博多禅寺は「発見の山」

「博多」という町の由来は、広く多く様々な物産が集まるところに由来するという。つまり、遣唐使の時代から中国や朝鮮との交流の前衛の街。
例えば博多の中心に近い祇園には、空海が唐から帰国後、密教が長く伝わる様に建てた「東長寺」がある。
また、博多駅から吉塚方面へ向かう閑静な住宅街に、「東光院」がひっそりと存在する。
この東光院は最澄が遣唐使船で帰国し、航海安全を感謝して持ちかえった仏像を保持するために建てた寺で、「東光町」の町名の興りである。
また、中国の学僧との交流の深い承天寺・妙楽寺・円覚寺・聖福寺などの禅寺がある。
承天寺は中国人が多く住んだ大唐街にちかく饂飩・蕎麦・饅頭・博多織・山笠などの「発祥の地」の石碑がたつ。ここは旧博多駅のあった「出来町公園」に近く、公園には「九州鉄道発祥之の地」の石碑がたつ。
近年、公園近くに再現された「大唐街」を通り抜けると、「御供所(ごくしょ)通り」にでる。
、 御供所通りは妙楽寺・円覚寺・聖福寺が立ち並ぶが、こうした寺社への供え物を制作したことが町名の由来となっている。
そして立ち並ぶ禅寺のそれぞれに意外な発見がある。
1316年開山の妙楽寺は、「石城山(せきじょうざん)」という。
創建当時、妙楽寺は博多湾岸の沖の浜にあり、浜辺の石塁の上に築かれた堂々とした建物が、海上から見るとまるで石城のように見えたことにちなんだもの。
遣明使一行が宿泊するなど重要な外交使節のひとつであり、当時は「妙楽寺貿易」と呼ばれるほど中国と盛んに貿易が行われていた。
妙楽寺は1586年に一度焼失するが、江戸時代に入ると福岡藩によって現在地に移転された。
境内の墓地には博多の豪商で千代の松原で豊臣秀吉の茶会を主催した神谷宗湛(かみやそうたん)、そして歌舞伎で有名な「博多小女郎波枕」の題材となった伊藤小左衛門一族の墓がある。
伊藤小左衛門は、鎖国の時代に密貿易をおこない、見せしめ的に処刑された。
幼い子供二人も処刑され呉服町にある「万四郎神社」は、今は「子どもの神社」となっている。
さて和菓子の「ういろう」は、現在では名古屋や小田原の銘菓として知られるが、妙楽寺で、境内には「ういろう伝来之地」の石碑が建っている。
そもそもの「ういろう」は、現在のような菓子を指す言葉ではなく、中国の役職を表わす「外郎(ういろう)」という言葉だったという。
1368年、元滅亡後、外郎職にあった陳延祐(ちんえんゆう)が妙楽寺を頼って日本に亡命する。
医術に詳しかった陳氏は中国から伝来した薬を販売し、この薬が「外郎薬」と呼ばれるようになった。
陳氏は京都へ招かれて足利将軍に仕え「透頂香」(とんちんこう)と銘うって献上するが、より食べやすく調整したものが、お菓子となって「ういろう」と呼ばれるようになった。
薬剤師が開発したコカコーラが大衆の飲み物になったように、くすりとして開発された「ういろう」を食べやすくしようとしたところ、大衆に愛される「お菓子」となってしまった。
ちなみに「ういろう売り」は歌舞伎の有名な演目であり、TVで市川海老蔵の子「観玄くん」が、「ういろう売り」を一人演じているのを見たことがある。
妙楽寺は歌舞伎と縁のある、妙に楽しげな寺である。

妙楽寺に隣接してあるのが円覚寺。円覚寺といえば日本史教科書によれば、鎌倉幕府五代執権・北条時頼によって建立された寺院で、開山は蘭渓道隆とある。
蘭渓禅師は中国から渡来した僧で、中国・南宋に留学していた日本人僧との縁で、日本に本格的な禅を布教する為に来日した。
禅師は来日当初太宰府に行き、鎮西奉行の藤原道信と出会う。道信は天台宗の信者であったが、禅師に参禅帰依し臨済宗へと改宗、「道如上座」と呼ばれた。
道信没後その一族が、道信の別荘を千磐浜(現在の祇園町付近)に移しそれを「円覚寺」としたのである。
