英仏の「価値観」

20年ほど前、フランスの観光旅行をした際、ソルボンヌ大学近くで、街ゆく人に英語で道を聞いたら、フランス語でかえってきた。
フランス語は全くわからないので、別の人に聞いたが、同様に答えはフランス語だった。
そんなことが繰り返され、結局フランス人は英語を使いたくないのだと感じた。
一体、英仏両国にはどんな感情のアヤが潜んでいるのか。そんなことを意識しはじめた頃は、世界史の知識がほぼなかったこともある。
さてフランスの「シテ島」は、パリの中心部を流れるセーヌ川の中州である。
「シテ島」はパリ発祥の地と言われ、カエサルの「ガリア戦記」にも記述がある。
英語のCITYという単語は、この「シテCITE」が語源となったもので、フランス語が語源である。
「シテ」はラテン語で「共同体」を意味し、シテ島の住民=citeainは、「citizen=シチズン」の語源になっている。
また、「ガリア戦記」には、すでに紀元前1世紀にケルト人の「パリシイ族」が住んでいたことが述べられていて、これが首都「パリ」の語源である。
実は英語の中にはフランス語由来のものが多く、英語ネイティブはフランス語を一切勉強したことがなくても、すでに1500語ほどのフランス語の単語を知っているのだという。
これだけフランス語が含まれる英語を発することは、フランス人にとってどんな感情をもたらすのだろうか。
さて、世界史を学んだ人なら11世紀の「ノルマン征服」が思い浮かべるであろう。
今のデンマークあたりにいたノルマン一派のデーン人は活発化し、ブリテン島やフランスの沿岸を襲う。
イギリスでは11Cに一時「デーン王朝」を開き、フランスのノルマンジー地方にも住みつく。
987年フランスでは、カロリング朝にかわってカペー家のユーグが王位につき「カペー朝」が成立するが、カペー家の分家にあたる「ブルゴーニュ公」などがフランス東北部からオランダにかけて大きな勢力を作り上げていた。
またノルマンジーに住み着いたノルマン人はフランス王より「伯」の地位を与えられ「ノルマンディー公国」を形成していた。
そして1066年ノルマンデー公ギョームが、イギリスに進出して「イギリス王ウイリアム1世」が即位するという驚きの展開が起きる。
つまりフランス王の家臣がイギリス王(ノルマン朝)となったというヤヤコシイい関係になってしまった。
フランス人は「支配者」としてイギリスにやってきたので、特に政治、法律、芸術、美食の分野にフランス語源の言葉が多くある。
イギリスのノルマン朝では、フランス語が日常的に話されフランスの文化も、イギリスにもちこまれた。
日本人に馴染み深いのは、「menuメニュー、œuvreオードヴル」、「dessertデザート」、「café コーヒー」、「restauranレストラン」などである。
さらに、「ノルマンジー公」の肩書をもったアンジュー伯アンリがアキテーヌ公の相続人エレオノールと結婚したのち、血統によってイングランド王(ヘンリー2世)に即位したため、フランスの3つの地方がイギリスの領土となり、ドーバー海峡を跨ぐ「アンジュー王国」とよばれる勢力を築いた。
結局、英仏間の「百年戦争」とは、フランス国王がこれらの土地を取り戻そうとした戦いであった。
最初はイギリス側が優勢であったが、神のお告げを受けた16歳の少女ジャンヌダルクが、弱気な国王シャルル7世を激励し、みずからイギリス軍を撃破し、イギリス勢力をフランスから追い出したのである。
以上のような、英仏間の確執が、言葉の上でのワダカマリとなったのかはよくわからない。
ただフランスが元々イギリスの支配者だったという歴史の一面は銘記すべきことで、それは意外なことに動物とその肉を示す英語が異なっていることにも表れている。
「pig (豚)→pork (豚肉)」「cow(牛)→beef (牛肉)」「sheep (羊)→mutton(羊肉)」。
これは「調理した人」と「その肉を食べた人」が違う言葉でその動物を呼んでいたという歴史に由来する。
当時、動物を育てたり調理したのは、支配されたイングランドのアングロサクソン人。
