足袋からタイヤへ

各国の軍事パレードでは、最新鋭のミサイルなどが披露されるが、個人的にめにつくのは、それらを搭載するための巨大なタイヤである。
現在、日本でも防衛関連装備品(武器?)の輸出の規制緩和が問題となっているが、タイヤそしてその原料となる天然ゴムが重要な「戦略物資」であった時代があった。
タイヤの原料となるゴムは、東南アジアなどでゴムの木から流れ出る樹液を集めたものである。
我々にとってゴムは文房具やスポーツ用品やなどの日常品でしかない。
18C後半、イギリスの神学者で教育者ののジョゼフ・ブリーストーリーが、ゴムが鉛筆で書いた文字や絵を容易に消せることを発見した。
1770年頃からインド・ラバーが消しゴムとして売られるようになり、さらに防水剤として販売されるようになる。
ゴムがさらに注目されるようになるのは、トマス・ハンコックとチャールズ・グッドイヤーの二人のアメリカ人によって、 天然ゴムに硫黄と酸化鉛を添加して加熱して、ゴムの弾性を高め、さらに長持ちさせる硬化法が1939年に開発されたことによる。
これによってゴムは自転車・自動車・飛行機などのタイヤとして重要な素材となる。
1888年には、スコットランドのジョンダンロップが自転車用タイヤの特許をとり、フランスのアンドレ・ミシュランと弟のエドワールは 列車にも対応可能な空気タイヤを開発した。
ちなみに、かつてカルロスゴーンも勤めたタイヤ会社のミシュランは、ドライバーへの情報提供から「ミシュラン・ガイド」が生まれた。
自動車の普及とともに、天然ゴムの需要は急速に高まり、飛行機のタイヤなど、軍需産業において天然ゴムは不可欠となった。
アメリカやドイツは天然ゴムに変わる「合成ゴム」の開発に躍起となり、ドイツは1940年代に合成ゴムの国産化を果たした。
アメリカは、第二次世界大戦まではイギリス領であったマレー半島、ジャワ、スマトラで生産された天然ゴムをイギリスから輸入していたが、 それらの土地が1942年に日本軍に支配されると、天然ゴムの入手が困難になった。
日本軍は天然ゴム生産地を押さえればアメリカは困窮し、戦況に有利に働くと目論んだ。
石油と天然ゴムの確保のためにどうしても押さえなければならなかった領地がインドネシアだった。
しかしアメリカは戦争の進展にともない「合成ゴム」開発を急務として、1945年にはそれに成功した。
アクロン大学で始まった合成ゴムの開発は、オハイオ州のアクロンに「グッドイヤー」や「ファインアストン」(現在ブリジストンタイヤの子会社)といった大手タイヤメーカーを生み出したのである。
「合成ゴ」ムは、石油を主原料として人工的に製造される、合成高分子化合物の総称である。
天然ゴムに似た性質をもっており、耐熱性・耐油 現在市販されている合成ゴムは、科学構造の違いから、100種類以上あるとされていている。
特にSBR(スチレン・ブタジエンゴム)は、天然ゴムの代替として開発され、最も多く生産されている合成ゴムの代表格で、車のタイヤ、ゴムベルト、卓球ラケット、靴底など。卓球のラバーや靴底など、スポーツの世界でも様々なゴム製品が使われている。

筑後川の豊かな恵みを受けて筑後平野が有明海に広がっていて、その中心に久留米市が栄えている。
「人力車」というのは、明治の初めに博多の人が発明したといわれ、駕籠では二人で一人を運んでいたことを鑑みれば、大変な運送革命である。
久留米では芸者も多く、いち早く人力車が普及したというのも、商業の町として賑わっていた証である。
久留米はタイヤの生産の街としても知られるが、その始まりは意外にも足袋(たび)の大量生産と関係している。
明治の初め、倉田雲平(初代)着物仕立屋に弟子入りしてその技術を身につけた。
20歳になって独立して仕立屋を始めたが、注文がほとんどこなかった。そこで仕立屋の業務分析を行ったところ、現代風に言えば最も付加価値が高いものが足袋の縫合や仕立てで、消耗品であるから需要が繰り返し多くなることに目をつけてた。
倉田は本格的な足袋製造の技術を学ぶために、当時外国船が出入りしていて先端技術が取り入れられている「長崎足袋製造所」に2年の年期奉公に入りメキメキ腕を上げて、久留米に帰ってくる。
そして1873年、倉田は米屋町で「槌屋(つちや)足袋店」を開業致する。
足袋製品を久留米市内の旅館などに販売し、一度でも履いた人の評判がよく、売行きを伸ばしていった。
