「暗号」の場面

今日の時代、人々のコミュニケーションが当事者以外の者にとって、とてもわかりにくくなったように思える。
世代間ギャップというよりも、会話そのものが携帯上の短い「表現形式」を踏襲していて、はたからは「暗号」のヤリトリのように見えてくる。
「わかった」を了解の「りょ」で済ますのなら、「わからない」は「りふ」(理解不能)で済ますのかいなどと思ってしまう。
遊びで済んでいるうちはいいが、今後、中国のように中央の個人に対する監視が強まったり、社会が分断するようなことになれば人々は、会話を「意識的」に暗号化せざるをえなくなる。
社会全体が、言論の自由がきかなくなる社会では、「暗号の場面」が多くなるということだ。
さて、鹿児島県は「おれおれ詐欺」のもっとも少ない県だという。理由は「鹿児島弁」のせいである。
確かに、「おいどん詐欺」ともなれば詐欺側のハードルも高そうである。
関ヶ原の戦いで豊臣方についた島津氏は、当然ながら徳川家康に快く思われておらず、外様大名としての地位に甘んじていた。
そのため、江戸時代には、長い間中央から様々な監視を受け、徳川方の「隠密」によって機密情報を盗み出されるようなことが続いていた。
そこで、薩摩藩では日本語に近い新たな「言語」を作り、それを藩内で通用させることで、隠密の耳から逃れようとした。
十分にその効果があってか、幕府の統制をかいくぐって密貿易や密出国などををすることができ、倒幕への力をつけていったのである。
倒幕後は鹿児島弁は”鳴り”を潜めていたが、第二次世界大戦で「暗号」としての役目を果たすることとなる。
日本の他の様々な暗号を解読してきた米軍ですら、それをすぐには解読できなかった。
米軍はなんのことを話しているのか全く分からず、世界中の様々な民族の言語まで調べ上げたが、その方法では解読することができなかった。
結局この暗号を解読したのは結局鹿児島出身、つまり元ネイティブの「日系二世」だった。
アメリカ側も、太平洋戦争中に日本と同じ様な発想で、「暗号化」の元となった言語がある。
アメリカでは、アリゾナ州、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州の4州にまたがる「フォーコーナーズ」と呼ばれるところにナバホ族、ポピ族等のインディアンの居住地がある。
ナバホ族は「フォー・コーナーズ」の沙漠地帯に、アメリカ最大の「保留地」を領有しているネイティブ・アメリカンである。
彼らは、第二次世界大戦でアメリカ兵として従軍した。 ジョー・ローゼンタールが撮影したアメリカ海兵隊が硫黄島の「擂鉢山」に星条旗を立てる写真がピューリッツアー賞を受賞。
その写真を元にして、海兵隊戦争記念碑としてアーリントン墓地に復元され、アメリカの第二次大戦を象徴するものとなった。
その6人の兵士の一人の帽子には「ナホバ」のデザインが施されている。
ちなみに、この兵士たちの像の裏側にある真実を追求した映画が「父親たちの星条旗」(2006年)である。
太平洋戦争において、サイパン島は陸軍精鋭を配備していたこと、「絶対防衛圏」としていたこともあり東条英機は不敗を明言していた。
暗号は、最前線では短時間での発信と解読が重要になるため、アメリカ軍は、そのため、コードトーカーを送り込んだ。
「コードトーカー」とは、ナバホ語を操る暗号員 のことで、「ナバホ語」が、外の世界には通じにくいという条件が利用され、「暗号」として利用されたためである。
彼らは、ガダルカナル攻略戦、サイパン上陸作戦、硫黄島攻撃などで活躍した。
単純置換で英単語をナバホ語に置き換えていたので、ナバホ語をそのまま無線で使用したわけではない。
、 すなわち、軍事的な指令文はナバホ族出身の兵士によってナバホ語に翻訳して送信され、受信する側では、これもまたナバホ族出身の兵士によって英語に翻訳されたのである。
このような方式によって打電された暗号文は、日本軍には解読することは全く不可能であった。
とはいえ、言語学的に見れば、ナバホ語は日本語と同じく、直接目的語は主語の後に来る。前置詞を伴う名詞句は前置詞の前に来る。
名詞の所有者を表す句は所有される名詞より前にあるなどだ。
