家族の謎

2023年8月放映のNHK「ファミリーヒストリー/草刈正雄」は驚きの父親探しのドラマであった。そして草刈同様に、ある時期から「父親を探そう」とした人物のことが思い浮かんだ。
窪島誠一郎は、京王線の明大前駅で喫茶店や居酒屋を営んでいた。
両親は、明大和泉校舎の構内でクツ修理をしていたが、生活は貧しく家計を助けようと、高校をでると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従纂員、店員、珠算学校の手伝いなどをした。
結婚後、成功し大小5軒の店を構え小劇場も運営する少壮実業家とよばれる存在となった。
窪島は生活の安定と共に「実の両親」を捜し始める。というのも、自分が親と似ていないことや血液型などにより養父母が実の親ではないことを確信していたからである。
その頃、養父母は生活は苦しく生きるのに必死で、息子の心の変化を知る余裕もなかった。
そして窪島は、養父母が戦前クツ修理屋をやり、二階を「間貸し」していたことを知った。
そして「間借り」していたひとりの学生が、孤児をもらったといって、子供を欲しがっていた窪島夫妻のところに赤ん坊を連れてきたことがわかった。
そしてその学生が以前住んでいたアパ-トの隣の部屋に「赤ん坊を預けた人物」がいたことを突き止める。
その人物こそは、当時の流行作家・水上勉であった。
作家水上勉は福井県の大工の家に生まれ5人兄弟の次男として育ち、9歳の時京都の禅宗に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔した。
その後一時連れ戻されるが再び禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書くようになった。
経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的には恵まれなかった。
1941年に水上は同棲していた女性との間に長男が生れるが、結核にかかり血をはきながらも酒ばかり飲み、自身の生活さえ維持するのがやっと。
明大前のアパートの隣人が水上に同情し、また子供に感染することを心配し、一時長男を預かり「養子先」を探してくれた。
その後、明大前付近は1945年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものと思われていた。
長男は誠一郎と名付けられたが、そのとき養父母と石巻市に疎開しており空襲を無事に逃れていた。
戦後、長男は養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開する。
終戦間もない頃、水上は妻の稼ぎに頼っていたが、妻は子供を置いて別の男性と駆け落ちしてしまう。
水上はその後、宇野浩二を知り「文学の師」と仰ぐようになり、1947年に刊行された「フライパンの歌」が一躍ベストセラーとなる。
また1961年「雁の寺」で直木賞を受賞し、「飢餓海峡」などで、流行作家の仲間入りをした。
窪島誠一郎は父親が水上勉と知って「驚天動地で、涙がとまらなかった」と語っている。
驚いたことに、窪島の家から、子供がボールを探しに庭に入るほどの距離に、作家は住んでいた。
そして窪島の愛読書こそは、水上文学であった。

NHKがアメリカまでいって調査した「ファミリーヒストリー」の主人公が俳優の浅野忠信である。
浅野忠信は、太宰治の生涯を描いた「ヴィヨンの妻」「酔いがさめたら、うちに帰ろう」で一躍注目された。
浅野は、ハリウッド映画「マイティ・ソー」に出演することになるが、祖父のおもかげを追うためにものでもあった。
日本は敗戦後にアメリカによって占領されたが、自身が調べて祖父が日本人女性との間に生んだ自分の母を日本に残し、朝鮮戦争後にアメリカに帰り、既に亡くなったことを知り得たのみであった。
しかし、アメリカの映画出演がきっかけで、いまだ会ったことのない祖父への思いがつのった。
番組スタッフは、浅野母子に代わって、日本国内のみならず、アメリカ、中国に飛んで取材を重ね、浅野の祖父に関する事実が、次々に明らかになっていった。
