「ノイズ」を消す社会

中国語でコンピュータのことを「電脳」という。
実際、CPSが頭脳の回転の速さ、容量そして、メモリーは記憶をつかさどる部分で、レジストリーは思考などと、脳の仕組みとアナロジーを感じさせる。
そしてネットワーク化の勢いは、脳神経とシナプスと信号の遍在化を思わせる。
映画「未知との遭遇」(1977年)で、人類がまるで人工の脳の中で生きている頭か大きなひ弱な生物と出会う場面があったが、あれは「未来との遭遇」だったのかもしれない。
というのもこの世の中、人工物に溢れており、都会は人間の脳のウツシミのようだからだ。
各地で進められている「コンパクトシテイ」は、交通システム(無人自動車)からエネルギー供給(ハイグリッド)までAIがコントロールし、飛ぶ車も新たな移動手段そして運行されるようになった。
かつて解剖学者・養老孟司がそんな社会を「脳化社会」とよんだ。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という言葉があるが、「人間は自らの"脳"に似せて社会をつくる」ということだ。
養老の「脳化社会」の新しさは、脳の「構造と機能」が社会のあらゆる部面に反映されていることを、かなりふみこんで論じた点にある。
さて、人間と動物の脳の最大の違いは「大脳皮質」の発達であるが、その「大脳皮質」の最大の特徴は、意識的な「統御と予測」である。
自然の中に住んでいたヒトにとって、自然とは予測不能であり統御不能で、それゆえ自然たとえば「森」は不気味な存在であり、畏怖の対象であった。
そこで人間はその大脳の働きにそうかのように、予測不能領域を少しでも少なくしようとしてきた。
つまりノイズをなくすこと、それが「進歩」ということである。
金融界の「ヘッジファンド」は景気が良くても悪くても利益が出せるようにする。つまり利益に関する「予測不能」領域を極小化しようとする手法である。
こういう金融工学を生み出したクォンツ達は、元々アメリカの軍事産業で働いていた人々で、最近の戦争のスタイルもかなり「統御と予測」の方向に傾いているようだ。
従来は戦争ほど予測不能なものはないと考えられてきた。ところが1990年の湾岸戦争は「予測不能」を最小限に抑える統御が隅々にまで行き渡って行われたという点で、従来の「戦争観」を大きく転換させるものであった。
2008年のリーマンショックでは、サブプライムローン」が破綻したことによって起きたが、それは人間の中の「自然」を見落としていたといえる。
さて養老のいう「脳化」を掘り下げると、複雑なものを「記号化」しそれ以外をノイズととらえ、ノイズを消していくことこそが脳の作用である。
脳はそうせざるをえないという特徴をもつ。
人間はそれによって学問を発達させたといえる。人間は複雑な現実が不安なので、現実を統御したり予測可能なものにしたがる。それが法則や原理の発見につながるからだ。
「仮説」を作り、現実を十分に説明できればよい。
現実の中で「仮説」があてはまらない客観的事実(ノイズ)の方が大きくなれば、新しい「仮説」をうみだすまでである。
養老には膨大な昆虫のコレクションがあるが、自然の中には二つと同じものがないという。桜の花といっても、ひとつひとつよく見れば違っている。
しかし、みんなばらばらでは不便だから、それを「桜」として言葉でまとめあげる。
つまり「言葉」にするから、ものごとの道理がわかってくるのだが、そこで養老はいう。
「わかろうとする努力は大切だが、しかしわかってしまってはいけない」。
同じものがない自然を、言葉は同じものとしてくくる。単に桜が咲いているという情報として受け取り、ものごとを自分たちの意識(脳)の中で記号化する。
大脳はものごとを区分したり比較したりしつつ次第に自然そのものから離れ、記号の方がリアリティをもち、記号をはみだしていくものはノイズとみなされるようになる。
養老はこうした事態が隅々まで行きわたる社会を「脳化社会」とよび、「脳化社会」は様々な病理をうむことになる。
変わらない確かなものを求めるあまり、変化と偶然を拒否してしまう。コントロールできないものをノイズとして切り捨てようとする。
自然にこそ個性はあるのに、個性を不自然なもの、他人と違う感性や考えに違和感を覚えるようになる。
ところで、どんなに脳が「自然」を統御し、予測可能な社会を築いていても、自然は「災害」(何十年に一度の)などの形で露出するし、ある意味人間の「身体」ほど予測不能なものはない。