1877年西南戦争が始まり、久留米の「明善堂」(藩校)に討伐軍の本営が置かれるや、ここから槌屋足袋に2万足の足袋の注文が舞い込む。
とてもさばききれない大量注文だったが、博多・長崎・下関まで手を回して職人を集め、なんとか期日内に納品した。
その後、大量生産のための製造設備の改善、製造工程の能率化が次々と考え出され、休む暇もなく工場は拡張を続ける。
文明開化によってトムソンの型打抜機が考案され、ドイツ製ミシンを購入して増産体制をとり、電灯や動力としての電力利用の普及と相俟って生産の拡大を続けた。
日清戦争後に工場を拡張し新たに1902に事情の判った長崎で、販路拡大の第一歩として宣伝カーをつかって宣伝をしている。
「つちや足袋」は、昭和に入ると「ゴム靴」の生産を本格化し、各地に工場を建て輸入するまでになる。
商標となるマークも海外に通用するものにして「月星印」を1928年に採用した。
久留米の足袋の製造会社としては、「つちやたび」と並んで「しまやたび」も同じ時期に発展して、2社が競争しながら、これをバネとして日本中を制圧していく。
「志まや足袋」は、1992年初代石橋徳次郎が、島屋の屋号の元に小さな仕立物屋を始めた。
病気がちだったので早くから2人の息子に家業を継がせた。
その兄重太郎(二代目徳次郎襲名)は非常に元気がよく、兄は外回りを担当し、弟の正二郎は内の仕事を受け持った。
しかし兄の重太郎は、一年志願で兵隊に入ってしまい、後に一人残った正二郎は久留米商業学校を卒業したばかりの17歳であった。
それでも、商いのやり方について考え合理的な足袋の専業化を図ることにし、無給で働いてもらっていた従業員に給与を払い、労働時間を短縮し能率を上げることにし、まさに「徒弟制度」を大変革したのである。
そして「しまや足袋」は、「つちや足袋」を追いかけるように全国に販路をのばし、従来の巾着印を、新しく波に朝日のマークで「アサヒ足袋」として広告宣伝をする。
1908年には、久留米市洗町の工場では、 日産2000足が4年間で10倍の日産2万足に増加して全国一のメーカーとなり、社名を「しまや足袋店」から資本金100万円の「日本足袋株式会社」に改めた。
そしてアメリカ製のテニス靴から、足袋にゴム底を張りつける方法を開発し、それをを三井三池炭鉱に提供して、使用実験をしてもらった。
すると、坑内の上り下りに足元が滑らず事故の防止に役立ち、丈夫で長持ちするので能率が上がると評判になった。
この「地下足袋」は日本中の人気を呼び、売り出し初年度だけで150万足を売り上げた。
同じ大正12年1月に、つちや足袋も又「つちやゴム底足袋」を発売した。
つちや足袋の方も地下足袋は早く研究していたものの、ゴム加工する際にゴム底が固くなり、商品化が遅れたという。
この事から両社は「特許」に関する係争関係が持ち上がるが、久留米商工会議所会頭の仲裁により大正15年に白紙無条件で和解が成立した。
そして日本足袋会社では製造希望者には一足2銭で権利を開放したのである。
その後両社は運動靴や長靴も生産に着手し、つちやたびはゴム靴には新しく「月星マーク」を採用し、「アサヒ靴」と競いあいながら成長を続け、全国に販売網を確立して久留米に本格的なゴム工業の基盤が作られていった。
「ゴム工業」を始めたうえは、自動車のタイヤへ関心が動いていく。
1930年日本足袋の社長石橋徳次郎は公的業務対応のため相談役となり石橋正二郎が社長に就任。
石橋正二郎は、やがて来るモータリゼーションを予測して社内にタイヤ部門を作り研究を開始し、1931年3月に「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を資本金100万円で設立する。
海外市場も視野に、石橋をそのまま英語にして「ストンブリッヂ」の名が浮かび上がったが、語呂が悪いので逆にして会社名を「ブリッヂストン」にしたのである。
ブルジストンは「国産タイヤ」の開発に力をそそぐが、既存のイギリス系「ダンロップ」神戸工場やアメリカの「グッドリッチ」系横浜ゴムは、当時1本110円していたタイヤの値段を値下げしてをれに対抗しようとした。
時は鉄道の駅から馬車による運搬が殆どであったが、この荷馬車の「後輪」に使うことを考えついて、馬車に多く荷物を積んでも軽く引けるようになり「荷馬車」にタイヤを使うことが全国的に始まった。
