聖書の言葉(我らの名をあげよう)

旧約聖書に、「バベルの塔」建設に向かう人々の言葉がある(創世記11章)。
「彼らは互に言った、”さあ、れんがを造って、よく焼こう”。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、”さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう"。
時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、”民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう”。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた」(創世記11章)。
この物語は、いくつかのポイントがある。
まず「石の代わりにれんが、しっくいにかわりにアスファルト」。最近トルコやシリアを襲った地震でもでもわかるとおり、日干しれんがで作られ建物が地震では極めて脆弱であることがわかる。つまりバベルの塔は、けっこう安普請という印象がある。
また塔の建設につき神が「彼らはすでにこのことをはじめた」とあるが、聖書には、神は人間にとても高い能力を与えたことが、記されている。
「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩編8編)とあるように、神は人間を神に似せ「創造者」として創造された。
ところが「バベルの塔」物語では、その被造物たる人間があたかも創造者である「神」に対抗するかのような「企て」をしているのである。
いいかえると、ロボットが人間と張り合うとしているように。それも人間が「ひと塊」になって「天の頂に届かん」、つまり神と等しくならんとしている。
しかも神は、彼らがことを始めたことにつき、「もはや何事もとどめ得ない」と発している。
この「バベルの物語」における人間の「不遜さ」に、中東のドバイあたりに林立する超高層ビルが脳裏に浮かぶが、それ以上にAI技術のとどめようもない発展で、人間の自律的判断や創造性や感受性さえもロボットができるようになっていることが浮かぶ。
そして、AIを搭載した「無人機」がまるで自分の意志をもって人間さえ攻撃の対象としている。
塔と建設し始めた人間の姿をみて、神は「われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにした」とある。
ここで神が「われわれ」という複数形で語られている点に注目したい。
神は唯一なのになぜ「われわれ」と名のるのか。その答えは、イエスがユダの裏切りによってローマ兵に捕らわれんとする場面にあった。
ローマ兵がイエスを捕まえようとして、イエスと共にいた者が切りつけるとイエスは、「”あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを”十二軍団以上”も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」(マタイの福音書26章)と応えている。
つまりイエスが「万軍の主」であることを「われわれ」という言葉が示している。
さらにこの物語の結末は、神が人間の言葉を「乱し」通じなくしたために人々は散ったということ。バベルとは「乱す」という意味である。
神は洪水後ノアに「生めよ 増えよ 地に満てよ」(創世記9章)と語っていることからも、人間が一箇所に固まることをヨシとはしないようだ。
さて今日、コミュニュケーションの飛躍的な発展が期待されたSNSはかえって人を分断させ、なにが嘘か真か判別がしがたいほどフェイクにあふれている。
そして、AIによる画像・音声・文章・映像の「生成」は本物と見紛うばかり、そして「事実」よりも「フェイク」の方を受入れようとす心理さえ生まれている。
結局「バベルの物語」で本質的な問題は、神をさしおいて人間の側に、神に何かを求めようという姿勢が寸毫も見られないことだ。
新約聖書「ヤコブの手紙」に次のような言葉がある。
「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」(ヤコブの手紙4章)。
ところで聖書全般から、神が人に望んでいることとは、人々が「神に栄光を帰すこと」、もしくは「神の御名のみが崇められること」である。
いいかえると「われわれの名をあげん」とすることとは正反対のことである。
ダビデという過ち多き人間が、終始神に愛されたのは、この点からはずれなかったことにあろう。
ダビデはサウル王に追われヘブロンの荒野での生活から脱し、エルサレムで王宮が与えられた時の感謝を、次のようにささげている(サムエル記下7章)。
