パイレーツ オブ アラビアン

砂漠に住むアラブ人たちは、自らの起源について語る時、ユダヤ人と同様にアブラハムにまでさかのぼる。
彼らはアブラハムと妻サライの女奴隷ハガルから生まれたイシマエルの子孫である。
イシマエルの存在は手放しで歓迎されたわけではない。というのもサライは長い間イシマエルに深い恨みを残していたからだ。
だが聖書によれば、彼こそはアブラハムの次男イサクの子孫たちとは一線を画す民族、すなわちアラブ人の租である。
一方、イサクはイスラエルの十二部族の族長として崇められた。
こうしたことのすべては太古の話だが、重要な意味をもっており、聖書はイシマエルの子孫が歩むことになる道を次の預言している。
「彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」(創世記8章)。
確かに、イスラエル十二部族の子孫とアラブの対立を考えると、イシマエルの子孫である7世紀アラビア半島のイスラム教徒たちが信仰の名のもとに結束し、周辺地域に乗り出したことを考えるとこの預言は的中したといえる。
ところイスラム王朝の伝統は、直接支配ではなく間接支配である。
中央政府が直接それぞれの地域を治めるのではなく、「総督」というかたちで「代理人」をおいて支配させるという手法をとっている。
このような統治形態は、近代になってヨーロッパで生まれた国民国家的な考え方とは異なる。
国家内には様々な諸要素が数多くあり、その上に帝国が傘のように被さっているだけで、その傘の下ではそれぞれが共同体が税金さえ払えばあとは勝手にやっていい 、というかたちである。
これが帝国の特徴で、国民国家のようにあるひとつの価値で一元化することはなかった。
イスラームの原則に基づいて穏やかな支配の在り方になったなっていたのである。
これが前近代において大変大きな影響力をもったイスラーム王朝の特徴である。
距離が近い、ヨーロッパの列強と出会って脆さを露呈し次々に植民地されていく。
「植民地化」の過程を西からみてくると、北アフリカではモロッコの一部がスペイン領、モロッコの大部分、アルジェリア、チュニジアがフランス領、 リビア領がイタリア領になった。
エジプト・スーダン・パレスチナ・ヨルダン・そしてイエメンからオマーンにかけて、さらにはアラブ首長国連邦、クウエート、イラクといった国々はすべてイギリスの 植民地になっていた。イギリスがこれらの地域を確保しやているのは、「インドへの道」のためである。
陸路においては、イラン・イラク経由でのルートを確保し、スエズ運河経由で向かう場合は紅海からインド洋に抜ける場所、いわゆるジブラルタル、スエズやイスマーイーリーヤ、アデンといった港市を確保することは自然な流れであった。
イランが植民地化されなかった理由は、イギリスとロシアという大国のはざまにあって、いわば「緩衝地帯」の役割を果たしたからだ。
似たケースで、東アジアイギリスが植民地とするミャンマーとインドシナ(ベトナム)を確保していたフランスとの「緩衝国家」であったタイが、唯一独立を保っている。
さて中東地域の特徴の一つとして、ペルシア湾地域の特殊な状況があげられる。
アラビア半島のイエメンといえば、モカ・コーヒーの原産地である。
コーヒーノキの原産地はエチオピアであるが、これを世界に広めたのはアラビア半島の商人達で、モカはコーヒー発祥の地とされている。
ちなみに、アラビア海のソコトラ島は、薬用植物アロエの原産地である。
この地域の人々の多くはかつて「海賊」を生業としていたため、イギリスは「海賊海岸」とよんだりしていた。
イギリスはそれを抑えるために、「休戦協定」を結んだのである。
アラビアンナイト「船乗りシンドバッドの冒険」で船出したのがオマーンのソハール港である。
このようなかたちのイギリスとの関わりから、ペルシア湾の出入り口のアラビア半島側の海岸地域に小さな国家群が形成された。
このアブダビ・ドバイ・シャルジャなどの「トルーシャル・ステーツ」(休戦条約諸国)とよばれる小さな国々が、現在において独立を維持している。

日本の国際貢献の一つとして、2009年「海賊対処法」というものができた。
中東からヨーロッパに向かう難民ボートが海賊船に襲われるというニュースも聞くと、今時、アラビア半島周辺に「海賊」がいるのかと驚いた。
世界の石油供給のルートの安全保障のために、日本の自衛隊がアフリカ大陸にあって海を挟んでイエメンの南に位置するソマリア近海に、自衛隊を派遣するもので、 武器の使用を認めるものだった。
さて日本史における壬申の乱で大海人皇子が大津皇子を破り、天武天皇として即位する。その際、北部九州の海賊の援軍がカギとなったといわれる。
しかし天武天皇の子・高市皇子は母が地方豪族の出身であったために天皇になれず、その子・長屋王は藤原四子により死に追いこまれる。
