聖書の言葉(サムソンと福音)

現在、世界の衆目が集まる中東パレスチナ自治政府のガザ地区では、「アタック オン タイタン」がよくよく読まれている。
日本のアニメ「進撃の巨人」のことである。
ガザ地区の人々は、イスラエルが建てた高いコンクリートの壁に閉じ込られて暮らす。
「進撃の巨人」は、巨人の襲撃を恐れ、高さ50mの壁に囲まれて生きる少年たちの物語。 ある少年が、壁の中で戦う話なので、いろいろと似ていると語った。
現在、ガザ地区の人々約220万人は、いわば「軟禁状態」なのだ。
、 ガザは、反イスラエルの過激派組織「ハマス」が実権をもち、何度もイスラエル側でテロを起こした。
そこで、イスラエルはその報復に、ガザを封鎖したままロケット弾を撃ち込み、国際的非難を浴びたこともあった(2009年)。
なぜ、こんなこじれた関係になったのかは後述するとして、ガザ地区は、旧約聖書に登場する怪力男の「サムソン」の出身地である。
ただサムソンはパレスチナ人ではなく、ユダヤ人(イスラエル人)である。
また、映画「サムソンとデリラ」(1949年)の主人公としても、その名は知られている。
さてサムソンは旧約聖書「士師(しし)記」に登場するが、「士師」とはどういう存在であろうか。
「出エジプト記」にあるモーセそしてその後継のヨシュアが世を去ったあと、イスラエル全体を統率するリーダーが不在となっていた。
そこで、その時々に必要に応じ、神によって立てられたリーダーが「士師」と呼ばれる人々で、サムソンも士師の一人である。
この士師の時代は、イスラエルが強大な異教国ペリシテに支配されていた時代である。
ペリシテの偶像にも冒されることで、イスラエルのヤハウェに対する純粋な信仰が失われたため、共同体意識が薄れていた。
聖書によれば、「各自が、自分の目に正しいと見るところを行う牧者なき時代」(士師記21章)であった。
サムソンは、生まれる前から御使いからのみ告げによって予告された「ナジル人」(神への献身者)として生まれて、彼の使命は「イスラエルをペリシテから救う」こと(士師記13章)であった。
イスラエルの人々は、ペリシテから武器を奪われ、鉄を精製して武器を造ることも禁じられていた。
サムソンはある時、武器として手にした「ロバのあごの骨で、ペリシテ人とひとりで戦い、1人で千人を倒した」(士師記15章)という。
そんなサムソンの怪力ぶりに苦しめられたペリシテ人は、サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わす。
それはサムソンの弱点を探らせるのが目的だった。
サムソンはデリラの誘惑に負け、その力の秘密を明かしてしまう。
その怪力の秘密は長髪にあり、それを剃り落されたなら、怪力は失われ、人並みの存在となることをうち明けた。
その結果、デリラの膝枕で眠っている間にサムソンの髪の毛は剃り落とされ、その「怪力」は失われてしまう。
その後、サムソンはペリシテ人の捕虜となり、目を抉り出され、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる悲惨な状況に陥ってしまう。
その後、ペリシテ人の指導者たちは、彼らの神ダゴンを崇める祭りを開催し、会場となる大会堂に国中の指導者達を集め、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言って偶像ダゴンをたたえた。
その時、サムソンは大会堂の中でペリシテの指導者たちの前で、戯れごとをさせられ、笑いものにされる。
しかしペリシテ人は、盲人となったサムソンに油断したのか、サムソンの髪の毛が伸びていることに気がつかなかった。
そこでサムソンは、彼の手引きをしていた若者に頼んで、大会堂の二本の大黒柱に寄りかからせてもらい、神に「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈った。
そして、「ペリシテ人と一緒に死のう」と柱に寄りかかると、その会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかり、自らも命を失う。
ただその時に倒したペリシテ人の数は彼がそれまで殺したよものより多かったという。
旧約聖書には、バビロン王の幻に表れた巨大な像から、バビロン帝国後におきる大国の興亡をダニエルが解き明かす場面がある(ダニエル書2章)。
そんな「解きあかし」を下敷きにすると、サムエルの人生そのものがイスラエルの歴史に見えてくる。
①サムソンがペリシテの女性デリラの誘惑にはまる。
②サムソンが「足かせ」をかけられる。
③サムソンが目をくり抜かれる。
④サムソンは死の間際に多くのペリシテ人を倒す。
まずは、ペリシテ人デリラの誘惑とは、イスラエルが何度もその陥穽にはまり込んだ、バアルやタゴン神崇拝などの異教の神々の誘惑とみることができる。
「足かせをかされる」とは、古代のバビロン捕囚から中世のヨーロッパのゲットー、近代のヒットラーによるユダヤ人収容所までの歴史がそれを表している。
