不可解すぎる絵

最近話題のバンクシーは、世界中を舞台に神出鬼没を繰り返し、壁・橋などに、ステンシル(型紙)を使ったグラフィティを残している。
社会風刺的で、ブラックユーモアを感じるメッセージと、そのゲリラ的な発表方法は、多くの人の注目を集めてきた。
しかし、一方で公共物に絵を描くストリート・アート(グラフィティ)には、「アート」なのか「落書き」なのかという議論がつきまとっている。
ストリートに描かれた作品は、たとえ作者自身が「アート」であると考えていたとしても、見る人によっては「ヴァンダリズム(破壊行為)」といわれることもある。
バンクシーの作品は一貫した強いメッセージ性を持つことで、「アート」として人々に支持されてきた。
彼は、反戦、反暴力、反体制、反資本主義などをテーマに、見る人の心に刺さる作品を残してきた。
「何者にもしばられない」を体現したような、バンクシーの自由な作品や行動は、見る人にどこか清々しいような気持ちを思いおこさせる。
近年では、作品が高額な値段で売買されるなど、その影響力が巨大化。
その注目度や商業的価値の高まりから、今ではバンクシーのフェイク作品や、作品をモチーフにしたグッズが日本でも簡単に手に入るほど出まわっている。
つまり「バンクシー」の名がひとり歩きしている。
バンクシーは、イギリスをベースに活動している匿名の芸術家だが、その詳細なプロフィールは公式には公開されていない。
そのため、彼がどのような人物なのかについて、ちまたで語られている情報はすべて憶測であり、その「不可解」な存在感が人々の興味をより駆り立てている。
そして世界にはどうしてこのような絵が存在するのかと、個人的に「不可解な絵」を調べてみた。

コロンブスが新大陸を発見したのは1492年で以後スペイン・ポルトガルが南米を中心に進出する。
南米からトマトやジ、ジャガイモ、トウガラシがヨーロッパに伝わり、ヨーロッパから新大陸に疫病のほかに、馬・牛・小麦・サトウキビなどの家畜や作物、車輪や鉄器の技術などがもたらされた。
これを「コロンブスの交換」とよぶ。
イタリア料理がトマト、ドイツ料理がジャガイモ、朝鮮料理がキムチの材料となるトウモロコシなどのことを考えれば、食用としての野菜のビッグバンが起きたといえる。
しかし、人々が見知らぬ野菜を食べ始めたのは「おそるおそる」というのが真相らしく、「ビッグバン」ということにはならなかった。
なにしろ「トマト」は悪魔の赤いリンゴとみなされていたから、なかなか普及しなかった。
驚いたことに、野菜や果実は毒物とみなされ、食用ではなく「観賞用」として珍重されたという。
そのことを示すのが、顏のパーツ・パーツを野菜で表現して見事に合成した絵画の存在である。
その「不可解」な絵のモデルとなった国王はルドルフ2世。
1552年、後に神聖ローマ皇帝となるハプスブルク家のマクシミリアン2世の長男としてウィーンで誕生した。
母親のマリアは、神聖ローマ帝国の皇帝かつスペイン国王だったカール5世の娘。
ちなみにハプスブルク家は、オーストリアとスペインに分かれていて、実質神聖ローマ帝国の皇帝はこの両家から選ばれた。
ウィーンに生まれたルドルフ2世だが、スペイン育ちの母の強い要望もあって、11歳から19歳くらいまでの間をスペインで過ごした。
そして24歳の時に「神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世」として即位する。注目すべきは、33歳の時に宮廷を「ウィーン」から現在のチェコの「プラハ」に移したこと。
政治には深く関与せず、文化、科学に対する好奇心を持ち続け、世界中からあらゆるものを収集し驚異的ともいえる一大コレクションを作り上げた。
ルドルフ2世は、世界中から珍品を蒐集していた。それらを今の博物館の前身であるクンストカンマー呼ばれるコレクションルームに飾っていた。
さてルドルフ2世が絵師に描かせた絵のタイトルは「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」である。
宮廷画家ジュゼッペ・アルチンボルドによって1590年頃に制作された油彩画である。
アンチンボルドは、イタリアのミラノで画家の息子として生まれ、ステンドグラスのデザインを始め、ミラノのドゥオーモに作品を残した。
30歳のとき、ジュゼッペ・メダと共にモンツァ大聖堂のフレスコ画を制作し、その後、コモ大聖堂の聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけたりした。
36歳のとき、ウィーンでフェルディナント1世の宮廷画家となり、後にその息子のマクシミリアン2世や孫にあたるルドルフ2世にも仕えることになる。
67歳のとき、アルチンボルドはウィーンでの公務を引退した後、故郷のミラノに帰りそこで亡くなっった。
長年ハプスブルク家に仕えた宮廷画家のアンチボルトは、最も尊敬する皇帝の姿を、季節の変化や果樹園を司るローマの神話の神様「ウェルトゥムヌス」に見立てて描いた。
