神崎荘ありて、博多あり

福岡県、西鉄大牟田線大橋駅より県道385号を南下すると那珂川町につく。
この街をさらに南下すると脊振山の麓に着き、南畑ダム・グルーンピアを横目に見つつ背振の山路を超えると吉野ヶ里遺跡につく。
佐賀県神崎市神埼郡の吉野ヶ里遺跡に到着するまで道の曲がりくねりはあったものの、一度も右折や左折のウインカーは使わなかった。
この時、原付バイクで脊振の山道を超えたが今は道路が整備され、より直線的に繋がっている。
ところで、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印で有名な奴国の王墓は、大橋駅から3キロほどに位置する「須玖岡本遺跡」とされている。
同じ弥生時代の王国である奴国と吉野ヶ里のエリアがこんなにも直線的に結びついていることに驚いた。
当時、奴国と吉野ヶ里の間で交流があったかどうかは知らないが、平安期になると脊振山を挟んだ両地域の交流の姿が明瞭にみえてくる。
例えば、「櫛田(くしだ)神社」といえば福岡市博多の山笠祭りで有名であるが、神崎の地にも「櫛田宮」がある。いや、その逆で博多にも「櫛田神社」がある。
神崎の「櫛田宮」は社伝によれば景行天皇の時に始まるといわれ、祭神は櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)須佐之男命(スサノオノミコト) 日本武命(ヤマトタケルノミコト)である。
佐賀県東部に位置する神埼市は、古代から中世にかけて「院領荘園」である神埼荘の中心地で、その荘園の総鎮守社が「櫛田宮」なのである。
有力豪族の中には、国司の重い税から逃れるため自分の土地を皇室や摂関政治を行った藤原氏などの中央の有力貴族、大きな寺院に寄進して税の免除を受け、自分はその土地を現地で管理する荘官となる者が多く現れる。
これにより、藤原氏や院政を布いた上皇、さらに平安時代末期には平氏が多くの荘園を所有し、各地の領地から送られてくる年貢が重要な財源となり、 政治の実権を握っていた。
「神埼荘」は、佐賀県の荘園の中でも最大規模の荘園となり、その広さは最大3千町もあった。
当時、宋からの交易船は博多港から入ってきたが、神埼荘は有明海や筑後川に近く、海上交通の要衝であったため、東シナ海から有明海に入港する宋船もあり、国内外交易による莫大な利益があり、皇室にとってなくてはならない荘園であった。
鳥羽上皇の時代には、平忠盛(清盛の父)がこの荘園の管理を任されてたことは、博多にとってもこの上なく重要な出来事であった。
それが平清盛による博多の「袖の湊(そでのみなと)」開発へと繋がるからだ。
ところで、西鉄大牟田線の二日市駅と久留米駅の中間ぐらいに「大善寺駅」がある。
大善寺にあるある高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)の現在の祭神とは、高良玉垂と八幡神、住吉宮であるが、神宮皇后以前は航海の神様(宗像三神)であったと推測されている。
この周辺では、荊津(おどろつ)や、住吉という航海や交易に関係した地名が残っているからだ。
この「三瀦(みずま)」の地は、今は内陸にあるが、5世紀ごろでは筑後川の河口と有明海の境目にあり、古くから大陸交易や畿内との交易の拠点であったと考えられている。
そして、この地から約20キロほど西に位置する神埼市内の遺跡から宋銭や宋時代の陶磁器などが数多く出土しており、神埼荘で「有明海」を通じた貿易が行われていたことを物語っている。
櫛田宮(神崎)が特に栄えたのは平安時代で、当時は多くの末社をもち、「九州大社」とも称されていたほどであった。
1115年に当社を鳥羽天皇が修造した際、伴兼直(とものかねなお)が勅使となって下向し、伴兼直が「執行(しぎょう)家」となって、現在の櫛田宮の宮司は「執行家の後裔」である。
1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れると、神埼荘は幕府に没収され、有力御家人が地頭に任命される。
さらに元寇の際には河野通有(こうのみちあり)はじめ400人余の御家人に恩賞地として分け与えられてしまい、「神埼荘」は消滅した。
壇ノ浦合戦で河野氏は、250艘を率いて出陣したが、承久の乱で後鳥羽上皇方について没落した。
さて元寇はモンゴル軍と戦ったのは武士だけでなく、神々も蒙古を迎え撃ったとされ、幕府に戦功を報告し、恩賞を求めている。
櫛田宮も元寇に霊験を顕わしたとされる。櫛田宮の「霊験記」によれば、「弘安の役の際に当社から剣を博多の櫛田神社に送れ」との託宣があり、博多へ宝剣を移して異賊退散を祈り、霊験(戦功)あってモンゴル軍が退いたという。