自然を代表しているのは体は、思うようにならないものの典型で、いつがんができるか、いつ死ぬかわからない。いくら計算しても死ぬ日までは計算できない。
ところがその体の中に脳みそがあってそれが意識をつくる。意識はそれをおよそ無視していて、身体は思うようになると錯覚する。
意識とは秩序活動、意識は無秩序なことができない。意識的にでたらめなことはできない。
秩序的な働きというのは、エントロピー増大の法則に基づき、必ず無秩序、いわばゴミを発生する。だから眠っている間にゴミの処理をするようにできている。
文明は秩序そのものであるら、予測不能をもたらす自然を破壊することの本質もそこにある。

コンピューターに代表される「意識の世界」では、「ああすればこうなる」という、いわゆるシミュレーションを常におこなっている。
意識はこれが得意で、現在の状況を把握して、そこから予測し先行きを考える。
そうした我々の意識がコンピューターを生み出し、その延長でコンピュータを利用して物事を考える。
ところが子どもをこうすればああなるとかいう予測ができない存在であることは、子育てした人はみんな知っている。
その意味でこどもは自然そのもの、自然は基本的に予測不能だ。
世界的現象だが都会では少子化が進んでいる。ノイズが入っていると処理しきれない。
だから生身の人間とつき合うのが苦手な人が増える。
結婚しない人が増えているのも当たり前で、結婚はノイズと生涯を共にするようなもの。その上、子供が出来れば、ノイズは倍化する。
人づきあいの会話の中で「雑談」というものがある。これは話が「無秩序」に広がることを特徴とするが、AIには雑談が苦手である。
雑談をしているうちに、人間は無意識的に相手の人間性を感じ取っている。
雑談の目的のひとつが相手のことをすることだとしたら、「個」がない相手のことを掘り下げることはできないし、関係性を発展させることはできない。
コンピュータのことを知りたくて会話を重ねても、歴史を共有するようなことはできないし、そうしようとも思わない。
養老によれば、今日の人々の生きづらさの原因として「人間はノイズ 求められるのはデータ」ということがあるという。
病院に行くと患者は医者に診てもらうより先に検査室に回される。それで医者の前に行くと、医者はあがってきた検査のデータを見ている。
目の前に患者の顔を一度もみないなんてこともおきる。
徹底的に人の体を調べようとすると、データにならないものは全部ノイズ。我々人間がノイズになっていく社会に生きているといってもいい。
ある会社の課長が、同じ部屋で働いているのに仕事の報告はメールでくると苦情をのべていた。
なんで生身の課長のところに行って口で言わないかというと、課長自身がノイズだから。夫婦喧嘩で機嫌が悪いかもしれないし、二日酔いかもしれない。
また改めて我々の生活をみつめなおすとオフィスの中では風は吹かない、雨も降らない。屋内はエアコンで一定の温度に保たれ、床は平坦で、堅さはどこも同じような仕様で安心感がもたらされる。
恒常的な環境をつくるため、違いを主張する感覚所与をできる限り遮断する。
石ころは、都会の生活では邪魔以外の何ものでもない。
意味のあるものだけに囲まれていると、いつの間にか「意味のないもの」が許せなくなってくる。
それは裏を返せば、すべてのものには意味がなければならないということであり、「意味がわからない」ものは「意味がない」と結論づけて切り捨ててしまう。
2016年相模原市の障害者施設を襲った青年は、「重度・重複障害者を養うには莫大なお金と時間が奪われる」などの自説を展開し、世間に衝撃を与えた。

プロ野球の試合は、多くの場合人口のドームで行われるようになった。ドームの中では温度調節も風もコントロールされている。
かつて「神様 仏様 稲尾様」とよばれた西鉄ライオンズの稲尾和久投手は漁師の家に生まれ、別府湾で舟の艪(ろ)を漕ぐうちに腕力がついたし、小船の上に立ち続けることによってバランス感覚が身についた。
荒波にもまれながら「自然を読む」ことが、グランドにたって風向きを読み、投げるコースを変えるなどの術もも自然に身についていったと語っている。
また最近、江夏豊が野村克也ノートを読み解く番組があったが、南海ホークスで野村氏とバッテリーを組んだ間柄であった。