その肉を食べたのは支配層のフランスのノルマン人で、フランス語が食肉の名前として英語の中にとりこまれている。

世界の国々は、歴史や環境から独自の価値観を形成し、それがまるで遺伝子のように今日の時代にも働く。
政治経済で学ぶ「三権(立法・司法・行政)」は国によってその比重が異なる。
あくまで相対的な話だが、議会主体がイギリス、行政主体がフランス、司法重視がアメリカという印象。
また「社会契約論」の自然権の「財産権・平等権、自由権」の中で、相対的に財産権を重視するのがイギリス、平等権を重視するのがフランス、自由権を重視するのがアメリカという感じがある。
15C~16Cにかけて、ヨーロッパでは絶対主義国家の出現と共に議会の存在は否定されてしまうが、イギリスでは身分制議会を上院(貴族院)と下院(庶民院)というかたちで存続させた。
最初は王権に対して協力的であった議会も次第に王権と対立するようになり、二つの革命を通じて「立憲君主制」が確立する。
しかし議会の主体は貴族院を含めて「土地をもつ者」であり、17世紀末に出現するホイッグ党もトーリー党も、政策の力点の置き所は多少の違いはあるものの、有力な貴族を中心とした派閥の集合体といった性格のものにすぎなかった。
こういう点が、ジョン・ロックの社会契約論のように、「財産権(所有権)」を重視する学説を生んだのではなかろうか。
このような議会が性格を変えるのには産業革命による社会変動により、1830年代の「選挙法改正」をまつほかはなかった。
イギリスが財産権(過去の蓄積)を重んじるのに対して、アメリカに渡ったピューリタン達は財産を捨ててやってきているので、大事なことは「幸福追求」という「未来志向」、しかも弾圧を逃れてきているので、その幸福追求とは「自由」にほかならない。
またイギリスとフランスの価値観の違いについて一番思わせられるのは、「都市造り」に関してである。
イギリスにいくと、あちこちで古い建築物に補修工事をやっている。
イギリス人は貧乏でケチだから、古い家を直し直し使っているのだ、などと思ってはならない。
日本のように、古い建物は取り壊して、サラ地に新しいビルを方がずっと安上がりなのである。
100年以上経った建物を手直して、崩れ落ちないように使うが、はるかに多くの金と、人手と、時間と技術を要するのである。
つまり、イギリス人の方が贅沢なのだ。
日本では中古品市場の評価はあまり高くないが、イギリス人のアンティークへのこだわりは強く、「アンティークショップ」が充実している。
ロンドンなどの大都会では、大きな不動産をもちながらそこに住まない人がかなちたくさんいた。持ち主が海外に行っているとか、他にもっと立派な住宅をもているケースが多い。また家の買い手がつかないまま放ってある。
持ち主が海外に居る「不在持ち主」で、大邸宅が住み手をもたずにいることが多かった。
そこで持ち主でもない人が勝手に住み着く。ただし、住み始めよりも家屋を立派にして出ることがルールである。こうなると、「空き家対策」は不要となる。
こんな点に、イギリスの伝統がもたらす「懐の広さ」というものを感じさせる。
「懐の広さ」で思い浮かべるのがイギリス全土に通じる「フットパス」のこと。
イギリスにいって美しいといわれるのは農村である。TVで見る「ダウントン・アビー」の貴族の館やガーデンの風景をみると、人の手によって守られてきた感じがする。
また、イギリス人は老若男女かかわらず、歩くのが好き。ウィークエンドには郊外でウォーキング、長い休暇ともなれば、数日間かけて歩き続ける人もいる。
19世紀後半、それまで「歩く」ことが当然のこととして暮らしていた人々に、ある「事件」は起こった。
オーストラリア帰りの資産家ダンカン・マクファーソンが、スコットランドのラター湖の南方に位置する「グレン・ドール・エステート」を買い取り、「私有地」としてしまったのだ。
フットパス(歩道)を長年使用して生活してきた周辺住民たちは突然の立入禁止に驚き、反発し、抗議した。
