「ヤシの実」三種三様

「ハワイ」といえば、ワイキキビーチ、ダイヤモンドヘッド、カメハメハ大王像などを思い浮かべる。
しかし、南の島「ハワイ」らしい風景といえば、ヤシの木の街路樹ではなかろうか。
青空の下、風にゆっくりとゆれるヤシの木の下でウクレレを弾いてフラダンスを踊るのが、この島の「風景」である。
ヤシの木といってもたくさんの種類があるが、ワイキキで最も多く見かけるのは、ココヤシ(ココナッツパーム)という種類である。
とても背が高く大きなきなもので高さ30メートルにもなる。
年に2回花が咲き、年間数十個ものココナッツの実をつけるが、観光客でにぎわうビーチや歩道に、ココナッツの大きな実が落下してきたら人命にかかわる。
地元の人は熟れたココナッツの実を見ると、用心しながら街を歩くのだという。
そこでホノルル市では、観光客の安全に配慮し、ココヤシの花が咲くと、実ができないように花を切り落としている。
多くはクレーンを使って花を切り落とすが、街路樹以外では専門業者に依頼して熟したヤシの実を切り落とすこともある。
スパイクつきの靴で高いヤシの木に登って、斧1本で椰子の実を刈り取る、ハワイならではのプロの仕事である。
ヤシの実の育つ段階によって、ハワイ語では7つの呼び方があるのは驚きである。ニウ― オイオ、ハオハオ、イリコレ、オオ、マロオ、オカア、イホ。
「ココナッツ」の 種子の内側には白い固形胚乳と液状胚乳が入っており、液状胚乳は「ココナッツジュース」として飲用される。
固形胚乳は生食されるほか、おもにココナッツオイル(ヤシ油)の原料となる「コプラ」や「ココナッツミルク」などに加工される。
また、中果皮から取り出した繊維は、たわしやロープ、ベッドのマットレスなどに、硬い内果皮は、食器やアクセサリーなどに加工されるほか、活性炭やバイオマス燃料としても利用される。
さて、ヤシの実は、漢字で「椰子の実」と表記されることもあり、タイトルをみただけで童謡「椰子の実」を思い出す人も多いであろう。
♪名も知らぬ 遠き島より流れ寄る 椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて汝はそも 波に幾月♪。
主人公は海岸で名前も知らない遥か遠くの島から流れ着いたであろう椰子の実を一つ見つける。
その椰子の実は自身が実り育った「故郷の岸を離れて」から、一体何ヶ月の間波に流されてきたのだろうかと考えているよう。
1936年に発表された童謡「椰子の実」は、明治の文豪で詩人の島崎藤村が作詞し、1901年刊行の詩集「落梅集」に収録されている詩に、作曲家でオルガニストの大中寅二がメロディをつけた楽曲である。
この歌詞は島崎藤村の親友だった“日本の民俗学の父”柳田國男の実体験が元になっている。
1898年の夏、東京帝国大学2年だった柳田國男は愛知県の伊良湖岬に1ヶ月滞在していた。
そこで「恋路ヶ浜」に流れ着いた椰子の実を目にした時に「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」と島崎藤村に語る。
その話を聞いた島崎藤村は、椰子の実の漂流の旅に故郷を離れてさまよう自身の憂いを重ねて「椰子の実」の詩を詠んだ。
この海岸に流れ着いた椰子の実のように、主人公も今は「孤身」つまり一人きりで寂しく旅をしているところである。
♪実をとりて 胸にあつれば新なり 流離の憂 海の日の 沈むを見れば 激り落つ 異郷の涙 思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 国に帰らん♪
「椰子の実』が発表された後に日本は太平洋戦争に突入し、南方の兵隊の間でこの楽曲がよく歌われていたのだそう。
実際に歌詞に戦争の背景が描かれているわけではないが、熱い望郷の想いが兵士たちの胸を打った。

「ヤシの実」といえば、一般的には「ココナッツ」と同様「ココヤシ」の果実を指すことがほとんどである。
しかしそれ以外にも、パーム油などの原料になる「アブラヤシ」の果実や、「デーツ」と呼ばれるフルーツ「ナツメヤシ」の果実、日本では「フェニックス」とも呼ばれ街路樹など園芸用に用いられる「カナリーヤシ」などがある。
「パーム油」は、主に東南アジアに生息する「アブラヤシ」という植物から採れる植物油である。
30kgほどもある果房ひとつひとつに数百~約2000個もの果実がぎっしりとついていて、その果肉からパーム(原)油が、種からはパーム核油がしぼり取れる。
パーム油の生産は、プランテーション内でアブラヤシの果房を収穫するところから始まる。
アブラヤシは成長すると樹高が20m以上に成長し高い幹の先端付近に実がなるため、収穫作業はココヤシ同様に大変である。
労働者は長いカマを操ってひとつづつ実を切り落とさなくてはならない。
