聖書の言葉(ヨシュアと福音)

イスラエルは出エジプト後、故郷カナンの地を目指すが、モーセはカナンを見渡せるネゲブ山で亡くなる。 その後継者がヌンの子ヨシュアである。
神はヨシュアに次のように語っている。
、 「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。 あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。 あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。 あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨ることもしない。 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない」(ヨシュア記1章)。
カナン人との戦いに臨むヨシュアは、神よりこれほどの言葉を与えられれば、勇気百倍であっただろう。
モーセでさえもこれほどの言葉をいただいていない。なにしろモーセの敵は外敵ではなく、イスラエルの民衆の偶像崇拝とか不信仰にもとづく「つぶやき」、つまり内部の敵であったからだ。
聖書は、「見よ、従うことは犠牲にまさり、 聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。」(サムエル記上15章)といっている。
ところでモーセは、その名前の由来は「引き出す」である。エジプトの王女のつかえ女がモーセをナイル川で拾ったこと(水からひきだす)による。エジプトから民を引き出すなど、まるで名前がモーセの人生を預言しているようだ。
では「ヨシュア」の名前の由来は何なのだろうか。
元はヘブライ語の「ヤハウェは救い」を意味する「イェホーシューア (יְהוֹשֻׁעַ, Yehoshuʿa)」 で、これが聖書の日本語訳では「ヨシュア」とよんだ。
ヘブライ語の「ヨシュア」は、ギリシア語で書かれた新約聖書では、なんと「イエス」なのである。
パウロは、モーセからヨシュアに引き継がれる時代のことを、信徒への手紙で次のように書いている。
「信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった」(ヘブル人への手紙11章)。
ここに「ヨシュア」の名がないのは、ギリシア語で「イエス」なので、書きにくかったのかもしれない。
さて新約聖書冒頭に「イエス・キリスト」の系図が書いてある(ダビデ以降は略す)。
「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブは"ユダ"とその兄弟たちとの父、 ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、 アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、 サルモンは"ラハブ"によるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 エッサイはダビデ王の父であった。ー略ーこのマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった」(マタイの福音書1章)。
この系図からヤコブの12人の中の長男ユダの系図からイエス・キリストが誕生することがわかる。
そんな聖なる系図だから立派な人々ばかりかと思たら大間違いで、聖書には世俗に生きる人々の姿がなまなましく描かれれている。
ところが、その系図に「一筋の光」が差し込むのは、系図にあるラハブという女性の「信仰」である。
ラハブはカナン人の遊女(神殿娼婦)で、ヨシュアがカナンの地に派遣した二人の斥候(スパイ)が、このラハブと接点をもつことになる。
イスラエルがヨルダン川を越えてカナンの地に入ろうとしたときに、ヨシュアはその状況をさぐろうと二人の斥候を派遣した。
彼らはエリコに住んでいたラハブという遊女の家にはいり、そこに宿泊した。
ところが通報するものがあり、エリコの王はその斥候を連れ出すようにと、使者を遣わせた。
ラハブは二人を屋上の亜麻の茎の中に隠しておいたのだが、使者に二人がどこから来たのかさえ知らず、朝早くでかけていったと誤魔化して彼らを匿った。
探索隊が帰った後、彼女は二人を城壁の窓から綱でつり降ろして脱出させた。
不思議なことは、エリコの住人であるラハブが何故彼らをかくまったのか、ということである。
聖書は、ラハブの思いを次のように伝えている。
「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いた時、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたち神、主こそ上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。
これはカナーン人でありながら、イスラエルの神に対する「信仰表明」といってよい。
さらにラハブはイスラエルの斥候二人に、次のように願った。
「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示すと、今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。
つまりラハブは、このエリコは早晩イスラエルの民によって攻め滅ぼされる、その時に、自分と自分の一族を救ってほしいと願ったのである。
このラハブの願いに対して二人の斥候はひとつの約束をする。
それは、イスラエルがエリコに攻め込む時、ラハブの家に一族を皆集め、その窓に彼らが与える”真っ赤なヒモ”を結びつけて目印とするなら、その家の中にいる者は皆助けると約束したのである。
二人の斥候がエリコの町を去った後、ラハブは彼らから与えられた”真っ赤なヒモ”を窓に結び付けた。
そしてヨシュアは、二人の斥候に「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。
そして二人の斥候は、ラハブとその家族を連れ出し、イスラエルの宿営のそばに避難させたのである。
この「赤いひも」は、イスラエルがエジプトを脱出するに至るまで様々な災いがエジプトを襲うが、疫病がイスラエルの家には襲わない(つまり過ぎ越す)ように、鴨居に羊の血をぬった出来事と符号する。
それは、完全なる燔祭イエス・キリストの血の「型」となるものである。

