アマチュア野球精神

2018年8月23日 日本ハムの宮台康平投手が、ソフトバンク戦でプロ初登板初先発した。
東京大学出身者の先発は1967年の井手峻(中日)以来51年ぶり。結果は5回途中4安打6四死球2失点で勝ち負けはつかなかった。
今からおよそ2年前の2016年5月7日の東京六大学野球で、東大が立教を4-0で下し「事件」のごとき報道が記憶に残っている。
この試合、完封したのが宮台康平投手で、150キロ左腕にプロの注目が集まった。
遡って1925年にはじまった東京六大学リーグ戦で、東大の最高成績は2位。それは1946年春のことであった。
また、1981年春リーグ戦でも東大は存在感を示した。「赤門旋風」と呼ばれたこの年、初戦で法大と対戦。当時の法大には小早川毅彦や西田真二、木戸克彦ら、後にプロでも活躍を見せる顔ぶれが揃っていたが、6-2で勝利を収めている。
近年、NHK9時のニュースでキャスターをつとめ「NHKの顔」となったのが、この時のピッチャー大山雄司である。
そんな東大野球部の歴史なのだが、"戦場の知事"とよばれた東大野球部OBがいた。
1945年6月、島田叡(しまだあきら)はなんのめぐりあわせか沖縄県知事となり、沖縄・摩文仁の丘で消息を絶った。
島田は1901年、兵庫県の現・神戸市須磨区の開業医の長男として生まれた。
1922年に東京帝国大学法科へ入学。東大時代は野球部のスター選手(外野手)であった。
東大卒業後に内務省に入省し、主に警察畑を歩み、1945年1月の時点では大阪府内務部長を務めていた。そんな折、島田に沖縄県知事の打診があった。
前任者は、各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張して、出張中にも係わらず香川県知事の辞令が出されている。
沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、「後任人事」は難航していた。島田は、その沖縄県知事の仕事をほどなく引き受けた。
周囲は島田をひき止めたが、自分は死にたくないから、誰か代わりに行ってくれとはいえないと、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせて、沖縄へ飛んだ。
島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。
同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始め、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執った。
陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになると反対の意思を示していた。
しかし、同席した軍団長会議において、牛島満司令官は第32軍の使命は本土作戦を1日たりとも有利に導くことだと説いて会議を締め括ったという。
1945年6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。
島田は警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、今もって遺体は発見されていない。

日本で野球は戦前から大人気で、その人気は学生野球から始まった。
そして学生野球が人気があった理由は、アメリカ生まれのスポーツでありながら、人々はそこに日本人精神の「昇華」を見い出したからではなかろうか。
そんなことを強く思わせられたのは、学生野球チームではなく、戦前日系人によってカナダで生まれた野球チームによってである。
カナダに居留する日系人の野球チーム「バンクーバー朝日」が、2003年に野球博殿堂入りしたのは、そればバンクーバーに近いシアトル・マリナーズのイチローの活躍に触発されたかどうかは定かではない。
ただ確かなことは、日系人以外にもそのスタイルとスピリットが、多くの人々の記憶に残っていたということである。
2014年に映画化された「バンクーバー朝日」は、カナダに大志を抱き海を渡った日本人たちだが、「排日運動」のさなか1912年に結成されたアマチュア野球チーム「朝日」の物語である。
1914年に始まった第一次世界大戦では、日系人が大挙してカナダ軍に従軍し命をかけて闘ったものの市民権を得るまでにはいたらなかった。