英語とよりは日本語にナバホ語が似ていたのは皮肉なことである。
そして、それから40年の時を経た1985年、日米双方の生き残った400人の軍人たちによる「合同慰霊祭」が硫黄島で行われ、かつて敵同士だった者たちは互いに歩み寄り、固く抱き合った。
「ナバホ暗号部隊」に参加したナバホ族長老は、太平洋諸島最前線で日本人兵と至近距離で向かい合った時、「後ろにいる白人たちよりも敵である日本人のほうが自分たちと外見が似ており、親近感を覚え動揺した」と語っている。
ところで、アメリカン・ネイティヴと日本とのもうひとつの関わりが、「原子爆弾」である。
ホピ族は、ナホバ族に同様にアリゾナ州北部のコロラド川沿いに住んでいるアメリカン・ネイティヴの部族の一つである。
「ホピ」とは「平和の民」という意味で、約1000年前にマヤ文明の末裔が、神に導かれ現在の居留地にやってきたとある。
そしてその伝統的な生きかたと偉大なる精霊から与えられたという予言の「石板」を守りつづけてきたのである。
彼らは、常にホピ一族自身に起こる変化と、この地球の上に起こる出来事の変化を、その石板と照らし合わせながら見つめつづけてきた。
1948年に、重大な教えと予言を外の世界に伝えるためにメッセンジャーが選ばれた。
彼らは、「ホピの予言」を世界に伝えることを自らの仕事としてきたが、ホピの言葉で「灰のつまったひょうたん」が世界に災いをもたらすとある。
またホピ族の近く住むナバホ部族の一人は、ナバホにはその「創世神話」の中で、ウラン(ナバホはそれを地下世界からのクレッジと呼ぶ)は大地の中に留めておくべきもので、もし解き放たれたなら、それは邪悪な蛇になり、災害や、死や破壊をもたらすだろうと伝えている。
1945年8月6日、世界で最初に原子爆弾が広島に投下された。その際、原子爆弾で使われたウランは、「ナバホ保留地」の地下に眠ったものだった。

寺崎マリコは日本人とアメリカ人を両親に持つ、ごく普通の少女であった。
寺崎マリコの父英成は、ワシントンの総領事館に赴任した際、グエン・ハロルドという美しい女性に一目惚れをした。
グエンも英成の実直な人柄に惹かれ、大恋愛の末二人は結婚。グエンは夫の祖国日本にやってきた。
寺崎家は外交官の家系で、英成の兄太郎も外交官であった。
1932年、英成は上海に赴任を命じられ、身重だったグエンを伴って大陸に渡った。
当時、日中関係は最悪に陥っていった。若き外交官は苦悩の日々を戦う。
そんな中で、同年8月。待望の第一子である女の子が誕生した。
当時の駐華公使・重光葵は事の他喜び、名付け親を買って出て、「マリコ」と命名された。
マリコは父の祖国と母の祖国をつなぐ、大切な架け橋ともなるはずであった。
ところが、マリコが物心をついた4歳の頃は、すでに日中関係は泥沼化していった。
軍部は満州国樹立のために中国各地で諍いを起こし、中立であるはずの租界にまでその暴挙を及ぼす有様であった。
寺崎英成の外交は、秩序と礼節を重んじるというのが「寺崎流」であった。
そのため軍部と度々衝突していった。
なによりも、外交は外交の専門家達がやるべき事であって、軍人が出る幕ではないという認識があったからだ。
そうした中、寺崎はワシントン勤務を命じられ、小学生になったマリコと妻グエンを伴って、アメリカに渡った。
1940年にはいり、忍び寄る日米戦争の足音に危機感を募らせながら、なんとかそれを回避するための駆け引きがなされた。
そんな中で、密かに英成と兄太郎との間で密かに「暗号」が考えられた。
そのキーワードとなったのが娘「マリコ」の名前であった。
「マリコの具合はいかがですか?」(日米関係はどうですか?) 「マリコは大変悪いです。どんどん悪くなる一方です」(見込みが薄くなりました)
「それはいけない。荻窪のオヤジが生きているうちに、良い医者に診てもらわないと」(近衛首相が辞職させられそうです。首相であるうちに改善しないと危ない)といった具合に。
盗聴されても大丈夫なように、寺崎は娘の名を暗号に使った。アメリカ当局のばれれば、妻子の身も危ういというのに、マリコは、父の苦悩を子供心に理解していたという。
1941年12月、外交交渉も空しく日米の戦争の火蓋は切って落とされた。