1947年、アメリカ進駐軍の兵士で日本にきていたウィラード・オバリングは浅野イチ子と結婚した。
その時ウイラード23歳、イチ子は再婚で38歳。
二人の娘である浅野の母・順子が4歳の時、ウイラードは一人アメリカへ帰り、その後全く音信が絶えて消息がわからない。
浅野の手元にあるのは祖父の名前と両親が結婚した時の写真だけである。
アメリカは移民の国であり、家族や先祖の消息やルーツを探す「支援センター」が各地にあり、番組スタッフがそこで探すと「ウィラード・オバリング」の名前が見つかった。
住所は、ミネソタ州ウィノナで、現在そこにはウィラードの一番下の弟ゴードンが住んでいた。
この故郷の地名「ウィノナ」も先住民(インディアン)の言葉で、先住民との関りの大きい土地だった。
しかし、弟曰く「兄ウィラードには日本に娘がいたことを全く知りませんでした」と。
浅野は、よくインタビューなどで「アメリカン・インディアン」の血が入っていると語っていたが、ゴートンによればそういう事実はなく、両親はオランダからの移民だということが判明したのである。
片言英語のイチ子が「先住民」土地に住んでいたことと、先住民の血がはいったこととを聞き間違えたと推測される。
オバリング家の生活は厳しくウィラードは高校にも進学出来ずアルバイトをして、16歳で軍隊に入隊したという。
そして、ケンタッキー州フォートノックス基地で「調理兵」として働いた。
順子の母つまり浅野忠信の祖母であるイチ子の生涯も波乱に満ちたものであった。
戦前両親と満州の大連に渡り、そこで最初の結婚するが、子どもができなかったこともあり数年で離婚している。
その後日本に帰り、芸者の置屋をしていた父親の仕事の関係で芸子になるが、終戦となり親も他界した。そこでイチ胡は一人故郷の広島へ引き上げて来るが、そこは原子爆弾が投下されたバカリの荒れ野でしかなかった。
そこで横浜に出て行き、友人から「ウィラード・オバリング」を紹介され恋愛し、二人は結婚した。
二人は横浜に家を買い、優しいウィラードとの幸せな結婚生活が続くはずだった。
しかし、二人を引き裂いたのは、「戦争」だった。
ウイラードが朝鮮戦争に出兵していた時に、順子が生まれたのである。
朝鮮戦争終結後、駐留軍の撤退が始まり、ウィラードもアメリカに帰ることとなり、妻子も一緒に連れて行こうとした。
しかし、英語もわからず15歳も年下の夫との「先行き」に自信が持てなかったイチ子はアメリカへ同行する道を選ばなかった。
そこでウィラードは単身帰国し、4年後に再婚したことを知った。
ウイラードの結婚相手は二人の子をもつ再婚であったが、ウイラードは、調理兵として各地を転戦した経験を生かし、レストランなどでコックとして働いていたという。
義理の息子によれば、「父は人生とはこう生きるんだと行動で示してくれました」と。
年月が過ぎ、4歳の時に父親と生き別れた順子も、結婚し二人の男の子が生まれた。その次男が浅野忠信である。
ウィラードが亡くなり、義理の息子が遺品を整理していると、父のぼろぼろになった財布から出てきたのは、日本に遺してきた娘・順子の「写真」だった。
番組では、この事実に涙を流す順子の姿、浅野氏の胸張り裂けるような思いが伝わった。

松本清張と同じくしばしば足立山に登り、小倉の風景を眺めたのが草刈正雄である。
そこには、朝鮮戦争で死んだ兵士のクロス(十字架)がたっているからだ。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、草刈は日本人の母親から、母親が妊娠中に父親は朝鮮戦争で戦死したということを聞いていた。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
2023年8月放映のNHKの「ファミリーヒストリー」では、草狩の父親が朝鮮戦争で亡くなったという事実が覆ることとなった。
草刈は、少年時の頃、現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、貧しい家計を少しでも楽にしようと新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校していた。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