我が幼き日に「ジェリコ」というアメリカのドラマがあった。
それは、第二次世界大戦中にドイツに侵入して様々な工作を行う連合軍の特殊技能者の部隊を描いたもので、そのスリリングさは今でも忘れがたい。
この「ジェリコ」が、旧約聖書に登場する難攻不落の要塞「エリコ」であることを知ったのは、かなり後になってのことであった。
ヨシュアは、エリコが難攻不落の要塞であることを充分に認識したに違いないが、神はヨシュアにその城の陥し方について語る。
イスラエルの軍勢は神の言葉に従って、「契約の箱」を担ぎ、角笛を吹き鳴らしながらその回りを1周し、二日目には同じように2周した。
そのことを7日間続け、7日目には町の回りを7周し終ると、一斉に鬨(かちどき)の声を上げると、難攻不落といわれたエリコの城壁は崩れた。
そしてイスラエルは城の内部に攻め入ったのである。
こうしてイスラエルはヨルダン川を渡ってカナーンの地へと第一歩をしるし、最初の都市エリコを攻め滅ぼしたのである(ヨシュア記6章)。
そしてラハブとその一族は、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住むこととなった。
さて「エリコ」をめぐる戦いで注目したいのは、誰ひとりとして「英雄」が存在していない。あるのは、イスラエルが「神に従った」ということのみである。
ただ、「神の御名のみが崇められる」という点で、ベストの戦いであったといえる。
それは、BC16世紀にイスラエルの戦いの勇士を300人にまであえて減らして、敵対する万を超える大軍に勝利した「ギデオンの三百」という出来事を想起させる。
神が数を300にまで減らした理由は、イスラエルが「自身の手で自分を救ったのだ」(士師記7章)と誇らないためである。
さて、イスラエルがカナンの地にはいる境目となったヨルダン川は、旧い世代のイスラエルと新しい世代のイスラエルの境目であったことがわかる。
それを率いたのが、前述のとうり「ヨシュア」、ギリシア語ではイエスとよばれる人物である。
旧約聖書の時代、イスラエルは、”イエス”に従って水を通り「約束の地」カナンにはいったということになる。
そこで新しいイスラエルは、古いイスラエルが紅海で体験したようなことを、ヨルダン川で体験することになる。
神はイスラエルの12部族に対して部族ごとに12人を選びなさいと命じる。
そしてまず十戒の石版が納められた「契約の箱」を進ませた。
「契約の箱」をかくのはレビ族の祭司ときまっている。
神は、その時次のようなことがおきることを告げた。
、 「全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」(ヨシュア記3、4章)。 通常では、ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられた。
そのためイスラエルの民はすみやかにエリコに向かって渡ることができたのである。
そして、すべてのイスラエルがかわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。
そして神はヨシュアに12人の部族長に次のように命じるように告げた。
「ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい」。
そのことの意味を神はヨシュアに次のように語った。
「これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならばその時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。
イスラエルの人々はヨシュアが命じたように、ヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てた。
BC8Cの預言者イザヤは次のように語っている。
「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、"恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、 あなたはわたしのものだ。 あなたが水の中を過ぎるとき、 わたしはあなたと共におる。 川の中を過ぎるとき、 水はあなたの上にあふれることがない。 あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、 炎もあなたに燃えつくことがない"」(イザヤ書43章)。

ヨルダン川といえば、イスラエルがヨルダン川を渡って13世紀後に、イエス・キリストが洗礼者ヨハネによって「バプテスマ」を受けた川でもある。
個人的に聞いた話では、日本のどこにもみられるような河川なのだそうだ。
洗礼者のヨハネの登場は次のように書かれてある。
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、 ”悔い改めよ、天国は近づいた”。 預言者イザヤによって、荒野で呼ばわる者の声がする、 ”主の道を備えよ、 その道筋をまっすぐにせよ” と言われたのは、この人のことである。 このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた」(マタイの福音書4章)。
そしてヨハネ自身、「バプテスマ」の意味をこう語った。
「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。
そして、ヨハネの目の前に思いもかけぬ人物が現れるのである。
「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、”わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか”。 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした」。
ところで神は、ヨシュアに「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」(ヨシュア記3章)にあるように、イスラエルは身を清めるために水で体を洗うことはよく行われることであった(民数記19章)。
ただ、洗礼者ヨハネのバプテスマは、人々の「罪の告白」がともなっていたのが、単なる「清め」とは異なる点であったことである。
もちろん、ヨハネが感じたように、「罪」のない神の子イエスには、そのような意味での洗礼は必要ではなかったであろう。
それは、イエスが受洗することを希望したのに対して、ヨハネが自分こそが洗礼を受けるべきものなのに、と困惑した様子からも推測できる。
ただ重要なことは、イエス・キリストも、かつてのイスラエルと同じように、祭司(この場合ヨハネ)に導かれてヨルダンの水を通過したということである。
そのヨルダン川は前述のとおりイスラエルの記念の地であるが、イエスはその水をとおることにより、ここから「神の国」の福音が広がっていくことを表明しているかにみえる。
洗礼者ヨハネが「わたしより後にくる方は、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」と語ったように、ヨルダン川の岸辺でヨシュアとイエスは、同じように「約束の地」の起点にたっている。
ヨシュアにとっては「乳と蜜の流れる地」カナンへの起点であり、イエス・キリストにとっては「神の国の福音」の起点である。
「イエス」(ギリシア語)と「ヨシュア」(ヘブライ語)という名前の一致が偶然とは思えないくらい、ヨシュアの生涯は「福音の型」にはまっている。