この報告が認められ、正和年間(1312年~17年)に櫛田宮(神崎の修築」が鎮西探題・北条政顕(まさあき)の肝いりで行われている。
しかし、戦国時代になると、次第に武士によって社地が奪われて困窮し、社殿も荒廃していった。
江戸時代になり、藩主鍋島氏の保護を受け社地が寄進され、社殿の造営修築などはすべて「藩費」でまかなわれていた。
1952年、櫛田神社(神崎)とよばれてきたものを創建時に復して「櫛田宮」と改称された。
櫛田宮は国道34号線沿い、神埼市庁舎に隣接している。一の鳥居・二の鳥居ともに鍋島氏が奉納した「肥前鳥居」である。
以上のように、櫛田宮本社は、「神埼荘の総鎮守」として中央と綿密な関係をもった神社である。
7月の「祇園山笠」の舞台となる博多の櫛田神社は社伝では、創建は天平宝字元年(757年)としているが、平安時代末期に平清盛が日宋貿易の発展と博多の繁栄を祈願して、神埼荘の「櫛田宮」をこの地に勧請したという説が有力とされている。
当時の博多の人々は、町の発展に尽力した平家に恩義を感じ、清盛の嫡男重盛が治承3年(1179年)に病死した際、その霊を慰めるために始めたのが5月に開催される「どんたく(博多松ばやし)」の始まりだと伝えられている。
要するに、肥前の櫛田宮が本元で博多の櫛田神社は出先といいてよい。それは肥前の神崎荘の倉庫群(倉敷)が博多港という位置つけを映したものであるかのようだ。
ところで神埼市(神埼町)の東部地区は大規模な堀(クリーク)が網野の目状に巡らされ、その一部は有明海に繋がっていた。
鎌倉時代末期には、元寇の恩賞として櫛田宮の大規模な改築工事が行われ、有明海より船で建築資材を運んだ記録が残されており、 クリークを利用した有明海への交通ルートがあったことを知ることができる。
8世紀頃の博多湾は、大陸文化の窓口であり、古代から多くの人々が遣隋使や遣唐使として、あるいは交易のために日本と大陸を交流した地である。
かつて平和台球場があった場所に、外国使節の応接の場と宿泊所を兼ねた「鴻臚(こうろ)館」があった。
中世の博多は、御院領神崎荘園の倉敷として「袖の湊」という人口の港がつくられた。浜の形が着物の袖に似ていたからともいわれる。
11世紀の終わりごろから「大唐街」とよばれる南宋人街が形成された。そのシンボル的存在が、「綱首」(ごうしゅ)であった謝国明(しゃこくめい)である。
このころの日本と南宋との貿易を行ったのは、南宋から来航して博多に住み着いた商人・貿易商であった。聖福寺・承天寺などの宋風の禅寺が建設され、中国の港町のような街並が形成された。
博多とは、中国語で「土地広く、物品多し」という意味で、西区の今津では、南宋で焼かれた碗などの大量の輸入陶磁器が発掘されている。
大唐街には南宋人の町としておおよそ3000軒の商家が集まっていたが、文永の役の際に町全体が焼失し、多くの南宋商人たちが殺された。
「大唐街」は博多駅近くに復元され観光名所となっているが、正確な位置はよくわかっていない。

ここからはどこまで史実か判別しがたい話をしたい。
佐賀県神埼市脊振村(県道273号)沿いに「鳥羽院」という地名と「後鳥羽神社」がある。
この地は、昔は「絹巻(きぬまき)きの里」と呼ばれていた。
伝説によれば、承久の乱によって隠岐の島に流された後鳥羽上皇が隠岐の島からこの地に潜行されて後、この地は「後鳥羽院村」とよばれたそうである。
それが、長い年月の間に「トバイ」とよび表すようになったという。
「まさか」と思う人が大半であろうが、神崎は昔から「御院領」で、いわば縄張り。
そして、「絹巻の里」は、後鳥羽上皇の陪臣・西川左衛門大輔源家房(かほう)の領地であったのだ。
隠岐の島に流された後鳥羽上皇は、ひそかに遷幸を希望し、家房は後難をおそれず、ひそかに船をしたてて連れてきたという。
そして信教寺(現・善信寺)を補修して「仮の宮」とした。後鳥羽院は60歳で崩御され、宮の後ろに葬られそこを「塚」とよび地名となっている。
それ意外にも、鳥羽院の、後鳥羽上皇ゆかりの地名が残っている。「大畑」「稗田」「みそぎ」「手井田」「鹿路」「折敷野」という地名である。
「大畑」は、もとは「王畑」と書き、上皇に献上した菜物を作った田畑で、稗田も同様で、上皇に献上した「稗」を作った田畑である。
また「みそぎ」とは、上皇がみそぎをした場所であり、後鳥羽神社の奥に位置している。
「手井田」とは、上皇のきこしめす(飲む、食うの敬語)米を作った田であり、もとは「帝田」と書いた。
後鳥羽上皇がこの地に潜行した時、茨が繁り藪が深かったため、潜行が困難になり、「この道は鹿の通る道にてやあらむ」といったことに由来して「鹿路(ろくろ)」と名つけられた。
また休憩した際に、手近な山柴を折敷いて憩いの場を作ったので、この地を「折敷野(おりしきの)」と名づけられた。