草刈も中年を過ぎたことから自分のルーツを知りたいと思ったという。
本籍は福岡県行橋市 戸籍には父の名前はない。ただ父が「ロバート・トーラ」という名前で、祖父が郵便局員と聞いていた。
番組スタッフの初動調査はアメリカの支援システム「アーカイブスドットコム」を使用した。
しかし、名前のスペルの組み合わせは12パターンで8000件。雲をつかむような調査がはじまった。
該当者が見当たらず、名前は「トーラー」かもしれないと調べ直すと、候補者は183864件に広がり、調査は行き詰った。
そこで、雑誌や新聞に掲載された草刈の過去の発言を調べた。
すると昭和51年の雑誌のインタビュー記事に「父の出身地はノースカロライナ」とあった。
そこでスタッフは、可能性のある人物に、手紙やメールを出し続けた。
すると2022年10月に驚くべき返信があった。
さらに、「わたしたち家族にとってこの衝撃的な知らせが、どれほど嬉しく前向きな気持ちにさせてくれたか、想像がつかないでしょう。家族の謎が解けたのです」。とあった。
番組スタッフは返信者の住所があるグリーンズボロという町を訪ねた。
そこで、草刈の従妹にあたる元陸軍士官ジェイ・カラハム74歳は、現在97歳になる母からある話を聞いていたことを語った。
「あなたに日本にいとこがいる。その人の情報はなにもない。どんな生活をしているのか。彼は生きているのか。私たちは知るすべがなかった」。
ジェイは、NHKスタッフらの手紙をもとにネットから「草刈正男」という名前を知り、ネットで調べてみたら「彼はとんでもない人物に成長していた」と語った。
そして、カラハムや草刈の祖父であるゼルンが郵便局であったことを確認した。
カラハムの母の弟が「ロバート・ハンター」(草刈の父)で、10年前に亡くなったことを知った。
番組のスタジオでは、草刈は父親が朝鮮戦争では死んでいないという事実を知り、言葉を失った。
草刈の伯母ジャニタ・カラハムはこの話を誰にも話せずにいたが、草刈の存在を知らせぬままに死ぬわけにはいかないと、孫であるカラハムに話したという。
草刈の祖父「ゼブロン・トーラー」は郵便局員であったが、50代で難病に陥り、正雄の父が生まれる3か月に他界した。
その後、トーラー家は困窮し、二階の部屋を貸して家賃収入だけの貧しい暮らしだったという。
番組では、ミリタリーレファレンスを利用して、草刈の父を見つけた。「ロバート・ハンター・トーラー、身長193センチ、体重79キロ」、福岡県の築城空軍基地の第一航空郵便隊24分遣隊に配属されていた。
朝鮮戦争が始まると、福岡から韓国の金浦空軍基地に派遣され、最前線に出向いていって家族の手紙を渡すのが仕事だった。
アメリカでは、士気を高めるため手紙(メール)を重視していて、さすがに民主国家らしく、それを軽んじると家族からクレームくるほどであった。
1951年1月3日に帰還 郵便の仕分け作業をして、町にでかけた時に一人の女子と出会う。「一人分の幅しか通れない橋ですれ違った」と、草刈が聞母親から聞いていた。
基地の町である築城町には、米兵向けのバーが立ち並んでいた。 草刈の母親すえ子は19歳からバスの車掌として働いていて、築城町がバスの休憩ポイントであった。
ロマンチックな出会いから交際がスタート、基地の外にアパートを借りて同棲するようになった。
その後、ロバートは東京の極東空軍羽田基地に配属となる。バスの車掌をやめて都内で二人暮らしをはじめる。
草刈は母親から「本を読む人で、賢くてハンサム」と聞いていた。従兄弟のジェイによれば、ロバートは将校になる幹部候補生学校へ行くことになり、陸軍に編入したという。
そこで学校の方針で、日本からアメリカへ戻ることとなった。
姉のジャニタは、帰国後の弟の様子について、「弟は日本でのてんまつを誰にもいわなかった。帰国後は困惑し神経衰弱になっていた」と語った。
