「沖縄」の才能

「祭り」とは本来、疫病や自然災害など、人智の及ばぬ「想定外」の出来事を鎮めるための行事として発展したものだ。
納涼花火などはもともと「邪気払い」の行事として始まったものである。
火は、「悪いものもすべてを浄化する」作用があり、ドーン、ドーンという音も「邪気」を払うものなのだ。
それは、ハジケル音とともに「邪気」を退散させる力があるのだという。
だから、災害など起きると、花火大会を「自粛」するは、日本人的良心からくるものなのだろうが、本来の意味からすると正しくない。
何かがあれば自粛ではなく、こんな時だからこそ祭りは決行すべてで、盛大にお祭りを盛り上げて神様へ奉生納すべきということである。
ところで福岡(博多)における「山笠発祥」の地は、長谷川法世の漫画「博多っ子純情」にしばしば登場する櫛田神社と思いこんでいたら、JR博多駅近くの承天寺に「山笠発祥の地」の石碑があり、意外な発見であった。
しかし、承天寺あたりの地名が「祗園」であり、山笠祭りの正式名称が「博多祗園山笠」であることを思えば、それも納得できるところである。
「祗園」の地名は、京都の「祗園」と同じくもともとは平家物語に登場する「祗園精舎」からきたものである。
「平家物語」の冒頭「祗園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」はあまりにも有名であるが、そもそも「祗園精舎」とは何だろうか。
「祗園精舎」は、インド中部のシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所である。
その名称の由来は「ジェータ太子の森」 (Jetavana) と、「身寄りのない者に施しをする」 という言葉を合体してできたのだそうだ。
そんなことを思いつつ、太平洋戦争末期、沖縄に溢れた戦災孤児と一人の「漫談師」のことが思い浮かんだ。
この漫談師の活動は、いわば「祭り」、パーソナルな邪気払いともいえる。

沖縄出身のタレント、安室奈美恵やスピードをなどが多く活躍するのは、「沖縄アクターズ・スクール」というタレント養成学校の存在があることはよく知られている。
この学校を設立したのは、沖縄出身の人ではなく、東京の人。興味深いのは、どうしてこの人物が、東京ではなく沖縄に「現代ポップス」の可能性を見出したかということだ。
そこで注目したが、アクターズ・スクール以前に存在した沖縄のミュージシャンのことである。
1977年に「りんけんバンド」が結成されている。三味線や島太鼓など沖縄の楽器と現代の楽器との融合した「沖縄ポップ」の先駆者といってよい。
この「りんけんバンド」の名前は、リーダーである照屋林賢の名前からきている。
そして、この照屋一家こそが、今日人気のビギンやオレンジレンジに連なる沖縄出身のミュージシャン達の土台を築いたといって過言ではない。
さて、「沖縄アクターズ・スクール」についてであるが、この学校は「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の孫であるマキノ正幸が1983年に設立したものである。
ちなみに、マキノ正幸の父は映画監督であるマキノ雅弘である。
マキノ正幸の娘が牧野アンナで、「安室奈美恵とスーパーモンキーズ」のメンバーの一人であった。
ところでマキノ正幸は、安室奈美恵の才能をいち早く見出したことでも有名である。
友人に誘われてスクール見学に来ていた当時小学生の安室奈美恵を熱心にスカウトし、困惑する安室の母に「授業料は要らない」と、異例の「特待生」待遇で入学させている。
このマキノ正幸につき、娘の牧野アンナが最近ある新聞の「親父の背中」の欄に、次のようなことを書いている。
「豪快な人で、子どものころは、ほとんど家に帰ってきませんでした。いい父親ぶるつもりはない。俺は素晴らしい面も持っているけど、ドロドロした汚い面も持っている。そういう姿をさらけ出すのが俺の教育だ」と言っては、好き勝手なことをしていたという。
また、安室奈美恵について、「11歳できたのが安室奈美恵です。最初はすごく人見知りな子でしたが、父はすごい逸材だ。この子を売り出せなければ、スクールはもうだめだ」というほどの絶賛ぶりだったという。
そして安室には、スクールで指導役もさせていた。
人に伝えるために理論を身につけさせ、「見られる」という意識を植えつけるためだと言っていた。
そして、スクールのインストラクターをしていたアンナに「奈美恵の次はこの子たちだよ」とレッスンを任せてきたのが、後のSPEEDであった。
一方で、芸能界に2度デビューして売れなかったアンナには、「お前は表向きじゃない。お前が育てた子たちがスターになれば、それを育てたお前が注目される」と、指導者の道を勧め続けた。
アンナによれば、父マキノ正幸の才能を見抜く力は、天才的であったという。
