「植民地」が生んだスター

イギリスのロックバンド「クイーン」のボーカリストといえば、フレディ・マーキュリー。
1946年、アフリカ中部東岸ザンジバル島に生まれた。出生名は、ファルーク・バルサラで、両親はペルシア系インド人であった。
観客を惹き付ける優れたステージ・パフォーマンスと広いボーカル・レンジで知られている。
「ボヘミアン・ラプソディ」や「キラー・クイーン」、「愛にすべてを」、「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を作詞作曲した。
1991年11月、HIV感染合併症による肺炎のため45歳で死去した。
さてフレディが生まれたサンジバルは、当時イギリスの「保護国」だった。
インド生まれの父ボミと母ジャーは、経験なゾロアスター教徒。植民地政府のオフィスで会計係として働くボミが仕事を続けるため、ザンジバルに家族ともに移った。
フレディはインドで幼少期の大半を過ごし、7歳でピアノを習い始め、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニにある全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通った。
12歳でスクールバンドを結成し、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバーを演奏していた。
当時の友人は、フレディについて「ラジオで聴いた曲を、その後ピアノで再現する、特異な能力を持っていた」と述懐している。
1963年にザンジバルに戻って家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年には「ザンジバル革命」が起こり、多数の死傷者が出た。
当時17歳のフレディとその家族は、ザンジバルから逃れ、イングランドのミドルセックス州フェルサムにある小さな家へ移り住み、両親は郊外住宅の使用人として働いた。
フレディはウェスト・ロンドンにあるアイズルワース工業学校に入り、働きながら芸術を学んだ。
その後、イーリング・アートカレッジへ進み、2年間芸術とグラフィック・デザインを学んでいる。
始めはデザインを目指していたが、次第に音楽にのめり込んでいく。
卒業後、フレディはバンドに参加しながら、ロンドンのケンジントン・マーケットで古着を販売していた。
その後、いくつかのバンドを経て、1970年4月、フレディはギタリストのブライアン・メイやドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンドに加わった。そしてフレディの提案した「クイーン」を新たなバンド名とした。
ブライアン・メイ、バンドに参加した当時は大学院で「惑星間ダストの動き」の研究をしていて、天文学者となっている。ロジャー・テイラーは歯科医から転身したドラマーで、ジョン・ディーコンは科学を学ぶ学生であるなど、かなりのインテリ集団であった。
クイーンの音楽には、ロックに収まらない多様性と格調の高さがあった。
「ママ、人を殺してしまった、まだ人生は始まったばかりなのに」という歌詞で始まる代表曲「ボヘミアンラプソディー」は、イギリスで20世紀最高の歌1位に選ばれている。
その特徴は、オペラ風味の単語や宗教的な単語が次々に登場する。イタリア歌劇からガリレオの名、スぺインセビリアを舞台歌劇の主人公、理髪師のフィガロ、ベネチアの貴族のマグニフィコから新約聖書に登場する悪霊ベルゼブブまで。
フレディの内面で生じる、生死の境で助けを求めているような渦巻きが、"ラプソディー(狂詩曲)"という形をとったのか。
ボヘミアンは様々な地を巡る人々で、土地土地の文化を受け入れて、新しい文化を生んだ人々。
そのクイーンを発見し、ブレイクさせたのは日本の女の子といっても過言ではない。外国人ミュージシャンと交流が豊富な東郷かおる子で、洋楽専門誌「ミュージックライフ」で紹介したことで火がついた。

20C初頭にマタ・ハリとよばれたフランス国籍のダンサーがいた。
彼女は「女スパイ」の代名詞となり、時には「妖女」ともよばれることもあった。
ドイツに劣勢を強いられたフランス上層部としては、マタハリがドイツと通じていたことにすれば、劣勢の責任を幾分回避できたといこともあった。
その点で、19世紀フランスでユダヤ人のドリュフスがドイツに情報を流しているとされた「ドリュフス事件」と共通する。
国際的に活躍するダンサー・マタハリが何らかの「諜報活動」に利用されたとしても、彼女がドイツ側にどんな情報を流し、それが戦況にどんな影響を与えたかは、ほとんど判明していない。