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。 主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。 ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。主なる神よ、あなたはしもべを知っておられるのです。あなたの約束のゆえに、またあなたの心に従って、あなたはこのもろもろの大いなる事を行い、しもべにそれを知らせられました。主なる神よ、あなたは偉大です。それは、われわれがすべて耳に聞いたところによれば、あなたのような者はなく、またあなたのほかに神はないからです。地のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか」。

世界史をみると人間は苦境になればなるほどは「英雄」を求める傾向がある。そして集団心理が作用して熱狂さえもする。
そして旧約聖書の預言者マラキの語った次のような気分にさえなる。
「あなたがたは言った、"神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない"」(マラキ書3章)。
しかし神の目からみて人間が讃える「英雄」とは偶像のようなものである。なぜなら神が望むのは「神に栄光が帰される」ことだからだ。
それが一番よくよくわかるのが「ギデオンの三百」の物語。この物語には、神が人々を「乱した」という点で、「バベルの塔」と重なるものがある。
サウル王やダビデ王が登場するイスラエル王政に先立つ時代は、「士師」とよばれる指導者が民衆を導く「士師時代」であった。
そんなイスラエルの王なき時代に、ギデオンとよばれる士師がいた。
敵であるミデヤン人や、アマレク人などが「いなごのような大群」で谷に伏していた。
それらの敵と戦うギデオンに対して神は、なんとイスラエルの戦士の数を減らすように命じた。
その理由は、後々イスラエルが自らの力によって勝利したと誇らないためだという。
そこで恐れを抱くものは即帰るようにいうと、2万2千人が帰っていき、残ったの者は1万人だけになった。
しかし神はそれでもまだ人数が多いと、彼らを湖の水際に下らせるよう命じる。
その中で、手ですくって水を飲むものを選び、ひざをついて飲む者を帰らせた。
つまり武器をいつでもとれる臨戦状態で水を飲んでいる者だけを選んだのである。
ひざをついて水を飲むものは武器を手離し、敵の不意の攻撃に対して警戒を怠っているからである。
そして、条件にかなう戦士を集めたところ、かろうじて300人。イスラエル人は、いかに精鋭とはいえ、わずか300人だけでどうやって「いなごのような大群」と戦うのか、と思ったに違いない。
そして神がギデオンに命じた戦いたるや、実に風変わりなものであった。
ギデオンは300人を3隊に分け、全員の手に角笛とからツボとを持たせ、そのつぼの中にタイマツを入れさせた。
そして、真夜中の番兵の交代したばかりの時間、陣営の端に着いたギデオンが角笛を吹きならす。
すると全陣営、回りの百人ずつの三隊が一斉に角笛を吹きならし、つぼを打ち砕きながら「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶというものだった。
そして各自が持ち場を守り、敵陣を包囲したのである。
そして300人が角笛を吹き鳴らしているうちに、陣営の全面にわたって同士打ちが始まったのである。
結局、ギデオンの勝利は神の働きと人の動きが一つになってもたらされたものである。
、 注目すべきことは、「ギデオンの三百」のものがたりの中には1人の英雄もいないこと。
一般に、戦(いくさ)では大概手柄をたてたり英雄が現れるのに、ギデオンの戦いには一切それがなく、「神の御名のみが崇められる」という戦いであった。
つまり、「ギデオンの三百」の戦いは神の観点からすれば「ベストの戦い」であった。
とはいえ人間は目に見えぬ神よりも目に見える英傑を求めるようである。人々は十字架のイエスよりバラバの赦しを願ったように。
そして「志士の時代」のあとにイスラエルが「王」を求めるようになることにも表れている。
BC11C頃の預言者サムエルが現れた時代、イスラエルの民衆は「王が裁きを行い、王が陣頭に立って戦う」という行き方を求めた。
それは民衆はサムエルに王を立てることを求める。「われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」(サムエル記上8章)」と。
サムエルは民の意思を確かめ、「民の声」をとりなして神に伝えた。すると神は、「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と応じている。