円覚寺は1586年に喪失した後、現在地の博多御供所町に移転再建され、安国山聖福寺の搭頭の一つとなった。
この円覚寺の入口ですぐ目につくのが、「外尾家累代の墓」。この外尾家こそは、TVで「コーヒー・ネスカフェ」のコマーシャル「違いがわかる男」に登場したこともある外尾悦郎の一族の墓。
現在は、JR鹿児島本線を挟んで南側の閑静な住宅街の「外尾質店」があり、悦郎はその次男である。
外尾悦郎は、1953年生まれ、 福岡高校から京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業。
1978年石工になるべく25歳で日本を飛び出し、バルセロナに渡りアントニ・ガウディの建築、「サグラダ・ファミリア教会」の彫刻に携わる。
外尾は、ガウディの遺志を受け継ぎ、「生誕のファサード」と向かい合う。
ファザードとは、建築物正面のデザインのことだが、丁寧で粘り強く創造性に溢れた仕事ぶりが評価され、長く「主任彫刻家」を務めてきた。
そして2000年に完成したサクラダファミリアの「生誕の門」は、世界遺産に登録された。
外尾は、大学の時の一人の先生と出会う。元特攻隊員で、戦争で死ぬはずだったという先生は、「変わらぬもの」を求めて石にたどり着いたという話を聞き、石への興味が始まったという。
サグラダファミリアに来たのも、石を掘りたかったからだが、まずはガウディを知らなければならないと勉強をはじめた。
周囲は、石を掘ることに過去は関係ないと思いがちだが、外尾はひたすらガウディについて勉強した。
ところが、学べば学ぶほど、ガウディと自分の間には深い溝があると感じた。
或る時、ガウディは自分など見ていなかったし、自分もガウディを見ることをやめようと決意した。
それより、ガウディが見ている未来と同じ方向を見ることにしたら、自分がガウディの中に入り、ガウディが自分のの中に入ってきたと感じた。
つまり自然と、ガウディが「何を」作りたいかが分かるようになったという。
ところで、中国の官職名が地名なっている場所が、福岡市の南区にある。それは曰佐(おさ)という地名。
曰佐の曰の漢字は日(ひ)ではなく、「曰く(いわく)」という漢字である。
残された記録によれば、この曰佐は大宰府政庁のための通訳の人が住んでいた町で、上曰佐(かみおさ)に朝鮮、下曰佐(しもおさ)に中国の通訳の人が住んでいたという。
曰佐校区は、北隣が三宅(みやけ)校区で、「屯倉」に由来する。また南隣には春日市の須玖校区で、志賀島で発見された「倭の奴国」の王墓が発見された「岡本・須玖遺跡」がある。
さて、「ういろう」は前述のとおり中国の官職の名「外郎」であるが、伝来地妙楽寺の隣接する敷地に「外尾家累代の墓」がある。
2023年の春の「寺町散策」の発見は、「外郎(ういろう)」と「外尾」は文字が似ていること。
読み方によってはひとしく「そとお」と読めるのは単なる偶然だろうか。

御供所通りを北に向かって円覚寺に隣接するのが聖福寺である。聖福寺は日本に初めて茶を伝えた栄西(ようざい)が建立した臨済宗の寺である。
正門とおぼしき処には後鳥羽上皇による「扶桑日本最初禅窟」(日本最初の禅寺)という石碑がたっている。
この寺は後鳥羽上皇の勅願寺で、その門は天皇家「菊の御紋」がほどこされている。
この正門は「勅使門」とよばれ、天皇が派遣した勅使のみが通る門で、いまでも開かずの門である。
臨済宗の開祖・栄西は日本に最初に茶をつたえたの建立した寺だけで、勅使門近くに茶が植えられている。
ただ栄西が開いた茶畑は早良区脇山にあり、「脇山中央公園」に日本のお茶発祥の地を記念する「栄西禅師 茶徳碑」の石碑がある。
そんな格式の高い名刹に、放浪の「仙厓和尚」が住寺になっているのも、意外な発見である。
