この夏、記憶が蘇る

2023年夏、日本国民や福岡市民の記憶を甦らせるニュースがつづいた。
まずは、ストライキ。西武池袋本店で8月31日、そごう西武労働組合のストライキが決行された。
百貨店「そごう・西武」を運営する持株会社(セブン&アイHD)による米投資ファンドへの売却方針をめぐり、労働組合が事業継続や雇用を守ることを求めて実施されたものだ。
始業から終日のストに対し会社は前日に全館休業を決めた。ストに入った組合員約900人のうち300人がチラシ配布などの宣伝活動を行い、午前11時からデモ行進も行われた。
今回のストは社会的注目が大きかった。ニュース番組やワイドショーに憲法学者が呼ばれ「ストライキは労働者の権利」「憲法28条に規定された労働基本権」と丁寧に解説した。
「違法ではないのか」との意見まで出たのは、日本の大手民間企業でストライキに入ることなんて、ほとんど見ることが出来なくなったからに違いない。
かつて、「プロ野球再編問題」に端を発し、古田会長が率いる選手会が実施した2004年のプロ野球スト以来のことだ。
30歳代以下の世代には初めての「ストライキの見聞」だったのではあるまいか。
実に61年ぶりとなった「百貨店ストライキ」だが、最初の「百貨店スト」は1951年で三越労組による。
賃上げ闘争で6人が解雇され労使が対立した。
会社側は強面の「スト破り」を雇って歳末セールを強行しようとしたが、組合がピケで従業員も客も入店させなかった。
当時「三越にはストもございます」が流行語となった。
戦後、「西武グループ」の総師となった堤康次郎は、労働組合をつくらせなかった。
「感謝と奉仕」を創業の精神として掲げ、「うちの会社には資本家も労働者も経営者もいない」と公言していた堤康次郎にとって、ストライキのない西武は誇りだった。
次男の堤清二は、そうした父の思想に反発し、東大時代に日本共産党に入党して後に幹部となる上田耕一郎、不破哲三の兄弟らとつきあった。
後に同党を除名されても社会主義を信奉する姿勢は変わらず、西武百貨店の店長になるに際して、労働組合の設立を父に認めさせた。
共産党が支持を広げていったのは、下町の労働者階級ではなく、高学歴でホワイトカラーの新中間階級だったところに注目すべきだろう。
つまり8月30日のストは、60年以上前に清二が父との確執をへて勝ち取った成果といえる。
政治学者で鉄道マニアの原武史(はらたけし)は、鉄道と政治との関わりを明らかにした。
1950年代半ばに極左冒険主義を否定した共産党は、団地の文化運動や自治会活動を通して、着実に支持を増やしていく。
団地の住民はほとんどが核家族で、よりよい保育所や交通、病院などを求めていた。孤立した暮らしのなかでは、隣近所のつきあいが助けとなった面が大きい。
共産党を代表する論客上田耕一郎、不破哲三(本名:上田建二郎)の兄弟が、西武新宿線沿線(野方)の出身だったというのもおもしろい。
電車運賃の値上げ反対や終バスの時間延長も集団の力が必要だった。その中心となったのが、共産党の主導する「自治会」である。
堤康次郎は、晩年には、狭山(さやま)丘陵を切り開き、そこにディズニーランドに劣らない一大レジャーランドをつくるという構想をもっていた。
西武の親分である堤康次郎の思惑とは裏腹に西武沿線の住人は共産主義やリベラルの一大拠点になっていた。
1962年から75年まで、共産党主催の「アカハタ祭り(赤旗まつり)」が多摩湖畔の狭山公園で開かれたというのもおそらく偶然ではない。
そしてここに出かけるには西武鉄道を利用しなければならなかったのは、皮肉ではある。
鉄道と団地のつくった戦後空間が特有の思想領域をつくっていたという指摘は、誠に興味深い。

2023年夏、福岡の大名のガーデンシティに世界的なホテル「ザ・リッツカールトン」がオープンした。それは旧大名小学校跡地にできたもの。
この福岡天神地区再開発プロジェクトは「天神ビッグバン」とよばれるもので、その計画は数年前から始まっていた。
大名小学校は福岡市で最も古い歴史をもつ学校で、その出身者には広田弘毅首相、明石元二郎など、歴史に名を残す人物が連なる。
個人的にも、小学校時代にこの学校で開催された生徒のコンクールに足を運んだことがある。
一番ショッキングなのは、大名と大牟田線・西鉄福岡駅を結ぶ「新天町」がなくなるということ。 幼少のことから、この町には数々の思いでがある。
記憶に鮮明に残るのは、夏には商店街の中央に、20メートルぐらいの間隔でスーツケース大の「氷」が置かれていたことだ。
また1960年代「ダッコちゃん」ブームの時代には、大人から子供まで、肩や腕などにダッコちゃんを着けていた。
「ロイヤル」(本店は中洲)で始めて食べたホットケーキに、子供ながらこの世の中にこんなうまいものがあるのかと思った。
積文館や金文堂で、受験参考書からコンピュータの解説書まで、たくさんの書籍を購入した。