バンクーバー朝日は、白人チームとは対照的な犠牲打、盗塁、守備などの巧みさで有名となり、日系人以外にも大勢のファンを持つに至った。
頭脳プレイを駆使し、大柄で強打の対戦相手を打ち負かし、1919年から1940年の間に市のタイトルを10回勝ち取って、チームはバンクーバー・リーグのリーダーとなった。
映画でも描かれているとおり、バンクーバー朝日軍が本当に目指したものは、日本人としての誇りを取り戻すことであった。
バンクーバー朝日の活躍は、日系人にとっての希望の灯火となり、その絶頂期を通して日系人は遭遇した困難、緊張、差別に 耐え、そして打ち勝つことができたのである。
しかし1941年日本が真珠湾を攻撃しカナダは日本に戦線布告して彼らの運命は一変する。
戦時措置法により、日本国籍者は全員「敵性外人」として登録しなければならなくなり、カナダ海軍によ1200隻におよぶ日系の漁船は没収された。
全ての日本語学校は閉鎖され、保険は解約される。
バンクーバー朝日は、人気、実力ともに「絶頂期」の時に解散を命じられたが、この「バンクーバー朝日」が現地の人々の脳裏に鮮烈に焼付いたのは、何よりその「精神」だった。
ビーンボールを投げられても怒ることもなく、ホームランを打っても表情をくずさずにグランドをまわる選手達の姿。
新聞記者がたずねると、チームのメンバーは意外にも「武士道」について語った。
「武士道とは何か。それはフェアプレーの精神であり、スポーツマンシップであり、ジェントルマンシップのことであり、かつまたそれ以上のものである。フェアプレーの精神は卑怯な振る舞いをしないということだが、武士道は大きな包容力で敵の卑怯な振る舞いをすら許す」と。

日本のアマチュア野球の生みの親として、とても意外な人物の名前があがる。
それは日本社会主義の揺籃期に、日本史の教科書にも名前が登場する安倍磯雄である。
実は野球殿堂殿堂入り第1号こそが安倍磯雄なのだ。
安部磯雄は、福岡藩士の次男として福岡市に生まれる。小学校を優秀な成績で卒業したが、実家貧しかったので上級学校には進まず、地元の私塾「向陽義塾」に入門した。
「向陽義塾」は、現在の博多駅近くの全日空ホテルあたりは人参畑とよばれ、通称「人参畑塾」とよばれたが、西鉄の駅名「薬院」もそれに関連するのかもしれない。
安倍の才能を惜しんだ義兄が学資の援助を申し出たことにより同志社英学校に入学する。
1884年同志社英学校卒業後、ハートフォード神i学校(アメリカ)やベルリン大学に学ぶ。
1895年に帰国後、同志社教授を経て1899年東京専門学校(早稲田大学前身)の講師となり、1907年から教授に就任している。
安倍磯雄は東京専門学校(早稲田大学の前身)の初代野球部長に就任。1901年、社会民主党を結成するが直後に禁止。日露戦争では非戦論を唱えた。
日露戦争の最中である1905年早大野球部を率いて米国に遠征している。
これは安倍磯雄が、早稲田の総長の大隈重信を説得して実現したもので、野球への情熱が並々ならぬものであったことを物語っている。
この訪米で、早大野球部は多くの野球技術を持ち帰り、帰国後、各地で講習会を開いて広く伝えた。
ワインドアップ、ヒットエンドラン、犠牲バント、スクイズ等々、これらは安倍磯雄が持ち帰ったもので、また、「スポーツマンシップ」「フェアプレーの精神」を野球に求めたのも安倍磯雄であった。
安倍は1928年衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続5回、社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任している。
安倍の「野球遺産」いえば早稲田大学のキャンパスに作られた戸塚球場である。
安倍は大学創立者の大隈重信に、国際親善試合の夢を吹き込んで1902年の早稲田大学開校を期して新設されたのが「戸塚球場」である。
そしてこの「戸塚球場」こそが東京六大学野球前史となる早慶戦が行われた球場なのだ。
安倍は、戦後は日本社会党の顧問をつとめ1949年2月に83歳で他界。その年より「安部球場」に改められた。
安倍球場は現在東京都西東京市東伏見に移転するが、戸塚の安倍球場跡地に「安部磯雄」像が立っている。
この「安倍磯雄」像に寄り添うように立っているのが「飛田穂洲(とびたすいしゅう)」像である。
飛田穂洲は、茨城県東茨城郡大場村(現・水戸市)出身。父は大場村初代村長でもある豪農であった。