こうしてイスラエルの「王制」は民衆の願いによって始まるのだが、神はサムエルを通して、彼らが退けたのはサムエルではなく、”神”が彼らの上に君臨することを退けたのだと、警告した。
つまるところ、イスラエルの民が他のすべての国々のように王を望んだのは、自分たちの上に君臨し守り導く主なる神への信仰ではなく、自分たちの”武力”により頼もうとする「不信仰」を表すものであった。
サムエルは、民衆がもしも王を立てることを求めるならば、息子や娘を兵役や使役にとられたり、税金をとられたち、奴隷となることもあり得るとそのデメリットを語ったが、民衆は聞き入れなかった。
サムエルの警告を軽んじた民衆は、「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかう」と語っている。
ギデオンの時代には、神が先頭に立ってあえて300人の精鋭に絞らせて戦いを行って勝利を得た。それは「主の戦い」というべき戦いであった。
しかしイスラエルはもはや、「主の戦い」を求めるのではなく、他国と同じように人の力・馬の力・戦車の力をもって戦う「普通の国」に転じていく。
そんなイスラエルに対してサムエルは、次のように預言している。「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」。
実際、イスラエルの「王権」によって、人々は様々な辛酸をなめることにもなる。
さて聖書の中に悪王として知られるのが「ヘロデ王」だが、同じ血統の4人の「ヘロデ王」が登場する。
新約聖書の最初に出てくるヘロデ王は、イエスが生まれた頃ユダヤの王として即位していた人物で、ヘロデ大王とよばれる。
ヘロデ大王は、「メシア」(救世主)誕生のうわさを聞いて心に不安を感じて二歳以下の子供の殺害を命じた人物である。
ただし、身ごもったマリアと夫のヨセフは、神の導きどおり、エジプトに避難していた。
また新約聖書に登場する4番目のヘロデ王が「ヘロデ・アグリッパ」である。
ヘロデ大王の2番目の妻による孫で、聖書には「そのころ、ヘロデ王は教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使徒行伝12章)とある。
このヘロデ・アグリッパの時代に、ペテロが御使いの導きによって牢獄から出るという”不思議”が起きるのだが、その夜が明けると兵士たちの間で、ペテロは一体どうなったのだと大きな騒ぎが起こっていた。
ヘロデ王は、「ペテロを探せ。必ず探し出して今日中に連行しろ」と命令を下した。
しかしペテロを探し出すことができず、番兵たちの不始末に、番兵たちを処刑するように命じた。
それからヘロデ王はローマ総督の管轄地区である地中海沿岸のカイサリアに行き、そこにしばらく滞在していた。
ヘロデ王がカイサリアに滞在していると聞いたフェニキア地方のツロとシドンの指導者たちは一同うち揃って王様を表敬訪問したのである。
ツロとシドンの地方は当時ローマの統治によるシリヤ州に属する地中海沿いにある町で、この地方はヘロデ王の国から食料を得ていた。
実はそれとは裏腹に、ヘロデ王は「ツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた」とある。
このまま王から敵意をいだかれたままだと、彼らの食料の確保についても不安定になってしまいかねない。
そこで人々は和解のためにエルサレムまでの長い距離をやってきたのである。
そして、定められたヘロデ王との面会の日がやってきた。ヘロデ王は王服をまとい、王座に座り、大演説をする(使徒行伝12章)。
集まった人々は口々に「これは神の声だ。人間の声ではない!」と叫び続けた。
人々が叫んでいるマサにその時、ヘロデの足元に一匹の虫が忍び寄ってくる。
王はばったりと倒れ、息が絶え死んでしまう。
こういう死に方をする王をみると、神が人を「あざわらう」という言葉が思い浮かぶ。
また、「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、 "われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう"と。 天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」(詩篇2篇)。
前述のように、ヘロデ・アグリッパによって殺害されたヤコブは、その手紙の中で次のように訴えている。
「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。 あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、"ほふらるる日"のために、おのが心を肥やしている」(ヤコブの手紙5章)。