高市皇子の母親とは、北部九州を本拠とする古代の海賊「胸形族(むなかた)」の出身の尼子郎女(あまこのいらつめ)。
現代において、胸形族の子孫が「パイレーツ オブ アラビアン」が建てた国々と深い関わりをもつことになる。
出光佐三は、1885年に福岡県宗像の「赤間宿」で生まれたが、その宿場の並びに出光佐三の生家が残っている。昔は大きな藍染屋で、馬車を止めるために、街道から少しひっこんでいる。
出光は、福岡市呉服町あたりにあった福岡商業から神戸高商にすすむが、門司にあった石油を扱う零細な商会に就職し、そこで大きな志を秘めながら商人道を また出光発展の原因として「オーダー油」の発想があった。
それまで機械油は、親会社のものをそのまま納めていたが、石油の研究をしていた佐三は使用する機械に応じて微妙に配合を変えたのである。
こういう「オーダー油」の発想は藍問屋であった佐三の「家業」と無縁ではないであろう。
出光の父が藍玉を収めるのに注文主の織物の種類によって匙加減を変えていたのが「オーダー石油」の発想につながったのかもしれない。
そのうち、第1次世界大戦が始まる。日本は、日英同盟を根拠に、ドイツの租借地・青島(チンタオ)を占領した。
出光は、当時満州に進出していた日本軍の満州鉄道の車軸の油に注目していた。
満州で利用されていたアメリカ製の油は、気温が低い満州では適合せずに、鉄道はしばしば立ち往生していたが、出光がおさめた油によってそうした列車の停滞はほとんど起こらなくなくなっていった。
そして出光は、東洋最大の会社「南満州鉄道」で、アメリカのスタンダード石油のシェアを奪う。
その後、アメリカが石油の日本への輸出を禁止し、窮地に陥った日本は、東南アジアの油田地帯を占領するため、米英に宣戦布告。
日本石油や日本鉱業など4社の石油部門が統合され、国策会社「帝国石油」が誕生した。
日本の石油政策は国策化され、敗戦により、佐三は、海外の資産を全てを失い、膨大な借金だけが残った。
出光は官僚的な石油配給公団や、旧体質の石油業界に反発しながら、タンクを購入しタンカーを建造する。
日本の石油会社は屈辱的条件で外資の傘下に入り生き残りを始めていたが、出光は、外資が入っていない「民族資本」の出光商会がなくなれば、日本の石油業界は外国に支配されるという危機感があった。
やがて、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の補給基地化となり、また反共の防波堤として、日本に製油所施設や精錬能力が必要とされるようになった。
そんな時、出光のもとに「イランの石油を買わないか」という申し出が舞い込んだ。
1950年代に、イラン国民の間で、「イランの油田を国有化する」という運動が起こり、イランの政治家・モサデクを委員長とする「石油委員会」が、議会にイランが悲惨な状況から抜け出すには石油国営化しかないと答申し、議会は石油国有化を可決した。
利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕。さらにイギリスは、「イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段を用いる」と宣言した。
「セブン・シスターズ」を中心とする国際石油カルテルも、「イランの石油を輸送するタンカーを提供した船会社とは、今後、傭船契約を結ばない」という通告を発布する。
モサデクが首相となると、イランにタンカーを送る会社はもはやなくなった。
出光は「イランの苦しみは、わが出光商会の苦しみでもある。イラン国民は今、塗炭の苦しみに耐えながら、タンカーが来るのを一日千秋の思いで、祈るように待っている。これを行うのが日本人である。そして、わが出光商会に課せられた使命である」と重役会議で宣言する。
イギリス軍をはじめ、アメリカのメジャー、日本政府など、あらゆる方面に秘密が漏れないようにし、所有するタンカー日章丸をイランへ向けて出港させた。
日章丸の行き先は船長にしか伝えられずに極秘のうちにすすめられ、イランの港に巨大タンカーを横づけした出光佐三は世界を驚かせ、「海賊」ともよばれる存在となった。

日本のタンカーの通過するホルムズ海峡に近いオマーンやイエメンは、日本にとって地政学的に重要度が高いにもかかわらず、その実態が日本にはほとんど知られていない。
例えば、アラビア半島の突端のアラブ首長国連邦で、首都はアブダビである。
アラブ首長国連邦で、新たに脚光を浴びるドバイはいま世界一の高層ビルが並び立ち、オイルマネーによる観光立国へのシンボルである。
日本では口語や俗称として単に「アラブ」と呼ばれていたが、アラブ世界との混同があるため上述のUAEという事が多い。
さて、ペルシャ湾沿岸つまりかつての「海賊海岸」で、最近注目を集めたのがサッカー・ワールドカップが開催されたカタール。