床にすわりこみ、手を頭にやったままであった。軍人として誇りをもち、私生活でも厳しかったトーラー家にあって、繊細だったロバートは、日本人との間に子供ができたことを言い出せないでいた。
姉は、そんな弟の面倒をみる自信はなく、陸軍に異動したのだからドイツに行きをすすめた。ロバートは姉ジャニタのすすめに従い西ドイツに旅立った。
一方、渡米も意識していたすえ子は、ロバートから聞いていた住所に手紙をだす。
1953年頃、手紙を受け取ったのはロバートの母ジャニタの姉たちであった。そこには赤ちゃんの弟のロバートそっくりの写真も同封されていた。
母と姉は呆然として立ち尽くしたという。
2~3枚の手紙から、すえ子がなんとか子供をさず、子供を助け偏見から守りたかったことが伝わってきた。
しかし、トーラー家は間借りの家賃収入だけがたより、日本は遠くしかも敵国、なすすべもなかった。
ジャニタの姉がわずかなお金を同封し、ロバートの事実を伝えた。受け取ったすえ子は、すべてを悟り正雄と二人で生きる覚悟をきめた。
そしてすえ子は、しがらみのない小倉にむかった。草刈によれば、母親が自分を抱いてなんどか電車に飛び込もうと思ったこともあったという話をきいていた。
しかし、ロバートを悪くいうことはなかった。
母は息子を偏見から守るために厳しかった。父が朝鮮戦争で死んだといったのも、正雄の気持ちが乱されぬようにしたと推測される。
一方、ジャニタは親子の無事を祈ることしかできなかった。弟に西ドイツ行を勧めなければ、親子3人の距離は再び近づいたかもしれないと後悔し続けてきた。
番組では草刈に渡された97歳のジャニタより手紙が読み上げられた。
あなたのお母様がわたしたちにくれた手紙には、戦後間もない日本でアメリカ人との間に生まれたあなたを育てていくことへの不安がつづられていました。この出来事をわたしはずっと心の奥にしまっていました」。 「あなたのすばらしいお母様があなたを立派に育ててくれたことを知り、こころからうれしく思っています。どうかどうか、わたしたちに会いに来てください。みんな心から喜ぶでしょう」と綴られていた。
スタジオで手紙を受けとった草刈も、「なんという日でしょう。もやもやしていたものが晴れて幸せです」と語った。
そして2023年7月、草刈の心にしこりが消えたわけではないが、アメリカへと向かった。
そして伯母との涙の出会いが実現した。トーラー家の廊下には、従兄弟のジェイがネットで見つけた草刈正雄の写真が一族の写真と共に貼られていた。

「あなたをみつけられたことが、わたしにとってどれだけ嬉しいか言葉にはならないほどです」「 ロバートは結婚し、婦人服を売る会社を結婚し、一時は7店舗まで広げたが、広げ過ぎて最後は失敗した。
2013年83歳でなくなった。日本での出来事を口にすることはなかった。
インターネットで写真をみつけ、壁にはられていた。父が母と自分のもとを去ったという心のしこりが消えたわけではなかったが、7月に家族と会うことができた。 「草刈利久蔵」 松本清張と同じくしばしば足立山に登り、小倉の風景を眺めたのが草刈正雄である。そこには、朝鮮戦争で死んだ兵士のクロス(十字架)がたっているからだ。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死している。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
しかし、今回のNHKの「ファミリーヒストリー」でわかったことは、父親は朝鮮戦争で亡くなってはいなかった。
少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。
「小倉祇園太鼓」にも参加している。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
本籍は、福岡県行橋市 戸籍には父の名前はない。「ロバート・トーラ」という名前を聞いた。
ひとつのスペルだけでも、2000件を超える。「アーカイブスドットコム」 法的機関の個人情報が初動調査で地道にしらべた。
12パターンで8000件 雲をつかむような調査がはじまった。行き詰ってしまった。