仙厓は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧で、1750年農民の子として美濃国武儀郡で生まれた。
11歳の頃清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚について得度し、臨済宗の僧となった。
19歳の時、武蔵国(神奈川)の東輝庵で修行を始め、1781年32歳にして同寺を出て行脚の旅に出る。
修行の旅を続けるなか、39歳になって同門であった大宰府戒壇院の太室玄昭のすすめで博多に降り聖福寺の法嗣となる。
その後住持を23年務めている。その間、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残している。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。
昭和初期に「仙厓ブーム」ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、多くの作品が各地から発見され、様々な逸話や論説が乱立した。
仙厓の絵のコレクターとして出光佐三が知られ、そのコレクションは東京の出光美術館に収蔵されている。
地元で仙厓の絵を愛したのが石村萬聖堂の二代目社長の石村善右である。
1905年創業の石村萬聖堂は博多の銘菓を数多く生み出し、日本の「ホワイトデー」の発祥の地でもある。
この聖福寺の墓地には、日本の首相で東京裁判でA級戦犯となった広田弘毅の墓があり、また日本の三大編曲者の一人・大村雅明の墓がある。
大村雅朗は1951年、福岡市博多区奈良屋町の、京染店「大村染店」の家庭の5人兄弟の末っ子・次男として生まれた。
小中学校時代は、鼓笛隊に入隊したり、ピアノを習ったりした。
福岡大学附属大濠高等学校では中学・高校では吹奏楽部に所属、アルト・サックスを担当した。
高校在学中の3年間は、吹奏楽コンクール福岡支部予選で3年連続優勝、3年生時には吹奏楽部部長を務めた全国大会で入賞を果たした。
友人によれば、大村はキングコングのテーマを演奏した際に、突然にサントラ盤からぬいたキングコングの声をいれるなど、人を驚かせ、楽しませることが好きだったという。
その後、現在のヤマハ音楽院の第1期生として進学した。卒業後は、ヤマハ音楽振興会九州支部に嘱託スタッフとして入社した。
1975年頃、ポプコンやコッキーポップ用の楽曲アレンジ、スコア書き、レコーディング作業などを行うのと並行して、母校の大濠高校で吹奏楽部の指導をしたりしていた。
その頃から、「日本の音楽は遅れている」と感じるようになり、アメリカ・ロサンゼルスへいった。
帰国後はしばらく、西南学院大学応援指導部吹奏楽団でも指導を行うようになった。
1978年に上京し、本格的にプロの編曲家としての活動を開始する。
すぐに八神純子「みずいろの雨」の編曲で一躍注目を浴び、その後は稀代のヒットメーカーとして活躍する。
1970年代後半から80年年代のいっわゆる「アイドル全盛期」に多数の楽曲にかかわった。
大村雅朗は、なんといっても作曲者・財津和夫や作詞家・松本隆とともに松田聖子の世界観をつくりあげたといってよい。
編曲の仕事は、曲の出だし「つかみ」を創るのが一番の仕事。
久保田早紀「異邦人」(萩田光雄編曲)がとても印象深いのは、イランの民族楽器「ダルシマー」を使ったことが大きい。
編曲とはこうした曲調、楽器の組み合わせ、歌手の声の質、シンセサイザーの使うなどといった曲の魅力を高める仕事である。
「竹内まりあ」にせよ松任谷由美にせよ、いまなお輝きを失わないのは、山下達郎、松任谷正隆といった優れた編曲者を公私にわたるパートナーにもっていることによるであろう。
さて、大村の徹底した仕事ぶりから数多くのアーティストやスタジオミュージシャン、レコーディング・エンジニアから信頼を得ていく。
