福岡発祥「ストリートダンス」以前

ブレイクダンスが2024年パリオリンピックの正式種目として採用されたり、ダンスの注目度は年々上がっている。
ブレイクダンスの普及において我が地元・福岡出身のダンサーの貢献が大きい。
さて、1980年代後半、サンフランシスコの北方の町バークレーで1年暮らしたことがある。当時街角ではやっていたのがブレイクダンス。
また、日曜日の午前中に「ソウルトレイン」というダンスミュージック番組をテレビで見るのを楽しみにしていた。
ブレイクダンスは、本当の名前を「ブレイキン」という。
バトルダンスの部類で、1対1、もしくはグループで技を披露しあい、出来を競う。
1970年代にアメリカ・ニューヨークのサウスブロンクス地区で生まれた。
当時のニューヨークは財政悪化で治安が悪く、特にサウスブロンクス地区はとりわけ酷いものであった。
アメリカミュージカルの傑作、「ウエストサイド物語」は対立するプエルロリコ系移民とポーランド系移民のグループの対立を描いたが、最初がバースタインの音学とともに描かれた「バスケットボール」のシーンで始まった。
「ブレイキン」も暴行・ドラッグ・殺人、そんな状態の中、黒人のカリスマが「暴力ではなく、ダンスで決着をつけよう」と声をあげたのがきっかけだ。
銃撃戦ではなくダンスバトルで決着をつけるということ。
当時のブレイカーたちが住む地区は貧しく、犯罪が多発することから積み重なるストレスの解消のために、ブレイキンを踊ることが、彼らにとってストレス発散方法の一つであった。
英語で「break dance」と書くが、実は、このbreakは「壊す」という意味ではなく、「休憩・休む」という意味である。
ブレイクダンスバトルをするときは、お互いにダンスを見せあい、相手がダンスをしているときは、自分は踊らずに相手のダンスを眺める。
そういった意味での「休息」で、相手のパフォーマンスが終わると、他方が路面目がけて飛び込むといった感じ。
日本にブレイクダンスが最初に伝わったのは1984年頃、同年6月に公開された「ブレイクダンス」という映画で初めて見た人が多い。
その後、映画「フラッシュダンス」(1989年)に公開され、その中のわずか「2分程のブレイクダンスシーン」が、世界を変えたともいえる。
さて、パリオリンピック競技種目にブレイキンが採用された理由は、ニューヨークに住むアフリカ系・ヒスパニック系が立ち上げた文化でもあるヒップホップダンスの一環として位置づけされたことが、ブレイキンの始まりである。
ブレイキンは基本的に、1対1から2対2、もしくは大人数のチーム同士が向き合いながらダンスバトルを行うことが特徴で、難易度の高いパフォーマンスや、アクロバティックを披露するなど創造性を競い合う。
ブレイキンの特徴は、他のダンススポーツにはない、音楽担当のDJと司会進行のMCがいること。
また、ブレイキンと結びつきが強いHIPHOPは、DJのクール・ハークの登場したことで発展した。
HIPHOP界3大DJの1人でもある、クール・ハークはブレイクビーツの盛り上がりを維持させるために、「メリーゴーランド」と呼ばれる、レコード2枚と2台のターンテーブルを使用したビートジャグリングを開発した。
ダンスパーティーの盛り上がりが功を奏して、多くのダンサーやMCが集まるようになり、アメリカ各地でも、アフリカ系・ヒスパニック系以外の人種も踊るようになった。

日本のダンス界にはいくつかのターニングポイントがあるが、日本初のプロダンスチームの結成→ディスコ文化の普及→ストリートダンスの普及で、全てにおいて江守藹((えもり あい)の存在をぬきには考えられない。
江守によって1973年に結成された「ネッシーギャング」は、間違いなく日本のストリートダンス史に名前を刻んだチームである。
当時の日本はダンスのジャンルの概念がなく、アメリカで放送されていた「ソウルトレイン」の見様見真似をしていた。
「Soul Train(ソウルトレイン)」とは1971年から2006年までアメリカで放送されていた黒人による黒人の為の音楽とダンスの番組で、この番組がストリートダンスやHipHop、音楽に与えた影響は絶大である。
江守藹は、1948年に東京都で生まれ、高校生の頃から都内のディスコ(昔はゴーゴーディスコ)に出入りしていた筋金入りの音楽&ダンス好きで、19歳の時にイラストレーターとして仕事を始め、ペンネーム「エモリ・AI」としてデビューする。
その後、イラストレーターとして活躍する傍ら、「原稿料が入るたびにクラブで踊りあかしていた」と著書で書かれている程、ディスコと音楽とダンス漬けの日々を過ごす。
また「ブラックカルチャー好き」がこうじて、ヤングコミックにSoul特集やブラックピープル特集を掲載し、日本でのブラックカルチャーの普及にも寄与してきた。
現在では、イラストレーターはもちろんのこと、音楽&店舗プロデューサー、DJ、ダンサーとしても活動し、若いダンサーの育成にも携わっている。
