レッセ・フェール

2023年年頭のNHKの番組で、フランス最高の知性といわれるジャック・アタリが日本の未来についてふれていて、その内容はショッキングであった。
それは、気候変動による飢饉・干ばつの頻発から、昆虫や雑草さえも、食生活に入れることを視野に入れてお必要があり、農業に誇りをもたせ「食糧自給率」をあげることをしないと、日本はなくなると。
あるワイナリーが語った「ワイン作りは化学とポエムの融合である」といった言葉が記憶に残るが、フランスでは農業と芸術のミックスした感がある。
例えば、チーズ、果物、南フランスの香水など「芸術様式」に近いものがある。
フランス人の農業に対する誇りと思い入れは、他国よりも高いのかもしれない。なにしろ経済学における「重農主義」はフランスより生まれたからだ。
ルイ14世のベルサイユ宮殿への招待客は主に「土地貴族」であり、けして新興商工業者(ブルジョワジー)ではなかった。
一方、イギリスで「経済学の父」といわれるアダムスミスの経済観は、「見えざる手」に導かれており、「自由放任主義」といわれている。
そこで「小さな政府」が望ましいという「夜警国家観」がうまれた。しかしながら、アダムスミスの経済思想を「自由放任/夜警国家観」でまとめあげるのは、あまりにも短絡にすぎる。
まず、スミスはスコットランド人、その「自由放任主義」が「レッセ・フェール」(なすがままに)というフランス語で表されていることに、違和感を覚えないだろうか。
英語でいうならば「レット・イット・ビー」で、なぜここでフランス語がつかわれているのか。
それを調べると、意外にも「レッセ・フェール」という言葉は、フランスの「重農主義者」が生み出した言葉なのだ。
フランスには三人の傑出した「重農主義者」たちがいる。彼ら(ケネー、チュルゴー、デュポン)の思想につき、アメリカの経済学者・ガルブレイスは、「重農主義」というより、「自然の支配を主張する人たち」というほどの意味であると書いている。
それが「農業重視」(重農)とされたのは、あらゆる富が農業による「純生産物」を源泉とするからである。
商人は買って売るだけであり、製造業も土壌の産物に労働を付加するだけであるからだ。
さて、ルイ14世のもとで重「商」主義政策をすすめたのが財務総監コルベールで、彼こそが重「農」主義のケネーが批判の対象とした人物である。
当時の「重商主義」は、貿易差額主義で、輸出品の価格を抑えるために、国内の賃金を引き下げ、低賃金で労働できるように、労働者が消費する穀物価格を抑えるといった政策を行った。
つまり黒字蓄積によって国富を高めようとして行われた保護主義的政策である。
確かにコルベールの政策はフランス王室の財政を潤すことができた反面、農業が荒廃しフランス経済全体に悪影響を及ぼすことになった。
ケネーは、こうした政府の介入に対して異議を唱えたのである。
それが「レッセフェール」の主張だが、それがどうしてアダムスミスの経済思想を表すのに転用されたのだろうか。
グラスゴー大学教授のアダム・スミスは、人間個人の「共感」について記した『道徳感情論』(1759年)を刊行し、大きな話題を呼んだ。
その後は貴族ヘンリー・スコットの家庭教師として3年間旅行に帯同し、この時にケネーやテュルゴーなどの「重農主義者」と交流をした。
イギリスに帰国をすると執筆活動を始め、1776年に『国富論』を刊行する。
つまり、アダムスミスの考え方は、フランスの重農主義者との交流により生まれたもので、特に「自然価格」という言葉にそれが表われている。
18世紀半ばに出現した重農主義者たちは、穀物価格の規制に反対し、穀物価格は放置されるべきで、最終的に最適な価格に定まるようになると彼らは主張したのである。
その最適な価格を「自然価格」とよんだ。 つまりそれぞれの商品には「自然の体系」によって収まるべき一定の正価があり、自然な成り行きにまかせておくならば、つまり人為的にその自然の体系を乱すことがないならば、それぞれの商品価格はその「最適価格=自然価格」に行き着くと考えたのである。
ところで重農主義者の代表者フランソワ・ケネーは元々医者で、62歳から経済学を学び、そこで思いついた「経済表」は、その研究対象である「血液循環」を連想させる。
フランスの重農主義者達が主張した「レッセフェール」は、自然に対して人為(政府の介入)を排除するという程度の意味だった。
実際スミス自身は「レッセフェール」という言葉を使っておらず、またJS ミルが『経済学原理』の中で、「レッセ・フェール」を一般的経済政策として論じて以降、経済学の上にしばしば現れるようになったのである。
またアダムスミスを論じるうえで留意したいことは、「国富論」を書いた時代は産業革命を終えた時代とはいえ、産業社会の本質とよばれるものに出くわしていない。
