「不肖」でもなかった息子

2022年9月に亡くなったエリザベス女王は、在位が70年にもおよび歴代1位である。
それまでの在位期間歴代1位の女王は、大英帝国が「陽の沈まぬ国」とよばれた時代のビクトリア女王。
二人は在位期間の長さも含めてどこか似ている。まず国民に愛されたこと。そして「不肖の息子」の存在。
エリザベス女王の70年にも及ぶ長い母の時代の後に、73歳の息子チャールズが即位した。
ダイアナ妃の悲劇的な死や、妻となったカミラ夫人のイメージもあってか、英連邦の国々(旧イギリス植民地の国々)が、イギリス国王を戴くことを見直す動きもでている。
一方、日本の幕末明治と重なる64年間を在位したのがビクトリア女王で、その長男がエドワード7世。
エドワード7世は即位する59歳までの長い皇太子時代に、様々なスキャンダルで物議をかもしてきた。
ビクトリアの夫アルバート公の早すぎる死は、息子のそうした不良行為が原因だった。
イギリス王室としては前代未聞、女王自らプロポーズして結ばれたアルバート公。そんなビクトリアの最愛の夫の死の喪失感をなかなか消えず、女王は以後3年間喪に服して、議会に姿を表さなかった。
ただ、国務は郵送物によって、アルバートと短い休暇を毎年過ごしたワイド島でしっかりこなしていた。
国会に顔を出さぬことへの批判も出る一方、喪服の女王を家族として当然の感情と擁護する声もあがった。
家族だからこそ、息子のスキャンダルに親が心を悩ませる。君主であることは、妻であり母であることと矛盾するものではない。
スキャンダルに翻弄される姿ですら、国民が心をよせる理由となりえた。
こうしてビクトリア女王は、君主という家族像、ロイヤルファミリーのイメージを押し出し、従来の君主像を大きく変えた。
また、ロシアとのクリミア戦争では王女や女官を総動員して戦地にむかう兵士の為に手袋を編ませたり、将校ばかりではなく、一兵卒に対する勲章として「ビクトリア十字記章」を作りその功績をたたえた。
女性には勲章はなかったので、ナイチンゲールには、、勲章に似たブローチを与えた。
すなわちビクトリアは「大英帝国の母」としての姿を示そうとしたのである。

一般にワインを寝かせておくと、まろやかで味わい深くなる。ちょうどワインのごとく年輪を重ねることの意味は人間にもありそうだ。
歳を重ねれば、退職や離別、死別といった喪失を味わう。そのため寝かせて酸っぱくなるワインもある。
ちょうど長く葡萄酒を寝かせれば味が豊潤さをますように、負の経験をプラスにできるかどうか。
「負の経験」を時間をかけてプラスに転換させる人もいる。その代表が、英国のミステリー作家のアガサ・クリスティー。
彼女は夫の不実などに悩んだ末に、謎の失踪事件を起こして40歳前に離婚する。
そして14歳年下の考古学者と再婚し、その後も評価の高い多くの作品を残しただけではなく、「メアリ・ウエストマコット」の名義で、恋愛・結婚の葛藤を描いた小説を60代までに6編書いている。
イギリス新国王チャールズにも「負の経験」でどれほどの知見を得たかが問われる。
では、ビクトリアの「不詳の息子」といわれたエドワード7世は、どうであったか。
エドワード7世は、1841年11月母ビクトリア女王とその王配である父アルバートの長男としてバッキンガム宮殿で誕生する。
誕生と同時にコーンウォール公爵に叙され、その1ヶ月後には英国王太子を意味する「プリンス・オブ・ウェールズ」に叙された。
父アルバートとヴィクトリア女王の父エドワードの名前から「アルバート・エドワード」と名付けられた。愛称は「バーティ」。幼少期のバーティは、当時のヨーロッパの王族が大抵そうであったように、学校へは通わずに家庭において厳しく育てられた。