1937年の日華事変が始まると、軍は全面的に国産のタイヤを採用することになって、業績はますます拡大していった。
またブリヂストンタイヤではイギリスに社員を派遣して、ゴルフボールの研究もしている。
戦争が終わると、占領軍によって財閥解体が行われ、1947年過度経済力集中排除法が実施され、この適用を避けるため、日本ゴムと日本タイヤ両方の社長をしていた石橋正二郎はタイヤだけの社長となり、株式を兄の徳次郎と等価交換してこの親子会社は完全分離している。
そしてグッドイヤーと技術提携して、1950年代後半には、業界のトップに立った。
さらに1961年にはフランスのデュボン社と提携して、ナイロンタイヤを発売してタイヤの耐用年数を伸ばして世界的なタイヤメーカーとしての地位を確立する。
現在の世界の三大タイヤメーカーシェアは、第一第二にフランスのミシュラン、日本のブリヂストン、第3位にアメリカのグッドイヤーとなっている。

古代より久留米は九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えられた。
高良大社付近には社を取り囲む形で神籠石があり、南北朝時には毘沙門嶽(現つつじ公園)に懐良親王の九州征西府が置かれ、その空堀の跡が残っている。
近代久留米が「軍都」としての性格を強めた背景には、このような「地政学的要因」が存在するからに他ならない。
久留米には1897年に歩兵第48連隊と第24旅団司令部がおかれ、1907年には第18師団がおかれ、旧帝国陸軍の中枢となった。
大正時代に日独戦争(第1次大戦)における主力部隊となった久留米には最大の俘虜収容所が設けられ、そのことが後世の久留米に多大の影響を与えることとなる。
そして久留米の俘虜収容所の所長となったのが、後に226事件の「皇道派」の中心人物となる真崎甚三郎なのである。
久留米は陸軍軍人のいわば「出世コース」であり、真崎甚三郎ばかりではなく東條英機も久留米に住み、東條の子供は日吉小学校に通っていた。
さらには、司馬遼太郎も久留米の戦車部隊に配属されている。
第一次世界大戦では、1914年10月31日、日本は青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃した。
この時、青島戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成された。
この戦いで5千名弱のドイツ兵俘虜が久留米、坂東、松山、大阪、習志野などへ送られた。
この中でも、映画「バルトの楽園」で描かれた徳島坂東の俘虜収容所が最も知られている。
そこでは人道的配慮がなされ、地元の人々との交流など心温まる面があった。ドイツ人俘虜は日本を愛すようになり、戦争が終結後も少なからぬ人々が本国に帰るよりも日本での生活を選んだ。
日本人がいまだ知らなかったホットドック、ハムの作り方、バームクーヘンを伝え、サッカー技術を伝えた。また、エンゲル楽団は、日本で初めてベートーベンの「第九」を演奏した楽団として知られる。
徳島県の坂東俘虜収容所では、1918年6月1日、日本で最初にベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏したことで有名だが、久留米俘虜収容所のドイツ人俘虜たちはこれに先立つ1917年3月4日にベートーベンの「第五」(運命)を演奏している。
一方、久留米俘虜収容所は、最大時で1315名の俘虜を収容したが、1905年9月の筑後川水泳大会には、十数名の俘虜も参加している。
この時のドイツ人俘虜との交流経験が、今日の久留米市の発展の礎となっているといっても過言ではない。
久留米市には焼き鳥店が多く、まるでファミリーレストランかのように家族連れでにぎわっているが、焼き鳥を注文する際に注文するセリフに、いまだに「ダルム」や「ヘルツ」という言葉が飛び交う。
「ダルム」とは、一般的に言う豚の「シロ」のこと。ドイツ語で大腸という意味する。また「ヘルツ」とはドイツ語で心臓という意味で、一般的には「ハツ」と呼ばれるものだ。
これは、久留米市には1928年に九州初の医療専門学校が開校した関係で医学生が多く、彼らが医療用語のドイツ語を使って注文したのが由来だという。