カタールの首都ドーハは、日本人の心に、1998年の「ドーハの悲劇」が刻印されている。
2023年ワールドカップで日本はドイツ・スペインを破り、その記憶を打ち消すような快進撃をみせた。
日本には、こうした「湾岸諸国」の重要度を早くから認識して架け橋になった人々がいる。
大正期の地理学者であり思想家であった志賀重昂(しがしげたか)もその一人である。
1924(大正13)年2月28日にオマーンを訪問した志賀は、オマーン国王に拝謁をした。
志賀がイスラム国への旅を思い立ったのは日本の人口増、石油の確保、世界の東西対立への日本の立ち位置を探るためであった。
そして、国王から「よくもここまでこられた。アラビアも日本も同じアジアではないか。何故日本人はアラビアにこないのか。アラビアに来て商売をし、工業を興し、親交を促進し、アラビアが改善・復興できればお互いのためになるのではないか」との言葉をいただき、志賀は「陛下の言われたことは私がまさに申上げようとしていたことです」と応じ、そして「いつの日か日本においでください」と語った。
」 1935年、ひとりの初老の男が神戸の港に降り立った。その男の名はタイムール。
彼はダンスホールを訪れ、仕事帰りに職場の仲間とダンスホールに遊びに来ていた、ひとりの女性に目に留まった。
神戸税関で働く大山清子、当時19歳で すらりとした長身。兵庫県の山間の村で、厳格な大工職人の長女として生まれた。
細面でいかにも日本的な美しさを持った清子に、タイムールは大いに惹かれていった。
タイムールは毎晩のようにダンスホールを訪れ、 言葉の壁はあってもその優しさは清子に伝わっていた。
そんなある日、タイムールは清子に交際を申し込んだが、タイムールと清子の年齢差は、なんと47歳。
清子は、さすがに躊躇したものの、タイムールは猛アプローチを続け、その熱意と真剣さに、いつしか清子の方も心惹かれていく。
そして、出会って3ヶ月、2人は結婚を誓いあう。
しかし、清子の両親は、当然のように2人の結婚を認めようとはしなかった。
当時、国際結婚は珍しかったし、 聞きなれぬ中東のオマーン。しかも、「一夫多妻」の国で、タイムールには、すでに3人の夫人が母国にいるという。
しかしタイムールも諦めず、その真剣な姿に、清子の父親は「結婚するなら日本に住むこと」という「結婚の条件」を出した。
そして「もう少し待ってくれ」といい残し、日本を去って行った。
それから半年が過ぎたある日、 彼は忽然と清子の家族の前に姿を現した。
タイムールは清子と結婚するためにオマーンを離れ、日本で一緒に暮らすことを決意したのだという。
その覚悟の姿に、両親は結婚を認めざるをえず、出会ってからおよそ1年後、2人はついに結婚した。
お金には不自由しなかったタイムールは、神戸市内に洋館を構え、清子と優雅な生活をスタートさせた。
戦前の日本では考えられない、舶来の電化製品。 給仕やメイドも3人いた。
だが、タイムールは仕事をしている様子もなく、清子が聞いても自分はオマーンの資産家であり、蓄えが十分にあると言うだけだった。
1年後、2人の間に愛娘「節子」が誕生する。この日、ある一団の人々がタイムールと清子の家を訪れた。
そこに立っていた男性はアラブの民族衣装に身を包んだ男たちを引き連れたオマーン国王・サイード王だという。
タイムールは彼の父親。つまりタイムールは「オマーン前国王」であることが分かった。
国王の座はすでに5年前、息子に譲っていたものの、王室にいたタイムールだけに「結婚の条件」に即答できる立場にはなかった。
タイムールが国を離れ、日本に住むということは、必然的に王室を離脱することを意味する。
あの時、タイムールがオマーンに一時帰国したのは、清子と出会いと結婚をすることを報告するためだった。
3人の夫人にも理解を得て、身ひとつで清子との結婚のために日本へと戻ってきたのだった。
タイムールが自分の身分を明かさなかったのは「権威とか身分で飾った自分ではなく、裸の自分を愛してくれる人と結ばれたかった」と語った。
しかし、二人の幸せは長くは続かなかった。清子は結婚からわずか3年後腎臓を患い、23歳という若さでこの世を去った。
タイムールは、清子の死後、娘の節子が将来、王族の相続権を得られるよう、彼女を連れオマーンへと帰国した。
節子は新たに「ブサイナ」と名付けられ、王族の身分を与えられた。タイムールは、その後、第二次世界大戦の影響などもあり、日本に戻ることなく、1965年に亡くなった。
兵庫県加古郡稲美町にある墓石には、「清子アルサイド 享年23」と刻まれている。
2015年には、ブサイナ節子さんが母親の墓参りに訪れている。
まるで名も知らぬ国から流れ着いた椰子の実の奇遇のように出会ったタイムールと大山清子は、日本とオマーンの「架け橋」となった。