マキノ正幸は、父が映画監督・マキノ雅弘で、母親が宝塚の女優・轟夕起子という環境で育っている。
そのため、幼少期から俳優がスターになっていく過程をつぶさに見て、才能を見分ける目が養われたと自ら語っていたという。
また父親には、「何かを選択するときは、よりハードルの高い方を選びなさい。そこで失敗という経験を手に入れられる」と教えられたという。
。 牧野アンナは、その後アクターズスクールのインストラクターなどを経て、現在は「振付師」としてAKB48やSKE48のの振り付けなどを行っている。
2002年から、ダウン症のある人のダンスグループ「ラブジャンクス」を主宰し、AKB48やSKE48のダンス指導や公演プロデュースなどをしている。
牧野アンナが、彼ら彼女たちに言うことは100%、父から言われたことなのだそうだ。

マキノ正幸が才能を見分ける天才ならば、わざわざアクターズ・スクールを沖縄に設立したのは、沖縄には「タレント」を生み出す何かがあると、注目したからであろう。
そこで思い浮かべたのが、この沖縄に「フィンガーファイブ」という彗星が出現したことである。
彼らは、米軍基地に出入りしながら、「アメリカン・ポップス」の影響を受けていた。
沖縄の具志川市(現うるま市)で生まれた五人兄弟は、「Aサインバー」(アプルーブド・サイン・バー)すなわち米軍が入ることを認められた飲食店で育った。
小さい頃から聞いたのはアメリカ音楽だった。
ハジメ子供達は、ホウキをギター代わりに遊んでいた。
アメリカのロック、ポップスに触れる機会が多い環境のもと、当時小学生だった長男・一夫、次男・光男、三男・正男が「オールブラザーズ」という名でバンド活動を始めた。
三人でベンチャーズの真似事をして、沖縄のテレビ番組のコンテストで優勝した。
これをキッカケにテレビ局のプロデューサーにも薦められ、1969年に「本土」で音楽の夢を果たすべく一家7人で東京に向かった。
最初に住んだ都心のアパートでは音がうるさいと追い出され、東京東村山市の一軒屋にころがりこんだ。
上京した一家は、東京の人々が歩くのが早い、しゃべるのも早い、お札の色が緑(米ドル)でないことに驚いたという。
母が自ら車を運転し、日本中の在日米軍基地を回ったりイベント会場の仕事を探しながらデビューの機会を待った。
しかしイベントのステージで得意の英語のナンバーを歌うが、客たちは最初はもの珍しげに見るものの、彼らの音楽に耳を傾ける風でもなかった。
1970年に「ベイビー・ブラザーズ」と名を変え、メジャーデビューを果たした。
しかし「子供」のバンドでは売れずに、転校した学校では沖縄の人々は靴はいてるのか、英語が話せるなら話してみろといわれたりした。
小学生だった妙子は、それまで着たこともない琉球王朝時代の服を着てステージに上ったりもした。
ただ米軍の横田基地では忘れられない経験をした。
当時マイケルジャクソンがボーカルをしていた「ジャクソンファイブ」が人気絶頂だったが、米兵が下士官クラブのコンサートで、それまで盛り上がっていたのに、「アイル・ビー・ゼア」を歌うと、兵士たちは静まり返り、涙をながしたという。
時はベトナム戦争の真っ只中、「アイル・ビー・ゼア」は郷愁の歌であった。
「ベイビーブラザーズ」は、まだ幼い兄弟のバンドだったが、ちゃんと歌えば人々に感動を与えられることを知った。
そして1972年「沖縄本土復帰」をテレビ番組で見ていた父が涙を流していた。
兄弟たちは、先の見えない暮らしから早く抜け出し、早く沖縄に両親を帰してあげなければならないと思った。
しかし現実が立ちはだかった。曲はヒットせず両親はいよいよ帰郷を考えたが、そんな時「彼らの声」に自分の一生を賭けてみようという人物が表れた。
その人物・井岸義測はたまたま聞いたテープの声をホンモノだと思い、いままでいた会社をやめてまで沖縄から出てきた「五人兄弟」にかけようと思ったという。
井岸は、かつて矢沢永吉のいた「キャロル」をプロデュースしたディレクターで、「ベイビーブラザーズ」のソウル・スピリットに心をうたれた。
そして、彼らの「ソウル」を潰してはならないと思い、彼らにできるだけ自由に歌わせるようにした。
そうして井岸は「一世一代」の大勝負に出た。
五人兄弟をヒットメーカー作曲家・都倉俊一、作詞阿久悠のコンビの前で演奏させることにした。
このときヴォーカルの晃(あきら)は、小学校1年生だった。
幼い五人はよく状況もわからず必死で演奏した。
その時都倉と阿久悠は目をクリクリさせて、五人の演奏をとても楽しげに聴いていたという。
そして彼らの演奏は、間違いなく作詞家・作曲家の想像力を刺激した。
都倉は、彼らは素人ではないことを感じ、阿久は、五人はアメリカを身に纏っていたと感じた。
それは、ローラースケートとバスケットボールとソフトクリームの香りがするアメリカだと表現した。