日本でも母方のルーツも並行して探す。行橋市歴史資料館で6代前の先祖の名前をみつける。農業地帯であったが、長狭川(行事川)を利用した商売でも小倉で繁栄していた。
大阪・京都に、菜種・ロウなどが運んでいた。曽祖父が自宅で天ぷらかまぼこ製造業を営んでいた。
たらのすり身のかまぼこは評判。39才でなくなり困窮。昔を知る近隣の人の話によると、次女で祖母は17歳で嫁入り昭和7年スエ子が誕生。家庭はあれ両親は離婚。7歳で奉公にだされ、18歳でバスの車掌となる。
ようやく日の当たる生活を手にした。草刈がはじめて知るはなしばかりだった。「トーラー」かもしれないと、183864件に広がる。
昭和51年の雑誌のインタビュー記事に「父の出身地はノースカロライナ」と発見。朝鮮戦争に集成し、父が・郵便局員。
手紙やメールを出し続けた。10月に驚くべき返信。「わたしのなき叔父ロバート・H・トーラーに関する手紙を金曜日にうけとりました。
わたしたち家族にとってこの衝撃的な知らせが、どれほど嬉しく前向きな気持ちにさせてくれたか、想像がつかないでしょう。家族の謎が解けたのです」。
その叔父とは本当に政雄の父なのか、グリーンズボロという町を訪ねる。元陸軍士官ジェイカラハム74歳、97歳の母からある話を聞いていた。
「あなたに日本にいとこがいる。その人の情報はなにもない。どんな生活をしているのか。彼は生きているのか。私たちは知るすべがなかった」。
そこに取材班からの手紙が来た。そこには草刈正男という名前も書かれており、ネットで調べてみたらなんということかとおどろいた。
彼はとんでもない人物に成長していた。すばらしい。の妻は夫の親戚にちがいない。あごの角度・耳の形・彼(正雄)写真をみてもすべて夫にそっくりであった。
家系図をかてもらった。祖父ゼぶるんは郵便局であった。からハムの母の弟がロバート・ハンター(アンクル・ボブ)で、10年前になくなった。
朝鮮戦争では死んでいないという。草か南北戦争でりも初めて知った。驚きの事実。
DNA鑑定で97パーセントの確率で「彼は私のいとこ、そして母のおい」である。母は大喜びで一機に元気になり、近所でくらす母ジャニタカラハムのもとに案内した。ロバート・ハンター・トーラー、日本の空軍に配属された。
伯母はこの話を誰にも話せずにいて、歳をとって息子に話したのだという。彼の存在を知らせぬままに死ぬわけにはいかなかった。
弟ロバートの秘密をひとりかかえ苦しんできたジャニタさん。
その理由と家族の歴史が明らかになる。一族のふるさとターヒール。そこに墓地があり、トーラー家の慰霊碑があり、曽祖父の兄弟9人いて全員、南北戦争の南軍に志願した。そんな家族はまれだという。その中でめずらしく郵便局員になったのが正雄の祖父ゼブロン・トーラーであった。
ユーモアがあって人気があり教会で美しい声でうたった。50代で難病に陥り、自らをうった。ロバートが生まれる3か月前であった。1930年父が誕生。
トーラー家は困窮。収入はなく手に職もなかった。二階の部屋を貸して家賃収入だけの貧しい暮らし。
レストランで友人がトイレに行っている間に、ウエイトレスに耳が遠いので大きな声で話してあげてといったりして、ウエイトレスが大声で注文をとってびっくりさせるなどしてともだちは椅子がらとびあがり、大わらいをしたりしたという。
ユーモアがあり、ハンサム、みんなが愛していた。ちゃめっけと優しさ。18歳でアメリカ空軍を志願。国ミリタリーパーソナルレコードを親族が申請するとオンラインでとどけてくれる。
慎重193センチ、体重79キロ 福岡の築城空軍基地にいた。第一航空郵便隊24分遣隊はである。
朝鮮戦争で福岡から金浦空軍基地に派遣される。最前線に出向き家族の手紙を渡してった。士気を高めるため重視していた。
1951年1月3日に帰還 郵便の仕分け作業をして、町にでかけた時に一人の女子と出会う。
それは一人分の幅しかとれない橋ですれ違ったことがきっかけであった、まるで「渡月橋」の出会いのようだ。それは正雄が聞いた話であった。
行橋には、築城の町にくりだし、米兵用のバーが立ち並んでいて、まったく違うカタチでであう。
19歳でバスの車掌として働いて、築城はバスの休憩ポイントであった。
