「笑い」の求道者たち

芸術好きが集まって「大人の修学旅行」を企画するならば、池袋西口から椎名町あたりがお勧めである。
池袋西口(ウエストゲートパーク)→東京芸術劇場→自由学園明日館→池袋モンパルナス跡地→「トキワ荘」跡地→帝銀事件跡地(単なるマンション)→宮崎龍助、柳原白蓮邸宅跡というコースである。
この中で「トキワ荘」は、まだ売れる前の漫画家たち(手塚・石森・赤塚・藤子など)が共同生活をした青春のアパート。
フランスのモンマルトルにあるピカソやモデリアーニが共同生活した「洗濯船」とよばれたアパートの事が思い浮かぶ。
池袋西から千早にかけて、安い家賃で生活できたことから収入が保障されない画家が集まった跡地で、フランスのモンパルナスと共通している。
なかでもおすすめは、自宅跡を美術館に改造した「熊谷守一美術館」である。
ここから椎名町に近い旧帝国銀行跡地まで徒歩で20分、戦後最大の凶悪事件があった場所は普通のマンションになっているが、容疑者とされた平沢貞通は画家であったのも面白い。
さて、「トキワ荘」の赤塚不二夫(本名:赤松藤雄)は「天才バカボン」など今なお色あせることのない名作を生み出したが、身内によれば常識人だった赤塚がなぜそんな斬新な作品を生んだのだろうか。
赤塚の父親・藤七は中国万里の長城上の要害関門町で任務についており、赤塚もそこで出生した。
新潟の農家出身苦学の末、陸軍兵学校を優秀な成績卒業しで関東軍憲兵となったが性に合わなかったのか職を辞して、華北分離策にともなう現地の「宣撫官」をしていた。
「宣撫官」とは住民が軍政に対し敵対行動に走らず、協力的態度をとるように仕向ける仕事である。
そうした仕事柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えられた。
赤塚の母親は満州で芸妓をしており、父親とは宴席で出会い駅で再会して結婚したという。
父親は単身赴任となって、兄弟姉妹合わせて6人家族は華北の辺境を転々とすることとなった。
赤塚が11歳の時奉天で終戦を迎えた。中国人の群衆が大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した。
一家は親交のあった中国人の手助けで、無事脱出することができたが、父親は侵攻してきたソ連赤軍によって連行され、4年間シベリアに抑留されることになる。
家族は奉天を後にして4日間かけて、佐世保港に到着。母の実家がある奈良県に移った。
引き揚げで妹が亡くなり、弟は他家へ養子に出された。
やがて末の妹も栄養失調でなくなり、母親は泣く気力もなく表情さえ変えなかったことが、幼い赤塚にとって胸がえぐられる思いだったという。
母親は紡績工場の寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は貸本屋で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の「ロストワールド」に出会ったことで漫画家になることを志すようになった。
中学生となった赤塚の兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられ、母親からのわずかな仕送りで暮らした。
赤塚が14歳になったその年の暮れに、父親が舞鶴港に帰国するが、過酷なシベリアでの抑留生活で台所を荒らしてしまうなど全く違う人物になっていた。
父親は農業協同組合職員の職を得たが、赤塚一家は外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村ではとけこむことは出来なかった。
赤塚は高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店に就職した。
看板の制作に携わっていた由縁から映画を無料で鑑賞できる事となり、この時、バスター・キートンや駅馬車、チャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けたという。そして「笑い」のちからに目覚めた。
その後、東京・小松川の化学薬品工場に就職し、勤務しながら「漫画少年」へ投稿を続けた。
その漫画が石森章太郎の目に留まり、石森が主宰する雑誌の同人に参加などして、プロの漫画家として活動するようになる。
そして上京した石森を手伝う形で「トキワ荘」に移り、赤塚の母も上京してしばらくの間同居した。
さて現在の赤塚プロダクション社長は長女のりえ子さん。赤塚が2005年にくも膜下出血で倒れ、赤塚の再婚相手が亡くなった後、急遽プロダクションの社長となった。その後、父親が亡くなりその3日後に母が亡くなるなどの悲劇が続いた。
その娘を救ったのは父親の漫画であったという。
あまりにもくだらなくて意味がなくてでもおもしろくて、気が付いたら声を上げて腹の底から笑っていた。
そのとき、悲しみの底をガーンと足で蹴って浮上した感覚があったという。
「笑いって、生きるエネルギーなんだ」というのを体感して、「こんな悲しい状況でも、人間って笑えるんだ」と思った。