ところがバーティは両親からは出来損ないと目されていたようであまり評価されていなかった。
ただ語学には堪能で、ドイツ語とフランス語はかなり流暢に話すことができた。
1852年の初外遊でフランスを訪れた際、当時のフランス皇帝ナポレオン3世に大変可愛がってもらい、同行した馬車の中で「あなたの子供に生まれたかった」と呟いたというエピソードは有名である。
その後、王族としては初めてオックスフォード大学に入学する。その後ケンブリッジ大学へ転校するが、ここでバーティは悪い仲間と出会い、つるんで不良行為を重ねるようになった。
当時、ケンブリッジ大学の総長でもあった父アルバート公に厳しく叱責されるが、心労がたたってアルバートはその翌月には亡くなってしまう。
母であるビクトリア女王はこれに激怒し、バーティを遠ざけるようになっていく。
バーティはその後アメリカ、カナダに留学するも、帰国後にはある女優と艶聞を流し、またも不良行為に走り続ける。
業を煮やした女王は「結婚させればこの不良行為も治るだろう」と考え、当時美貌で有名だったデンマークの王女と見合いをすることになった。
ただ当時デンマークはドイツとある土地を巡って争っている最中。デンマークと接近することが、かねてからイギリスと親密だったドイツを刺激するかもしれないと女王も慎重にならざるをえなかった。
そこで見合いはビクトリア女王の叔父であるベルギー国王レオポルト1世の宮殿で行われた。
見合い相手のデンマーク王女アレクサンドラは想像以上に美しく、ビクトリア女王もバーティも一目で気に入り、この結婚を強く望んだ。
経済的に困窮していたデンマーク王室もこの縁談に乗り気で2人は結婚する。
しかしバーティの更生を期待しての結婚であったが、女王の願いも虚しくバーティの女遊びはその後も続いたらしい。
女王は不出来な息子を遠ざけて、重要な国務に携わらせることはなかった。しかし、バーティーは数少ない公務の中でそれなりの手腕を発揮し、とくに外交においては得意の語学力を生かして成果を上げた。
当時は現代とは違い、君主が外交、国際政治に果たす役割がとても大きい時代であった。
当時トルコとギリシャ、エジプトに間で高まっていた緊張感を、三カ国を歴訪することで緩和させたこともあった。
そしてビクトリア女王が崩御した年に王位に就いたエドワード7世。その治世は1901~10年と10年であった。
王位に就くまでは私生活の乱脈ぶりから良き王としての期待はされていなかった。
しかし、王位に即位後はフランス、ロシア、日本など国外交渉に力を入れ外交に尽力を注いだ。
南下政策が世界各地で問題を引き起こしていたロシア帝国との関係を改善し、長年ライバルだったフランスとも友好関係を築いて戦争を回避して、「ピースメーカー」ともよばれ、「ビクトリア時代」に次ぐ「エドワード時代」という言葉さえも生まれた。
ちなみに、1902年の日英同盟も「エドワード時代」に結ばれている。
またこの間にバーティは長男アルバート・ヴィクターを肺炎で喪っている。
王太子妃アレクサンドラも嘆き、バーティも「自分が代わりに死ねばよかった」と悲しんだという。
バーテーもそうした「喪失感」の中で、自分を見つめ直し熟成した面もあるのかもしれない。
重要なことはエドワード7世が、母ビクトリア女王が変えた「君主像」をつないだことである。
具体的には貧民救済などのロイヤルファミリーとしての慈善活動などである。

明治初期に、東京牛込の骨董商の娘に青山光子という女性がいた。
青山家は九州佐賀の出で、手始めに扱った商売が「油」。江戸を明るくしたのは、菜の花のたね油を使う行灯で、この時勢の油ブームに乗りあわせた。
