提携するシオニスト

アメリカという国は、長年「親イスラエル政策」をとってきた。その理由として、アメリカがユダヤ系のメディアや政治家など「ユダヤロビー」の強い影響下にあるからだといわれている。
たしかにユダヤ人は、投票や政治資金を通じて、アメリカ大統領選や議会選挙を左右する。
トランプ大統領の娘婿クュシュナーはユダヤ教徒だし、娘イバンカもユダヤ教に改宗した。
さらにはトランプ大統領は、2017年5月には、イスラム教徒の支配する東エルサレムの「嘆きの壁」で、実際に嘆きのポーズを示した。
それは、「ユダヤロビー」を意識してのことであったであろうが、ユダヤ系アメリカ人はせいぜい500万人程度で、全人口の2パーセントを占めるにすぎない。
また、イエスをメシア(救済者)と崇めるキリスト教徒の国アメリカの指導者が、それを否定するユダヤ教のイスラエルをそこまで支持することにつき、違和感を覚えざるをえない。
ヨーロッパの歴史から見るかぎり、キリスト教徒は徹底的にユダヤ教徒を「排除」してきたからだ。
実は、中国現代史において、水と油の国民党と共産党が「抗日」の一点で結びついたように、キリスト教とユダヤ教を結びつける「一点」がある。
その一点こそ、「シオニズム」という思想もしくは信仰である。
「シオニズム」とは、ローマ帝国によりヘブライ王国を滅ぼされ、世界に離散したユダヤ人が再びパレスチナに帰還し、エルサレムを首都とする国家をつくるべきであるという思想(信仰)である。
このシオニストにつき、「ユダヤ教シオニスト」と「キリスト教シオニスト」が存在することが、重要なポイントである。
日本の多くのキリスト教会では、神の教えとして道徳や倫理を教え、愛をもって社会的実践を勧めるなどが主眼で、聖書の歴史観や旧約聖書の預言の実現が語ることをしない。
「キリストの再臨」など、ふれようともしない。それは今アメリカで急浮上のプロテスタント・キリスト教派の動静とは対照的といってよい。
キリスト教シオニストには、聖書の記述や預言を重視する「キリスト教福音派」と、聖書の無謬性を主張し批判を許さないファンダメンタリスト(原理主義者)がいる。
アメリカ国民の4分の1は「キリスト教福音派」で、聖書の預言は実現する、もしくは実現しなければならないという信仰をもつ人々なのだ。
その存在が大きく浮上したのが、トランプ大統領の「エルサレム首都宣言」や「イラン核合意破棄」で、中間選挙で彼らの支持を得るための行為として新聞などで報道されているからだ。
数という観点からすれば、福音派を中心とする「キリスト教シオニスト・グループ」のほうが、ユダヤロビーよりもアメリカ政府の対イスラエル政策形成に大きな影響力を持つといってよい。
そして、現在アメリカのキリスト教シオニストとユダヤのシオニストは「提携関係」にあるといってもよい。
そして「キリスト教シオニスト」たちは、旧約聖書ダニエル書やヨハネ黙示録が預言する最後の7年間が始まる前提条件は、「ユダヤ人がエルサレムに帰還していること」「イスラエル国家・及び代表者たちの存在」ということを信じている。
ところでユダヤ人は、紀元70年にローマ帝国によって国を滅ぼされて以降、パレスチナを追われ、世界に離散してきた。
ところが1948年、国連の決議によって、正式に「イスラエル国家」が承認され、約2000年間の時を経て、ユダヤ人はパレスチナの土地に帰ることを許された。
さらに1967年に起きた第三次中東戦争(六日戦争)以来、イスラエルはエルサレムの大半を支配するようになり、「ユダヤ人がエルサレムに帰還している」という前提条件も整った。
したがって現代は、7年にもおよぶ「大艱難時代」(マタイ24章)がいつ到来してもおかしくはなく、メシア再臨がせまった時代であると信じているのである。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」(マタイ24)。
多くの欧米のキリスト教徒が、こうしたことを信仰もしくは意識していることなのに、日本人はその点に関してきわめて疎いか無縁に生きている。
ちなみに福音派などキリスト教保守派に対して、キリスト教リベラル派というものがある。
リベラル派は、自由主義神学に基づくもので、聖書を2千年前に書かれた文書としてその時代背景、書かれた状況などの考慮する立場である。
したがってリベラル派は、福音派と異なり聖書の批判的な検証や進化論、同性愛・中絶などにつき許容度が広い立場にたつものである。

ユダヤ人テオドール・ヘルツルが、「シオニズム運動の父」として知られている。
当時フランスは、プロシア・フランス(普仏)戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。
そのような中で、軍部によって無実のユダヤ系軍人がドイツのスパイであるとして、正義と自由が踏みにじられたのがドレフュス事件であった。