ちなみに、「ディスコ」の語源となったのは、フランス語の "discothèque"(ディスコテーク)であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味でああった。
1960年代に世界中で使用されるようになった。
フランス革命の際にマルセイユややってきた義勇兵が歌った「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌になったことが思い浮かぶ。
江本は、1960年代に歌舞伎町のゴーゴークラブ「サンダーバード」にて用心棒として働いていたドン勝本と出会う。
いかにも反社のような容姿のドン勝本であったが、リーダーシップがあり人を束ねるのが得意だった。
ディスコ協会を設立し、ひと段落着いた1975年、思いもよらぬオファーが舞い込む。
クール&ザ・ギャング(アメリカの人気ファンクバンド)が来日することが決まり、彼らと同じステージで踊れというものであった。
メンバーを探して回り、日本初のストリートダンスチーム「ネッシー ギャング」を結成し、本番ではクール&ギャングと同じ舞台でダンスを披露し、舞台は成功を収める。
1974年の27歳の時には、自身が手掛けるディスコ「アフロレイキ」をオープンさせる。
ウエイターの殆どが黒人、日本人の常連客はアフロ、本格的なソウルフードを提供する1970年代の日本では画期的な店であった。
っそして、来日するソウルアーティストは残らず「アフロレイキ」を訪れ、アメリカの黒人誌エボニーに日本の代表的ディスコとして紹介されたほどであった。
つまり、このアフロレイキこそが日本ディスコの草分け的存在となる。
1975年、ディスコ「アフロレイキ」をオープンさせた時の右腕であった鈴木研三が主体となって、アメリカで人気だったテレビ番組「ソウルトレイン」を日本に輸入する企画をする。
また「ディスコ協会」を設立し、日本の大衆にブラックカルチャーが広く浸透するように努めた。
ソウルトレインの日本スポンサーはファッションブランドの「JUN」であった。
JUNは銀座のディスコ『J&R』を運営しており、そこで活躍していたDJが小林克也である。
1976年頃、江守は社長との意見があわず自らが作ったディスコ「アフロレイキ」を辞め、「ディスコ協会」の活動を本格化させる。
ディスコの普及の為に全国を訪れ、東京との情報の差を痛感し専門誌「ギャングスター」を発行し、これにより、全国にディスコ情報が拡散されることになった。
この頃には全国各地にディスコができ、深刻なDJとダンサー不足に陥っていた。そこで会長のドン勝本と江守はDJの派遣サービスを行い、事業の幅を広げディスコの普及に尽力した。
また、同時期にアメリカソウルトレインで活躍していたダンサー集団「Something Special」が来日し、多くのダンサーに衝撃を与えた。
ドン勝本、江守ももろにその影響を受け、ドン勝本は「オール・ジャパン・ソウルトレイン・ギャング」を結成し、江守氏は休止していたネッシーギャングを改め、「ネッシー・ギャング・スペシャル」を結成し、数々のコンテストに出場する。
1977年に映画「サタデーナイトフィーバー」が公開され、世界中にディスコブームが巻き起きる。
ディスコブームこのまま続くと思われていた1978年頃、未成年が被害になる事件や事故が度々起こるようになり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取り締まりが強化され、ディスコ業界は衰退の一途を辿る。
行き場を失った若者たちはストリートに進出し、1980年代前半にブームを巻き起こした「竹の子族」となり、路上でパフォーマンスをするようになる。
その頃に「Old School」と呼ばれるストリートダンスが日本に進出し、日本でもストリートダンス第一世代が誕生し、新しいダンススタイルが登場していく。

1980年代に入り、日本のストリートダンスは福岡でその夜明けを迎える。この頃、「Be Bop Crew」と「IMPERIAL JB's」という伝説的なチームが誕生したためである。
熊本に拠点をおく「ニコニコ堂」という会社がソウルトレインダンサーを福岡に招待していたことと、The LockersのTony GoGoが福岡に移り住んだ、この2つの出来事が要因であるといわれる。
「Be Bop Crew」は1982年に福岡県で結成されたストリートダンスチームで、Yoshibow、Seiji、Ricky、Kirk、Hasegawa、Odaの6名がチームを立ち上げた。
福岡県民ならTAX(中古車販売)のCMに、彼らのパーフォマンスを見ることができる。
そして彼らの中でも、Yoshibowこと横田義和と、Seijiこと坂見誠二の2人がストリートダンスに与えた影響ははかりしれない。
横田義和は福岡生まれで、「Be Bop Crew」の初代リーダー。
2012年には、福岡の日本経済大学にて非常勤講 師として学 生達にダンスの実技と講義を教えた。