過去も未来もない、今という瞬間の爆発的なエネルギー。それまでは笑いが日常的にあって、笑うことが当たり前だった。
笑うことについて深く考えたこともなかったが、悲しみ以上の経験をして、笑うことの大切さ、“笑う”は“生きる”に直結していると知った。
そして父親がしたかったことがようやく理解できるようになったという。
父は真面目にバカをやり続け、笑われながら死にたいといっていたが、「父の笑いに救われたし、私に思いっきり笑われましたよね」と語っている。

沖縄出身のバンドで「りんけんバンド」という定評あるグループがある。1977年結成され、87年にプロ・デビューした。
三味線や島太鼓など沖縄の楽器と現代の楽器との融合した「沖縄ポップ」の先駆者といっていいバンドだ。
ところで「りんけんバンド」の名前は、リーダーである照屋林賢の名前によるものである。
そして、この照屋一家こそが、今日の沖縄出身のミュージシャン達のの「土台」を築いたといって過言ではない。
こうした土台の上に、今日の「BEGIN」や「ORANGE RANGE」が続いているのである。
さらにMAX・スピード・安室奈美恵などを生んだ「沖縄アクターズ・スクール」の存在があるが、この学校は「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の孫であるマキノ正幸が1983年に設立したものである。
マキノ正幸が沖縄を目指した理由は詳らかには知りえないが、沖縄に「現代ポップス」の可能性を感じさせるものがあったからコソ、本州を飛び出して沖縄にやってきたのであろう。
そう考えると、「りんけんバンド」の存在価値はとてつもなく大きいといわざるをえない。
また、1970年代には、マイケル・ジャクソンもいた「ジャクソン・ファイブ」にならった沖縄一家のグループ「フィンガー・ファイブ」の成功も、沖縄行きの理由であったかもしれない。
沖縄県の石川市は、沖縄本島のほぼ中央にあって、第二次世界大戦後に沖縄で最初にできた「市」である。
それまでは、美里村字石川といって人口2000人足らずの静かな農村であったが、戦争が終わった1945年、米軍によってここに「難民収容所」が設置され、沖縄各地から戦火に追われたたくさんの人々が集まってきた。
そのため、石川の人口は数ヵ月で3万人にふくれ上がり、今日の「石川市」となったのである。
しかし、「市」に昇格したからといって人々の生活が楽になるわけではなく、人々は戦争で受けた心の傷を癒やす間もなく、その日その日を生き延びることで精一杯だった。
軍の作業に駆り出され、食料と物資を手に入れることに追われて疲れきり、毎日希望を失ったまま暮らしていた。
そこに突然に、小那覇舞天(おなはぶーてん)と名乗る風変わりな男が現れた。
舞天は本名を小那覇全孝(おなはぜんこう)といい、今の県立那覇高校を第一期で卒業し、その後日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)を卒業して歯科医となった。
舞天のオモシロオカシは、仕事で白衣を着ている時や家にいる時はまじめで口数の少ない人であったが、一歩外に出ると風変わりな「漫談男」にヒョウ変することだった。
漫談といえば、牧伸治の「ウクレレ漫談」を思い浮かべる。97歳にもなって「あ~~いやんなっちゃった」ともいわず、現役で漫談を続けているのは、もはや「国宝級」の域かもしれない。
さて、小那覇舞天の方は毎晩のように、舎弟「照屋林助」(てるやりんすけ)を呼び出し、まだ起きている家を見つけては甲高い声で「ヌチヌスージサビラ」(命のお祝いをしましょう)とズカズカと入ってくる。
と、突然「ジャカジャカジャン」と三味線が鳴り響き、歌が始まるのである。
突然やって来た中年の男が、その場でつくった歌を民謡の節に乗せ、この地方独特の「琉球舞踊」モドキを踊るのだから、ただただアゼンとするばかり。
しかし、やがて舞天のユーモラスな「踊り」に乗せられ、家の者もツイツイ一緒に踊り始めるのである。
ところが舞天がある屋敷を訪問した時、位牌の前で家主が涙を流している場面に遭遇した。
家主は舞天に、こんな悲しいときにどうして歌うことができるのか?戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに位牌の前でどうして「お祝い」をできようか?、と問うた。
すると舞天は、「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないし、沖縄も復興できないのではないか。さあ遊ぼうじゃないか」と答えたという。
舞天の言葉にキョをつかれた主人だったが、家主の表情には明るいきざしが表れ、口づてに舞天の存在は沖縄中に知られていった。
当時は、一軒の家にを10人くらいが詰め込まれて避難生活している状態の処も多く、すぐに人の輪ができて「笑い」のウズが巻き起こっていったのだ。
舞天のつくり出す笑いが、希望を失った人々にどんなに救いになったか、計り知れない。
避難民達も、舞天の世の中を風刺した漫談に、腹のそこから笑い転げ、少しずつ元気を取り戻していったのである。