なにしろスミスは「ピン製造工場」の仕事から「分業と協業」で生産性を高めていることを記述しているが、「規模の経済」という視点には至っていない。
つまり、産業革命の進展の本貫部分は、彼の本が書かれた後にやって来たといえる。
イギリスの古典派経済学「スミス→マルサスーリカード」という学問的継承のなかで、市場メカニズムを「自然の体系」に見立て、そのメカニズムを人為的に阻害しないでおけば、需要と供給、価格と数量が最適な値に落ち着くという「自由放任」の原型となる考え方がでてくる。
そしてカルヴァンの「予定説」を連想させる「予定調和」という社会観がうまれる。
ちなみに、イングランドではカルヴァン派をピューリタンとよぶが、アダムスミスが生まれたスコットランドは、プレスビテリアンとよび、その経済観においても神学から自由とはいえない。

フランスと並んでイギリスも重商主義の時代を迎えるが、それを批判したのは、重農主義者ばかりではなかった。
イギリスの社会哲学者デビット・ヒュームは、イギリスの重商主義(初期の重金主義)政策を批判した。
重商主義者は貴金属の蓄積を国力とみなすが、貴金属(貨幣)は交換の媒体にすぎず、貨幣の数量が国内で増大しても、それによって国内での生産量が増大することはないことを主張した。
その主張のベースに貨幣量(貴金属)と物価が比例するという「貨幣数量説」があった。
貨幣が増えれば国内で物価が上昇し、輸出品の価格も上昇し、輸出量が減ってしまうためである。
結局は、貿易によって貿易黒字を増大させ、貴金属を一国がため込むことはできない。
貿易黒字による貨幣量の増大→輸出品の価格上昇→輸出量の減少→貿易赤字→貴金属が流出→輸出品の物価下落→輸出量の増大という経過をたどるからだ。
ヒュームは古典派経済学のいわば「国際版」であるが、1803年フランスの経済学者セイが『経済概論』の中で、古典派の「マクロ的」視点を示したことはケインズを理解するうえでも、意義深いものであった。
それを一言でいうならば、「供給が需要を生む」という見解であった。
セイは人々が消費も投資もせずに貨幣を無益に手元に保蔵するのは不合理であり、獲得した貨幣は必ずなんらかの支出に変わると考えた。
(消費しない貯蓄の「漏れ」は、その資金が投資にまわり、カバーされる)。
市場メカニズムが十分に機能し、かつ人々がその市場価格を受け入れるのであれば、販売によって手に入れた商品(または貨幣)はいずれ他の商品の購入に支出される。
生産し販売たものは賃金・利子・地代など誰かの所得になって支出されるからだ。
こういう「供給が需要を生み出す」という考え方を「セイの法則」といい、古典派経済学の中心的な学説となり、その後も数多くの経済学者に支持される理論となった。
セイによれば過剰に生産されても価格が下がるので、仮に生産物の供給が増えたとしても、その分需要も増えるので過剰生産は起きないとした。
こうしたセイの主張と古典派経済学に共通しているのが「失業は存在しない」ということで、失業が発生してもそれは市場メカニズムの調整段階での「過渡的」なものにすぎないとした。
こうした「セイの法則」は、価格の伸縮性を前提にしていて、国民所得水準が完全雇用という一定水準に収まれば、「貨幣数量説」にしたがって結局は社会における貨幣量の増減は物価の上下にしか現れない。
貨幣量が変化しても、実体経済は変わらないという「貨幣ヴェール観」を生んだ。
市場に任せておけば、企業は供給したいだけ生産し、消費者は欲しいだけ需要し、社会的に望ましい状態となるということだ。
フランス人のセイは、市場メカニズムをあたかも「自然の体系」に見立てているかのようだ。
しかし、1930年代の世界恐慌を前にして、セイを含む古典派経済学に代わる新たな経済学説が求められた。
イギリスのジョン・メイナード・ケインズは、「セイの法則」に真っ向から対立するような「有効需要の原理」を提示した。
それは「総需要(有効需要)が総供給(国民所得)を決定する」という論説である。
まずケインズは『自由放任の終焉』のなかで、「この理論はきわめて美しく、単純明快であるため、ありのままの事実に基づいているわけではなく、単純化のために導入された不完全な仮説に基づいている点が忘れやすい」として、このような非現実的な仮説の前提になっているとして、その前提件を吟味している。
セイを含む古典派の考えでは世界恐慌のような大量の失業が発生しても、失業がなくなるまで賃金率が下落するので問題ないということになるからだ。
しかしケインス、賃金の下方硬直性に注目し、失業が生じても現実の世界では賃金率は下がりにくいので、「不完全雇用水準」で均衡するので、そう簡単には失業はなくならないとした。
ケインズは、市場メカニズムについてもセイと真逆の発想を唱えた。
労働市場では賃金の下方硬直性がみられるように、ケインズは短期的には価格調整のメカニズムは働かずにむしろ一定であると考えたほうが現実的な経済を説明できると主張した。