レコード店で買ったレコードには、ビートルズから、クルセイダース、頭脳警察や浅川マキなど、購入した時のワクワク感は今も消えない。
現在の新天町の店舗は新ビルにはいるそうだが、思いでの「新天町」の街並みは消えることは、誠に残念である。
新天町のスタートは、今からちょうど77年前、「1946年10月15日」である。
終戦を迎えた1945年、大空襲で焼け野原になった町に、「活気と笑顔」を取り戻そうと博多商人たちが立ち上がった。
商店街に入りたい店は600店、それから250店に絞り、さらに「のれんの信用度」や「時間を守れる人」「親類づきあいができる人」などを条件に78店舗を選んだ。
その名前を調べると、懐かしさがこみあげる。
「ホラ屋帽子店、大隈旅行具店、高島時計店、後藤人形店、今村ラジオ電気店、木村パン店、松屋喫茶店、金文堂書店、積文館書店」など。
当時賑わっていた博多駅や川端が、デパートと商店街の連携が弱く、地域全体が活性化していないのを見ていた新天町の商店主たちは、天神で商売をする人たちの連合をつくったのある。
1936年、天神駅東側に岩田屋が建築され、天神は福岡の都心になっていく。
1976年に天神地下街、天神コアビルができ天神は広がりを見せた。1989年イムズ、長く市民に愛さスポーツ センターの跡地にソラリアプラザがオープン。
スポーツセンターは大相撲をやっていた時代もあり、スケートリンクも青春の思い出だった。
センターシネマで映画をみて、福岡駅地下の味のタウンの入口にあったお好み焼きを食べるのが、我がルーティーンであった。
1997年に大丸エルガーラ、福岡三越が開店して今の天神ができたのである。
新天町商店街を南北に通るメルヘン通りは、毎年7月の山笠の時期には飾り山が設置され、多くの観光客が訪れる。また、テレビやラジオ番組の街頭インタビューでも数多く利用されるなど、市民にとって馴染みのある場所だ。
また、大牟田線福岡駅と新天町に挟まれた区画に、伝説の喫茶店「照和」がある。チューリップ、甲斐バンド、長淵剛、海援隊などが、名もなき時代にライブをやっていた処だ。
今も経営者を変えながら残っているが、場所を変われば、思い出も風化する。
福岡市は「国家戦略特区」による施策や福岡市独自の施策などを1つのパッケージにして、アジアの拠点都市としての役割・機能を高め、新たな空間と雇用を創出することを目指すプロジェクト「天神ビッグバン」を2015年2月に始動。
「天神ビッグバン」の対象となるなるのは、天神交差点から半径約500m(約80ヘクタール)のエリア。容積率緩和などの優遇措置を受ける。
2021年9月に第1号プロジェクトとなる天神ビジネスセンターの竣工を皮切りとして、天神エリアは大きく変貌している。
この地域の歴史をさらに遡れば、現市民にとってアンビリーバボーなことばかり。
江戸時代、現在の新天町の南側にあたる因幡町筋には武家屋敷が立ち並んでいた。
明治維新後も閑静な場所だったが、 1899年6月、前年に天神町(現水鏡天満宮あたり)に仮校舎を開校したばかりの福岡市立高等女学校(福岡中央高校の前身)がその敷地を購入した。
その場所こそが、現在の新天町の区画である。
1910年頃、天神付近にはこの福岡高女(通称=ケンリツ)と、私立の英和女学校(通称=ミッション、現在の福岡女学院)があり、男子学生の人気を二分したという。
1913年3月22日、昭和天皇の皇后陛下が福岡行啓の際に福岡高女を訪問され、授業をご覧になっている。この頃、学校に在籍していた人物にソプラノ歌手の荻野綾子(1898年~1944年)がいた。
荻野は旧福岡藩士の家に生まれた。福岡高女の学生時代に、西南学院を創立したドージャー夫妻に音楽を学び、東京音楽学校(現東京藝大)声楽科へ進学した。作曲家・山田耕筰から才能を見込まれ、やがて海外でも歌唱力が評価された、日本歌曲史上に名を残す人物である。
1924年4月、九州鉄道(現西鉄天神大牟田線)が開通し、学校正門の東向かいに木造の九鉄福岡駅が開設された。駅周辺はにぎわいを増していき、次第に勉学にいそしむ環境ではなくなった。
1932年3月10日、福岡高女は平尾の現在地(県立福岡中央高校敷地)へ校舎を移転。この頃、同校に入学したのが「サザエさん」で知られる漫画家・長谷川町子である。
なお、自宅は現在の西南学院大学神学部正門近くにあった。
終戦直後、焼け跡には自然発生的にヤミ市(闇市)ができた。食べるためにやむを得ずヤミ屋となったにわか商人も多く、物がない時代に法外な値段で売買されることも多かった。
そのため、ヤミ市とは一線を画し「専門店主が商業道徳のもとで商品を売るという趣旨で生まれたのが「新天町」の始まりである。
商店街を運営する新会社の名称は、「株式会社西日本公正商店街公社」である。一般の通念からいえば、公社とは公共企業態を意味する。