さて後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子である。安徳天皇とは母が違う2歳下の弟で、安徳天皇の次に即位した天皇である。
高倉天皇は、平清盛の娘徳子を中宮として安徳天皇を生んだ。
後白河法皇と平清盛の対立が激化し、清盛が後白河法王を鳥羽院に幽閉するとともに、高倉天皇は安徳天皇に譲位した。
さて、前述の後鳥羽上皇と脊振山の関係には驚かされるが、実は脊振山の裾野に近い那珂川町に「安徳」という地名があるのだ。
40年ほど前に、この場所を通りかかってその地名に驚き、すぐ近くの町役場にいって聞いてみると、なんと「安徳天皇仮宮碑」があるという。
源平の戦いの過程で、1183年に木曽義仲(源義仲)が、平氏を京都から追放した。平氏は幼帝安徳天皇と「三種の神器」を奉じて福原に落ちた。
同年8月、福原に落ち伸びた安徳天皇は九州太宰府に移り、大倉種直(原田種直)の屋敷に住んだ。
原田種直の屋敷は博多の館は博多の岩戸にあり、今日その周辺が「安徳」という地名になっており、「岩戸小学校」という名前の学校まで存在している。
そして原田種直は、神崎荘の代官で岩戸少卿という地位にあった。
この「安徳」の地は、冒頭で述べた大橋~吉野ケ里を結ぶ道路の通過点にあり、「安徳天皇仮宮碑」もこの道に沿って存在する。
その後、安徳天皇は宇佐神宮に行幸、大宮司公通の家が皇居にあてられ、四国や九州の武士たちが集まり、安徳天皇を守ったのである。
しかし、豊後の国司を通じて緒方三郎が、平氏を九州より追い出すことを命じられ、大宰府から箱崎の津に移り、その後平知盛の領国である長門国に移った。長門に移った平氏の本体は讃岐の屋島に内裏を作り、瀬戸内海を中心に勢力を盛り返していった。
1185年1月末、源範頼軍が九州の豪族の緒方氏や臼杵氏の協力を得て九州豊後国に上陸して、2月には平氏方であった原田種直をうちとり、平氏を彦島においつめる。
海戦はもともと不得手であった源氏であったが、1185年2月に屋島の合戦において義経の奇襲によって敗走し、義経の政治工作により、熊野水軍(紀伊)・河野水軍(伊予)・田口水軍(阿波)が源氏側に寝返ったのである。
源平は、3月24日壇ノ浦合戦に望むが平家方は敗れ、安徳天皇も入水する。平家の落人伝説は九州各地に残っている。
以上のように博多と神崎には脊振を経由しての繋がりがありそうだ。なにしろ脊振山の佐賀側には平家が管理する御院領「神崎荘」があり、博多側には平清盛により開かれた「袖の湊」(現在の呉服町辺り)があるからだ。

背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、「日本茶栽培発祥の地」の石碑が立つ。
日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗を植え、博多の聖福寺にも茶の苗を移植したのである。
近年この背振山が東北の北上山地とともに、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となった。
結局背振山は東北北上に敗れたかたちとなって 「背振」が世界に名を知られる機会を失う結果となったものの、「背振」の名はすでに世界的に知られる出来事が起きていた。
1936年11月19日の夕方、佐賀県との背振の山麓で、耳をつんざくような爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、ふいに音が途絶えたかと思いきや地を切り刻むような音がした。
山懐の住民は、何事が起ったのか訝しがったが、大音響がおきた現地へと向かったところ、機体に挟まれて呻くひとりの外国人の若者を見出した。
実は、この事故の5年前の1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったアメリカのリンドバーグが、博多湾の名島にも着水して颯爽と舞い降りて、福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあった。
今度はフランスの飛行機野郎・アンドレー・ジャピーが日本に来ようとしていたのだが、そのことを知る人はほとんどいなかったし、まして背振の山中にそんな「有名人」が墜落するなど想像することさえできなかったに違いない。
一方、フランスの人々にとって「ジャピーの命運」は大きな関心事であった。というのもジャピーは、これまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」であったからだ。
そんなジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」であったのだ。
当時ハノイのあったベトナムは「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であり、ハノイ経由の懸賞旅ジャピーが香港経由で日本の長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に一旦不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすると、しばらくすると突然眼の前に山の形が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの「下降気流」にたたき落されたのである。
そして、ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、約2週間後には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山山頂近くにあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。

1936年11月19日の夕方頃の佐賀県の背振の山麓でのこと。
この日は朝から山全体がすっぽりと雲に覆われて、シトシトと冷たい雨の降り続く、暗く寒々しい空模様であった。
爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、フイに音が途絶えたかと思った瞬間に、山頂の方から木々をナギ倒すような激しい音が響いた。
背振の山あいに住む住民は、「飛行機墜落」の急報を受けた。
村の消防組は、早速総動員で蓑笠をつけ、村の婦人会も炊き出しで加わり、飛行機が落ちたとみられる山頂付近をめざして進んで行った。
そして真っ赤な色をした飛行機を発見した。
無残に翼は折れ、機体はツブレ急斜面の樹木の中に突っこんでいた。
村人達は、ツブレかけた「操縦席」の中で青い目の外国人が、血マミレになり唸っているのを発見した。
その男は、フランスの飛行家アンドレ・ジャピーであった。
背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から見ると、福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、「日本茶栽培発祥の地」の石碑が立つ。
日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗を植え、博多の聖福寺にも茶の苗を移植したのである。
しかし、こんな山間に外国からの「珍客」が訪れようとは、予想だにしないことであっただろう。
ともあれ背振の村人達は、見知らぬ外国人の命を救うべく総動員で動きまわった。
この時、村人の誰かの脳裏に5年前の出来事が頭をヨギッタかもしれない。
1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったリンドバーグが妻とともに、日本の霞ヶ浦に飛来した。
リンドバーグ夫妻は日本各地を周り、博多湾の名島にも着水してサッソウと舞い降りて、やはり福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあった。
その記憶も褪せぬコノ時、今度はフランスの飛行機野郎・ジャピーが日本に来ようとしていたのである。
もちろん、そんなことを知る日本人は数少なかったし、まして背振の村人が知るハズもない。
また、リンドバーク夫妻のような晴れがましい「着水」というわけにもいかなかった。
しかし、フランスの人々からすればシャピーの命運は、固唾を呑んで見守るほどの大いなる関心事であったのだ。
というのもジャピーは、これまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」でもあった。
またジャピーの一族はフランスきっての大実業家であり、フランス航空界の大スポンサーであり、有名な速度競技「ドゥーチェ・ド・ラ・ムールト杯」の創設者でもあったからである。
そんなジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」であった。
当時の30万フランとは、現在の金額にすると約1億~2億円にも相当する金額である。
当時ハノイのあったベトナムは、「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であった。
ハノイ経由の懸賞旅行とは名目で、その実際の目的は、フランス航空省によるアジア極東地域への「定期航空路開拓」ということであった。