小那覇舞天は「ブーテン」の愛称で親しまれたが、打ちひしがれた人々の心に灯を点した為か、いつしか「沖縄のチャプリン」ともよばれるようになった。
ところで、舞天とともに民家を訪ね歩いたのが、「りんけん」バンドの照屋林賢の「父」にあたる照屋林助である。
ちなみに照屋林助は、モデルで元・ミスインターナショナル世界第二位の「知花くらら」さんの叔父にあたる人物でもある。
振り返ってみれば、「沖縄芸能」の復興は小那覇舞天・照屋林助コンビによって始まったといえるかもしれない。それを物語るように、国立民族学博物館にて照屋林助・林賢コーナーが展示されている。

「男はつらいよ」の監督・山田洋二の父親は戦前、南満州鉄道の技術者だった。
敗戦で失職し、一家は中国の大連から引き揚げ、山口県・宇部の親戚の納屋みたいな部屋を借りて暮らし始めた。
父親は再就職口がなく、収入がない。母親は借金して近所に小さな店を借り、雑貨を並べて売り始めた。しかし収入は微々たるもので、栄養失調気味な山田はたべるためのアルバイトをし始めた。
宇部は工業都市だったので、空襲で工場一帯が破壊された。そのがれきを片付けるアルバイトがあったのだ。
工場から出る石炭殻を、大人にまじってトロッコに積んで海岸の埋め立て現場まで運んで捨てるハードな仕事をしたという。
兄と一緒に闇物資を買いに行き、金子みすずの故郷である山陰の仙崎まで3時間の汽車旅で干魚をリックサック一杯に詰めて帰ってきた。
列車はぎゅうぎゅう詰めだった。
その時、よく一緒になる「ハルさん」という闇屋の面白いおじさんがいて、しょっちゅう冗談を言ってみんなを笑わせていた。
山田が連結器あたりの取ってにしがみついていると、山田の恰好はサルが木の上でウンコしているようだというと、みんながわーっと笑って山田自身もつられて笑った。
すると不思議なことに精神的にも肉体的にも回復することができた。
つらいときに笑わせてくれる人が、こんなにもス救いになるということを知った。
山田は、上野英進のルポルタージュに炭鉱の世界にも「スカブラ」といってあまり仕事をせずにうろうろしている人の存在に注目した。
「スカブラ」は、スカッとしてぶらぶらしているのでそうよばれた。
生きるか死ぬかはわからない現場には「笑い」が必要だったからだ。
ちょうど寅さんが、「労働者諸君」なんとかいって、働いている人を笑わせているいたように。
仕事をさぼっているのに皆に愛されているのは!
そういえば、「釣りバカ日誌」のハマチャンこと浜崎伝助もそういう存在である。
普段は働かないスカブラが、落盤事故が起こったら、皆に指示をだして大活躍した。ぶらぶらしているから全体のことがよくみえたらしい。
それで思い浮かべるのは映画「男はつらいよ」の一場面。寅さんが、何かの緊急事態に皆に指示をだしている場面があった。寅さんは「適格、迅速」をかかげ、寅さんの指示に反応すれば「よし」と確認していく。
「男はつらいよ」の役作りにおいて、山田監督と渥美清が響きあうことが大切だが、根無し草的な流れ者の環境の中に育ったという点でよく響きあうことができたのではないだろうか。
山田はインタビューで、「寅さん」というキャラクターは、渥美清の中から生まれてきたようなものだと語った。
山田の方は、故郷ではだんご屋さんをやってて、そこにフラフラと舞い戻っては、毎回いろんな騒動を起こすといったシチュエーションを考える。
渥美清の方は、1928年上野の車坂に生まれるも一家で板橋区志村清水町に転居するが小学生時代は所謂欠食児童であったという。
加えて、病弱でもあり学校は欠席がちで、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごしたという。
戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学し卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたことも寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
渥美は少年時代からテキ屋にあこがれていて、秋葉原から御徒町にかけていっぱいいたテキ屋の口上に聞き惚れたり、学校のノートに書きうつしたりして暗記していた。
山田監督によれば渥美の記憶力のよさは森重久弥と双璧だったという。
山田は、「男はつらいよ」第1作を作ったとき、撮影所で音楽も何もつかない編集の試写があったけれど、それ見たときは、どこもおかしくないと思っていたという。
なんだかとてもまじめな映画を作ったという気がしたが、出来上がって映画館で上映したら、観客がよく笑う。山田が見てて何もおかしくないのだけど、観客がここまで大笑いするほどおかしいということは、山田が一生懸命作ればみんなが笑ってくれるということが、その時初めて知った。
人間を一生懸命描けば、それが、笑いを誘うことになる。
そのためには人間を丁寧に観察することが大事。
いつしか、はじめから終わりまで笑い続けられるような映画ができたらいいと語った。

最近、その娘が素顔を語っていた。赤塚の再婚相手の眞知子さんが56歳という若さでの逝去だった。
亡くなり、娘のりえ子さんが急きょプロダクション社長になった。