野村のノートに中で、ささいな変化を感じ取る力、変化の意味を洞察する能力を重視していたことに注目した。
江夏自身も、1979年の日本シリーズ第7戦、南海から広島に移籍していた江夏豊氏が登板した。9回裏、ノーアウト満塁のピンチを迎えるなか、近鉄の3塁コーチャーの仕草などが目についた。
スクイズを仕掛けてくると察知し、変化球でとっさに外して3塁ランナーをアウトにした。
野村は最後の講演で、「感じる力がある人はぐっと成長する。大きなエネルギーになる。私もそれで生きてきた」と語っている。
「データを重視のID野球」を取り入れ野村の言葉だけに、その言葉は力がある。
かつて芥川龍之介は、庭先の植物の色の変化に大災害(関東大震災)がおきることを日記の中で予測していた。
養老も、アートに接することは、感覚を排除して意識化した社会の解毒剤となると述べている。

人間の質問や指示に応じて自然な文章で回答する対話型人工知能「チャットGPT」が、世界中で大きな話題になっている。
この大規模言語モデルは大量のデータを学習していて「脳の容量が大きい」。人間は他の動物より脳が大きく、つまりニューロンやシナプスの数が多い。
これをチャットGPTでは「パラメータの数が多い」という。
数年前に、人工頭脳がプロ棋士にかった際「深層学習(ディープラーニング)」という言葉が話題になった。
コンピュータと脳はアナロジーではなく、本当に接近してきたといえるが、最近話題のCHATGPTも、基本的には同じ技術にもとづいている。
そのの基本とは、ある言葉の次にどんな言葉がくるかということである。「天気が」の次には良いか悪いかが来る確率が高いといった具合に。
言葉の出現確率の分布を学習して定式化したものを「言語モデル」という。
深層学習は、脳神経機能回路の機能をモデル化した「ニューラルネットワーク」という仕組みを高度化したものだ。
脳は「ニューロン」とよばれる神経細胞が「シナプス」という接合部を介して複雑につながった構造をもっている。
これをコンピュータの中で模倣すれば、脳の機能を実現できるのではないか。
この考え方は電子計算機の歴史と同じくらい古いが、いくつかの壁があって長い間、実用化できなかった。
ひとつにはコンピュータの処理速度や記憶容量が足りなかったこと。
また自然言語を操るAIを実現するうえで重要な契機となったこと、ネット社会の到来がそれを解消した。
近年のパソコンやスマートフォンの普及により、ネットには人間の書いた文章が蓄積されるようになった。
自然言語を扱うAIの性能は、どれだけ多くの文章を学習したかがカギとなるので、低コストで大量のテキストを得られるようになったことが大きい。
これらの変化に加え、アルゴリズム(算法)のブレークスルーが重なり、高度なAIが実現したのである。
今特に顕著なのは、言語モデルの大規模化で、その目安となる「パラメーター」の数が約3500億個にまで拡大している。
この「パラメーター」の数こそが、神経細胞のシナプスに相当するが、単純比較で実際の脳よりも3ケタぐらい少ないらしい。
それでも「自然な会話」が出来る程度になり、そのうち脳に匹敵する性能をもつことであろう。
現段階では、膨大な量の学習データから統計・確率に基づく回答を出すが、必ずしも意味・常識は理解できておらず、もっともらしく見える「誤答」を返すことがある。
テキストを入れると次の単語を予測し続けて学習していく。だんだん完璧に予測できるようになる。
インターネット上の情報を与えると自分で学習し、どんどん賢くなっていく。
大規模な文章を学習し、“確率”という形で知識を蓄える。
ある単語を出すと、次に出す単語はどういうものかを、確率に基づいて、一番もっともらしい答えを出す。
文章として適切な単語を計算ではじき出す「先読み」や、長い文章を踏まえた回答が飛躍的に進歩した。
とはいえ単語を確率的に選ぶ時、ちょっとした間違いがあると、その間違いを引きずってしまうと、結果として「うそ」を答えることになる。
その一方で、チャットGPTに質問して、医者免許、経営大学院、ロースクール試験も合格できたという。
しかし養老のいうように、脳は身体の一部であり、AIには身体はなくパニックも迷いも起こさない。
病気にもならなし、永遠を思うこともない。
身体というノイズを消すことでAIが信頼を増すとしたら、それは人類に何をもたらすか。