ゆるくてもノープロブレム

富田昌子は新潟生まれで、父親は高校教師、母親は日本舞踊の先生という堅実な家庭であった。
しかし、3歳から習っていた日本舞踊も中学に入る頃には身が入らなくなり、周囲に流されるまま、ギャルになってしまう。学校をサボり、 雑居ビルの屋上で昼寝をして時々、補導されたりした。
高校生の時、日帰りのひとり旅で初めて憧れの東京を訪れた。
渋谷で声を掛けられ、写真を撮られ、その写真がミスコンにつながっていて、勧められるまま応募するとオーデションに出場することとなった。
しかし、特技がないので、とりあえず「逆立ち」をしてみたら案の定、失敗。
そのごまかし方と明るさが気に入られたのか、ある芸能事務所に所属することが決まった。
1年だけという約束で上京するも、母親が病に倒れ、新潟と東京の往復を繰り返す生活となった。
アイドル活動もままならず、極貧フリーターの生活を強いられる。
或る有名ストランで働くも、サラダの名前がおぼえられない。そこで富田は、お客さんに何か聞かれると「しゃきしゃきサラダです」と応えて切り抜け、ノープロブレム。
しかし、そんな「しゃきしゃきサラダ」の命運も尽きる時がくる。
いつものように、「お客様 お待たせ致しました。シャキシャキサラダです」というと、その客はなんと一般客を装った会社の幹部だった。
そしてホールをクビになり、バーテンにまわされた。
最初は受付をしていたが、「バーテンダーをやってみないか」とすすめられたが今度はカクテルがおぼえられない。そこで冷えたグラスがあるといって、ビールを注文するよう仕向けた。
或る時、「フレア」のパーフォーマンスを見て、カクテルの名前を覚えずとも、お客さんを喜ばすことができると思うようになった。
そんな矢先、母親が亡くなって、父親もふさぎ込んでおり地元に戻った。富田は再起をかけて東京に戻ってきたものの、ホームレスとなって公園で暮らしはじめだす。
その公園には森があって先住民がいて、ちゃんと縄張りがあった。
富田がベンチに座っていると、話しかけてくれたりチョコレートくれたり、何曜日に新宿行くとご飯もらえると教えてくれた。
そこでは、新潟の冬をミニスカートで暮らしていた経験や、コギャル時代に、雑居ビルの屋上で寝ていた経験が生きることとなった。
空き時間は「フレア」練習に励んだ。練習で身体は生傷だらけだったが、身体は水道の水で洗って不潔になりすぎないようにがんばった。
目標のワザができるように、1日15時間も練習することもあった。そんな生活が数年に及んだ。
富田とって”ビン”は宝物。しかしある時 ゴミ収集屋さんに回収されてしまい、ショックで警察に届けようと思ったくらいだった。
富田は、先輩方の縄張りを侵したりしないように マナーを守ってきたが、ある時パン買いにいくと、知らないおじさんがベンチ(つまり富田の縄張り)でご飯を食べていて、住処が奪われたような気がした。
また広い公園なのに、自分のベンチの近くでイヌに排泄させるおじさんがいた。
抗議すると、おじさんは「君の家じゃない」の一点張りで、会う度にけんかしていた。
公園生活をやめようと思ったきっかけは、夏の日照り。森は先住民がいるので、かつて働いていた漫画喫茶に駆け込んだ。
富田はそこでユーチューブをみながら、公園での毎日10時間近くのフレア練習を欠かさなかった。
独学でひたすら練習し続けるうちにその実力は とんでもないことになっていたのである。
2009年、グアムで開かれた世界大会で世界中が衝撃を受けることになる。
会場全員がナメていた無名の若い日本人女性が、人々の目をくぎ付けにして、フレア界初の女性優勝者となったのだから。
特に、5本のビンを使って行う「カスケード」というワザができるのは世界でたった4人。女性では富田だけが出来るスゴワザだった。
2016年にはショービズ界の登竜門ニューヨークのアポロシアターに出演するなど、「美しすぎるバーテンダー」として世界的に活躍されている。

鈴木健三は、明治大学ラグビー部に所属していて、日本代表の予備軍にあって「ラグビーマガジン」表紙を飾ったことがある。
大学の放送部の女性から取材をうけたことがきっかけで、交際することとなった。2人はそれぞれに希望の就職先がテレビ局で、見事別のテレビ局に入社する事ができた。
就職してから1年経ったある日、アメリカにいた鈴木から交際相手の浩子に、いきなり「プロレスラーになるから」という電話があった。
浩子が聞いた、その経緯は次のようなものだった。
鈴木がスーツを仕立てにいき、たまたまプロレスのカレンダーを見ていたところ、その姿を見たスーツ屋の店長が誰かに電話をしていた。