果房を切り取る作業は高温多湿の中での重労働、果房は幹から切り離されるとすぐに酵素による分解が始まってしまうので、品質を落とさないためにすぐに大型トラックで搾油工場に運ぶ。
搾油工場内では集めた果房を蒸して酵素の不活性化を行い、その後に柔らかくなった果実を潰して油をしぼる。
しぼった直後の油は濃いオレンジ色で、不純物を取り除くと透明度が増し、においも薄くなっていく。
アブラヤシは高温多湿の熱帯地域で育つ植物である。原産国は西アフリカや中南米だが、1960年代以降マレーシアで、1980年代にはインドネシアでプランテーションによる栽培が盛んになった。
現在、パーム油生産の80%以上はマレーシアとインドネシアで行われている。
一般的にバターやラードなど動物の脂肪は飽和脂肪酸を多く含み、菜種や大豆といった植物の油は不飽和脂肪酸を多く含む。
しかし、パーム油の他の植物油と大きく異なる特徴は、飽和脂肪酸であるパルミチン酸を豊富に含んでいることである。
固形のパーム油は口に中でとろけるため、チョコレートやアイス、マーガリン、ホイップクリームの代替品として使われる。
また液体パーム油は、酸化や過熱に対する耐性が強いので、インスタント麺やスナック菓子の揚げ油に使われたり冷凍フライなどにも使用されている。
日本に輸入されるパーム油の80%は食用で、インスタント麺や調理済み冷凍食品、ポテトチップスなどのスナック菓子、ファストフード店や外食店舗の業務用揚げ油として、加工食品の材料としてチョコレート、アイスクリーム、ドーナツ、ビスケット、乳児用粉ミルクなど、我々の毎日の食品の材料に使われている。
また食品以外にも、洗剤やシャンプー、口紅、塗料、ねり歯磨きなどに使用される。
アブラヤシが育つのは赤道直下の熱帯地方のみ。生育条件が熱帯雨林の分布と重なっているので、アブラヤシプランテーションを開発するためには熱帯雨林を伐採するほかはない。
例えば、ボルネオでもかつては広大な低地熱帯雨林が広がっていた。
1500万年以上も姿を変えなかった熱帯雨林や泥炭湿地林は、プランテーション開発にともなって、わずか50年ほどの間にボルネオ全体で40%もの面積が消失している。
すみかである熱帯雨林をうばわれて生活圏を狭められ生きる場所を失った希少な野生動物は、絶滅の危機に瀕している。
1年中実をつけるアブラヤシの果房から絞るパーム油は、確かに再生可能な生物由来の有機性資源と言える。
しかしそのアブラヤシは、そもそもは広大な熱帯雨林や泥炭地だった土地を開発して作られた巨大な農園(プランテーション)で成長している。
生産過程ですでに膨大なCO2を排出しており、その排出係数は化石燃料より高いとする報告書もある。
そこで、パーム油生産者や製油業者、パーム油を使って製品を作る企業、流通に関わる商社、環境保護、人権保護の観点で語るNGO、パーム油業界に投資する銀行や投資家、製品を販売する小売業者といった異なる視点を持った関係者が集い、持続可能なパーム油のための「円卓会議」(RSPO)が開かれた。
そしてRSPOが策定した認証制度が生まれた。それはアブラヤシプランテーションの運営が原則と基準にそって行われているか、また作られたパーム油が加工、流通の段階できちんと管理されているかについて第三者機関がチェックし、基準をクリアしていれば認証するというもの。
パーム油は生産-流通-消費の過程でとてもたくさんの企業が関わっているため、生産段階とサプライチェーン段階で別々の認証が用意されていて、認証を受けたパーム油は「認証パーム油」として扱うことができ、商品にも認証済みを示すマークをつけることで他のパーム油と区別され消費者が選択できるようになってる。

荒涼と広がる砂漠の世界、隊商交易のラクダ乗りたち、命を繋ぐオアシスの泉。それはアラビアンナイトの世界である。
乾燥気候が厳しく、砂嵐が頻繁に発生する中、みなぎるエネルギーを放つ木が生息している。
それが、オアシスのシンボル的な存在である「ナツメヤシの木」。
ヤシの仲間で砂漠気候に強く古代文明の頃から生き抜いてきた。生命がなかなか育たない厳しい環境に なくてはならない植物である。
ナツメヤシは、紀元前5000年頃には栽培されていた。
その実を乾燥させたデーツは強い甘みに加えて食物繊維やカリウムなどの栄養分が豊富で、古代エジプトの女王クレオパトラも愛したと言われる。
また「千一夜物語」や「ギルガメシュ叙事詩」に 登場する謎の食べ物でもある。
王様やお姫様がつまんで食べたり、オアシスに辿り着いた旅人への御馳走に山と積まれて出てきたりするナツメヤシ。
少し硬い皮に覆われた果肉はねっとりとした歯触りで干し柿のように熟成された甘さがある。
古くから中東ではキャラバンが何日も、ラクダの乳と共に食べる事で命を繋いだり妊娠中の女性が食べると、 生まれてくる子が丈夫に育つと言い伝えられている。