10年以上の年月を要したがドレフュスの無罪は確定し、フランスの共和政の精神はどうにか守られることとなったものの、ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、ユダヤ人に対する民衆の差別感情がその後押しをした面があった。
ハンガリー出身でジャーナリストで、パリに滞在していたユダヤ人ヘルツルは、この事件を通じて、フランスのみならずヨーロッパ全域での「反ユダヤ感情」の強さを身を以て感じショックを受けた。
そこで、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざす「シオニズム運動」が始まったのである。
ところが実際には、シオニズム運動の淵源は16世紀の宗教改革にまで遡る。
実は、シオニズムの発端は、なんとイギリスに住んでいたプロテスタントのキリスト教徒だったのである。
マルテインルターの宗教改革において、聖書は一般人にも身近なものになった。
ドイツ語訳により、ラテン語聖書は聖職者による独占からようやく解放されたのだ。
これはキリスト教界に非常に大きなインパクトを与えた。キリスト教徒たちが初めて聖書を手にするようになって、それに自分自身で解釈を加え始めた。
彼らは、ユダヤ教またはヘブライの聖書として知られていた「旧約聖書」に目を向け、ヘブライ人の歴史、物語、伝統、律法を知り、旧約の舞台がパレスチナの地であることや、そこに登場する様々な物語によく親しんでいった。
こうしてパレスチナを神が与えたユダヤ人の国と考え出すプロテスタント・キリスト教徒(キリスト教シオニスト)が増えてきたのである。
イギリスのピューリタン革命で「護国卿」となったオリヴァー・クロムウェルは、パレスチナにユダヤ人が帰還すれば「キリスト再臨」の序曲になると明言している。
そして「キリスト再臨」の際には、ユダヤ人はこれまで否定してきたイエスを彼らの「メシア」として受け入れるだろうと宣言している。
それは新約聖書ヨハネ黙示録の11章の記述に基づくものである。
ただし、キリスト教シオニストは、パレスチナに当時どれくらいの人々が住んでいるかについての認識は欠如していたようにも思える。
なかでもユダヤ人をパレスチナに移住させようと躍起になったクーパー卿は、時の外相パマーストン卿と姻戚関係にあったので彼をせっついて、エルサレムにイギリス領事館を開設させたのである。
プロテスタント・キリスト教徒は、パレスチナはユダヤ人のものなのだから、ユダヤ人は全てそこへ移住し、異教徒と分かれて暮らすべきだと熱心に主張し続けた。
ところが肝心のヨーロッパのユダヤ人たちは、自分らの住み慣れた土地を離れてパレスチナに移住したがる者はほとんどいないか、皆無に近かったといってよい。
それでも、シオニズムを提唱し続けたのだが、当のユダヤ人の心をついに転換させたのが、ヒットラーのユダヤ人虐殺であった。
そして国際世論とイギリスの仲介もあり、1948年に「イスラエル建国」がなされてことをもって、聖書の預言が成就されたものとして、キリスト教シオニストは聖書の記述の正確さをますます確信するに至ったのである。

キリスト教の教派を示す言葉に「福音派(エバンジェリカル」という言葉がある。この「福音派」は、ドイツとアメリカとでは全く異なった意味で用いられている。
ドイツでは「福音派」は「プロテスタント」とほぼ同義でも用いられている。理由はプロテスタントでは語感が強すぎるし、今や何かに「反抗」しているからではないからだ。
「福音派」とは本来、聖書と信仰心だけに基づいたキリスト教徒を主張したものであり、マルティン・ルターの宗教改革の時代には、プロテスタントのことを指していたようである。
したがって、プロテスタント一般を「福音派」と呼ぶドイツの呼び方は、ルター時代の用法に忠実である。
一方アメリカでの「福音派」の用法はそれとは大きく異なる。アメリカで現在「福音派」とは保守派、また最右翼につながるファンダメンタリストまでも含んでいることにもなる。
なぜなら、自ら「原理主義」(ファンダメンタリスト)を名乗るキリスト教会はないからだ。
さて、福音派を中心とするアメリカのキリスト教シオニストとユダヤのシオニストは「提携関係」にあることを具体的に示すのが、キリスト教福音派の最大勢力「イスラエルのためのキリスト教徒連合」であり、今やトランプ政権の支持基盤といってよい。
彼らが提携する直接的なきっかけになったのは、1967年の第三次中東戦争(6日戦争)である。
1967年6月の第三次中東戦争(6日戦争)でイスラエル軍は圧倒的な強さを見せた。
エジプト、シリア、ヨルダンの三国はイスラエル軍の戦死者730人の20倍を越える15,000人の人的被害を出し、戦車や装甲車などの大量の兵器が奪取された。 この戦争によってイスラエルは、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原を占領した。