その時、寺崎は妻グエンにアメリカに残れと説得するが、自分の夫は日本人、神様の前で誓ったときから、どこへでも一緒に行くといってきかなかった。
戦争中、田舎に疎開した一家に、世間の風はとても冷たかった。
敵国の女と結婚した非国民と、合いの子の娘。そんな酷い中傷にも、グエンはひるみまなかった。
国境があるとしたら、地図の上ではなく人の心にあるのだと思ったからである。
足りない食べ物を探して山を歩き、山菜を摘み細々と食する日々。寺崎の健康は損なわれていった。
戦争を食い止めようとして、働きすぎて、心身を消耗していたのだ。
戦争は、日本の敗戦で幕を下ろし、これからは敵国人ではなく、ようやく堂々とお日様の下を歩いて生きていけるのだと喜んだ。
そんな矢先、アメリカからグエンとマリコに帰国命令が来た。
寺崎は、車の窓に張り付くようにして父の名を呼び続けた娘を、いつまでもいつまでも見送った。グエンは涙を流したまま、振り返ることはなかったという。
寺崎はそれからまもなく波乱に富んだ人生を終えた。

「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫作/1971年芥川賞)は、「若さ」という狼に食い尽くされないようにという当時左翼活動に突き進む若者達(赤頭巾)への思いがこめられていたが、そのメッセージ自体が影響力をもつことはなかった。
さて、1970年3月31日、9人の「赤頭巾ちゃん」達が飛行機を乗っ取り朝鮮平壌に降り立った。
JAL351便がハイジャックされた事件で「よど号事件」とよばれている。
日本で起こった初めての飛行機乗っ取り事件に、事件発生から福岡空港での給油から解決までの122時間、全国民が固唾をのみ、テレビにくぎづけとなった。
ハイジャック3日目、金浦空港で赤軍派と交信していた若き代議士・山村新治郎が突如として「乗客の身代わりに人質になる」と申し出た。
人質交換が決まった夜、赤軍派と乗客たちは奇妙なお別れパーティーを開いた。
乗客の一人が飛行機に乗った思い出に、羽田離陸から90分にわたり機内の様子をカセットに録音していた。
その中には「私たちは共産主義者同盟赤軍派です。北鮮に行き、そこにおいて軍事訓練を行い、今年の秋、再度日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」という肉声が残っている。
そして、9人の過激派学生は北朝鮮平壌に降り立った。北朝鮮に渡ったハイジャック犯のリーダー格の田村高麿は処刑されたが、その後4人が死亡、平壌に残る者は4名となった。
ところが、彼らが理想とした「皆が等しく働き、働きに応じて生活の糧を得る」という生き方をさえも許されなることはなかった。
今70歳にもなる彼らはその生活を、北朝鮮当局によって完全に保証されてきたからだが、彼らが夢見た「地上の楽園」とは程遠いものだった。
これまで拉致問題や帰国問題では断片的に発言してきた彼らだが、還暦を過ぎた頃から、事件を風化させたくないという思いから、ハイジャックの全容についてインタビューに応じている。
ある者は「私たちが"革命的行為"だと思っていたハイジャックは、正義のためなら人民を盾にしてもよいという自分本位の行為でした。よど号闘争の誤りを認め、人質となった乗客、乗務員の皆様を危険な目に合わせたことを心から謝罪します」と語っている。
現在、彼らは早期帰国を望んでいるという。ハイジャック犯は、帰国すれば逮捕されることはわかっていても。
さて、時代を遡って1950年代、「地上の楽園」北朝鮮に帰還した者達もいる。
「帰還した」のだから日本人ではなく、もともと北朝鮮出身の人々である。
浦山桐郎監督の映画「キューポラのある街」(1962年)は、吉永小百合主演の映画で、中小の鋳物工場の建ち並ぶ埼玉県の川口という街が舞台である。
そして、鋳物工場のシンボルこそが「キューポラ」とよばれる煙突の形をした鋳物溶場である。
そこで働く労働者たち、働けど働けど暮らしは一向に向上することのない社会の下層の生活者たち、そして同じ労働者であって差別され続ける朝鮮人、そして北朝鮮への帰還事業、等々、その当時の社会的な背景がこの作品に大きく影を落としている。