交際がすたーとして基地の外にアパートを借りて同棲し、人気がきれるが、その翌日に再入隊している。
その後、ロバートは東京の極東空軍羽田基地に配属となる。バスの車掌をやめて都内で二人暮らしをはじめる。
本を読む人で賢くてハンサム、アメリカにいくつもりだったという。
小学校ですえこと同級生だった人の弟が、その消息を語った。同級生は青果店に嫁いでいた時、偶然お客さんとして買いに来た。
東京からもどったばかりで妊娠していた。旦那はアメリカに帰り行くところがないというので子供が生まれるまで2階の空いた部屋におらせた。
1952年9月5日、家族にも内緒で正雄を生んだ。
ジェイさんによれば、ロバートは将校になる幹部候補生学校へ行くことになり、叔父は陸軍に編入した。
学校の方針で、日本からアメリカへ戻った。
姉のジャニタさんは、語る。「弟は日本でのてんまつを誰にもいわなかった。帰国後は困惑し神経衰弱になっていた」。
床にすわりこみ、手を頭にやったままであった。軍人として誇りをもち、私生活でも厳しかったトーラー家。
父ゼブロンに似て戦災だったロバートは、日本人との間に子供ができたことをいいだせずにいた。
姉は、そんな弟の面倒をみる自信はなく、陸軍にいどうしたのだからドイツに行きなさいとすすめた。
弟が軍隊の生活にもどれば、しゃきっとすると思った。
ロバートは姉のすすめに従い西ドイツに旅立った。渡米も意識していたすえ子は、ロバートから聞いていた住所に手紙をだす。
1953年頃、受け取ったのはロバートの母とジャニタさんの姉たちであった。母と姉は呆然として立ち尽くしたという。
そこには赤ちゃんの弟のロバートそっくりの写真も同封されていた。母と間借り姉は、生活もまずしく、日本は敵国、遠くなすすべもなかった。
スエ子は、なんとか子供をてばなさず、生活できるように、そして子供を助け偏見から守りたかったことが2~3枚の手紙からわかった。
ジャニタさんは親子の無事を祈ることしかできなかった。弟に西ドイツ行をすすめなければ、親子3人の距離は再び近づいたかもしれないと後悔し続けてきた。
姉のマーガレットはわずかなお金を同封し、事実を伝えた。受け取ったスエ子は、すべてを悟り正雄と二人で生きる覚悟をきめた。
外国人と間で生まれた子は偏見があった時代、親が仕事につけず、児童養護施設にあずけた。親戚もおもてだっては援助することはできなかった。
しがらみのない小倉にむかった。なんどか電車に飛び込もうと思ったこともあった。ロバートを悪くいうことはなかった。
小倉で間借りしていた家が今も残っていて、4畳半の部屋である。午前は卸売会社の日中は値札付け、残りの時間で家政婦の仕事をしていた。
淋しくなると、野球のボールをごろごろやりだし、下に響いた。息子を偏見から守るために厳しかった。父が朝鮮戦争で死んだといったのも、正雄の気持ちが乱されぬようにした。
中学生で同級生で母子家庭で育ったすし店経営者は、朝4時から新聞配達をした。同じ思いは学費を稼ぎ、すこし母に渡す。
卒業後は本の訪問販売やスナックで働いた。定時制高校に通った。17歳の時、東京や博多のモデルクラブの目に留まり、モデルの業界にとびこんだ。
会社で働いたら初任給は1万9千円であった。それはお金5万円がめあてであった、すぐに母親を東京に呼び寄せた。少しずつ昔の事を語り、父親をほめてくれたのでほっとしたという。
2010年、78歳。息子のために生き、息子に救われた人士だった。
ロバートは結婚し、婦人服を売る会社を結婚し、一時は7店舗まで広げたが、広げ過ぎて最後は失敗した。
2013年83歳でなくなった。日本での出来事を口にすることはなかった。