鈴木は、たまたまプロレスのカレンダーを目にしただけなのだが、店長は客の男性がプロレスに興味を持っていると思い込んでしまった。
店長が電話をかけた相手は店の常連だったなんと坂口征二であった。
そして鈴木は坂口に会う事となり、すぐさまスカウトされたのである。
ケンゾウが坂口の大学の後輩だったということもあり、 猛烈ラブコールを受ける。
鈴木にはひとつのポリシーあった。それは迷ったって時は やりたい方を選ぶということ。
鈴木は入社してわずか1年にして「新日本プロレス」にいりケンゾウを名乗った。浩子も夢だったアナウンサーを辞めて東京へ引っ越して、二人は結婚をする。
出だしは有名プロレスラーの付き人だったが、プロレスラーとしてデビューして後4カ月でタイトルを獲得する。
集中力がすごく、ゾーンに入ってしまうとすごく格好よく、しかも華があった。
そして3年後別の団体へ移籍するが、ケンゾウとヒロコにとんでもないピンチが訪れる。
なんと移籍後、興行主にお金を持ち逃げされて資金ゼロになってしまった。
いわゆる崖っぷち夫婦になって、ケンゾウは途方もない”無茶”を言い始める。
それまではカナダを拠点にしていたのだが、WWEというアメリカ発の超人気プロレス団体をめざすといいだした。
売り込むにも金がないので、WWEがニューヨークでショーがある日を見付けてその前後を5日間ツアーに行った。
当然のごとく、門前払いを食らってしまうが、ケンゾウは片言の英語で熱い気持ちをアピール。
元ラガーマンだけに、強引にセキュリティーを突破して、着てるものを脱いでパンツひとつを身に着けてうろつきはじめた。
やばいヤツがいると警備員が来て、騒ぎを聞き付けたWWEの社長が見にきた。
そこで、ケンゾウは、お得意の全力アピールを行い、それがちゃんと相手に伝わり、ノープロブレム。
社長はケンゾウを気に入その日の 前座の試合に出場が決定した。
その場で契約し、契約の支度金として500万円をその場でもらったという。
しかし、ケンゾウのアメリカデビューに当たってある問題が浮上する。WWEでは”ディーヴァ”というキレイなモデルが一緒に出場することになっている。
難航する会議の中で、WWEの社長にひとつのアイデアがひらめいた。
それは浩子が”ディーヴァ”になってはどうかというものだった。
浩子が笑って断ろうとしたところ、ケンゾウがOKをだして、社長と抱き合っているではないか。
実は、ケンゾウはリングネーム「ヒロヒト」での登場が予定され、予告ビデオも作成された。
浩子がこの一連の扱いは日本や昭和天皇に対してあまりにも失礼であるとWWE上層部に抗議したところ、一転彼女がWWE上層部に注目される存在になっていたのだ。
、 元福島中央テレビのニュースキャスターの浩子は、白粉を塗って着物を着て「ゲイシャガール・ヒロコ」として夫と共にアメリカでプロレスデビューをする。
WWEのディーヴァはけしてお飾り的存在ではなく、相手選手やディーヴァを襲ったり襲われたり、マット上で取っ組み合ったりもする。
しかしヒロコは、デビュー戦を迎えて、自分の知らなかった自分に気付く。
相手選手からラリアットを食らった時、自分でも気がつかない感情がメラメラと沸き起こった。
ヒロコから、相手もしくは観客に嫌われる罵詈雑言が、考える間もなく口をついてでてくる。
リングの袖に帰ると、「天性の悪役だ」と、エージェントに褒められた。
大人気になったヒロコに、目つぶしの「必殺技」"ニンジャパウダー"が代名詞となる。
白い粉で目つぶしを食らった相手がひるんだ隙に蹴りを入れるというワザだった。
ところが、人気絶頂のケンゾウが、子どもが3歳になった時、突然「地方議員をやりたいって言っていただろ」といいだす。
ヒロコが温めていた夢を夫はよくぞ覚えていてくれた、というより母親が悪名高い「ゲイシャガール」では子供の教育上まずいと思ったのか。
その後、日本に帰国して「ゲイシャガール」ヒロコは、彼女の地元・千葉県船橋の市議会議員選挙に出馬を決意する。それまで散々ヒロコをふり回してきたケンゾウも選挙を全力でサポート。
そして鈴木浩子は、2015年見事に当選、2018年には千葉県議会議員選挙に当選し、現職である。
前職は”ディーヴァ”とある。

アクション映界の大スター「シンシア・ラスター」は、香港での芸名を「大島由香里」といった。
1963年福岡市西区生まれで、中学の時に器械体操、中学3年生の時に剛柔流空手を学んだ。
福岡の高校卒業後、体育教師を志して日本体育大学女子短期大学部体育学科に進学した。
友達に誘われて香港映画「ヤングマスター 師弟出馬」を観て、ユン・ピョウのアクションに衝撃をうけ、「自分の仕事はこれだ」と思ってしまった。