また、大学の授業の合間に全国 のダンスコンテストのジャッジ及びストリート・ダンサー達指導の為に全国の各地のスタジオ等において ワークショップを開催するなどしている。
横田は黒人の踊りをひたすら研究し、アップとダウンのリズムがあることに気付き、黒人は生まれながらに持っているリズム感を養うためのトレーニング法を生み出した。
それは、日本人にはない黒人のようなリズム感を養うための、UP&DOWNの基本のリズム・トレーニングである。
日本人のために開発されたリズムトレーニングだが、今では世界どこでも取り入れられている。
その洞察力、ダンスに対する熱意から後輩指導も素晴らしいものがあり、多くのダンサーを輩出し、そのカリスマ性により各地域に暖簾分けしたチームが存在した。
安室奈美恵の元夫のSAMは、デビュー前は東京「Be Bop Crew」のリーダーとして活動していた。
東京「Be Bop Crew」は1989年に解散するが、「GQマシーン」→「MEGAMIX」→「Trf」へと変化を遂げる。
さて、ディスコブームが徐々に衰退する中し、ディスコ協会の顧問も辞めた江守は、「ニコニコ堂」の社長の弟である林瑞華の熱心な誘いもあり九州での生活をスタートさせている。
「ニコニコ堂」はかつて熊本県を中心に営業をされていたスーパーマーケット。
社長の弟である林瑞華がナイトクラブやディスコの経営をされており、熊本と福岡のダンスシーンを席巻した。
九州地区でのディスコ店舗プロデュースや、若かりし頃のYoshibow(横田)やSeiji(坂見)へのダンサーの紹介など、九州でも多岐にわたる活動を行っている。
その後、福岡のクラブやダンスシーンの発展に貢献し、7年ほど滞在し東京に戻ることになる。

「Be Bop Crew」の創設のメンバーのひとりで”Hasegawa”と名のったのは、1957年福岡市生まれの長谷川三枝子である。
学生時代は陸上競技に熱中するも、大きな怪我をし選手生活を終えた後に幼少より取り組んでいたバトントワリングを再開し、同時にダンスを始める。
そんな中、NHKやTBSの歌番組でバックダンサーとして活動。
82年 ストリートダンスチーム 「Be Bop Crew」を結成し、83年大ヒット映画、『フラッシュダンス』のコンテストで優勝している。
86年 IMPERIAL JAZZ MASTERS と BREAK MASTERS を経て、1986年に「IMPERIAL JB’s」 結成した。前年結成の女性ジャズダンスチームIMPERIAL JAZZ MASTERSと男性ブレイクダンスチームIMPERIAL BREAK MASTERSが合流し、頭文字を取って「IMPERIAL JB's」としたのである。
同じ年、ニューヨークへダンス留学。いくつかの ダンスコンテストで優勝して、ニューヨークのアポロシアターで、日本人代表としてアマチュアナイトに出演する。
そのダンス部門で優勝を飾り、実質的なダンサー・パフォーマーとして世界一の座についた。
帰国後、ダンサーに留まらずタレント・モデルとしても活動し、91年第2回高校生制服対抗ダンス甲子園に出演を機に、その知名度と活動範囲を広げた。
同年10月の高校生制服対抗ダンス甲子園第3回大会では優勝を果たし、東芝EMIからIMPERIAL JB’s としてメジャー・デビューを飾った。
ちなみ、ダンス甲子園は最初、応募資格には「高校生であること」と明記されていたが、ダンス人口不足から参加者が足りず、番組によるスカウトを受けて高校生と偽って参加した者が数多く存在し、応募資格はううやむやになっていた。
長谷川はその後、自身のアーティスト活動のほか数多くのダンサーを指導するも、2021年10月19日に64歳にして急逝している。
また、ダンサー名「Seiji」で知られた坂見誠二は久留米生まれで、「ストリートダンス界のカリスマ」また、「ダンスの神様」と言われている。
ジャズダンスで取り入れられていた「アイソレーション」をストリートダンス用に進化させるなど、日本に於けるダンス市場の仕組と土台を築いたといわれる。
門下生には芸能界で活躍する有名アーティスト錦織一清、ISSA、パパイヤ鈴木などが多く信奉を集めている。
その後、さらに自身の新しいスタイルを学ぶ為、ニューヨークに渡り本場のトップダンサーやオリジネーターと交流し、リアルタイムかつ最新のダンスを学ぶ。
自身のダンススタイルのルーツ全てを融合させた独自の「フュージョンダンス」を確立。
逆にニューヨークトップダンサーたちに多大な影響をあたえ、アメリカのシーンにムーブメントを起こした。
日本国内の芸能界では「ジャニーズ」の振付師として活動している。
横田義和、坂見誠二、長谷川三枝子を輩出した福岡生まれの「Be Bop Crew」は、「日本のダンサーで彼らの影響を受けていないダンサーはいない」といわれほどの存在で、日本のストリートダンスの歴史は彼らが創ってきたと言っても過言ではない。