ハワイ「日本人の足跡」

一青窈(ひととよう)の曲に「江戸ポルカ」(2003年)という曲がある。
♪手と、てとてとしゃん けれどもっと てとしゃん♪という意味不明でも不思議と江戸情緒にさせるリズムで、独特の感性を感じさせる。
江戸とボヘミア(現在のチェコ)生まれのダンス音楽「ポルカ」が結びつくのが斬新だが、江戸時代末に生きた青年を歌った「トミー・ポルカ」という曲が、アメリカでヒットしたことがある。
その青年の名は、「立石斧次郎(おのじろう)」。
米国東部で活躍したドイツ人音楽家グローブによる作曲で、その歌詞には立石斧次郎について、次のような描写がなされている。
“奥さんもお手伝いさんも そのかわいい小柄な男性を取り囲み付きまとう その名はトミー、ユーモアのあるトミー 日本から来たトミー”。
実はトミーこと立石斧次郎は維新後に長岡桂次郎に名を変え、晩年はハワイで「移民監督官」として働くが、そこに至るには紆余曲折の人生があった。
さて、ハワイ諸島には4世紀からポリネシア系の人びとが移住していたが、1778年にヨーロッパ人としてクックが初めて来航。
そのころハワイ諸島の統一が進み1795年にカメハメハ王朝によって統一されハワイ王国が成立する。
カメハメハ王は憲法を制定し西欧風の立憲君主政を導入した。
法律の制定や、経済の運用など実際の政権運営でも多数のアメリカ人が顧問として迎えられ、彼らの存在はハワイ王国では不可欠になっていった。
またアメリカからはキリスト教宣教師が多数来島し、学校教育の導入などを助けながら布教に努めた。
そのうちにハワイ王国の中枢は白人の大土地所有者、商人、宣教師に占められるようになり、彼らにとって次第にカメハメハ王朝の国王の存在は無用なものとみられるようになっていった。
1875年にはアメリカはカラカウア王と条約を結び、ハワイからアメリカへ精製前の砂糖を関税なしで輸出できるようにした。
その代わりに、ホノルルの西数十キロのところにある真珠湾(パールハーバー)をアメリカ以外の国貸与しないという取り決めを行い、そこに「海軍基地」を建設することとした。
1875年頃から砂糖業が盛んになるとさらにアメリカ人入植者が増加し、「アメリカへの併合」を主張するようになった。
ハワイ王国のカラカウア王はこのようなアメリカ人の介入を強く警戒し、それに対抗するために彼はある外交上の「秘策」を思いついた。
1881年、カラカウア王は日本を訪問、表向きは日本人移民を労働力として送って欲しいという交渉であった。
しかし、このとき国王は随行したアメリカ人側近に知らせずに明治天皇に面会を求めた。
面会に応じた天皇に国王が密やかに切り出したのは、ハワイ王室と日本の皇室が縁戚関係を結ぶことだった。
自分の姪の5歳になるカイウラニ王女と15歳になる山階宮定麿(やましなのみやさだまろ)が具体的な候補者としてあげられた。
驚いた明治天皇(当時29歳)は、前例のないことなのでと即答を避け、後日返答すると言って帰ってもらった。
結局この縁談は成立しなかったが、カラカウア王はアメリカに抵抗するためには日本との結びつきを強くしておくことが必要だと考えていたのは間違いない。
その後の歴史の展開を鑑みれば、歴史の分岐点だったかもしれない。
19世紀にアメリカ人の移住が増え、1893年にアメリカは武力にうったえてリリウオカラニ女王が退位させられ、ハワイ王国は滅亡した。
翌年、アメリカ人によるハワイ共和国が成立、さらに1898年にアメリカ合衆国に併合されて準州となり、戦後の1959年に50番目の州となった。

2023年6月に発生したハワイ・マウイ島で発した山火事は、古都ラハイナをも焼きつくした。
ラハイナは、ハワイ王家の居住地でもあったばかりか、日系人にとっても心の拠り所でもあった。
それは、「ラハイナ浄土院」の存在で、それが焼け落ちたことへの日系人の喪失感をも伝えられた。
ハワイ移民は故郷を離れ過酷な労働を強いられ、不慮の事故によって若くして命を落とす人もいた。
少なくとも、葬儀の際の僧侶は必要に感じられたに違いない。
浄土宗は早くからそうした日系人の要求に応えて設立された。また「ラハイナ浄土院」はある名作TVドラマのロケ地となっている。
西武スペシャル「波の盆」(日本テレビ、実相寺昭雄監督・倉本聰脚本)が放送されたのは、1983年秋。明治期にハワイ・マウイ島に渡った、日系移民1世が主人公のドラマであった。
日系移民1世の老人である山波公作(笠智衆)が、妻ミサ(加藤治子)を亡くした新盆の日、そのたった1日の物語である。
日本で亡くなったはずの四男・作太郎(中井貴一)の娘、つまり公作の孫だという若い女性・美沙(石田えり)が突然訪ねてきたことによって、公作の中で、自身が歩んできた「過去」と80年代の「現在」が交錯していく。
移民1世はサトウキビ畑での過酷な労働に耐え、家庭を持ち、子どもたちを育ててきた。