しかし、体育の先生になるという約束のもと2年間東京に出てきて、アクションスターへの道を目指すなんてこと。まして「香港へ行く」などとはいえるはずもない。
東京と福岡の距離なら親にはバレないので、ますは東京でアクションスターを目指すこととした。もらった役が「戦隊もの」の悪役、ちょい役だったので「無問題」のはず、出演をオーケーした。
しかし当初「ちょい役」だったはずが最終話まで生き残り、少しだけ名前を知られた大島にあるオーディションが舞い込んできた。
香港サモ・ハン・キンポー監督のお正月映画のキャスティングが日本で行われたのだった。
そうそうたる日本の女優が名前を連ねていて勝てる見込みはないと思いつつも、面接時に手紙3枚を用意して手渡した。
自分は器械体操をやってきており「宙返りをしながら蹴れる」とか、有名女優が出来そうもないことをアピールした。
そして無名のオオシマが大抜擢されることになり、ついにオオシマは念願の香港映画のデビューを飾ることになった。
しかし、アクションばかりに気をとられ、大事なことを忘れていた。映画に出演する以上はせりふがある。中国語(広東語)など話せるはずもない。
しかし、「無問題」の神様はオオシマを見捨てなかった。実は、香港映画には戦時中にアジアや上海から戦禍をのがれてきた人々など多様な人々がいた。
そのおかげで全員 口パクだったのだ。 「今日は何文字ですか」と聞いて、助監督にいわれた数を「575」などにして自分で適当に言葉をて作って発した。
言葉に合わせて雰囲気や表情をつくるだけでよかったのだ。
その点では無問題であったが、別に問題が浮上。
スタッフは皆アクションが好きだから、カメラマンや照明さんが「オオシマは、そこは違う」などと横やりをいれてくる。
監督も、誰かれが何の達人とか、経歴をよく知ってるので一目おいていて、少しのミスでもなかなかOKがでないこともあった。
しかしこれが、オオシマの技能をおおいに向上させたといえる。
ある映画の出演では日本で起きたのと同じことがおきた。
麻薬を扱う組織の「殺し屋」といちょい役で撮影期間は1週間だと伝えられていた。
しかし1週間を過ぎても撮影に呼ばれ、「無問題!」と答えていたら、なんと気付いたら3カ月間撮影していた。
結局、組織のボスを殺し敵の組織が全員死に、なんとオオシマがボスにのしあがっていた。
つまり、オオシマの素晴らしいアクションのおかげで、毎日もらう台本が変わっていく。
そしていつのまにかオオシマが主演というようになってしまうのである。
そうこうするうち大人気となって映画撮影をかけもちするまでになる。
香港は狭く現場が近く、車で移動できる。ABCの撮影が同時進行したとしても「無問題」。
Aの撮影所にいると、Bの撮影所で「そろそろ オオシマ迎えに行ってこい」、Bで撮影をしてる時にCのプロデューサーが同じことを言う。
Cのスタッフが迎えに来てほぼ 拉致状態で連れていかれるといった具合。
ほとんど失踪レベルの苛酷さだが、オオーシマは根性と「無問題精神」で乗り切っていく。
そうした日本人女性の噂は広がり、ジャッキー・チェンと 同じ事務所に入った、いわば「ジャッキー・チェンの弟子」となって、いつしかオオシマは「女ドラゴン」の異名でよばれるようになる。
オオシマが33歳の時、アメリカ人の男性が訪ねてきて写真をみせ、「これは あなたですか?」と尋ねてきた。自分の写真だったので 「ああ そうです」と言うと、「アクション映画を撮りたいので来てみないか」といわれた。
やっと広東語をおぼえてきたのに、アメリカでイチからやるのは ちょっと無理、 「アイム ソーリー」って言った。
すると男性は「僕のこと、知っているか」と、ようやく名をなのった。その名前はなんと「オリバー・ストーン」。
この時オオシマは巨匠相手に、「無問題」以外の言葉を発したのである。
オオシマは1997年に活動拠点をフィリピンに移す。香港では大島由加里の芸名で活動していたが、この頃から「シンシア・ラスター」の別名でクレジットされるようになる。
彼女はフィリピンにおいても国民的なスターとなっている。加えてマレーシア、タイ、ベトナム等、アジアで幅広く活動を続けていた。
出演した映画は約80本、主演作品は約70本を数えている。
1998年、撮影中の事故で負傷したのをきっかけに帰国し、故郷である福岡を活動拠点としている。
福岡発アジアをテーマにLAS(ラスター・アクションスクール)を設立し、プロを目指すアクション俳優を育成している。
2014年には主演作約70本という実績に加え、故郷福岡での映画誘致活動や後進の育成の実績を評価されて「福岡市文化賞」を受賞している。

総合学園ヒューマンアカデミー福岡校で特別顧問を務め、アクション俳優を養成する全日制のアクションスクール」を開講した。