マタハリは1917年にドイツのスパイとしてフランス・バンセンヌで処刑された。
2005年の10月15日、彼女の裁判の「再審請求」がフランスの法務大臣に提出された。
それによると、マタ・ハリは当時の愛国心のために歪められた裁判の「犠牲者」であったと結論づけられた。
ところでマタハリの本名はマルガレタ・ゲルトルイダ・ツェーレといい、通称「ゲルダ」とよばれた。
ゲルダは1876年8月7日、オランダの北部レーウワルデンに生まれるが、 オランダが植民地としていたのは、インドネシア(当時、蘭領東インドとよばれていた)のジャワ島であった。
ゲルダの最初の夫の赴任地はジャワ島で、ゲルダはそこで見たダンスにすっかり魅せられてしまった。
それが彼女を妖艶なマタ・ハリへと変容させていく原点となる。
さて、妖女「マタハリ」の人生は、意外にも「天使」ともよばれたオードリー・ヘプバーンとも重なる。
ヘプバーンもゲルタに等しく踊り子をめざしていた。
また、ゲルタ同様に、ヘップバーンにとってもオランダが重要な意味をもつ地であった。
ヘプバーンの両親ジョセフとエラは1926年にジャワ島のジャカルタで結婚式を挙げている。
その後二人はベルギーのイクセルに住居を定め1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。
ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた。
母の実家がオランダであったこと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって、ヘプバーン一家はこの三カ国を頻繁に行き来していたという。
ヘプバーンは、このような生い立ちもあって英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。
ヘプバーンの両親は1930年代にイギリス「ファシスト連合」に参加し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった。
その後両親は離婚し、第二次世世界大戦勃発の直前1939年に、母エラはオランダのアーネムへの帰郷を決めた。
オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも「中立」を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。
ヘプバーンは、「アーネム音楽院」に通い、通常の学科に加えバレエを学んだ。
しかし1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンは「偽名」を名乗るようになったという。
そしてナチの危険は、ヘプバーン一家に迫っていた。
1942年に、母方の伯父は「反ドイツ」のレジスタンス運動に関係したとして処刑された。
また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監され、もう一人の異父兄アールノートも強制労働収容所に送られることになったが、捕まる前に身を隠している。
連合国軍がノルマンディーに上陸してもヘプバーン一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による作戦の砲撃にさらされ続けた。 そしてヘプバーンは、1944年ごろにはひとかどの「バレリーナ」となっており、オランダの「反ドイツ・レジスタンス」のために、秘密裏に公演を行って「資金稼ぎ」に協力していた。
ドイツ占領下のオランダで起こった「鉄道破壊」などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。
飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちは「チューリップの球根」の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐありさまだった。
戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、「連合国救済復興機関」から物資を満載したトラックが到着した。
ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。
この時救援物資を送った「連合国救済復興機関」こそ、ユニセフの前身であった。
ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの「戦争体験」が、後年のユニセフへの献身につながったといえよう。

台湾には五つの大財閥があり、その中で金鉱で財をなしたのが顔一族がある。
顔恵民は1929年、この一族の長男として生まれた。
日本統治下の当時、多くの台湾上流がそうであったように、10歳の時に母親とともに日本に渡り、小学校から大学(早稲田大学)まで、日本で教育を受けた。
そして、石川県出身の日本人女性と出会い結婚し、二人の間に姉妹が生まれた。
舞台女優の一青妙(ひととたえ)と歌手の一青窈(ひととよう)である。
顔恵民は、姉妹が小学生の頃に肺癌で56歳でなくなり、母も姉妹が高校の頃に亡くなっている。
あるテレビ番組で、一青妙、窈姉妹まだ子供の頃に亡くなった父の面影を求めて、父親の故郷でその知人に話を聞きにいく旅をするドキュメンタリーをみたことがある。
顔恵民はスキーに山登り、そして本が大好きな高等遊民だったが、顔一族を背負って立たねばならないというプレッシャーに負け、精神的に行き詰っていたことを知る。
さて、顔一族に生まれた一青窈は「ハナミズキ」の大ヒットで一躍有名となった。
この歌は、恋愛の歌のようであり祈りの歌のようにも聞こえるが、この曲の誕生は、2001年にアメリカで起きた9・11テロと関係している。
一青窈の友人がテロに巻き込まれ、その友人の命は助かったものの、多くの人々の突然の死を思うと時、「好きな人の好きな人」、つまり皆の幸せがいつまでも続くことを願わざるをえなかった。
それで「君と君の好きな人が百年続きますように」という歌詞を書いたという。
この歌には、全部の思いを伝えたくても伝えきれないようなもどかしさがあって、それが何かを失った人の哀しみをひきたたせているようにも思う。
それではなぜ一青窈は「ハナミズキ」という花に自らの思いを託そうとしたのか。
ハナミズキは、サクラに続いて5月~6月にピンクと白の十字の花を咲かせるが、一青窈の「ハナミズキ」は日本とアメリカとの間で生まれたサクラについての或るエピソードから生まれたものである。
現在、ワシントンのポトマック河畔には日本から送られたサクラが市民の心をなごませている。毎年春になると、河畔は満開の桜で覆われ、水面に映る美しい景観を楽しむ人々は60万人にのぼる。
日露戦争の際、アメリカのセオドア・ル-ズベルト大統領が日本とロシアとの戦争を仲介し日本が勝利を得ることになり、日米友好の機運が高まっていた。
そして日本からアメリカにサクラが送られるのだが、直接のきっかけは、次期大統領になるウイリアム・タフトが陸軍長官であった頃、その夫人とともに上野公園を訪れた時のことであった。
その時夫人は、上野公園でソメイヨシノの美しさに心を奪われた。そして、ポトマック河畔を埋め立てできた新しい公園に何を植えるか考えた時に、上野でみたソメイヨシノを思い出したのである。
そして夫人の友人に「日本での人力車旅行」などを書いたエリザ・シドモアという大の日本びいきのジャーナリストがおり、彼女が夫人の思いに賛同しその実現を促すことになった。
たまたまニューヨークに住んでいた科学者で「タカジャスターゼ」でしられる高峯譲吉などを通じてタフト大統領夫人の思いが外務省や東京市長だった尾崎行雄に伝わった。
尾崎は「憲政の神様」と呼ばれた人物で、太平洋戦争では日独よりも日米関係を重んじた「親米的」な人物であったことが幸いした。
そしてサクラがいよいよ日本より、万全の体制で育てられた苗木11品種6040本がアメリカに送られ、1912年3月シアトル経由ワシントンに無事到着したのである。
そしてこのサクラを運んだ船が、日本郵船所有の「阿波丸」であった。
というわけで、ポトマック河畔のサクラは日米友好のシンボルとなったのだが、タフト大統領夫人からサクラのお返しに送られたのが「ハナミズキ」であった。
ハナミズキは、「返礼」「私の思いをうけとってください」を花言葉とするため、まさに「お返し」にうってつけの花であるが、一青窈はこの「日米友好」の歴史的事実にちなんで、9・11テロ後に「ハナミズキ」と題する歌をつくったのである。
さて、「阿波丸」といえば謎に満ちた「世界最悪の沈没事件」を思い浮かべる人もいるにちがいない。
これは1943年に完成した新生「阿波丸」に起きた出来事で、明治時代に「ハナミズキ」を運んだ「阿波丸」とは異なる。
阿波丸に乗船した人々の多くはシンガポールから内地への引き上げ者だったのだが、国際法上の「緑十字船」だから絶対安全ということで、商社の幹部や高級軍人、婦女子も217名を含む2000人を越える人々が乗船した。