しかし1941年、日本軍の真珠湾攻撃により、その運命が大きく変わった。
また成人した2世たちは、アメリカ軍への忠誠を示すために「日系人部隊」として、ヨーロッパ戦線などで厳しい戦いを経験したる。
「波の盆」はそうした歴史を背景にしており、1983年の「芸術祭」大賞を受賞する。
この作品の脚本を書いた倉本聰は、次のように述べている。
「ハワイの日系移民に広島県人が多いのは前から知ってたんですよ。じゃあ、その人たちは故郷の広島に原爆を落とされたことをどう考えてるんだろうと気になっていました。それから終戦直後に進駐軍が入ってきた時、たくさんの日系2世が通訳でついてきた。あの人たちはどこから来たんだろうっていうのも頭の中にありました」。
ドラマ撮影当時のハワイ州知事はジョージ・アリヨシ。そして2017年にはホノルル空港が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と名を変えた。
そうした事実だけでも、ハワイと日系移民の間に、波乱の歴史があることを物語っている。
「波の盆」で描かれたように、1941年に真珠湾攻撃が行われると彼らの運命は暗転する。アメリカ政府の官憲からスパイ容疑者として財産を奪われ監視されるようになった。
こうした日系人はアメリカ星条旗への忠誠を表そうと志願してイタリア戦線に参加し、多くの戦功をあげた。
ホノルル生まれのダニエル・イノウエこそは、日系人部隊442部隊の一員として戦った英雄であった。
1963年から50年近くにわたって上院議員に在任して、2010年6月に、上院で最も古参の議員となり、慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出された。
さて、もうひとつ日系人に名前がついた空港がハワイにある。ハワイ島のコナの「エリソン・オニズカ・コナ国際空港」である。
スペース・シャトル・チャレンジャーの宇宙飛行士・エリソン・オニズカは、福岡県浮羽町をルーツとしている。
オニズカの祖父は、移民としてハワイのコナにわたりコーヒー栽培などを行っていた。
1986年1月28日11時30分にチャレンジャーが打ち上げられた。
しかし悲劇的な悪夢がチャレンジャーを襲った。チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は全員死亡したのである。
ダニエル・ノウエの父母は、1899年9月福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)からハワイに移民してきた。イノウエとオニズカのルーツは同じ福岡の筑後地方である。
オニズカは、イノウエら日系2世のこうした名誉回復の働きがあったからこそ、日系3世の自分がスペースシャトルの搭乗員として選ばれることができたたと語っている。
前述の倉本聡が「波の盆」を書きたいと思った直接のきっかけは、日系移民が埋葬された墓地に衝撃を受けたことだったという。
それらの墓は、砂地に埋もれたような墓石がみんな海の方、つまり西を向いていた。
「西方浄土とはいうが、西の方角に日本があるからなんで、あれを見た時、書くぞ!と思った」という。
ドラマ「波の盆」の主なロケーションこそは、ラハイナ浄土院であった。
ラハイナ浄土院は、観光地としても知られるとともに、盆踊りや除夜の鐘といった行事も行われ、日系人とばかりは限らない地域コミュニティの中心の一つとなっていた。
ところで、ハワイ初の日本の仏教寺院は、マウイ島のではなく、ハワイ島北東部「ハマワク」に設立されている。
「ハマクワ浄土院」は山口県の周防大島出身の岡部学応」師が1896年「ハマクア仏教会堂」を開基された事に始まる。

アメリカで50番目の州がハワイ州であるが、ハワイ州は大きな4つの島で成り立っている。
北からカウアイ島、首都ホノルルがあるオアフ島、マウイ島、日系人が多くの足跡を残すハワイ島である。
個人的に、愛知県明治村でハワイ島「ペペエオケ耕地」で日系移民の起床や作業開始の合図に使われたという「鐘」を見たことがある。
ペペエオケはハワイ島の町ヒロから北12キロにある小さな町で、その説明書きによると耕地の農業移民達は、朝4時半にこの鐘で起こされ、食事、支度の後、午前6時から午後4時半まで、11時半から30分間の昼食休憩時間をはさんで10時間の労働を行なったとあった。
当時、農村は全国的に凶作であったため、全国から多くのの応募があった。
日本・ハワイ両国間の合意による第1回ハワイ「官約移民」は1885年1月、944人が渡航し、その内訳は成人男性682人、成人女性164人、子供98人であった。
ハワイ官約移民は、1894年の第26回船で最終となるが、その間、約2万9000人がハワイに渡った。そのうち約2割が女性であった。
移民船の回数が増えていくに従って、移民の出身県は多様化していくが、西日本の各県が多数を占めていた。
