聖書の言葉より(いまだ見えざるもの)

世界の宗教には、様々な戒律がある。
仏教もイスラム教もヒンドゥー教も厳しい戒律があり、身近なところでは食べ物の規制がある。
仏教では、出家者は不殺生の教えから肉は食べないし、ヒンドウー教では牛を聖なるものとして食しないが、イスラーム教では豚を穢れたものとして食しない。
キリスト教の母体であるユダヤ教では浄い食べ物と穢れた食べ物を区別した。
例えば、動物はヒズメが分かれいるか、魚はウロコがあるかが、清浄を分かつポイントである。
キリスト教も教派によって戒律をつくっているようだが、聖書をよむ限り基本的に戒律はない。
むしろ、律法を守ることによって義となろうとする「行いの義」を否定しているくらいだ。
ただイエスはパリサイ人に、律法の中でどのいましめがいちばん大切かと問われ「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」ということと、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と答えている(マタイの福音書23章)。
またイエスは、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネの福音書13章)とも語っている。
つまり、神の愛の実践はすべての律法をカバーするという意味で、「いましめ」といえよう。
ところでパウロは、「律法(行い)による義」ではなく「信仰による義」を説いたが、それでは一体なにをどう信じればよいのであろう。
パウロは信徒への手紙の中で、旧約聖書の中のアブラハムにはじまりヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュアなどの「信仰」をとりあげ、「昔の人達は、この信仰のゆえに賞賛された」として、彼らの信仰にならおうと書いている(ヘブル人への手紙11章)。
その際、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とコメントしている。
例えば、「信仰の父」といわれたアブラハムについては、「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」と。
またモーセについては、「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ」と紹介している。
ただ以上のような「信仰の勇者」をもってしても、「新しい契約」の時代、つまりイエスの十字架の死と復活以後、旧約聖書には示されなかった新たな「信仰」のかたちがあらわれる。
それをひとことでいうと、「神の国」の福音である。
「旧い契約」に生きる信仰者にとって信仰とは、せいぜい「メシア(救世主)待望」までであった。
しかも彼らの多くは、イエス・キリストを救世主として受け入れることができなかった。
イエスは、自分の復活を信じようとしない弟子のトマスに、自分の身体をふれさせた上で次のように語っている。
「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネの福音書20章)
そのうえで、復活したイエスが12人の使徒に「全世界にでていって神の国の福音を宣べ伝えよ」(使徒行伝1章)と命じている。
このように、信徒達がいだく最終的な「信仰」が、「神の国」にあるという方向性が示されたのである。
それは、メソポタミアの都市ウルにいたアブラハムが未だ見ぬカナンをめざしたように、またエジプトに何世代か寄留していたイスラエルの人々が、いまだみぬ故郷「乳と蜜の流れる地」カナンの地をめざしたように、いまだみぬ「神の国」を待ち望むということに他ならない。
キリスト教の信徒に与えられたこうした新たな信仰の次元は、イスラエルの人々(ヘブライ民族)に守るようにと伝えられた「律法」と、どのような関連があるのだろうか。
パウロは信徒への手紙の中で、律法を「養育係」になぞらえつつ、その関係を明解に語っている。
「いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ人への手紙3章)。
この手紙の「養育係」を現代の言葉に直すと「ナビゲート役」がぴったりだが、めざすは「神の国」という方向性が示された以上、それを「信じ待望」すればよく、もはや律法というナビゲーションは不要になったということだ。
それはイエス・キリストの言葉「まず神の国と神の義を求めよ」(マタイによる福音書10章)という言葉によくあらわされている。