一見遠くから見ると、南国に生えてそうなヤシの木とヤシの実だが、近づくと、生命体たる生命体がたくさん身をつけてぶら下がっている。
野生の力でこれほど実るとはすごい。しかもこのぶら下げてる果実は、古代エジプトの頃(紀元前3000)にワインの材料としても使われた。
イスラーム教が誕生する600年前半の時期よりも、さらに昔から実り、イスラーム教が誕生した後も、アラブ民族を中心とした人たちと共にあった。
現地の言葉のアラビア語では「タムル」といいますが、通常の「タムル」=「デーツ」はその実を乾燥させたものである。
「コーラン」では、「神の与えた食べ物」と書かれていて、こうして砂漠の民族は「デーツ」を生活の一部と一体となって今に至っている。
旧約聖書に、シナイの砂漠を放浪するイスラエルに対して、ヤハウェの神は「マナ」という不思議な食べ物を降らせた故事を思い起こさせる。
さて「デーツ」とは、中東砂漠地域のいわば「一口サイズの干し柿」といってよい。
乾燥させただけのドライフルーツで、外側は乾いた食感だけれども、中身は思った以上にしっとりしている。
サハラ砂漠を横断した隊商交易は、食料調達は相当ハードで、デーツをラクダに積んで、皆で分け合うほど、己の生命をもこの実にゆだねてた。
ヒトのエネルギー源となる炭水化物の含有量がすごい。バナナは、100gあたり22gくらいに対して、デーツは72gという、凄まじいエネルギー。
というわけで、デーツ1粒食べるだけで砂漠地帯で1日を生きることができる。
炭水化物の他に、ミネラルをたくさん含んでいるデーツは、貧血予防・妊娠中の栄養補給(葉酸たっぷり)、ストレス耐性・精神安定(パントテン酸たっぷり) 、便秘・むくみ改善(食物繊維たっぷり)、美肌効果(ビタミンB群たっぷり)、血糖値の上昇を抑える糖尿病予防(亜鉛たっぷり)に効果があるという。
また、イスラーム教には、宗教イベントの「ラマダーン」(断食)がある。
これは、特定の1ヶ月(イスラーム歴の9月)の間の日の出から日の入りまで間は、一切の食べ物を口にしないというもの。
断食が終わって、夜を迎えた瞬間に、イスラームのみんなはデーツを1粒パクリといく。
デーツは消化がとっても緩やかで徐々に徐々に体が回復していくプロセスを感じていけるという。
ナツメヤシが以下に中東の人々にとって重要かを示すのが「パーム・アイランド」という人工島の建設。
「パーム・アイランド」は、アラブ首長国連邦のドバイ沖合いに造られた人工島群。全てヤシの木(パーム・ツリー)を模しており、この名を冠している。
最終的には100以上の高級ホテルと1400戸以上の別荘、商業エリアから成る一大リゾート地になる予定である。
なかでも「パーム・ジュメイラ」は、17本の葉にあたる部分と長さ11キロメートルに及ぶ三日月状の防波堤部分からなる人工島である。
それは、文字通り「砂漠のオアシスの近現代版ともいえそうだ。
さてナツメヤシは、日本の食材としても欠かせないものだ。それは「お好み焼き」のソースとして誰もが口にしたことがあるにちがいない。その最大のメーカーが「オタフクソース」。
1922年に佐々木清一が広島市で「佐々木商店」を創業し、酒やしょうゆの販売に乗り出したのが源流だ。38年に醸造酢の生産を始め、多くの人に幸福を広めたいという願いを込めて商品名を「お多福酢」としたことが現在の社名の由来となった。
1945年8月の原爆投下で社屋が全焼したが、翌年に事業を再開し、洋食が広がると見込んで50年にウスターソースの製造を始めた。
戦後に広島でお好み焼きが流行し、生地に絡みやすいようにとろみを付けたソースを開発したことが、現在の主力事業となっている。
現在日本では、オタフクソースの「デーツ〈なつめやしの実〉」が人気だ。デーツは元々、お好み焼きソースの隠し味として使われてきた原料だったが、ドライフルーツとして本格的に売り出されると、一気に「主役」の座に躍り出た。
ソース会社がドライフルーツを販売する。この異色のプロジェクトが始まったのは2019年のことだ。
新部署「デーツ部」が発足し、中東で愛されているナツメヤシの実・デーツの調達や販売を担うことになった。
時代が健康志向へと移行し、お菓子を食べるよりも罪悪感が少ないドライフルーツの人気が高まってきたこともある。
オタフクとデーツの縁は、1970年代の石油危機がきっかけで生まれた。
ソースに使う砂糖の価格が高騰し、代替品として75年からデーツを使うようになったが、ソースにコクと深みが生まれ、欠かせない原料になった。
そのため湾岸戦争が起きると、その大事な原料が手にはいらなくなり、TVで大坂の「お好み焼き屋」の店主が、嘆いているのを見たことがある。
さて世界の国々には、韓国のパッチギなど国民的おやつ(スイーツ)というものがある。
アラブの人々にとて、ヤシの実から生まれたデーツを「国民的おやつ」とよんだら、「おやつ」なんてなまやしいものではないといわれるかもしれない。