アルチンボルドがミラノに戻った後に描かれた「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」は、なんとルドルフ皇帝の顔をリンゴ、ナシ、ブドウ、チェリー、プラム、ザクロ、イチジク、エンドウ豆、トウモロコシ、玉ねぎ、アーティチョーク、オリーブなどの四季折々の花、果物と野菜など60種を組み合わせて表現している。
はじめてこの絵を見た人は、驚きを通り越してギョッとするにちがいない。
その顔を詳細に見てみると、向かって左は「黒いマルベリー」、右は「ダークチェリー」。左の頬は「リンゴ」、右の頬は「モモ」。
鼻は「洋ナシ」で、唇は「サクランボ」、歯は赤い「トウモロコシ」。
ヒゲは「ヘーゼルナッツの殻」、耳は、向かって右側だけが見える「トウモロコシ」である。
この絵を受け取ったルドルフ2世の反応は大好評だったとか。
ルドルフ2世は、皇帝を神格化するというアルチンボルドがこの肖像に込めた意図をしっかり受けとめ、さらにはコレクターとしての好奇心もあってか、この絵を高く評価したようだ。
美食家でもありその体重は150キロもあったなどとも言い伝えられている。
生涯を独身で通したが、たくさんの恋人もいたらしくプラハには「ルドルフ2世の隠れ家」、「ルドルフ2世が恋人に会う為に通った秘密の道」なども残っているという。
ルドルフ2世は、かならずしも民衆の支持を集めた支配者ではなかったゆえ、この絵画における信心深さ、力と繁栄の含意は、彼のパブリック・イメージを改善するのに役立ったかは、さだかではない。
ルドルフ2世が皇帝として暮したチェコ・プラハの町は、幾多の戦火を逃れ、古き都の姿をそのままに残している。
プラハの昔ながらのお土産として知られるものに「トウモロコシの皮人形」というのがある。
1648年の30年戦争でスウェーデンがプラハを侵略した際、ルドルフ2世のコレクションから多くの作品が持ち去られた。
そのためこの絵画はスウェーデンのストックホルム郊外のスコークロステル城に収蔵されている。
ところで、ドイツ「ロマンティック街道」の終点として、人気の観光スポットが「ノイシュバンシュタイン城」がある。「ノイシュヴァンシュタイン」は、ドイツ語で新白鳥石という意味で、東京浦安のディズニーランドのモデルになった城である。
「ノイシュバンシュタイン城」を築いたのは、バイエルン4代目のルートヴィッヒ2世である。
1871年、ドイツ帝国成立のカギを握ることになるバイエルンだが、ルートヴィヒ2世はニーベルンゲンの歌などの中世騎士道物語への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた、いわゆる“ワグネリアン”であった。
ノイシュバンシュタイン城に行くと、ルートヴィッヒ2世がワグナーを招いて演奏会をしている絵なども描かれている、
政治に関わるより「音楽」の世界に耽溺しルートヴィッヒ2世に、時代は違うが「コレクション」に耽溺したルドルフ2世を思い浮かべる。

絵の中にその絵を描いている「画家自身」が描かれているという不思議な絵がある。
ベラスケスの「ラス・メニーナス」スペイン語で「女官たち」の意味である。
幼い王妃を中心に、その周辺にはそれまで宮廷絵画では絶対に描かれることのなかった人々、つまり王妃の遊び相手である身分の低い「矮人」(小人)マデが描きこまれている。
さらには、黒い大きな犬の姿までも描かれていて、コレモ「宮廷絵画」としては常識ハズレである。
スペイン国王のフェリペ4世(1621~1640年在位)は、ベラスケスにしか自分の肖像画を描かせないと公言していた。
しかしさすがに、この画面の中に国王フェリペ4世を描き入れることはなかろうと思ったが、鏡の中に映った形でウッスラと「フェリペ4世夫妻」までもが描きこまれている。
つまり王女や「矮人」や犬や画家を見ているのが「フェリペ4世夫妻」というなんとも巧妙な構図で、ベラスケスはこの絵画の中に、王に関わった身近な人々および動物をことごとく描き込んだことになる。
この絵は要するに国王フェリペ四世夫妻から見た「集合絵」なのだ。
しかもその集合絵の中には鏡に写ったかたちで、フェリペ4世自身までもが入っているという手のこみよう。
なぜこんな絵画を、誰の「発意」で描いたのか不思議なのだが、注文主としてはフェリペ4世本人を外にして考えにくい。
スペインは無敵艦隊が1588年にイギリスに敗れて以来、スペインには「没落の兆し」が見えていた。
そして、フェリペ4世の時代はスペインの衰退が「決定的」となった時代であった。
後進国であったイングランドやオランダさらにはフランスに遅れを取り始め、結果としてポルトガルやオランダはスペインから「独立」してしまう。
フェリペ四世は危殆に瀕しつつある国家のまつりごとを家臣にゆだねきり、自らは芸術に没入していた。