この時、マクファーソンへの抗議の意を示すべく、彼が立入禁止にした区域の中を「歩く権利」の張り紙を貼り歩き、立入禁止撤回を叫んだ若い羊飼いがいた。その青年の名はジョン・ウインター彼の名にちなんで、今も「ジョックスス・ロード」とよばれている。
こうして少数の富裕層が大土地を所有している状況のなかから「歩く権利」というものがうまれた。
フットパスの全長は、20万km以上。イギリスのどこからでも、このフットパスをたどればロンドンまで歩いて行けるともいわれる。
興味深いのは、ときに農地や牧場、ゴルフ場、企業の敷地、一般家庭の庭先といった私有地にまで道が及ぶこと。これは1932年に制定された「歩く権利法」に基づいており、古くは17世紀からある人々の憩いのための「共有地コモンズ」が礎になっている。
土地の所有者はもちろん、そこに暮らす家畜とともにすべての人が自然を共有し、歩くレクリエーションを楽しむ権利を持つ、という概念である。
イギリスの南西部の「湖水地方」のような景観の美しさは、伝統的な「ナショナル・トラスト」の理念が支えている。
「ナショナルトラスト」とは、国民のために、国民自身の手で大切な自然環境という資産を寄付や買い取りなどで入手し、守っていくのがその基本理念である。

フランス人は個人主義の深く執着し、妥協をきらい、些細なことまで頑固に主張する。要するに、日本人が苦手なタイプだ。
遠藤周作が戦後初のフランス留学生として味わった孤独感は芥川賞受賞作「白い人黄色い人」などに滲み出ている。
また同時期にパリ大学に学んだ須賀敦子は、フランス人の個人主義と理屈っさに疎外感を感じたことを、「この国のひとたちの物の考え方の文法がつかめない。対話だけでなく出会いそのものが拒まれている。岩に爪をたてて上ろうとするが、爪が傷つくだけだった」と書いている。
個人主義は人を孤独にさせる面があり、フランスにカフェがたくさんあるのも、その逆説的な表われではなかろうか。
また、官庁の建物はもちろん市役所・学校の壁にもフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」と金文字で鮮やかに刻まれている。
フランスは、「自由と人権」に敏感な国で政治の国である。十人十色の政治的意見をもち、ことあるごとに政治論議に熱中する。
フランスが「行政優位」と感じるのは、超エリート養成するシステムの存在である。
1945年のちに大統領になるドゴール将軍が、戦後の国家再建を託して 「国立行政学院(ENA)」は創設した。
毎年100弱が入学を許されるエリート中のエリートを育てる機関で、卒業時の成績順で「一流」官庁に幹部候補生として就職できる。
そして大企業ではエリート官僚の「天下り」組による支配が顕著である。
フランスのマクロン大統領は、最近、歴代の大統領や首相を輩出し、高級官僚の養成機関として知られるENAの廃止を表明した。
より幅広い学生を受け入れる「公務学院」をつくり人気回復を狙ったものだ。
フランスは超エリートを温存するシステムが一方で、「平等」に対しても敏感で、失業拡大で街に貧民があふれると、無料で食事を提供する市民の運動が広がる。
かつてジスカール・デスタン大統領は大統領府(エリゼ宮)に、街路清掃労働者を招いてもてなした。
この国では身体障害者も堂々としていて、車いすの障害者は「すみません」を連発することもなく、市民の助力を求め、街頭や美術館を闊歩する。
また、1936年の人民戦線内閣の成立により、週40時間労働、年15日有給休暇体制が確立した。
以来、レジャーは働くものの権利として確立し、「レジャー天国」といわれる充実ぶりを誇っている。
フランスの歴史をふりかえると、西欧きってのカトリック教国として、古い価値や信仰を守ってきた。 15世紀になると国王の力の増大と商工業に従事する者の経済的成長にともなって、貴族の地位は低下しはじめる。
これと並行して新しい貴族が生まれる。豊かな平民が財力で貴族になることはよくあることであった。
さてフランス人の名前に前置詞の de がついている人がいる。例えばシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)など。