阿波丸は、沢山の軍需物資を乗せて敦賀港を目指すべく、台湾海峡にさしかかっていた。
そして1945年4月1日夜半、突如米国の潜水艦クイン・フイッシュ号より魚雷4発が発射され、船体のほぼ中央に命中、2070名の人命が積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消え去ったのである。
浅田次郎は、小説「シェヘラザード」で、この謎の多い撃沈事件につぎ、次のような推理をしている。
新生「阿波丸」は、連合国人捕虜や抑留市民向けの救援物資約800トンを神戸港で積みんだ。その後、広島県の宇品港に立ち寄り、大量の戦略物資を積み込んでいる。
そして日本の支配下にある台湾、香港、仏領インドシナ、マレー、ビルマ、タイ、ジャワ、スマトラ、ボルネオなどを巡回しシンガポールに到着している。
そして軍は帰路、南方華僑から集めた金塊と軍需物資(ゴム、錫、石油)を積み込み、それ等を「隠蔽」するためにも民間人を2千名余も便乗させたという推理である。
さて、この経路で注目したいのは、阿波丸の巡回先には日本の植民地であった台湾があったことである。
台湾には当時「九份」(きゅうこう)とよばれる東洋一の金鉱があった。
水田と茶園を営む農家が九戸があるのみの地「九份」において、1890年、基隆河で砂金が発見され、3000人の採金者が集まった。
1895年 日清戦争後、台湾は日本の植民地となり、日本の財閥(藤田組)が金鉱を管理するが、それを台湾の事業家である「顔雲年」に譲った。
それ以来、顔家(台陽鉱業)が「九份」のオーナーになったのである。
太平洋戦争後に、中国に復帰し顔家の「台陽公司」のもとで金の採掘が行われ、活況を呈した。
1971年に閉山したが、日本による台湾統治の初期、九份の金鉱経営で財を成した顔雲年は台湾でも有数の財閥を形成した。
その子・顔恵民が、一青妙、窈姉妹の父にあたる。
911テロといい「阿波丸撃沈」といい、悲劇の歯車は「顔一族」の運命と、幾分噛んでいるようだ。

歴史上によく知られたスパイ事件といえば「ドレフュス事件」。
19世紀半ばフランスは、プロシア・フランス(普仏)戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。
フランスでは、軍部によって無実のユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイであるとされた。
10年以上の年月を経てドレフュスの無罪が確定して、フランスの共和政の精神は守られた。
しかし、ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、ユダヤ人に対する民衆の「差別感情」が後押しした面は否定できなかった。
ハンガリー出身でジャーナリストで、パリに滞在していたユダヤ人ヘルツルは、フランスのみならずヨーロッパ全域での「反ユダヤ感情」にショックを受けた。
そこから、ユダヤ人の安住の地を、ユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざす「シオニズム運動」が始まった。
また、「ドレフュス事件」のもう一つの側面は、フランスがドイツに対する劣勢を、スパイの「情報漏洩」に帰させようとした点である。
ところで浅田次郎の小説「シェヘラザード」は、弥勒丸(すなわち阿波丸)撃沈の理由として積み込んだ「金塊」にあることを匂わせている。
それは単なる誤射であったかもしれないが、水深60メートルぐらいでの比較的浅い海域での「撃沈」にも何らかの意図があったのかもしれない。
それと同時に、阿波丸には日本が在外地で集めた「金塊」が積み込まれているとされるが、日本は台湾を統治下においていたため、阿波丸の金塊が、顔一族の「台陽公司」の金鉱と無関係とは考えくい。
もしそうならば、顔一族は、新・旧二つの阿波丸の運命と関わったことになる。
ひとつは、顔一族の一青窈が911テロに際して、アメリカに阿波丸によって運ばれたサクラの返礼を題材にして「ハナミズキ」という曲を作ったこと。
そしてもうひとつは、日本軍が南方で集めた金塊を積んでいた阿波丸の悲劇。
とするならば一青窈の「ハナミズキ」の歌には、本人も知らぬまに、911テロばかりではなく、阿波丸撃沈の戦没者への祈りも込められているのかもしれない。
ともあれ、サクラをアメリカに送った旧・阿波丸のエピソードを重ねるとき、撃沈された阿波丸の悲劇はなお一層際立ってくるように思える。