青山喜八は石油がはいってきて、たね油の命の長くないことを見抜き、元来興味を抱いていた骨董品を扱うようになった。
このことが、青山家に骨董品好きのオーストリアの名門貴族を近づけ、青山光子の「シンデレラ物語」を生む結果となるからだ。
当時、青山光子は「紅葉館」という会員制の社交場で働いていた。現在、東京タワーがたつ所には「紅葉館」は、欧化政策の舞台「鹿鳴館」の陰に隠れて目立たないが、この「紅葉館」に女中として働いたのが、青山光子である。
女中とはいっても、当時の雑誌によれば、「十四から十八ぐらいの少女」を集め、多いときは50人前後いた彼女達を、花柳界にまさる「美姫」として書きたてており、歌劇団のようなものだった。
青山光子は、「オ-ストリア大使代理」として日本を訪れた折、店を訪れてきたクーデンホーフ・ハインリッヒと出会った。
そして、お互いに美術面における知識と趣味を共有し、いつしか恋に落ちる。周囲はその結婚に反対したが、3年後に反対をおしきって結婚する。
東京において、二人の間には「光太郎(ヨハン)」「栄次郎(リヒャルト)」という二人の子供ができた。
青山光子はクーデンホーフ家という由緒ただしきオーストリアの名家に入ることになった。
クーデンホーフ家がどれくらい「名家」かというと、ハプスブルク家に仕える家臣ナンーバーワンの家柄、つまり天皇家に仕える「近衛家」の家格に匹敵するとみてよい。
クーデンホーフ家の領土はボヘミア地方にあり、夫とともに光子は十数人の使用人のいるロスンベルク城で7人の子供と優しい夫に囲まれ幸福な日々を送った。 ロンスペルク邸の継承は長男ヨハン(当時12歳)を指名したが、その他の財産は光子のものであり、子供達が成人するまでの後見人としても彼女を指名していた。
親族一同は、言葉もまだ上手ではない異邦人光子が、包括相続人として広大な土地・邸宅の管理権を相続し、さらに子供達の後見役となっていることに驚いた。
光子は子供達を連れて帰国するかもしれないし、財を目当てに近づく男と再婚するかもしれない。
こういう場合、子供達が成人するまで幾人かの親族と財の「共同管理」をするというのが常識である。
予想通り、光子に対して訴訟が起こった。
光子は小学校しかでておらず、当然ながらオーストリアの法律にはまったく無知であった。
そんな彼女が優秀な弁護士を雇うと同時に、自身法律を勉強するようになる。
しかも光子は驚くほどに賢くふるまった。訴訟中に邸に立ち寄る親族にたいして、以前にもまして心からのもてなしをした。
親族達も、当初抱いていた光子像が崩れ、なぜハインリヒが妻一人を後見人にしたかを理解するようになる。
裁判に勝った光子は、広大なロンペルスの領地の管理に力を集中した。
まるで専制君主のように、自分の命に背いた従僕は、容赦なく首にし、逆に自分は主人に頼られていると自負するような者も解雇した。
彼女自身、好きで変身したわけではなく、彼女の双肩にのしかかる責任感ゆえに、そうせざるをえなかったといえる。
光子は家をよく守り、光子はすべての子供たちを名門学校に入れて、子供達を熱心に教育した。
その教育理念は子供達に残した数多くの手紙の中にあり、日本の「明治思想」と「欧州の理念」を融合させた厳しくも優しい教育理論は上流階級をはじめヨーロッパでも高い評価を得ている。
そして、クーデンホーフ家の伯爵夫人として日本人として初めてウィーンの社交界に登場するや、彼女の凛とした立ち居振舞いから「黒い瞳の伯爵夫人」として社交界の花形となっていく。
光子がオーストリアの社交界で生きていけたのには、若き日に働いた「紅葉館」での体験が少なからず役立ったといえそうだ。
