聖書の言葉(ソロモンと福音)

ソロモン王といえば、栄耀栄華を極めた古代イスラエル・ヘブライ王国3代目の王である。
その知恵は広く知られ、王の知恵を聞きに人々は集まってくるほどであった。 その知識の広さは、自然界から社会の有りようまで、深い洞察をそなえていた。
これだけの知恵と富との両方を兼ねた王は、古今東西あまりみあたらない。
あえて探せば、ローマ皇帝で「哲人皇帝」とよばれたマルクス・アウレリウスが思いつく。
ところで旧約聖書には、不思議な書がまぎれこんでいる。
古代のエルサレムの王と名乗る「コレヒト」という人物が、人の世の有様を語ったのが「伝道之書」。
聖書らしくない、次のような言葉が繰り返し続く。
「太陽の下新しいことは何一つない」。
「私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである」。
この”空(くう)”という言葉、ヘブライ語の原典の意味では「つかの間」ということで、「永遠」と真反対の言葉である。
コレヒトは、次のように人生の不条理を語る。
「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。
それでどうしてわたしは賢いことがあろう。わたしはまた心に言った、これもまた空であると。
そもそも知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。
知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。そこで、わたしは生きることをいとった」(伝道之書20章)。
コレヒトには自らを知者と自覚しているのようだが、それでも厭世観さえただよわせている。
実はこのコレヒトの正体は、なんとソロモン王(BC971年~931年)なのだ。
ちなみに「伝道者」は、ヘブライ語で「コーへレス」と呼ばれ、「教会を召集する者」「伝道者」「説教者」等を意味する。
ソロモン王はダビデ王の子で、エルサレムに神殿を築いたイスラエルの王であり、当代の最高の知者であり、栄耀栄華の絶頂にあった人物である。
ソロモン王の知恵は、旧約聖書に「箴言」としてまとめられているが、ソロモン王の富についてば「ソロモンの秘宝」をいまだに探している人々もいるくらいだ。
また、神がソロモンに与えた最大の祝福は、ダビデ王もかなわなかった「神殿」の建設で、聖書には各地からその資材が集められる様子が描かれている(列王記上6章)。
以後イスラエルは幕屋ではなく、神殿を礼拝所とする。
世界各国に様々な形で、このソロモン王のエピソードは広まっている。
また、江戸時代の「大岡裁き」の中にも、ソロモン王の裁きの"焼き直し"が登場する。
二人の女が一人の子どもの親権を 争ってソロモン王の前にやって来て、互いに自分の子だと譲らない(列王記上3章)。
そこでソロモン王は言う。
「その子を剣で二つに切って、それぞれが半分ずつをとりなさい」。
すると片方の女が応える。 「それはあまりに不憫なので、それならその子は相手の女のものにして下さい」。
ソロモンは、「あなたがその子の母だ」と結審する。
また、自然ばかりかすべてのことに「道」があるというソロモンの言葉も味わい深い。
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。 すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」(伝道之書6章)。
ところで、人生の知恵と無常感となれば、吉田兼好の「徒然草」を思い浮かべる。
「蟻のごとくに」(74段)を現代語訳で紹介すると、「このようにあくせくと働いていったい何が目的なのか。 要するに自分の生命に執着し、利益を追い求めてとどまる事が無いのだ。このように、利己と保身に明け暮れて何を期待しようというのか。何も期待できやしない。待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。これらは、一瞬もとまらぬ速さでやってくる」。
ただ「コレヒトの言葉」が、「徒然草」の諦観と違う点は、”神への思い”や"永遠への思い”が、そこはかとなく表されている点である。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」(伝道之書3章)。
また「伝道之書」には、次のような言葉がある。
「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ、悪しき日が来たりてなんの楽しみがないという日が来ぬうちに」。
「徒然草」も、同じようなことをいっている。
「年老いてから初めて仏道修行をしようなどと待っていてはいけない。古い墓の多くは年若い人の墓なのだ。不慮の病にかかって、にわかに、この世を去ろうとする時に、始めて過ぎてしまった過去の、誤りは思い知るものであるよ」(49段)。

イエスはバプテスマのヨハネによって洗礼をうけ、自らを「神の子」として顕わした直後に、荒野に導かれて、サタンの誘惑をうける。
サタンは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」といった。
するとイエスは「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と答えている(マタイの福音書4章)。
ソロモンが栄耀栄華を与えられたのは、サタンにひれ伏したわけでもなんでもない。
神が夜の夢にソロモンに現れて、「あなたに何を与えようか、求めなさい」といわれた。
それに対してソロモンは次のように応えた。
「わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。 かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。 それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。
ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。
そこで神は「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに 見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう」(列王記1章)と応えた。
こうして、人が求め得る最高の知恵と名声と富とを手にしたソロモン王は、この世にあって何を見て何を感じたか。
それが「コレヒトの言葉」にあるように、「人生は空の空」という思いである。
それはソロモン自らが富や名声を求めたわけでもなく、それらを与えられるだけの祝福と信仰をもつものであったとしても、「人生は空の空」とはいかなることであろうか。