また、「目がくりぬかれる」とは、「契約の箱」を奪われたり、ローマによってエルサレムの神殿が破壊され、「契約の箱」が行方不明になったりしていること。また現在もエルサレムが岩のドームなどに見られるようにイスラムの支配下にあることである。
この「契約の箱」が失われることの重大さは、旧約聖書「サムエル記上」に記載されている。
イスラエルの民は、他国と同じように王を求め、士帥の時代から王制に転じる。
最初の王としてサウルが立てられたが、祭司サムエルの言葉を軽視するなどして、祭司の怒りをかう。
「契約の箱」はペリシテ人に奪われてしまい、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」という「神の臨在」喪失の時代を迎える。
その一方で、契約の箱」は、奪い取ったペリシテ人には「災い」をもたらし、イスラエルはそれを「取り戻す」に及んで「その力を回復」したことがわかる。
また、サムソンの髪が伸びることは、神の前にへりくだったイスラエルと神との関係が修復されたことを思わせる。
最後の場面で、サムエルはペリシテ人もろとも建物の下敷きとなって死ぬが、何らかの未来を「暗示」(預言)しているのかもしれない。
ところで「ペリシテ」とは今日の「パレスチナ」を意味し、1948年に建国したイスラエルと、そこを追われたパレスチナ人との対立はパレスチナ側につくアラブ人を巻き込んで4度の中東戦争を引き起こし、いずれもイスラエルの勝利に終わった。
ヨハネ黙示録に、「ハルマゲドン」(ヨハネ黙示録16章)という言葉があるが、この言葉は「メギドの丘」つまり「ハル・メギド」に由来する。
なお「メギドの丘」は、「ヨルダン川西岸」のゴラン高原に位置している。

国連の分割案に基ずく、パレスチナ自治区の「ガザ地区」には髙い壁が築かれているが、同じ自治区の「ヨルダン川西岸」には髙い壁はない。
「ヨルダン川西岸」にはパレスチナ暫定自治政府があり、穏健派ファタハが実効支配している。
こうした奇妙な状況が生まれるに至る経緯を知るには、かなり古い時代に遡る必要がある。
BC586年には「新バビロニア」によって征服され、その後、勢力を伸ばしてきたローマ帝国によって征服さて、ユダヤ人たちは離散し、614年にはペルシャによる侵攻。636年にはイスラム帝国が占拠する。この7世紀ごろからはアラブ人もこの地に入ってくるようになり彼らはイスラム教徒になっていく。
結局、エルサレムという場所はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と宗教の聖地ともなって、これがイスラエル、パレスチナ問題の出発点となる。
キリスト教徒は11世紀の後半から十字軍を遠征させ聖地奪還を目指すがこれに失敗。
そして、16世紀にはイスラム教のオスマン帝国の支配が400年も続き、この地域をペリシテの名にちなんで「パレスチナ」と呼ぶようになる。
第一次世界大戦が始まり、オスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと対立し、この時にイギリスがとんでもない約束をしてしまう。
まず、イギリスはアラブ人に対して「イギリス軍に協力するなら君たちの国家をつくるのに協力する」と持ちかける(1915年フセイン・マクマホン協定)。
その一方ではユダヤ人の金融資本家から資金提供を受けるために「お金をだしてくれるならユダヤ人の国家を作るのに協力する」と約束をする(1917年バルフォア宣言)。
そしてユダヤ人はパレスチナに帰還をはじめ、アラブ人との争いが頻発する。
結局、イギリスはどちらも裏切り、パレスチナを「委任統治領」とするが、1947年、第二次世界大戦後にはイギリスがパレスチナにおける治安維持能力を失い撤退し、この地を国連の決定に委ねる。
国連が出した決断は「パレスチナ分割案」でユダヤ人にかなり有利な分割案となったが、そこにアメリカの意向が働いた。
アメリカには「ユダヤ・ロビー」とよばれる影響力の大きいユダヤ人たちがいる。
アメリカでは1948年に大統領選が控えており、この国連分割案にそって1948年には「イスラエル国」が独立宣言される。
このことにアラブ人側が黙ってるはずもなく、近隣のアラブ諸国に力を借りイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発。
この時にエジプトが攻め込んだのが今の「ガザ地区」。そして、ヨルダンが攻め込んだのが「ヨルダン川西岸地区」で、現在の「パレスチナ自治区」とされている場所である。
この戦争はアメリカの支援もありイスラエルが勝利したため、ガザ地区・ヨルダン川西岸地区も1967年の戦闘によりイスラエルに占領されることになる。
この占領は国連の警告を無視して続けられた。
しかし1993年9月13日、イスラエルのラビン首相とPLO=パレスチナ解放機構のアラファト議長が、アメリカのホワイトハウスで、クリントン大統領立ち合いのもと、「パレスチナ暫定自治合意」に調印した。
この和平合意を「オスロ合意」といい、歴史的出来事と称賛され平和共存の道がみえたが、調印したイスラエル首相ラビンは暗殺されてしまう。