イエスの十字架後の「新しい契約」のもとでの世界では、「旧い契約」の下にあった様々なシバリがまるでビッグバンのように取り払われた感がある。
その象徴的な出来事が、イエスの十字架の死の瞬間に、エルサレムの神殿の聖所と至聖所の幕が切って落とされた場面である。
「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」(マタイの福音書27章)とある。
至聖所は年一回大祭司しかはいれない場所であるので、それが切っておとされたということは、大祭司ではなくてもいつでもだれでも神のもとに近づけることを意味し、この出来事はおそらくマルティン・ルターの「万人司祭説」にインスピレーションを与えたにちがいない。
また前述のように、キリスト教の母体となったユダヤ教は、浄い食べ物と穢れた食べ物を厳しく区別したが、キリスト教にはその区別がなくなっている。
それはペテロの「幻視体験」によって初めて示されたのであるが、ペテロはそこに導かれたコルネリオというローマ兵卒との出会いにより、「異邦人にも聖霊がくだる」という大発見をする。
その経緯については「使徒行伝10~11章」にある。
地中海沿いの町カイザリヤにコルネリオというイタリヤ隊の百卒長で、神を敬う信心深い人がいた。
ある日の午後、神の使が彼のところにきて、幻の中で「コルネリオよ」と呼ぶのをはっきりと見た。
すると御使が「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。今ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい」と語った。
そしてペテロが、海べに家をもつ皮なめしのシモンという者の客となっていることを伝えた。
コルネリオはその御使いの言葉を聞いて、僕二人と信心深い兵卒ひとりを事情を話したうえで、ヨッパへと送り出した。
一方ペテロはヨッパの町に客として導かれた家で祈っていると、夢心地になって、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてくる「幻」をみた。
ペテロがそれを注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。
それから「ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい」という声が聞えた。
ペテロがイスラエルの律法に従って、「それはできません、わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません」と答えた。
するともういちど「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」という声が聞こえた。
こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。
ちょうどその時、コルネリオから遣わされた三人が、ペテロの泊まっていた家(皮なめしのシモンの家)に着いた。
聖霊がペテロに「彼らと共に行け」と言ったので、ペテロは6人の兄弟たちと共に出かけて行き、コルネリオの家にはいった。
するとコルネリオは、御使いによって「ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう」と告げられた次第をペテロらに語った。
そこでペテロが語り出したところ、聖霊が最初にペテロの上にくだったと同じように、コルネリオの家族の上にくだった。
その時ペテロは、イエスが「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう」(マタイによる福音書2章)と語った言葉を思い出した。
そしてペテロは、思いを新たにして次のように語っている。
「主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が我々と同じように異邦人にもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」と。
人々はこれを聞いてしばらく黙りこんでしまったが、神が異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだと思いなおし、神を賛美した。
以上のように、ペテロに幻で示され導かれたこの出来事は、ユダヤ人が長年守ってきた食べ物の規制を自由なものとしたばかりか、ユダヤ人が「選民として」交流を避けていた異邦人との垣根を取り払うこととなった。つまり、ユダヤ教とキリスト教の分岐点となった出来事となった。
ところでパウロは「行い(律法)による義」ではなく「信仰による義」を説き、宗教改革においてマルティン・ルターも「信仰義認説」を強く打ち出した。
、 パウロは、「今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」(ローマ人への手紙3章)と書いている。
ところで聖書は「この世」のことを「エジプト」にたとえている。
それはモーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの人々がシナイの砂漠で食べものや戦いなどの危機に直面すると、再びエジプトを慕い始めたことによる。
民衆はモーセに、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」(出エジプト16章)。
「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」(民数記15章)と不満を訴えている。
一方、パウロは我々の国籍は「天」にありこの世においては「旅人であり寄留者」(ヘブル人への手紙11章)にすぎないとして、「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(コリント人第一の手紙7章)といいきっている。
さらに「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである」(ヘブル人への手紙13章)と書いている。

「新しい契約」の下、「旧い契約」の時代に比べ、様々な垣根が取り払われた。聖書は「神は公平でかたよりみられない」(使徒行伝10章)としつつも、人間は自ら垣根を作ってしまうようだ。
またエジプトの王パロを例あげつつ、神が人々の目をくもらせたり、人の心を頑なにすることなどもあるので、”皆が同じ”という意味ではない。
「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」(ローマ人への手紙9章)とあるように。
そこで意外にも心ふれるのは、旧約聖書「創世記」にある次のような言葉。
「"地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ"。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、"良し"とされた」(創世記1章)。
ここで「種類にしたがって実をむすぶ」という観点から、神の「公平さ」にアプローチしたい。
イエスは、だれよりも「失われたもの/病のもの/罪人」とみなされる人々と交わり、そのこと自体が律法学者やパリサイ人からの批難の材料となる。
そして弟子達が「なぜ天の国の話を譬え話で語られるのですか」と聞くと、イエスは「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう 」(マタイの福音書13章)と答えている。
この言葉は「持てるもの/持たざるもの」が、この世の価値とは反転しているのが面白い。
またパウロは、キリストの体なる教会における聖徒の働きについて次のように書いている。
「神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、"おまえはいらない"とは言えず、また頭は足にむかって、"おまえはいらない"とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである」(コリント人第一の手紙12章)。
またパウロは神を”陶器師”になぞらえて次のように書いている。
「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる」(テモテ第二の手紙2章)。
さらに、「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、”なぜ、わたしをこのように造ったのか”と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである」(ローマ人への手紙9章)。