97歳のジャニタさんより手紙が読み上げられた。「あなたをみつけられたことが、わたしにとってどれだけうれしいか ことばにはなrないほどです。 70年間、あなたのことをずっと思い続け心配してきました。あなたのお母様がわたしたちにくれた手紙には、戦後間もない日本でアメリカ人との間に生まれた あなたを育てていくことへの不安がつづられていました。この出来事をわたしはずっと心の奥にしまっていました。 わたしはいま97歳です。あなたのすばらしいお母様があなたを立派に育ててくれたことを知り、こころからうれしく思っています。 わたしの家の廊下にはすべての親族の写真が飾られえいる思い出の壁があります。あなたとご家族の写真もここに加えられたらうれしいですにい。 これからもあなた幸なんというせと成功があることを願っています。どうかどうか、わたしたちに会いに来てください。 みんな心から喜ぶでしょう。あなたのことを思って涙を流す日々はもう終わり、これからは笑顔だけです。あなたの伯母ジャニタより」。
「なんという日でしょう。もやもやしていたものが晴れて幸せです」。
インターネットで写真をみつけ、壁にはられていた。父が母と自分のもとを去ったという心のしこりが消えたわけではなかったが、7月に家族と会うことができた。 草刈は「朝鮮戦争で死んだ」と母から聞かされていたアメリカ兵の父が、実は生きており、2013年に83歳でがんで亡くなっていたことを知る。父は母と福岡で出会い、出産前に米国に帰国。1952年9月5日に生まれた草刈は婚外子となった。
番組の調査で父「ロバート・トーラー」は帰国後の53年に西ドイツに行き、ヘルガさんという女性と結婚したことが判明。米空軍の「ロバート・H・トーラー」が草刈の父であることを突き止めた。親族とのDNA検査で血縁関係も証明された。
当時、日本と米国は太平洋戦争で激突した間柄。父は日本人女性との間に子どもをもうけたことをひた隠しにしていたという。
VTRを見た草刈は「すいません、何も言葉がなくて…」と絶句。番組には父の姉・ジャニタさん(97)からの手紙も寄せられ「本当に今日は幸せです」と号泣した。
その後、草刈はジャニタさんに会うため、米ノースカロライナへ。ジャニタさんは笑顔で草刈を迎え、抱擁。ジャニタさんの家には親族の写真が飾られており、そこに草刈の写真も加わった。
ジャーナリストの江川紹子氏は15日、自身のX(旧ツイッター)を更新し「番組ではぼかしたところがあったように思うけど、それでも何があったか伝わってくる。そうした様々な思いを飲み込んで、引き合うつながりに心揺さぶられた。お母さま、立派な方だなと思う」と感想。
僕はドラマ『真田太平記』(1985~86年、NHK)で、昌幸の次男の幸村を演じました。そのときの昌幸役は丹波哲郎さんだったんですが、演技がすばらしく魅力的でね。あの役を自分ができると思うと、心が弾みました。
『記憶にございません!』は、国民から嫌われ史上最低の支持率となった総理大臣が、頭に市民の投げた石が当たり、記憶喪失になってしまうところから始まる三谷監督のオリジナルストーリー。
記憶を失ったことを家族にさえ隠し、秘書官たちに助けられながら、なんとか公務をこなす総理大臣を演じるのは中井貴一さん。草刈さんは、そんな総理大臣と敵対し、政界を牛耳る“邪悪な”官房長官を演じている。
木村佳乃さんがアメリカ大統領役と聞くだけでも、どんな映画か想像できるのではないでしょうか。僕は“邪悪な”官房長官役なので、脚本に書いてある通りに邪悪に 今は朝ドラの『なつぞら』の撮影で、北海道と東京を行き来する日々。視聴者の方から好評をいただいて、僕の出番が増えたとか。ありがたいことです。広瀬すずさんら『なつぞら』の役者さんとは、本当の家族みたいにリラックスして撮影させてもらってます。
コンプレックスだったんです。だから、こういう意外性のある役をやらせてくれる人もいるんだな、それなら挑戦してみようと思い、お受けしました。
振り返れば、自分には何もなかったんです。
ポッと出の元モデル。小倉のスナックで働いていた16歳の僕が、モデルになろうと思ったのは「月5万円稼げる」と言われたから。福岡では仕事が少ないからと上京したのが70年。その後すぐに資生堂のCMに抜擢され、74年には映画デビューを果たしました。
劇団に所属したこともないから、芝居の基礎が身についていない、声の出し方も知らない。それが強烈なコンプレックスになりました。
加えて、「正統派二枚目」として扱われることにも抵抗があり、なんとかほかの自分を見せたいと思ったけれど、その力もなかった。