これでイスラエルの国土は4倍以上に膨れ上がった。
もともとWASPで構成されていたアメリカのキリスト教原理主義者たちは、「反ユダヤ」色が強かった。
キリスト教原理主義者たちのイスラエル支持は、具体的なユダヤ人への配慮ではなく、この世界の次にやってくる「千年王国的」な終末論という神学的根拠に由来しているのである。
かくしてアメリカのキリスト教シオニストとユダヤ系シオニスト指導部は1967年の第三次中東戦争を境にがっちり結びついた。
どちらの指導者も、アメリカ=イスラエル両国で軍事的な拡大をもとめている。
とはいえ、両者は提携関係にあるとはいっても、それは歴史のある段階までで、根本的にめざすものが違うといってよい。
ユダヤ教徒の悲願は、かつてのヘブライ王国の復活、イスラム教徒の支配下の地にあるソロモンの神殿を再建し、そこに「契約の箱」を収めるということだ。

2015年にイランと欧米の間で結ばれた「イラン核合意」とは、そもそもどんな同意なのか。
簡単にいうと、イランの核開発をしばらくの間制限する代わりに、各国が経済制裁を緩和するというものだが、イランの核開発問題が浮上したのは、2002年頃の話。
核関連施設で高濃縮ウランの製造を企画していた、またはしている、という疑惑がかけられた。
通常の原子力発電なら、低濃縮ウランでも十分で、わざわざ高濃縮ウランを用いるのは、ついでに原子爆弾の製造を狙っているからではないかと欧米諸国は、イランに対し疑念を抱いたからだ。
これにアメリカはすぐさま武力行使をしようとしたが、EUは平和的解決を目ざし話し合いをしようと提案した。
しかし、イランがEUの提案に応じなかったため、欧米はイランに対して経済制裁を実行する。
ところが欧米は、IS(イスラム国)の登場は事態を一変させた。イランを味方につけた方が、中東が安定するのではないかというようになったのである。
かつて、わずか数千人の兵で兵力でも装備でも下回っていたイスラム国にイラク軍が惨敗させるなどしたために、イスラム国を野放しにしておいては中東情勢がより不安定になると感じ始めた。
そこで、当時のオバマ大統領は、最初はイランに対し一切の核開発を認めない姿勢を取っていたのに、条件付きで核開発を認め、経済制裁も緩和する方向に向かい、「イラン核合意」に繋がったのである。
こうして、イランは核兵器に転用できる高濃縮ウランや兵器級プルトニウムを15年間は生産しない、10トンあった貯蔵濃縮ウランを300キロに削減するなど、イランが核開発を再開しても、核爆弾1発分の原料の生産に最低1年はかかるレベルに能力を制限するようにした。
その結果、イランは核開発に制限がかかる代わりに、欧米の経済制裁を解いてもらったわけだ。
こうしてオバマ政権時代に結ばれたイラン核合意について、トランプ大統領は大統領選挙の時点から「見直し」を公約に掲げていたのだ。
トランプ大統領は、この5月にイラン核合意から離脱した理由を、現在の合意の腐った仕組みでは、イランが核兵器を開発することを阻止できない、特にイランの核計画が期限付きでしか制限していない、弾道ミサイル開発を制止していないなどの合意の欠陥を指摘している。
ただトランプ大統領がいかに「公約」に掲げていたとしても、それが唐突に思えるのは、9月の中間選挙を意識した可能性が高いといわれている。
それも、特に「キリスト教福音派」に対するアピールし、その票を集めることが選挙で勝利する大きなポイントであると認識しているからだ。
それは、トランプ大統領の「アメリカファースト」の一環で、ヨーロッパはアメリカの離脱に懸念を示す一方、イランと対立しているイスラエルとサウジアラビアは、アメリカのイラン核合意離脱を歓迎している。
日本人にはあまりなじみがない二つのシオニストの存在。しかも両者は、ユダヤ復興を「前提条件」とするか、「最終目標」とするかの違いはあれ、利害が一致し今のところ提携関係にある。
聖書によれば「汝の信仰のようになれ」という言葉があるように、何を信じているかが人生を左右するように、この世界を動かすものとするならば、人々が「何を」信じているか、なのだ。
話が全くかわるが、最近の国会における財務省の役人の答弁と日大アメフト部の監督・コーチの会見が奇妙に重なった。
例えば、相手チームの選手を「潰せ」といわれて「怪我」をさせるように監督が指示したと解釈したのは、日大側の説明では監督コーチの指導者との「乖離」が生じたからだといいはなった。
それでは勝手に「忖度」したということか。
さらには、森友問題で「公文書改竄」自死に追い込まれた財務省の役人も、相手方を怪我させた日大の選手ぐらいの勇気と潔さで「上司の指示」を明らかにすれば、自死に追い込まれることもなく、ある程度世論も味方してくれたのではなかろうか。
ともあれ、人は拝するものもしくはリスペクトするものの「確かさ」こそが、人生を決定的に左右する。