そして、その呼び方が久留米で広まりいまだに続いているのは、久留米にドイツ人俘虜が数多くいたことと関係している。
そしてドイツ人俘虜の技術者は、先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教え、それが久留米の足袋からタイヤへと発展する契機となった。
石橋正二郎は、将来発展するのは自動車タイヤであることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れ、タイヤの国産化をめざす決意をする。それはドイツ人が伝えたゴムの製造法により確立したものであった。
久留米の日本足袋製造会社がドイツ人将校俘虜のパウル・ヒルシュベルゲンから車のタイヤの製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、後にブリジストン・タイヤになったからである。
ところで久留米藩は1868年、高良山の麓にある茶臼山(現山川町)に招魂所を設け、1853年以来、勤王のために死んだ真木和泉守保臣以下38名の志士を合祀した。
ここに「陸軍墓地」が併設され、佐賀の役で政府軍側の戦死者63名、西南の役の戦死者190名の墓が建てられた。
山川招魂社の入口の石段を登ってすぐのところには「爆弾三勇士」の碑がある。
「爆弾三勇士」とは、1932年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死したという一世を風靡した「軍国美談」である。
山川招魂社とともにあった陸軍墓地は1942年、4月10日、現在の久留米競輪場に移転した。
実は久留米競輪場の敷地全体が久留米の陸軍墓地の跡で、 現在も参加選手宿舎裏に「忠霊塔」があり、その痕跡を感じることが出来る。
また、古代の円形劇場跡のような雰囲気の場所であり、戦時中はここで慰問の演奏などが行われていた。
そしてまた、その一角にドイツ人俘虜の墓もいくつかまとめて存在している。

さらに、森の中に突如として現れる高さ5メートルほどのレンガ積みの「らせん階段」がついた不思議な円柱がある。ここが、「宮城遥拝」の場所で、皇居の方角に向けて建てられているという。
とはいっても真崎甚三郎は、福岡の隣の佐賀県出身で、佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年12月に卒業後、士官候補生を経て翌年9月に陸軍士官学校に入学している。
日露戦争では、歩兵第46連隊中隊長として従軍し、第一次世界大戦中は「久留米俘虜収容所長」をつとめた。
さて、この久留米競輪場から世界に飛び出したのが中野浩一選手である。
中野は、福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献した。
しかし、高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念した。
高校卒業後、当時競輪選手だった父親から奬められ、競輪の世界に入る。
1975年に日本競輪学校を卒業するや、同年5月3日に「久留米競輪場」でデビュー。その後、デビュー戦を含めて破竹の18連勝の記録を作った。
そして1977年から86年にかけて世界自転車選手権10連覇の偉業を達成している。
久留米には、画家である青木繁や坂本繁次郎の自宅が保存され、作曲家・中村八大から現代ポップスまで音楽の道で活躍する者も多い。
久留米市総合スポーツセンターの陸上競技場(東櫛原)のトラック近くに地元の政治家で元通産大臣の石井光次郎の石像が建つが、その娘・石井好子は、著名なシャンソン歌手・エッセイストである。
久留米は、色々なものが詰まった「ぶ厚い」街である。 ブリジストン創業者の石橋正二郎は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれた。父が病で兄は陸軍に入営したため経営を任されることになった。
石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮する一方、仕事を一番有利な「足袋」にしぼった。
「志まやたび」の名では古臭いので、好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いついた。

ところで、