なおヨルダン川西岸地区を実効支配しているのは、穏健派のファタハで、アラファトの後継者であるアッバスがパレスチナ暫定自治政府の議長をつとめている。
ハマス率いるガザ地区とファタハ率いるヨルダン川西岸地区は、同じパレスチナ自治区でも、2007年以降分裂状態となっている。
つまりパレスチナ暫定自治政府の支配は、ガザ地区には及ばないということである。

サムソンの「怪力」の秘密は、髪そのものというより、その誓いを守りとおすことにあると推測される。
したがって牢獄のなかで髪が伸びることは、神との関係が修復していったことを意味する。
さて、サムソンの神から与えられた使命は、「ペリシテ人を倒しイスラエルを守る」ことである。
一方、「福音の使徒」パウロの使命は、キリスト教を異邦人に伝えることである。
両者の使命は、旧約の時代と新約の時代の違いもあり全く違うが、両者の境遇は、案外と重なることがある。
例えば、パウロは次のような経験を語っている。
「苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある」(コリント人第二の手紙11章)。
またパウロは、サムソン同じく、「鎖」に繋がれた経験を次のように述べている。
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように"鎖"につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(テモテへの第二の手紙2章)
パウロはもともと、厳格な律法学者の家に生まれており、キリスト教を迫害していたのであるが、ダマスコにクリスチャンを捕縛する途上で光に打たれて、イエスキリストの言葉「あなたが迫害しているのは、私である」という声を聞き回心する。
そうした体験から自らを”焼印を押されている”と表現している。
「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」としたうえで、「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」(ガラテヤ人への手紙6章)と語っている。
パウロが福音のために「鎖に繋がれている」とか、「焼印をおびている」というのは、「誘惑され、笑いものにされ、見世物にされ」ても、最後の瞬間には「ナジル人」としての使命を忘れずに果たしたサムソンの生き様を思わせる。
また、サムソンの怪力が髪の長さによって失われるというのは、パウロの「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。 御霊の力の証明による」(コリント人第一の手紙2章)という言葉を思い起こさせる。
なぜなら、サムソンの力の源が「肉体」からくるのではなく、「髪の長さ」からくるものだからである。
つまり、「髪の長さ」に象徴されるように、神との正常な関係(霊と力)が失われた時に、サムソンは力を失ったからだ。
またサムソンは若きに碑ロバのアゴで多くのペリシテ人を倒したが、真に神の力に満たされたのは、身体を鎖で縛られ、目をえぐり取られたいわば「死に体(しにたい)」になった時である。
それは、パウロの次のような体験とも重なる。
「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」コリント人第二の手紙12章)。
さらにパウロは、「救い」とは、究極的には、キリストの死のさまに等しくなることだといっている。
「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」(ローマ人への手紙6章)。
サムエル本人からすれば、失態だらけで恥多き人生だとしても、最後の瞬間に使命を全うし、神の栄光をしっかりと表わすことができた人生であった。
それはパウロの次の言葉を思い起こさせる。
「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。 今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、 苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている」(コリント人第一の手紙4章)。

6:15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。 < 6:16 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。 6:17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。 6:18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。 6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。 <