ソロモンが語る「人生は空の空」は、やがて来たるべき何かによって「満たされる」他はない。
やがてきたるべきものについて、イエスは次のように語っている。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないのでそれを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたの内にいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」(ヨハネの福音書14章)。
ここでいう「助け主」について、イエスは次のように語っている。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな 」と語っている(ヨハネ福音書14章)。
イエスは、ここで「世が与えるものとは異なる」と明言している。イエス以前の「旧約」においては、神の霊がダビデやソロモンに臨んだ。
しかし、それは「内なる聖霊」として存在するのではなく、その時々に臨んだのである。
また、旧約の時代において神の御言葉は、御使いによって伝えられたが、新約の時代においては、神の言葉は「内住の聖霊」によって直接語られた。
それは、「新約の時代」を生きたパウロが、信徒へ書いた数々の手紙からもよくわかる。
「神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る」(ヨハネ第一の手紙4章)。
「それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。 あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたの内にいるからである」(コリント人第一の手紙3章)。
「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである」(ヨハネ第一の手紙3章)。
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(コリント人への第二の手紙4章)。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人への第二の手紙3章)。
ここにおける「新しい契約」とは、十字架での死による「人類の贖罪」を意味するものであり、その後「約束」にしたがって「聖霊が下る」ことを意味している。
つまり「聖霊」に従うことこそが「生ける神」に仕えるということであり、「文字に仕える者」とは「古い契約」に留まり、「文字の奴隷」となる、つまり「律法主義」に陥る危険性を語っている。
以上のようなパウロの手紙を読むと、ソロモン王の「コレヒト」の言葉は、聖霊に導かれて生きることができる恵みを、際立たせる陰画のように思える。
さて、詩篇の多くはダビデやソロモンが書いたが、それ以外にもアサフといういわば社会派が、次のような詩を書いている。
「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、 その高ぶる者をねたんだからである。 彼らには苦しみがなく、 その身はすこやかで、つやがあり、 ほかの人々のように悩むことがなく、 ほかの人々のように打たれることはない。 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、 暴力は衣のように彼らをおおっている。 彼らは肥え太って、その目はとびいで、 その心は愚かな思いに満ちあふれている。 彼らはあざけり、悪意をもって語り、 高ぶって、しえたげを語る。 彼らはその口を天にさからって置き、 その舌は地をあるきまわる」(詩篇73篇)。
ところで「新しい契約」の下、神の国を約束されている人間が、どうしてアサフのように富者をねたむ必要があるのか。
この世の栄耀栄華を手に入れても、次の世(もしあるとするならば)に、1コインももっていくことはできないのだから。
聖書は、「神と共にある」ことが金銭では計りえぬ価値を有するものであることを示した女性がいる。
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
するとイエスは「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(ルカによる福音書14章)。
イエスが語ったように、この女性のことは聖書を通じて世界中で語られているが、ここでイエスが”葬りの用意をしてくれた”と、自らの「十字架」を予言している点でも驚くべきことである。
また、有名な「マリア・マルタ姉妹」のエピソードがある。
イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
イエスは「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(ルカによる福音書10章)。
「旧約の時代」は、神との間には比喩的に人間に「顔覆い」が掛けられた状態であるされる。 イエスという"本体"と出会って真近に話を聞きいるマリアと、”影のように”しか知ることができなかったソロモンとは、どちらが幸いであったであろうか。
ソロモンの「箴言」は、知恵があふれ、それは人類の宝といえる。それらの言葉は、高みに登った人だからいえる言葉なのだ。
ソロモンは晩年異邦人と多く交わり偶像崇拝に走るが、それでも王国が守られたのは、ソロモンの父ダビデとの約束があったからだ(列王記上10章)。
そしてソロモンの死後、ヘブライ王国は北のイスラエルと南のユダに分裂し、ソロモン神殿も新バビロニアによって徹底的に破壊される。---人生は、空の空。
イエスは「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイの福音書6章)とも語っている。
ソロモンの一生は、一般に思うほど幸いではなかったのかもしれない。
また、「旧約の時代」を生きた人々の限界を感じざるをえない。
ソロモンは、この世には心を満たし得るものがないということを示した点において、「福音」を逆説的に明らかにしたといえないだろうか。