大村はアレンジャーでありながら、その内容にはプロデューサー的な役割も多分に含まれており、音楽プロデューサー絶頂期を迎える日本の音楽シーンにおいて、その"走り"であったと言われている。
アノ小室哲哉の才能をいちはやくみぬき、音楽の方向性について"テクノ"があっていると後押ししたのも大村であった。
松田聖子にとって”転機”になったが、「SWEET MEMORIES」といわれているが、大村はこの曲の作曲・編曲で「日本レコード大賞・編曲賞」を受賞している。
ジャズのアレンジが松田い聖子のイメージを変える名曲であった。
この曲の出だしでは、テープを逆まわしするなど斬新な手法で不思議な浮遊感をだしている。
この曲は、大村が、期限ギリギリまでに3分の1ぐらいしか曲ができずにいたが、当時の音楽プロデユーサーが大村宅を訪れて、二人でここで作ってしまおうといいだし、一晩のうちに完成したのだという。
その後、大村は小室哲哉の出世作を手掛け、彼のプロデュース能力を後押ししたこともあり、小室は大村を「先生」とよび、尊敬していた。
そんな大村は、1997年6月29日、肺不全のため46歳で急死している。
あまりにも突然の訃報であったが、生涯1600曲もの制作に携わった。
人生の半分がタイム・リミットとの戦いだった。個人的には手塚治の急死(享年60)を思い浮かべる。
同郷の松田聖子は「まーくん」と呼んで実兄のように慕っており、彼女のデビュー当時から良き相談相手として信頼されていた。
松田聖子のいくつかの曲は、大村編曲で松本隆作詞とチューリップのボーカル財津和夫作曲のトリオでプロデユースされた。
そして大村が生前に残した楽曲「櫻の園」があった。親交の深かった作詞家の松本隆により、誰かの死を悼むような詞が付けられた。
この曲は、松本から依頼されて作った大村の楽曲だが、事情により「お蔵入」りとなっていた。
綺麗なメロディなのでいつか使いたいと松本がとりかかっていた曲だが大村は亡くなってしまい、「聖子さんが歌ってくれたら彼も喜んでくれるだろう」と、作編曲者の”名前を告げず”に松田聖子に歌わせてみた。
すると歌い始めた松田聖子は、途中から泣きだして歌えなくなってしまったという。松田がこの曲を「大村編曲」と気がつくまで、時間はかからなかった。
さて聖福寺の西門にあるのが「西門蒲鉾」(さいもんかまぼこ)で、ひとりのミュージシャンと関わりがある。
福岡には1960年代半ばの頃より、九州のバンドで中央をめざす多くの若者の舞台があった。
現在のソラリアすぐ近くの喫茶店「照和」で、無名時代のチューリップ・甲斐バンド・武田鉄矢・長渕剛などのミュージシャンが演奏していた。
「照和」は経営者をかえながらも現在も存続している。 西南学院大字の学生を中心に結城されたバンド「チューリップ」は、第3回全日本ライト・ミュージック・コンテスト(フォーク部門)に出場し、九州代表としてグランプリに進出し3位となる。
この時の第1位は「竹田の子守唄」の赤い鳥(関西・四国地区代表)、第2位は小田和正在籍のジ・オフコース(東北地区代表)という水準の高さ。
1972年に上京し、「魔法の黄色い靴」でメジャーデビュー。翌年に出した3枚目のシングル「心の旅」が5か月かけてレコード売り上げ1位を記録し、一躍有名となる。
この時のボーカルは財津ではなく姫野達也であった。
このチューリップでドラムスを担当した上田雅利の実家が「西門蒲鉾」で、上田雅利の兄の啓蔵氏が社長である。
チューリップのリーダーであった財津和夫は香椎出身であるが、大村の死後、松田聖子の曲を一緒にてがけた大村雅明が”同郷”と知って驚いたという。
それもメンバーの上田雅利の実家に面した聖福寺に大村家の墓があり、そこに「戦友」が眠ることになろうとは!