価格メカニズムが働かなければ、市場での供給過剰は供給量の調整によってのみ解消されるしかない。
すなわち、「セイの法則」のように「供給が新たな需要を生む」というのは限られた条件下でしか成り立つもので、むしろ現実経済では「供給量は需要量によって決められる」という考え方のほうが自然であるとしたのである。
そこで不況期には、それに見合って供給量を減らす必要がある。そのために生産に従事している過剰な従業員は解雇する必要がある。
つまり、有効需要(総需要)が不足しているときに、供給量を調整するために企業が雇用を減らすことによって生じる。
とはいえ有効需要を増やすためには、企業だけの努力では「限界」がある。不況期に企業が楽観的な見通しをするとは考えにくいからだ。
そこで政府自ら仕事を生み出す「公共事業」が求められる。
ケインズを「不況脱出の処方箋」とみた時に、労働市場の下方硬直性への着眼とは別に、セイとは異なる「貨幣観」がある。
ケインズは貨幣を取引の「媒介」とばかりではなく、貨幣それ自体を資産と考えた。
貨幣は利子をうまないので、そはの意味では他の資産ほどには魅力がない。
しかし、インフレのあまり激しくない状況では、貨幣は土地や株などよりはるかに安全な資産である。
したがって損をするリスクを嫌う人は、貨幣を資産として保有しようとするということだ。
そのため貨幣保有をモノの取引という「取引動機」ばかりではなく、債権価格(利子)との関係で「投機的需要」があることに注目する。
ケインズの理論では、利子とマネーサプライの関係を明らかにするために、金融資産を「債権」と限定している。
それでも家計部門から企業部門への資金の流れを説明するのに十分だ。
銀行の貸出金利が一定のままで、債権の金利が低下すると、銀行は債権を保有するよりも貸出をしたほうが有利になるので、貸し出しを増やそうとする。
その結果、貸出市場の需給が緩んで、貸出金利も低下し、設備投資や住宅投資が増加していく。
反対に不況期では利子が低い(つまり債権価格が高い)ときは、将来の価格が下がることを見越して貨幣を保有し、利子が高い時すなわち債権価格が低いときは、将来価格が上がることを見越して債権を保有する。
世界恐慌のような時には、どんなに貨幣量を増やしても人々は債権利子よもり貨幣のもつ「流動性」(安全性)を選好するため、金利はこれ以上さがらず、その結果投資もふえないことになる。
これをケインズは「流動性の罠」とよんだが、そのような場合には、政府が公共事業などの財政政策で自ら有効需要を創出すべきとした。

ビートルズの「レット・イット・ビー」の歌詞では、聖母マリアがやってきて、知恵の言葉としてささやいたのが「成すにまかせよ」である。
聖書の言葉からいうと「主にゆだねよ」である。
「レッセフェール」もまた、そんな「信仰」を前提とした世界観の中で論じられた「経済論」なのである。 またアダムスミスの「小さな政府」は自由放任主義の帰結だが、アダムスミスの「小さな政府論」の帰結たる国家観を「夜警国家」とよんだのは、ドイツの社会主義者ラッサールである。
当時の政府は資産かのの財産が盗まれないように警備するガードマン(夜警)のような存在でしかなく、ラッサ―ルは皮肉を込めて当時の政府を「夜警国家」と呼んだ。
アダムスミスは市場に介入しない小さな政府を推奨したものの、国の防衛と安全保障、司法、公共事業は国が役割を果たすべきと考え、人々の自由な行動は違法性のないルール内であることを前提としていた。
また「予定調和説」とはもともとドイツのライプニッツの神学的原理である。
世界を構成する要素である実体(身体と心の両方)はそれぞれ因果関係があるように見えるが、独立したもので神によって事前に互いに「調和」するように設計されているためだとしている。
アダムスミスは、ライプニッツの77年後にスコットランドに生まれている。
もともとグラスゴー大学の「道徳」の教授であり、スミスが生んだ「古典派経済学」は、「神学理論」の延長として生まれたものであり、「神のもと」にいかに社会全体の幸福を築くことができるかという問題意識から出発したものである。
カルヴァン派は労働(勤勉)に基づく富の蓄積は、救いの証であり、アダムスミスのいう利己心にはカルヴァン的な救いの確信を得ようという「共感」の余韻が残っていたように思える。
このような世界からもしも「神」なり信仰が消失すれば、個人の「利己心」は単なる「マネー動機」の発露でしかない。
結局、アダムスミスと一体のごとく語られる「レッセフェール」「夜警国家」「予定調和」いずれも、スミス自身の言葉ではなく、あとづけである。
スミスの言葉としては「見えざる手」があるが、「マネー動機」だけの世界で働く「見えざる手」とは、果たして"神の"「見えざる手」なのだろうか。