1958年8月、神奈川県の在日朝鮮人達が、北朝鮮に「集団帰国」を求める運動を始める。
この運動の中心になったのは、在日朝鮮人の団体である「朝鮮総連」(在日本朝鮮人総連合会)であった。
朝鮮人子弟の教育のための「民族学校」を建設してその運営に当たってきたが、「北朝鮮政府の代弁者にすぎない」という批判もある。
この朝鮮総連が1950年代に始めたプロパガンダ、「北朝鮮は教育も医療も無料の社会主義国」「地上の楽園だ」と信じた人々が、帰国したのである。
映画「キューポラのある町」には、吉永小百合演じる中学生のジュンが、北朝鮮に帰るヨシエちゃんを見送り行くシーンが出てくる。
大勢の人が見送りに来て、北朝鮮の旗を振りながら「マンセー(万歳)」を何度も叫んでいた。
当時、ジャーナリズムを中心とした左派的傾向からこのプロパガンダにすっかり乗ってしまい北朝鮮「地上の楽園説」は増幅された。
ところが、北朝鮮に帰国した人々は北朝鮮の現実を目の当たりにして、肉親が帰国しないように知恵を絞った。
北朝鮮に帰国した人が日本国内に残った家族や親族に送る手紙は、すべて検閲され、不平不満が書いてあると、その手紙は日本には届かなかったからだ。
そこで、肉親が自分と同じように帰国しないように次のようにして当局の目をごまかした。
その手紙には、本人と自分しか知らない、どん底生活を示す場所「○○」と次のように記入したのである。
「金日成将軍様と朝鮮労働党の深い御配慮により、生活は○○で私達が暮らした時と同じですから御安心なされまして、必ず△△子が結婚後には、ご帰国して下さるようお願い申し上げます」。
この手紙の真意は、「△△子が結婚する年頃になるまで、(つまり20数年後まで)来てはならない」、要するに「絶対来るな」という暗号だったのである。

アメリカン・ネイティヴと日本とのもうひとつの関わりが、「原爆投下」である。
ホピ族は、アメリカ・インディアンの部族の一つでアリゾナ州北部のコロラド川沿いに住んでいる。
「ホピ」とは「平和の民」という意味で、約1000年前にマヤ文明の末裔が、神に導かれ現在の居留地にやってきたとある。
そしてその伝統的な生きかたと偉大なる精霊から与えられたという予言の「石板」を守りつづけてきたのである。
彼らは、常にホピ一族自身に起こる変化と、この地球の上に起こる出来事の変化を、その石板と照らし合わせながら見つめつづけてきた。
1948年に、ホピ族の村の太古から伝わる儀式を行う「キバ」という集会所で緊急の会議が開かれた。
世界がこのまま進めば、地球を破壊しかねない危険な時代に入ってしまうことを、警告として一刻も早く世界に伝えるため、その予言を世界に公開するべきかどうかを討議するために、その会議は開かれたのだ。
重大な教えと予言を外の世界に伝えるためにメッセンジャーが選ばれた。
彼らは、「ホピの予言」を世界に伝えることを自らの仕事としてきたが、ホピの言葉で「灰のつまったひょうたん」が世界に災いをもたらすとある。
またホピ族の近く住むナバホ部族の一人は、ナバホにはその「創世神話」の中で、ウラン(ナバホはそれを地下世界からのクレッジと呼ぶ)は大地の中に留めておくべきもので、もし解き放たれたなら、それは邪悪な蛇になり、災害や、死や破壊をもたらすだろうと伝えている。
1945年8月6日、世界で最初に原子爆弾が広島に投下された。その際、原子爆弾で使われたウランは、「ナバホ保留地」の地下に眠ったものだった。
それから40年の時を経た1985年、日米双方の生き残った400人の軍人たちによる「合同慰霊祭」が硫黄島で行われ、かつて敵同士だった者たちは互いに歩み寄り、固く抱き合った。
「ナバホ暗号部隊」に参加したナバホ族長老は、太平洋諸島最前線で日本人兵と至近距離で向かい合った時、「後ろにいる白人たちよりも敵である日本人のほうが自分たちと外見が似ており、親近感を覚え動揺した」と語っている。
硫黄島で、ナホバ族と面した日本人は、同類と出会ったというもともあったかもしれない。 また日米関係の悪化の中で外交官家族が、娘の名前「マリコ」を暗号につかったり、戦後の北朝鮮への帰還運動の中で家族の間「暗号」が使われたのも