語教科書の表紙を「古事記」に替えて偽装するなどした書物などが展示してある。
この展覧会では、福岡県の三つのキリスト教主義学校、福岡女学院・西南女学院・西南学院に注目し、各学院で当時実際に使用されていた制服や教科書、当時の様子を写した古写真や映像などの展示している。
これを通して、戦前から戦時下にかけての学生生活と教育の変化について紹介している。
さて、西南学院大学を訪問して一番驚くのは、むきだしの「元寇防塁」がキャンパス内にあることである。
また西南学院大学神学部の門近くには、かつて「サザエさん」で有名な長谷川町子の「旧宅」が現存していたが、現在はその家は取り払われ、新たな住宅となっている。
長谷川町子は、旧宅に近い百道(ももち)の海岸を散歩していたため、「サザエさん」の登場人物、磯野家のマスオ、カツオ、ワカメ、タラオなどの名前が浮かんだという。
また西南学院大学で全国的にユニークなのが、「聖書植物園」である。聖書に登場する植物を可能な限り復元・展示しようと、1999年11月、西南大学開学50周年の記念事業として開園することとなった。
現在、60種類の植物がキャンパス内に植えられている。
聖書の地、パレスチナは四国程度の狭い国土だが、地形や気候は変化に富み、2800種類以上の多様な植物が生育している。
聖書には、そのうち100種を超える植物が登場する。
聖書の様々な歴史や預言、エピソードはこうした多様な自然をぬきに語ることはできない。
第一の難題は、パレスチナの気候風土が、福岡と異なって、福岡での越冬が困難な植物は、冬期間室内で保管するため鉢植えにしている。
また、高温多湿に弱い植物もあり、系統維持には困難が伴う。
第二の難題は、現代のような植物分類学がなかったために聖書に登場する植物の特定が困難なこと。
今から約2000年前の古文書である聖書に登場する植物を復元・展示しようとするもので、「植物考古学」ともいえる。
それは、植物をどう翻訳するかという問題でもある。
例えば、イエスの言葉「なぜ着物のことで心配するのですか。"野のゆり"がどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」とあるが、(マタイ福音書6章)。
この「野のゆり」とは、具体的にはどんな植物かという問題である。
また、預言者エリヤが身を隠した「エニシダ」。
旧約聖書のアハブ王の時代、妻でバアルの神を信じるイゼベルが。預言者エリヤの殺害予告をする。
エリヤはそれを恐れホレブ山中に逃れ身を隠す。
「彼は一本のエニシダの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。”主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません”。彼はエニシダの木の下で横になって眠ってしまった」。
ところがその時、エリヤは「神の細き声」を聞く。
「主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(列王記上 19章)。
この出来事でエリヤは力をえてホレブを去って、再びアハブ王の元へ向かう。
ちなみにエニシダは、イギリス「プランタジネット朝」の由来となっている。ヘンリー二世の父親ジェフリーが兜にエニシダの小枝を挿して戦ったからだ。
「プランタジネット」は、植物(プラント)と将軍(ジェネラル)を合わせた名前である。
ところで、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地「カナン」は、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。
そこは、「乳と蜜の流れる場所」と描写され、「約束の地」とも呼ばれる。
「肥沃な地域」を示す「乳と蜜の流れる地」という言葉で、「乳」は家畜の乳、「蜜」は果汁と解釈されるが、苛酷な荒野の生活を味わったきた人々だからこそ、大げさでもなく自然にでてきた表現ではないだろうか。
こうした不毛の地に生命を芽生えさせるイメージは、旧約聖書の預言者イザヤを想起させる。
イザヤはすべての国をさばくという神のみことばを伝えたが、その後に希望を表し、民を励ました。
神がすべてを正される未来を「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、"サフラン"のように花を咲かせる」と表現した(イザヤ書35章)。
また聖書には、ハーブ科に属する対照的な意味合いをもつ植物がある。
その一つが「ヒソプ」で、イスラエルの岩地や山など至る所に自生し、5月頃になるとたくさんの小さな白い花を咲かせるとともに強い芳香を放つ。
「聖なる草」を意味するヘブル語が語源となっており、ユダヤ教では清めの儀式に用いられる。
新約聖書の「ヨハネ福音書」に、「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した」(19章29)とあり、イエスはこの直後「成し遂げられた」と言って息をひきとった。
ヒソプで門に塗った血により死を免れたイスラエルの民が象徴するように、十字架にかけられたイエス・キリストの血によって全ての人が死から贖われた。
こうして旧約で伝えられた全ての預言が実現し、救い主はその使命を「成しとげられた」。
同じハーブ科でも「ヒソプ」とは対照的なのが、「黙示録」に登場する「ニガヨモギ」である。
その葉がヨモギの葉に似ていて、ハーブの中で最も苦いとされることから、ニガヨモギ(ウクライナ名「チェルノブイリ」)という名前がついたといわれている。