おかげでベラスケスという一介の装飾絵師が、貴族に列せられる栄誉に浴したのである。
ベラスケスは、同じ運命を辿らんとする人々を、同じ絵画の中に描きこまんとしたのかもしれない。
フェリペ4世は「ラス・メニーナス」を見てどう感じたかはわからない。
ともあれ「王朝最後の栄華の一瞬」描きとめた絵画となったことは確か。フェリペ4世の子供達はことごとく夭折し、次代のカルロス2世の時にスペイン・ハプスブルグ家は「断絶」してしまうのである。

19世紀初頭、フランスの御用絵描きダビッドの大作に「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」がある。
1804年12月2日に行なわれたナポレオンの戴冠式を描いたもので、歴史の「一瞬」を見事に描いたルーヴル美術館でも最大級の大きさの絵画である。
この絵画のポイントは、ナポレオンがローマ法王によってではなく自ら戴冠し、王妃に王冠を与えようとしている。
しかしこの場面には「御用絵師」らしく、様々な脚色が施されている。
当初の構想では皇帝ナポレオンが自身で戴冠する実際の場面が描かれる予定であったが、ダヴィッドは皇帝は自身にではなく妻ジョゼフィーヌに戴冠する姿に代えた。
これは、ローマ法王に対する配慮が働いたとも思われるが、ナポレオンは教皇に完全に背を向けてジョセフィーヌに戴冠している。
一方、無理やりこの場に出席させられた教皇は、ナポレオン皇帝の正当性につきローマ教皇が祝福し賛同しているようにみせた。
その為に、聖母マリアの受胎を祝福する天使のポーズと「同じ手の仕草」に変更したのだという。
これによって皇帝ナポレオンが、妻ジョゼフィーヌに戴冠することで、画家は絵の中の主人公が誰であるかを明確した。
このような脚色を通じて、ナポレオンの皇帝としての権威を高めようとした意図があり、ナポレオンはこの絵を見てダビッデを賞賛したのだという。
さらに、本来ならばもう少し年配であったジョゼフィーヌは、美しさと初々しさを演出するために、ダヴィッドの「娘」をモデルにして描かれたとされている。
ところで、戦争の始まりやその後の展開が、予想しがたいことは歴史が教えるところである。
はたらみれば無謀にも見える戦いが、国内的には「結束」をはかる必要上、ついには戦争にふみこんでしまうことがある。
さらには、人間には意地もプライドもあって、「負け戦」とわかっていても戦うことがある。
戦国時代の3人の有力武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のうち、信長も秀吉も大きな「負け戦」をしたことがない。
ところが家康は若い頃、「三方ケ原」というところで武田信玄に「大惨敗」を喫している。
江戸発展の基礎を築いた徳川家康は、もともとの本拠地は愛知県岡崎を中心とした地域である。
当時の情勢をいうと、家康の父、松平広忠はまだ幼い家康を今川に人質に出し、弱小だった三河の存続をはかる。
だが広忠は家臣の謀略によって命を奪われ、本拠地の岡崎城は城主が不在となる。そのため今川から代官が派遣され、三河は今川の属国のような扱いになってしまう。
この家康の人質時代に岡崎城を預かっていたのは、「本多、榊原、石川、鳥居」といった長老たちだった。いわゆる三河武士団である。
この長老たちは、のちに家康を支える本多忠勝や榊原康政といった重臣たちの親世代であり、家康の祖父にあたる松平清康の時代からの家臣である。
若くして三河を統一する勢いだった祖父の清康は非凡な才能をもった英明な君主と期待されながら、政略によって家臣に殺されてしまった。
この無念を晴らすべく家康に期待していたのである。
窮乏生活に耐えながらも、いつかは家康を岡崎城の城主に迎え入れるという思いが、彼ら”三河武士団”の結束をいっそう固めた。
家康が若い頃、「三方ケ原」で大惨敗を喫したというのは、武田信玄が上洛のために家康の領内を通過するが、家康としてはいかに相手が強大であっても、領内を「黙って」通らせるわけにはいかないという意地があったのであろう。
そこで若き家康は果敢に戦いに挑むのだが、当時最強といわれた武田軍団に軽く蹴散らされてしまう。
しかし家臣団は負けるとわかっていても果敢に野戦に挑んだ若い家康を支えようと固い結束をしてくのである。
しかし家康という人物の面白さはその後の行動である。命からがら(脱糞しつつ)敗走する家康であったが、浜松城に戻った家康は、絵師を呼んで恐怖にゆがんで引きつっている「自画像」(通称「しかみ像」)を描かせている。
こんなに依頼主の顔をおびえきった顔にした絵師は、常識的には首が飛ぶはずだが、あえて一番「無残な時の自分」を描かせているのだ。
実際にロバに乗ってじずしずとアルプスを越えている。そしてそのような絵も他に残っている。
家康が「しかみ像」を描かせたのは、ナポレオンとは正反対の発想であったといえるだろうか。
最近、新説も出ているが、不可解な絵であることにちがいはない。