親の反対をおしきって早稲田大学に進学し、飛田は自身は野球部で二塁手としてプレー、5代目主将にも選ばれた。
早稲田大学教授の安部磯雄は、初代の野球部部長として選手およびコーチ時代の飛田に、多大な影響を与えている。
安倍と飛田の子弟は家族ぐるみの交流をしていて、飛田は安倍を「第二の父」とよぶほどであった。
、 安部は飛田への教訓として、品性優秀にして人の範とするにたるということは選手の第一条件であること、野球部の生活で、他人に迷惑をかけぬことを最も重要なこととして伝えた。
1910年、早稲田大学は来日したシカゴ大学に大差で6戦全敗し、当時野球部主将であった飛田は、その責任をとって選手を辞退した。
大学を卒業後、雑誌の編集者をした後に読売新聞社に勤務した。
早稲田大学野球部監督の要請をうけ1919年から1925年まで初代監督(専任コーチ)を務めた。
子供二人を抱えての収入減による生活難は覚悟で、当時は社会的地位もないに等しい監督を自ら引き受けたのは、シカゴ大への「雪辱」の思いが絶ち切り難かったからであるといわれている。
実は飛田の「雪辱への思い」はシカゴ大への敗戦に始まったことではなかった。
飛田は茨城の水戸中学において野球選手になった理由が、下妻中学戦に敗れたことに衝撃を受け、自ら選手になって下妻に雪辱したいという思いからだった。
また先輩が慶応中に15-0と大敗を喫し、帰りの汽車の中で、先輩に慶応に勝ってくれと頼まれる。
1925年、飛田は水戸中学の主将となり、上京して慶応普通部と試合し勝利を得ている。
そんな飛田が1919年に早稲田大学野球部監督に就任。1925年11月9日、1勝1敗2引き分けで迎えたシカゴ大学との最終戦4対0から逆転勝利した。
飛田は、夢心地でわが家に帰り、抱きついてくる幼児二人を抱いて涙を流し、自分の役割は終わったと引退を決意したという。
ちなみに、次男の忠英は東大野球部主将を務めている。
早稲田のコーチを辞任後東京朝日新聞の記者となり、戦後は1946年の日本学生野球協会の創設や「学生野球基準要綱」作成に尽力し、1965年に死去。享年78であった。
高校球児に馴染みの「一球入魂」という言葉は、飛田が野球に取り組む姿勢を表した言葉である。
東京大学野球部OBによれば、「飛田翁の精神的素養には、生誕地の土地柄から旧水戸藩の士風の伝承もあったと思われ、そこに古武士の風格を見る思いがする」と語っている。
安倍が福岡藩士の子供、飛田が水戸の豪農の子供となれば、福岡藩と水戸藩と明治政府の主流からはずれた藩の二人によって「アマチュア野球」の精神が生み出されたのも興味深いところである。

1915年、全国中等学校優勝野球大会として始まった夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)は今年が100回大会。104年目なのに100回なのは太平洋戦争で中断したためだ。
太平洋戦争で戦死した野球選手といえば、沢村栄治がいる。
1934年、読売新聞の正力松太郎は、ベーブルースやゲーリックらの大リーグ選抜チームを日本に招いた。
彼らと対戦するために組織された「大日本野球倶楽部」こそが、後の「読売巨人軍」である。
この大リーグチームに日本チームは17戦全敗で圧倒的な力の差を見せつけられたが、唯一「勝負」らしい試合となったのが沢村栄治の力投であった。
京都商業の速球投手として全国に知られていた沢村は、慶応大学進学が決まっていたにもかかわらす、3年の夏に自主退学をする。
理由は、日本チーム(職業野球チーム)に参加し、大リーグチームと戦うためで、その背景には 2年前に出ていた「学生統制令」があった。
沢村は巨人軍のエースとして球場を盛り上げたが、1937年に徴兵され、丸2年を戦場で 過ごした帰ってきた沢村はすっかり肩を壊していた。理由は手榴弾の投げ過ぎだという。
とはいえ帰国した沢村は自慢の速球を失ったものの、抜群の制球力でノーヒット・ノーランを達成するなど天才ぶりを発揮した。
しかし沢村は、予備役として戦地に戻り、次に戻ってきた時には制球力さえも失い、巨人軍を解雇された。
現役引退してほどなく、沢村はまたしても徴兵され、乗船していた輸送船が撃沈され、屋久島沖にて戦死した。それにしても、慶応大学に進学していれば別の野球人生があったかもしれない。
ところで終戦直後の焼け跡あって、早くも全国高校野球大会復活に動きだした人物がいる。
後に「佐伯通達」の言葉で知られる佐伯達夫である。