官約移民の初期の給料は、食費などを合わせて月額15ドルで、給与面では当時としてはけっして悪い条件ではない。
契約期間は3年であったが、日本でのインフレの進行で、契約期間が満了しても日本へ帰国する者が減少していくようになる。
渡航を許された者を出身県別に見ると、山口県と広島県両県出身者の割合が非常に高く、山口県の中でも「周防大島」からの割合が突出して高く、周防大島は「ハワイ移民の島」とさえいわれる。
このように、地域的な偏りが出た大きな理由は、「官約移民」を実現させた初代外務大臣・井上馨の存在が大きかった。
井上は長州(山口県)出身で、維新前は一時、志道聞多と名乗る「攘夷派」であったが、外務大臣に就任してからは、欧米列強との不平等条約改正のため欧化政策をとり、いわゆる「鹿鳴館時代」を現出させている。
そのころは積極的に外国人との親交を深めて、その一人が官約移民の実現に貢献した「ハワイ総領事兼全権公使のロバート・ウォーカー・アーウィン」であった。
アーウィンはアメリカ独立宣言に署名した最初の一人、ベンジャミン・フランクリンの直系5代目の子孫にあたるという。
そして、アーウィンは日本人のいきと結婚し、これが日米間初の正式な国際結婚と言われている。
アーウィンは東京で死去し、彼の墓は東京の青山墓地にある。
ハワイの移民たちは早朝から夕暮れまで長時間労働を強いられ移動の自由は与えらなかったものの、官約移民は政府間交渉によって始まったため、厳しい労働条件とはいえ、ある程度の歯止めはあった。
実際に、日本の外務省からは「移民監督官」が現地に派遣されていた。
そうした移民監督官の一人が、前述の「立石斧次郎」、通称トミーである。
トミーは日光奉行も務めた中級の旗本家の次男として江戸新宿に生まれ、叔父の影響で13歳の時に幕府の許可を得て、伊豆下田でアメリカ総領事のハリスや通訳のヒュースケンなどから英語を習っている。
1860年に幕府が「遣米使節団」を派遣した際、トミーはオランダ語の通詞として使節団に加わった叔父の養子として無給通詞見習の名目で同行を許された。
トミーは乗り込んだポーハタン号の船内でアメリカ人の船員たちと気軽に会話を交わし、語学に磨きをかけた。「トミー」という愛称も、その時、船員から付けられたものであった。
使節団は6月16日にニューヨークに到着。ニューヨーク市では街をあげての大歓迎を受け、ブロードウェーでは正装した侍たちが練り歩く「侍パーレード」が行われた。
パレードはダウンタウンからユニオンスクエアまでを行進、軍による閲兵式もあった。
ニューヨークでは使節団に関する演劇や歌が上演されたり、土産物が売られたり、「Japanese」と名づけられたカクテルが人気になったりと、1860年のニューヨークの夏は「日本」であふれかえったという。
当時のアメリカを代表する詩人ウォルト・ホイットマンは、彼の代表作の詩集「草の葉」のなかで、ブロードウェーを行進した侍たちの詩「ブロードウェーの華麗な行列」という一編を残している。
「西の海を越えて遙か日本から渡米した、頬が日焼けし、刀を二本たばさんだ礼儀正しい使節たち、無蓋の馬車に身をゆだね、無帽のまま、動ずることなく、きょうマンハッタン街路をゆく」。
そんな使節団の中で最年少の16歳トミーはよほどの愛されキャラだっらしく、物怖じしないトミーの快活さがアメリカ人の間で人気を集めた。
当時、社交界で流行していたポルカというダンス曲の新曲に「トミーポルカ」という名が付けられるほどの寵児となる。
そんなトミーも帰国後には、幕臣として戊辰戦争に参戦した。
今市(現・栃木県日光市)に進軍してくる官軍を、兄の重太郎とともに迎え撃つ。
しかし、奮戦むなしく兄は戦死し、トミー自身も右ももを撃ち抜かれたものの辛くも九死に一生を得た。
維新後、「長野桂次郎」と改名したトミーに、再度アメリカを訪問する機会が訪れたのである。
1871年、欧米列強各国の視察と条約改正とを目的とした「岩倉遣外使節団」への参加を、新政府から要請された。
10年ぶりに訪れたアメリカの地で、自らの名前が冠された歌の存在を知ったようだ。
帰国後は退官し、一時、北海道開拓を目指すが失敗して帰京する。
1887年2月に、「岩倉使節団」で一緒だったハワイ総領事安藤太郎 (外交官)に同行して1887年一家でハワイに渡り、約2年間移民監督官を務めた。
ハワイ島の砂糖産業プランテーションの中心地として栄え日本からの最初の仏教寺院が設立されたハマクワの「ククイハエレ」という村に住んだ。
人口約300人ほどの小さな村で、「ククイハエレ」とはハワイ語で「歩く光」を意味しており、ハワイの神話クムリポにある、たいまつを持ってワイピオ渓谷へ向かう戦士の亡霊からつけられた名称という。
トミーは帰国後、大阪控訴院の通訳官に任命され、退任後は伊豆の戸田村で晩年を過ごし、1917年に74歳で亡くなった。
ちなみに、長野智子元フジTVアナウンサーは、トミーの曾孫にあたる。