フランス革命以前は、法律で貴族の名前にはdeを付けたが、フランス革命後、土地の領主権など貴族の特権は廃止され、それ以降は名前にdeをつけなくなった。
とはいえ「私有財産」は残ったので、貴族は城に住む大地主というかたちでその後も存続した。
というわけで、フランス革命以前に貴族だった人の子孫の名字にはdeがついている。de は英語のofやfromにあたる前置詞なので、「XX家のOO」といった感じである。
もともと貴族の肩書は人間につくのではなく領土につくもので、貧乏貴族からどこかの領地を購入して、貴族の肩書を名乗ることがあった。
ジャンバル・ジャンは「モンテクリスト伯」となるが 、モンテ・クリスト は、「キリストの山」を意味するイタリア語で、イタリアのトスカーナ群島に属する島である。
原作のタイトルは『Le Comte de Monte-Cristo』で「伯爵」のcomteが入っている。
フランスの貴族にはふたつあって、ひとつは武人の家系にあって貴族であった者が「剣の貴族」といい、官職によって貴族となった者を「法服貴族」といった。
よくあるパターンは国王が生ませた子供に、領地と肩書をひとつ分けてやるということである。
フランス革命でいったん貴族は廃されたが、ナポレオンの皇帝即位に伴って貴族の肩書は復活した。
その際、貢租を取り立てる権利や、免税の権利などというのはもはや認められなかったが、 イギリスと比べて一番驚くのは、ナポレオン3世のお声がかりで行われた「パリの大改造」である。
凱旋門を中心に放射状に直接的に伸びる道や舗石に変わってアスファルトが使われるなど、反乱の防止の面もあるという。
何しろ凱旋門の屋上に登ればパリ全域が見渡せる。
パリの景観を美しいと思うが、過去の思い出を大々的に破壊してまでよくもやれたものだ。
少なくとも旧きを重んじるイギリスではありえなかったことであろう。
一方でフランスでは演劇やオペラを始めとして文化活動の多くの部門の援助のために、政府予算の約1パーセントという巨額な文化予算を計上している。
それがルーブル美術館の入場料が驚くほど安い理由だが、補助の対象は前衛的なものから反体制的なものまで、あまり区別をしない。
2020年名古屋でのヴィエンナール展で、「公費」であんな作品を展示していいのかと「反対運動」がおこった日本とは対照的である。
またポンピドーセンターやミッテランの大計画では、どれも公開コンペによる決定でなされるが、外国人設計者によるものがいくつも選ばれ、国の威信のシンボルが外国人によって作られることには違和感がない。
フランス人は、優れた文化作品がパリで誕生し、それが芸術の発信の中心となることを誇りに思う、そんなユニバーサルな感覚が身についているのだろう。

スペインは、ローマ時代に、イギリスやフランスが経験しなかったような徹底したラテン化を7世紀近く経験し、言語と文化の基礎を与えられた。
しかし、スペインに他のヨーロッパ諸国に視られない文化的特色を持たせたのは、711年から8世紀にわたって居住し続けたイスラム教の存在である。
ヨーロッパの中で、イスラム文明の恩恵をふんだんに浴しながらこれと闘うという特異な体験をしたために、きわめて特色あるキリスト教文化をうむことになったのである。
強力なアラーの教えに対抗するためには、同じように強力な精神的支えが必要であった。
中世のスペイン人は他の国民にみられないほどキリスト教神学に献身し、それを深化させようとした。
その結果、スペイン特有の神秘主義に彩られた、強固なキリスト教文化の伝統が形成された。
スペイン文化の核心は、この「神秘主義」ということもいえる。
スタンダールの「赤と黒」は、王政復古という反動的な時代を生きた下層階級出身の才能ある野心的な青年を描き、「パルムの僧院」では、ナポレオン戦争後の北イタリアのパルマ公国における政治的策謀と圧力に屈して傷つく無垢の青年を描いた。
スタンダールの作品の登場人物達は、歴史的状況と結びついて、人間の心理の明晰な分析をもって、日本の作家にも多大の影響を与えている。