そこからは厳しい時代が続きました。俳優としては本当に寂しかったし、このままで大丈夫なのだろうかと、何度も弱気になりました。でも、やめようとは一度も思わなかった。僕には学歴もないし、ほかにやれることもない。お芝居しかないんです。その自覚があったから、ここまでこられたのだと思います。
30代で結婚したことも原動力になりました。家族のためにも稼ぎ続ける必要があった。だから、どんなに小さな役でもいいから、とにかくこの道を歩き続けようと。
とまあ、そういう時代が長かっただけに、60代半ばになってからの、この展開が信じられません。継続は力なりじゃないけれど、しがみついてきてよかった、と心から思います。おかげで、三谷さんのような、素晴らしいクリエイターと出会い、役者として新しい人生が動き出しました。人との出会いに恵まれたラッキーな人生と言うべきなのかもしれません。
そういえば、16歳でモデル事務所を紹介されたときも、めったに事務所に顔を出さない偉い方がたまたまいて、カメラテストをしてくれたのがきっかけでこの世界に入れた。
三谷さんとの出会いは、僕にとって2度目の人生の転機ということですね。
駅前の喫茶店に行くようにしています。あるとき、いつものように喫茶店で台本を読んでいたら、三谷さんに声をかけられたんです。なんでも、お子さんを保育園に送っていく途中にたまたま通りかかって僕を見かけたとかで。 そのときに「今度映画をつくるんですけど、出てくれませんか」と言われ、「いいですよ」と即答しました。これが間もなく公開の『記憶にございません!』です。ど 『記憶にございません!』は、国民から嫌われ史上最低の支持率となった総理大臣が、頭に市民の投げた石が当たり、記憶喪失になってしまうところから始まる三谷監督のオリジナルストーリー。
1952年、福岡県生まれ。70年に資生堂「MG5」のCMに起用され、ブレイク。74年に『卑弥呼』で映画デビューを果たす。2016年の(NHK)大河ドラマ『真田丸』など出演作多数。最新出演映画『記憶にございません!』が9月13日より全国順次公開。
草刈さんが、福岡から上京しモデルデビューしたのは、17歳のとき。資生堂の男性化粧品「MG5」のCMに起用されたことで脚光を浴びた。その後、日本人離れしたルックスで数々の映画に出演、瞬く間に「二枚目俳優」として確固たる地位を築く。
「二枚目俳優」として映画やドラマに忙しかった20代の終わりに、共演した女優の沢村貞子さんから、「あんた二枚目なんだから、人の3倍がんばらないとダメ。そうしないと、今にこの世界からいなくなっちゃうよ」と言われたんです。当時の僕は、この言葉の意味がわからなかった。でも頭のなかになぜかこの言葉が残っていたんですね。「ああ、そういうことか」とわかったのは、30代の半ばでした。
若い頃にポーンと世に出ちゃうと、落ちるのも早い。あるときを境に、映画やドラマの仕事が急激に減っていったんです。昔のように主役を張ることはなくなり、脇役ばかり。これまで、自分をアップで捉えていたカメラが、すーっと横を通り過ぎて主演俳優のほうへ動いていく。そうか、沢村さんは、「見てくれに頼っていてはダメだ、しっかり演技力を磨け」と言いたかったのか、と気づきました。
この番組「ファミリーストーリー」は、浅野氏のお母親である順子さん(60歳)とともに祖父(順子さんの父)の「その後」を探していくという企画だった。
それは浅野さんの自らのルーツを突き止めたいという強い思いからだったが、母・順子さんにとっても、4歳の時に別れた父の「素顔」を知ることにつながるハズである。
日本でも母方のルーツも並行し行われ、。行橋市歴史資料館で6代前の先祖の名前をみつける。農業地帯であったが、長狭川(行事川)を利用した商売でも小倉で繁栄していた。
大阪・京都に、菜種・ロウなどが運んでいた。曽祖父が自宅で天ぷらかまぼこ製造業を営んでいた。
たらのすり身のかまぼこは評判。39才でなくなり困窮。昔を知る近隣の人の話によると、次女で祖母は17歳で嫁入り昭和7年スエ子が誕生。家庭はあれ両親は離婚。7歳で奉公にだされ、18歳でバスの車掌となる。
ようやく日の当たる生活を手にした。草刈がはじめて知るはなしばかりだった。