聖書の言葉(天地創造と福音)

パウロの手紙に、万物創造と福音とがひとつになって表現されている箇所がある。
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」。
この「天地創造」に続いて、「福音」つまり人間の罪の贖いと復活が述べられているである。
「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである」(コロサイ人への手紙1章)。
ここでパウロは御子(キリスト)による「天地創造」と御子による「和解」を同時に語っている。
旧約聖書によれば、世界は「光あれ」という言葉を始まりとして、主なる神によって創造された(創世記1章)。
一方、新約聖書によれば、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ福音書1章)とある。
ギリシア語原典では、”言”は「ロゴス」だが、”言”におさまらず「理由、原因、理性、論理」など、多くの意味を含んでいる。では「ロゴス」をどう理解したらいいのだろうか。
例えば陶器師が陶器を創ろうとする時、作るかたちを「構想・計画」するのがふつうである。
まず「ロゴス(計画)」があって、神の「光あれ」にはじまる、天地創造がなされたとするとすっきりする。キリストは「ロゴス」の内にこの世の始まる前から存在した。それが、「この言は初めに神と共にあった」とうことであろうか。
「奥義」にこれ以上踏み込めないが、パウロは「御子は、見えない神のかたち」と明瞭に述べて、「御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ」としている。
とすると、「御子イエス・キリスト=ロゴス(言)」といいかえてもよさそうだ。
旧約の神の名「ヤハウェ」で、その意味するところは「有って有るもの」で、特に性質づけはない。
イエスは人々に「アブラハムの生まれる前から、私は”いる”のである」と語った際に、人々から石を投げつけられそうになり、その場から逃れている(ヨハネの福音書8章)。
さらに聖書は、「神は自らに"似せて"人間を造った」(創世記3章)としている。
英語版聖書では、「似せて」を「same image」とあったので姿カタチのこともあるが、聖書に沿っていえばそれよりも確実にいえることがある。
それは「互いに言葉が通じる」ということ。
「エデンの園」でアダムとエバは、言葉を学ぶ機会もなく、神と直接語り合っている。
結局、新約聖書の「はじめに"言"があった」という短いフレーズは、そんな神と人との「一体性」を語っている。
パウロは、信徒への手紙で次のように述べている。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ人への手紙2章)。
これは冒頭の言葉、「その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである」という言葉とも符合している。

人類創生の頃、エデンの園に「善悪を知る木」が生えていた。
神はこの木から食べたら「死ぬ」と禁じていたものを、人間がこれを食べてエデンの園から追放された。
いわば「知識の木」でその実を食べてはじめてアダムとイブが知ったことといえば、自分達が「裸である」ということであった。
今まで意識にさえなかった「裸である」ことが羞恥心をよびおこしたのか、二人はとりあえず作った「イチジクの葉」で腰を覆うことにした。
そんな人間のふるまいを見て、神は二人に「誰が裸であることを教えたのか」と問うている。
その後、二人はヘビに騙されて禁じられた「木の実」を食べてしまった経緯を語る。
その際に、アダムはイブに、イブがヘビに責任転嫁をしていくプロセスがとても人間的だが、神はそんな二人にも慈愛をそそぐ。
すぐに枯れてしまう貧弱な「イチジクの葉」に替えて、神自身が作った「皮の衣」を着せたとある。
なにしろアダムの犯した罪によって地は呪われてしまい、「いばらとあざみ」が多く生えたため、「イチジクの葉」だけでは彼らは傷つき死んでしまう。
神がいったように、人間はエデンを追放されて「死ぬ」存在となり、永遠を失ったからだ。
ところで神がアダムとイブに着せた「皮の衣」というものに、早くも「福音の型」があらわれている。
古代イスラエルで「皮の衣」といえば、神と人との仲介的な務めをなす大祭司や祭司たちが着る「長服」で、今日でいうと外套のイメージである。
イスラエルの族長ヤコブが子ヨセフを愛し、年上の兄弟をさしおいて与えたのが「長服」。
しかし兄弟の嫉妬をかい、獣に食われよといわんばかりに、穴に投げ込まれる。
その後商人に助けられ、時を隔ててエジプトの宰相となって兄弟の前に現れるというエピソードがある。