彼女の噂で拡がるつれ、フランスのゲラン社は「MITUKO」という名の香水を発売する。
ウイーンでの数年間の華やいだ生活も終わりに近づくころ、光子にとって大事件が起きる。
当時、ヨーロッパの四大女優のひとりと呼ばれたイダ・ローランと光子は知り合うようになった。
ある日イダから光子に、彼女と長男ヨハンをプライベートのディナーに招待したいという申し出があった。
あいにく長男は留守だったが、次男のリヒャルトがいあわせた。リヒャルトは大学に進学したばかり。内向的な性格で本ばかり読んでいるような青年だった。
そのリヒャルトが思わずついていくというので、光子は驚くと同時に内心喜んだ。
光子は、リヒャルトがイダ・ローランの隣に座って、イダの演じた役から作者のドストエフスキーについてまで饒舌に語っているのをみて驚いた。
数日後、仮装舞踏会があり、またもやリヒャルトが同行すると申し出た。
それ以後、イダとリヒャルトは逢瀬を重ねるようになり、ついには同棲をはじめる。
これには光子は烈火のごとく怒りった。大学に入学したばかりのリヒャルトを、十三歳も年上のイダが誘惑したと考えた。イダはバツイチで子供さえいた。
そんな時、1914年に第一次世界大戦勃発する。光子が居たオーストリアは、皮肉なことに日本とは敵対する関係となる。
長男ハンスとゲロルフを戦線におくり、四男を高校の寄宿舎にいれ、娘3人を手元においた。
オーストリアハンガリー帝国は、ドイツ・オスマントルコ・ブルガリアと同盟をくみ、イギリス・フランス・ロシアの連合国と闘った。
敗戦となり、オーストリアとハンガリーが分離し、光子が住んだロンペルク邸宅はボヘミヤにあったので戦後はチェコスロバキアの領土となっていまった。
夫ハインリッヒの遺言にあったように、戦線から帰ってきたハンスは、ロンスペルク邸の継承者になった。
長男ハンスはその後、ユダヤ系の妻を迎えるが、これにも光子は大反対して、結局ハンスも母親から勘当されてしまう。
皮肉にも、日本で生まれた子供達二人は、いずれも彼女の意に反した結婚をしたため、勘当の憂き目にあっている。
その後光子はウィーン郊外で晩年を過ごし、病と闘いながらもクーデンホーフ家の復興のため尽力した。
彼女はオ-ストリアでの45年間、一度も日本に帰国することなく1941年に67歳で亡くなった。
かつて本ばかり読んでいたリヒャルトは、1923年に著書「パン・ヨーロッパ」を発表する。
国際連盟を提唱したウイルソンは「民族自決の原則」を主張したが、それが結果したものは、民族対立によるヨーロッパの分裂とあまたの弱小独立国家だった。
そうした不安定な情勢を克服する為にリヒャルトが唱えたパン・ヨーロッパ思想は、国家同士が連邦を形づくることで国の乱立に統一を与え、生産や販売をその連邦内で調整するという構想だった。
つまり近代における「EU構想」の原型であった。
その後このビジョンは着実に拡がっていくかに思えたが、ヒットラー率いるナチスが台頭する。
この時期、ヒットラーは「やっとゲルマン民族の自決権を行使すべきときがやってきた」と豪語し、ウイルソンの「民族自決の原則」はかくも悪用され、その脆さを露呈してしまった。
ナチスの思想と「パン・ヨーロッパ思想」は正反対のものであったから、リヒャルトにナチスの魔手が及ぶのは必定だった。
身の危険を感じたリヒャルトはすんでのところでスイスにイダ・ローランも一緒に亡命した。
タイミング的に、この状況が映画「カサブランカ」に材料を提供したといわれている。
ならばリヒャルト(栄次郎)は、映画のラストシーンでイングリット・バーグマンと共に飛行機で逃れる人物、ポール・ヘンリード演ずる反ナチス抵抗運動の指導者、ヴィクター・ラズロのモデルとなったことになる。