家系は長州藩の下級武士だが、大阪に移て旧制市岡中学校時代には野球の名選手として鳴らした。
早稲田大学へ進学するが、当時は早慶戦が中断されていたため、夢に見た慶應戦を戦えないという悲哀を味わっている。
卒業後はトラックの運転手等をしていたが、1945年8月15日にラジオで玉音放送を聞き終戦を知ると、全国中等学校野球連盟の設立に奔走した。
それはこんな時こそ青少年に必要なものこそが野球であるという強い思いからであった。
一方、朝日新聞は、戦前より全国中等学校野球などを主催したが、軍事色が強まる中で、軍部追従の記事を書いてきた。その反動で、敗戦後の記者たちの多くは方向性を見失っていた。
それは教師も同様であり、一部の記者たちを中心に、朝日新聞社の命運をかけて「夏の甲子園」復活をかけてGHQや文部省との交渉にあたった。
ところが意外にも、GHQは、日本の野球教育はプロパガンダにつながりかねないと大会復活に難色を示した。それはまるで「野球道」のように戦前は精神論が強かったためだと推測される。
なにしろGHQは、武道に始まり、歌舞伎の「忠臣蔵」や「勧進帳」、はり灸から将棋までも、 規制の対象として考えられていたからだ。
そして佐伯は朝日新聞記者らとの協力の下、終戦からわずか1年後の46年8月15日に奇跡的に「全国中等野球大会」を復活することができた。
ただし舞台は、GHGに接収されていた甲子園球場ではなく西宮球場であった。
なんと中止前の617校を上回る750校が参加した。
佐伯が高校野球について「プロの養成機関ではなく「教育・人間形成の場」と終生公言するなどアマチュアリズム教育に厳格なことで知られている。
1980年3月に88歳で他界、翌年に野球殿堂入りしている。

  モハメド・アリは、1942年1月、ケンタッキー州ルイビルに生まれた。
1960年、ローマオリンピックのボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得し、その後プロに転向し、1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者ソニー・リストンと対戦。
アリ不利との下馬評を覆して、6ラウンドKO勝ち。
試合後、興奮冷めやらぬアリはこう叫んだ。「俺は世界を震撼させた! 俺は世界の王だ! 俺は最高、俺は偉大だ!」。
その大言壮語から、いつしか「ほら吹きクレイ」というあだ名がつく。
その後、公民権運動の活動家マルコム・Xとの出会いからイスラム教に改宗し、本名も「カシアス・クレイ」から「モハメド・アリ」に改名した。
政府や社会を批判する言動がエスカレートしたことから「世界王者のタイトル」を「剥奪」され、およそ4年間にわたって試合を禁じられた。
1974年10月30日、アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで王者ジョージ・フォアマンに挑戦。
ロープに持たれながらパンチをブロックし、相手が打ち疲れたところで反撃する「ロープ・ア・ドープ」と名付けた戦法で8ラウンドKO勝ち。アリ不利の事前予想を覆し、「キンシャサの奇跡」とよばれた。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容された流麗なフットワークと切れ味鋭いジャブを駆使したボクシングスタイルで観客を魅了した。
ところで、黒人ボクサーのムハンマド・アリは、1968年に「徴兵拒否」によって全米のすべての州でライセンスを停止され、WBA(と下部組織だったWBC)からベルトを取り上げられた。
「オレが心から恐れるのは神の法だけだ。人が作った法はどうでもいいと言うつもりはないが、オレは神の法に従う。何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由はオレにはない」。
「オレたち黒人が戦うべき本当の敵はベトコンじゃない。日本人でも中国人でもない。300年以上も黒人を奴隷として虐げ、不当に搾取し続けたお前たち白人だ!」。
「ベトコンはオレを”ニガー”と呼ばない」というアリのシンプルで強力な「一刺」に全米の黒人たちが敏感に反応した。
ベトナム戦争や公民権運動に無関心だった白人たちにまで影響を与え、多くの一般市民が深い関心を持つようになった。アメリカ社会そのものをその自在の舌鋒で鋭く刺した魅了したといえよう。