そうして二人のコンビで生まれたのが、「個人授業」であった。
フィンガーファイブのデビュー曲「個人授業」は、1980年70万枚を超える大ヒットとなった。

一番心に響くのは、喜納昌吉の「花」やTHE BOOMの「島歌」のような沖縄民謡と現代ポップスの融合したような曲。
ただし「島歌」の島は、沖縄ではなくて奄美大島であるが、「沖縄ポップス」の流れの一つと考えていいだろう。
前述のとうり、沖縄ポップスの土台を築いたのが、「りんけんバンド」の存在であるが、このバンドのリーダー・照屋林賢を、「音楽で人々を励ます」という方向に向かわせたのは、照屋一家と一人の歯科医との出会いが大きい。
さて、沖縄県の石川市(現うるま市)は、沖縄本島のほぼ中央にあって、第二次世界大戦後に沖縄で最初にできた「市」である。
それまでは、美里村字石川といって人口2000人足らずの静かな農村であったが、戦争が終わった1945年、米軍によってここに「難民収容所」が設置され、沖縄各地から戦火に追われたたくさんの人々が集まってきた。
そのため、石川の人口は数ヵ月で3万人にふくれ上がり、「石川市」に昇格した。
しかし、「市」に昇格したからといって人々の生活が楽になるわけではなく、人々は戦争で受けた心の傷を癒やす間もなく、その日その日を生き延びることで精一杯だった。
軍の作業に駆り出され、食料と物資を手に入れることに追われて疲れきり、毎日希望を失ったまま暮らしていた。
そこに突然に、「小那覇舞天(おなはぶーてん)」と名乗る風変わりな男が現れた。
舞天は本名を「小那覇全孝(おなはぜんこう)」といい、今の県立那覇高校を第一期で卒業し、その後日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)を卒業して歯科医となった。
舞天のオモシロオカシは、仕事で白衣を着ている時や家にいる時はまじめで口数の少ない人であったが、一歩外に出ると風変わりな「漫談男」に豹変することだった。
この小那覇舞天の方は毎晩のように、舎弟「照屋林助」(てるやりんすけ)を呼び出し、まだ起きている家を見つけては甲高い声で「ヌチヌスージサビラ」(命のお祝いをしましょう)とズカズカと入ってくる。
そして、突然「ジャカジャカジャン」と三味線が鳴り響き、歌が始まるのである。
突然やって来た中年の男が、その場でつくった歌を民謡の節に乗せ、この地方独特の「琉球舞踊」もどきを踊るのだから、人々はただただアゼンとするばかり。
しかし、次第に舞天のユーモラスな「踊り」に乗せられ、家の者もついつい一緒に踊り始めるのである。
ところが舞天がある屋敷を訪問した時、位牌の前で家主が涙を流している場面に遭遇した。
家主は舞天に、こんな悲しいときにどうして歌うことができるのか?戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに位牌の前でどうして「お祝い」をできようか?と問うた。
すると舞天は、「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないし、沖縄も復興できないのではないか。さあ遊ぼうじゃないか」と応じた。
舞天の言葉に虚をつかれた主人だったが、家主の表情には明るいきざしが表れた。
こうして口づてに舞天の存在は沖縄中に知られていった。
当時は、一軒の家にを10人くらいが詰め込まれて「避難生活」している状態の所も多く、すぐに人の輪ができて笑いのウズが巻き起こっていったのだ。
避難民達も、舞天の世の中を風刺した漫談に、腹のソコから笑い転げ、少しずつ元気を取り戻していったのである。
小那覇舞天は「ブーテン」の愛称で親しまれたが、打ちひしがれた人々の心に灯を点したためか、いつしか「沖縄のチャプリン」ともよばれるようになった。
そして、舞天とともに民家を訪ね歩いた照屋林助こそは、「りんけんバンド」のリーダー照屋林賢の「父」にあたる。
ちなみに照屋林助は、元・ミスインターナショナル第二位の「知花くらら」の叔父にあたる人でもある。
戦争で傷ついた、「沖縄芸能」の復興は小那覇舞天・照屋林助コンビによって始まった。
大阪吹田市の国立民族学博物館の音楽展示コーナーには照屋林助・照屋林賢の 四線(ユンシン)チェレンが紹介展示されている。
沖縄は、他のアジアの海洋文化と等しく、海洋古層文化の上に中国文化、その上に欧米文化(アメリカの文化)が重なった重層的な文化である。
そして、照屋林助の息子・林賢によって沖縄の心と融合したような「沖縄ポップス」の土壌がうまれた。加えて、アメリカの基地の強い影響を受けた「フィンガーファイブ」の存在。
マキノ正幸がこの沖縄に「アクターズスクール」を設立したのも、文化の引き出しの多さ、言い換えると、多様な音楽の土壌に注目したのではなかろうか。
つまり「沖縄」そのものの才能ということ。