この「皮の衣」を作るためには動物を屠って血を流す必要がある。
聖書の原則は「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」で、古代イスラエルでは祭司が子羊の燔祭をささげる毎に、その血がながされる。
神が自ら作った「皮の服」を与えたということの中に、「イエス・キリストの十字架の贖罪」という福音の型が顕われている。
いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「福音」であるからだ。
この観点からみると、カインとアベルの捧げものをめぐる「謎」も解けるような気がする。
、 カインとアベルはアダムとイブとの間に生まれた人類創生2代目という古さである。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
ある日2人は各々の収穫物をヤハウェに捧げる。
カインは「地のなり出でもの」をささげ、アベルは「子羊の初子(ういご)」をささげた。
神は、アベルの捧げもののを受け入れたが、カインの捧げものはかえりみられなかった。
嫉妬に駆られたカインはアベルを殺害してしまう。人類は二代目ではやくも殺人を行っている。
なぜアベルの捧げモノが気に入られ、カインの捧げモノが気にいられなかった理由は、聖書の記述からは読みとれない。
それは、アダムとイブのエデンの園からの追放後、「地はのろわれる」とあるのがヒントかもしれない。
のろわれた地の産物をそのまま捧げたのに対して、少なくともアベルの捧げもの「ほふった子羊」には、イエス・キリストの十字架という「福音」の影が宿っている。
さて新約聖書には、「信仰によってアベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」(ヘブル人への手紙12章)とある。
アベルが死して今なお語るとはどういうことか。
カインはアベルを妬み、アベルを野に連れ出して殺してしまう。
そして神がカインに「お前の弟のアベルはどこにいるか」と問うと、カインは「知らない、わたしが弟の番人でしょうか」とシラをきる。
それに対して神は、「お前は何をしたのか。お前の弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」と問い詰め、カインはアベル殺害を認める。
さてここで、アベルの血は何を訴えたのか。そのことのヒントは新約聖書にある。
「新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも立派に語るそそがれた血である」(ヘブル人への手紙12章)。
この言葉を素直によめば、イエスの血とアベルの血が一脈通じるものがあるということであり、アベルの血は神に復讐どころか、カインの罪の許しをさえ訴えているフシがある。
神の「あなたは、何をしたのか」という問いかけに対して、カインは神に訴える。
「わたしの罰は重すぎて負い切れません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。 それに対する神の答えは、とても意外なものだった。「誰でもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるだろう」と。
そして神は、カインが殺されないように「しるし」をつけ、カインを守ろうというのである。
このことからも、アベルの血は「復讐」を訴える血どころか、カインの「許し」を願う血ではなかったかということだ。
ただし、それは地中からの訴えであり、後に天から注がれるイエスの「贖罪」の血とは比べようもないものではあったが。
パウロは信徒への手紙に次のように書いている。
「聖書に"最初の人アダムは生きたものとなった"と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る」(コリント人第一の手紙15章)。
カインとアベルは、パウロとステパノの関係を想起させる。
当初、キリスト教の迫害者であったパウロは、使徒ステパノ殺害に加担していた。
ステパノは殉教の直前、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで死んだ(使徒行伝6章)。
パウロは、その後突然神の光に打たれて回心し、命をかえりむず異邦人伝道に励む。
パウロにとって、ステパノの叫びは「死してものいう声」ではなかったであろうか。

アダムとイブが楽園追放後に身に着けた「イチジクの葉」は、人間が最初に行った「過剰」という見方もできる。
つまり、元来それなしで生きてこれた人間が、それなくしては生きられない「過剰」への第一歩だったということだ。
フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、必要以上のものを過剰に生産し過剰に消費する、そこに快感を覚えるのが人間であるという。
人類学者は、「歪ん」でしまった人間の、「原型」を追及する学問とした。
人間は、元来しきたりや習俗といった人々が共通にもち、半ば「意識されず」に行動していた。
「エデンの園」では、神の心と人間の心が調和していて、そもそも「善/悪」という概念自体がなかったのである。
ところが「善悪の木」を食べた人間は「エデンの園」から追われ(失楽園)、失ったものを取り戻すかのように「過剰」にものを作り出した。
つまり、人間の抑えがたい宿業とは、人間は生きるに「必要以上」のものを作り出し、それがゆえに争いを招いて、自らを滅ぼそうとしている存在なのかもしれない。
バタイユの思想に啓発を受けた人類学者の栗本慎一郎は、金銭・性行動・法律・道徳や戦争までを「パンツ」という比喩で表わし、人間を「パンツをはいたサル」と表現した。
こういう抑えがたき「過剰さ」こそが、今日の人類の最大のリスクになっているのではなかろうか。
さて、聖書には、エデンの園の中央に「善悪の木」とは他に「命の木」が植えてあったことが書いてある。
「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に"命の木"と、"善悪を知る木"とをはえさせられた」。
しかし、ヘビに騙され「善悪の木」を食べたのち、主なる神は言われた、”見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない”。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(創世記3章)。
人間は、エデンの園で必要なものを自由に得ていたのだが、人間が「善悪を知る木」を食べて以来、自然界では「あざみといばらを生じた」とある。
イエスは他の場面で「いばらからぶどうを、あざみからいちじくを集めるものがあろうか」と語っている。
つまり、自然がエデンの”実り豊かな世界”とは異質な世界に変ったことが感じられる。
だが、自然における最大の異変は、人間が「死ぬ存在」になったということだ。
人はヘビの巧みな誘いに乗ってしまい、「善悪を知る木」からその実を食べたことにより、もともと永遠に生きる存在であったのに、「死ぬ存在」となったのである。
「エデンの園」での出来事で確認しておきたいことは、神は「善悪を知る木」についてのみ、取って食べてはならないと言っているが、「命の木」について、何もふれていないということである。
しかし神は、人間が「善悪の木」の実を食べた後、つまり人間が「死ぬ存在」になった後に、「命の木」に対して、あることを施している。
「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と、「命の木」の周辺に回る炎のつるぎを置き、そこに人が近づかないようにした。
それは、神が人間を、死についてみずからの力ではどうすることもできない”無力な状態においた”ということである。
パウロは「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによる」とある。 とはいえ、被造物全体の生みの苦しみにあって、パウロは「神の子の栄光の自由にはいる望み」」(ローマ人への手紙8章)が残されていると語っている。
この”望み”とはどのようなものであろうか。
聖書は、人間が「エデンの園」から追放されてから早々に、「女から生まれるものがヘビをくだく」(創世記3章15)と預言している。
この「女から生まれるもの」とは誰か。
それこそがイエスであり、自ら”死人の蘇り”の初穂となって「滅びのなわめ」(ローマ人への手紙8章)すなわち”死”を打ち砕くということである。
神は「わたしは”恨み”をおく、おまえ(ヘビ)と女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」(創世記3章14)とある。
カナの結婚式に出席したイエスに母マリアが「葡萄酒がなくなったこと」を伝えると、イエスは「婦人よ、あなたはわたしとなんの係りがありますか。”わたしの時”はまだ来ていません」とサタンに対するのと同じ言葉を投げかけている(ヨハネの福音書2章4)。
しかし、そのイエスが十字架上において、マリアに「婦人よごらんなさい。これはあなたの子です」(ヨハネの福音書19章27)と語りかけている。
つまり、「女から生まれた」イエスが「十字架の血」によってヘビを打ち砕いて、「万物すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させる”イエスの時”が来たのである
。 聖書は、驚くほど整合的である。