つまり、ジャピーの飛行はアル意味で「国家的使命」を担ってのことだったのである。
また、ジャピーが乗った飛行機は、奇しくも「星の王子さま」の作者としても有名なサン・テグジュペリが愛用していたことも知られる全木製の名機「シムーン」であった。
ちなみに「シムーン」とは北アフリカ地域に吹く強い熱風を意味している。
ジャピーは、現地時間の11月15日にパリのル・ブールジェ空港を出発し、ダマスカス-カラチ-アラハバッド-ハノイを経由して香港に着いた。
これはパリ-香港間を約55時間半で飛ぶという「驚異的な記録」であったという。
しかし、東シナ海が悪天候となって香港で足止めとなり、香港以後の飛行は「記録」とは縁遠いものであった。
そしてシャビーは19日の朝6時25分の「再出発」したが、この時はまだ天候が十分に回復しておらず、「無謀」ともいえるものだった。
それまでが「順調」すぎて、気持ちが少々ハヤッていたのかも知れない。
ジャピーが長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすることにして、しばらくすると突然眼の前に山の形が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの下降気流にタタキ落されたのである。
しかしジャピーが咄嗟に機首を持ち上げたため、機体は山の斜面に沿って落ち、深い樹木がクッションとなって、何とか一命をとりトメルことができたのである。
ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、31日には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山にあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。
また、佐賀県神埼市脊振町広滝バス停そばにある「脊振ふれあい館」の歴史資料室では、ジャピーの飛行機の機体の一部が展示されている。
ここから吉野ヶ里遺跡まで、車で10分ほどで着く距離である。

今から80年前に、「背振」の名は、空の英雄ジャピーの遭難の出来事とトモニ世界に知られることになった。
そして今、この「背振」の名が世界に知られるもうひとつの「可能性」が浮上してきている。
「ジャピー遭難碑」から遠くない場所が、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となっているからだ。
この巨大プロジェクトとは、「国際リニアコライダー」(ILC)計画のことである。
ILCは全長31km~50kmの地下トンネル内の「直線加速器」で、電子と陽電子をほぼ「光速度」まで加速して衝突させる巨大な「実験研究施設」である。
この世界的な実験研究施設の建設「候補地」として、日本国内では福岡・佐賀両県にまたがる脊振山地が、東北の北上山地とともに挙がっている。
また国外でも4カ所の候補地が挙がっているが、何しろ日本は「素粒子」の分野では多くのノーベル賞学者を輩出している故に、アカデミックな観点から見て国際的に有利な立場にあるともいえよう。
「欧州合同原子核研究機関」(CERN)の加速器での実験では「陽子同士」の衝突実験であるのに対して、「国際リニアコライダー」は「電子と陽電子」のふたつを30キロメートル離れた筒の端と端から猛烈な勢いで加速させて中央でブツケル。
すると、「宇宙の始まり」の状態である「ビッグバン(大爆発)」が起きた直後、つまり「1兆分の1秒後」に存在していたハズの「素粒子」が発生するのだという。
この瞬間の素粒子の「性質」を調べることができれば、物質同士でドンナ反応が起こったのか。
宇宙が始まった「瞬間」に何が起こったのかを解明することが出来るのだという。
国際リニアコライダーの事業計画では、各国がお金を出し合って世界に1カ所つくるというものである。
8000億円という事業費は、佐賀の玄海原子力発電所1~4号機すべての建設費用にホボそれに匹敵するビッグ・プロジェクトであるという。
佐賀県と福岡市の境にある背振山麓は、活断層や人工振動が無い、固い安定岩盤の50kmにわたり確保可能、アクセスや輸送で便利などの立地条件面で優位性がある。
海外では、アメリカのシカゴ、スイスのジュネーヴ、ロシアなどが「国際リニアコライダー」の候補地となっている。
今年1月、海外から3人の研究者が脊振山の地質調査にやってきた。
研究者は、それぞれ米カリフォルニア工科大、スタンフォード大、英オックスフォード大の物理学の教授である。
全長30キロメートルにもなる巨大な研究施設「国際リニアコライダー」を脊振山に設置できるかという調査のためである。