電電公社や専売公社のように、公共企業の能率的な経営をはかるために生まれたのが公社である。
普通の会社で「公社」を名乗るのはめずらしい。
西日本新聞社、占領軍や県や市の協力もあり、おたふく綿の社長原田平五郎が指揮をとった。
需要者も経営組織に参加させて、公正な批判と指導をしてもらうべきだと、入居者募集と同時に、経営者以外の参加を呼び掛けたものだ。
商店街公社ととしたのは、創立委員たちの中に、いたずらに利益を追求することなく、公共のために成ろうとする理念が、つよくあったからにほかならない。
誰もが、元々の繁華街である博多部や中洲の商店街が復興すれば、人は博多へ流れると考えていた時代。「新しい天神町」をアピールしようと、「新天町」と名付けられた。
終戦からわずか1年余、「新天町の誕生」は天神地区の本格復興への第一歩となったのである。

2023年8月の台風6号により、沖縄県大宜味村喜如嘉(きじょか)公民館のシンボルの「長寿ガジュマル」が倒れた。
区によると、区民による話し合いで伐採が決まっていたが、その報道を見た東京都内の会社がもらい手となることが決まった。
木の移植作業は週内にも始まり、いったん恩納村内に運ばれて剪定せん/てい作業などが行われる。
挿し木用に10数本取って区民の希望者に分け、木の思い出を大切に継いでいくという。
この木は、現在の公民館敷地にあった喜如嘉小学校の創立を記念し、1880年代に植樹されたと伝わり、樹齢は130年以上とみられている。
お別れの祈願には、お年寄りらが多く集まり、木の前で泡盛をささげ、えぐれてしまった根の部分には「魂を抜く」として、線香などを供えた。
お年寄りらは木に向かって手を合わせ、口々に「ありがとう」と感謝を語った。メジロが多くいたこと、木に登って遊んだことなど、ガジュマルとの思い出話にも花が咲いた。
ところで戦時中、島で守備隊として敵の攻撃に応戦中、本隊と離れ離れになって孤立した日本軍の将兵たちが、敗戦を知らなかった期間は数ヶ月のこともあれば、稀には数十年に及ぶものさえあった。
有名な例は、グアム島のジャングルに28年間潜んでいたのち帰国した愛知県出身の横井庄一さんである。
そのほか、戦後30年をフィリピン・ルバング島の山中で過ごし生還した小野田寛郎さんの例がある。
いずれも発見されるまでの期間中、全く敗戦を知らなかったとは考えにくく、承知していても何かの理由で投降できなかったものと見られている。
横井庄一さんが1972年に発見された直後、連行されたグアム警察署の調書によれば、20年前に戦争の終結を知ったことになっている。
横井さんは「私は日本の敗戦を知らず、十年待っておれば、必ず日本軍は力を盛りかえしてこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました」と書いてみたり、「信じたくはないが、うすうす日本が負けたとは思っていました」とも書いている。
今にして思えば、「敗戦を知らなかった」というのは、投降の機会を逃したことに対する口実なのかもしれない。
小野田寛郎さんは陸軍中野学校で諜報活動の指導を受けた特殊将校であり、敗戦2ヵ月後に手にした投降勧告のビラを敵の謀略と決めつけ、敗戦を否定して臨戦状態を維持したまま部下3名と共にジャングルに潜伏していたものといわれている。
これは、発見された直後に述べた「直属上官の命令があれば山を下りられる」という言葉にみられるように、軍命下の姿勢を貫いたというのは、小野田少尉としての建前なのかもしれない。
横井さんは、帰国後いち早く日本社会へ順応し、「耐乏生活評論家」などとして日本全国を講演して回ったり、陶芸の個展を開いたりして、25年間を過ごした名古屋で、1997年9月22日に病死された。
一方、小野田さんは高度経済成長社会に馴染めず、帰国半年後ブラジルへ移住して牧場経営に成功し、日本で青少年向けに「小野田自然塾」を開講したり、保守系の活動家として「日本を守る国民会議」の代表委員等も務め、2014年1月16日東京都中央区の病院で亡くなった。
横井家の自宅を改装して作られた「横井庄一記念館」の開館に際して、美保子さんは「ほんとうにささやかな記念館であるが、どんなに小さな灯でも、平和の灯はともし続けなければならないと、心に深く誓っている」と述べられている。
さて、前述の台風で倒れたガジュマルの木には、あるエピソードがある。
ガジュマルの木に逃げ込んだ兵士二人は、敗戦に気づかず、二年間も孤独な戦争を続けた。
小説家の井上ひさしが残した大量の資料本とメモ1枚を基にした原案により制作された「木の上の軍隊」は、蓬莱竜太(ほうらいりゅうた)が書き下ろし、2013年に初演された。
戦中戦後の2年をガジュマルの木の上で過ごした2人の日本兵の物語が描かれる。
実話から生まれた「いのちの寓話」が、今なお語りかける。