故郷喪失と再生

2017年7月、北部九州を襲った集中豪雨で、新聞に「朝倉市三奈木公民館には午後7時前までに地域住民約20人が避難した」という記事を目にした。
この中の「三奈木」という地は、この地を生まれ故郷とするひとりの文学者によって「理想郷」のように描かれた地である。
個人的に、何十年かたってかつて自分が住んだ町を訪れることがある。変化への好奇心と幾分かの感傷を求めてということだが、街並みも変わり、行きかう人々は見知らぬ人ばかり。
自然に思い浮かぶことは、人間にとって「故郷」はほぼ失われるものだということだ。
実際に生まれた土地、生活していた土地であっても、年月が経てば、親は死に、係累は消え、家はなくなり、地縁も消える。
とはいえ人間とは、そこがあたかも「帰るべき場所」であるかのように、いつまでも心の風景におさめているのが故郷なのかもしれない。
TVで、いわゆる「飯場」といわれる地区で働く人々が故郷への思いを口にしていた。
彼は、家族を育てるために、出稼ぎに出る。東京オリンピックなどの末端労働力として、彼らは高度成長という時代を文字通り、その腕一本で築き上げていく。無名の民のひとりとして。
故郷の家族を支えるために故郷を出たのに、故郷に帰ることができぬまま、はたからみると故郷を捨てたように見える。
少年の頃、山や川で遊んだ日々が一番幸せな時だったと振り返る一方で、もう自分はそこには「絶対に帰れない」と語る。
本人と家族の間に何があったのかは知る由もないが、彼はもはや帰るべき「故郷」が失われたことを、心のどこかで悟っているのかもしれない。
それでも人は「故郷」を思うのは、「故郷」がかならずしも地理的地名によって特定されるものではないからにちがいない。
その意味で、故郷を思う気持ちは、「母親」を親う気持ちと似ているのかもしれない。実際の母親の姿がどうあれ。
太平湯戦争中、玉砕した兵士たちは、「天皇陛下万歳」ではなく、「おかあさん」と叫んで死地に飛び込んだケースが多いと聞いたことがある。
さて、1950年代に制作された溝口健二監督の「山椒大夫」や「雨月物語」が今でも「胸をつく」のはなぜか。
「山椒大夫」では人攫いの罠にかかり豪族山椒大夫の許に売られて、母親と離れ離れとなった厨子王と安寿の兄妹を描く。
奴隷となった二人は過酷な労働を課せられながらも、母親との再会を望む日々を送る。
それから十年、大きくなった二人は依然として奴隷の境遇のままであったが、ある日、新しく荘園にやってきた奴隷が口ずさむ歌「安寿や~、厨子王や~」に驚く。なんと自分たちの名前が呼ばれているのを耳にする。その由来を奴隷に聞き母親の生存場所を確認するや、二人は遂に脱走を決意する。
妹は途中で領主につかまり命を失うが、兄は長い旅の末に浜辺の廃屋に横たわる自分の母親をみつける。
そして、母親に近づくが母親は息子だと気がつかない。母親は、視力を失っていたからだ。
そして、弟は「あの歌」を口づさむ。
もうひとつ「雨月物語」も故郷喪失の物語といってよい。
都へでていった陶工(森雅之)が、都でひとりの女性(京マチ子)に見入られ、我が家をわすれて享楽にふける。
そして、出世の糸口をつかみ、故郷を忘れたかのように、親方に仕え、気に入られる。
ところが事故にあい、陶工は僧に助けられ、己の不如意を悟り翻然としてくにの我が家へ戻る。
妻は、夫を待っており優しく迎える。
妻は、何の問い詰めも叱責もせずに、甲斐がいしく夫の身の回りの世話をする。
しかし、陶工はまもなく失われたものの大きさを悟る。妻は亡霊だったからだ。
妻は、夫の留守の間、雑兵の手にかかってすでに死んでいたのだ。
実は、この映画は溝口監督自身の発狂した妻へのレクイエムなのだという。
「陶工」演じる森雅之は、淫楽に身をやつしハット我に返った溝口監督自身。
何もいわず何も知らない夫を優しく迎え入れる妻を演じた田中絹代の楚々とした演技が印象深く残る。

10年ほど前に「エリザベス・タウン」というアメリカ映画を見たことがある。
「すべてを失った僕を、待っている場所があった」という印象的なサブ・タイトルだった。
新進気鋭のシュ-ズ・デザイナ-が、会社で大きな損失をだす失敗をして会社を首になり、恋人にも別れを告げられる。死ぬことさえも考えていたところ父の訃報が届く。
自分が生まれ育った自然豊かなケンタッキーの山懐にあるエリザベスタウンに帰郷したところ、思わぬ人々の暖かさにふれる。
帰省の途中で飛行機の中、フライトアテンダントの新たな恋人との出会いなど、ほとんどありえない話もあるのだが、失意の男が、ふるさとに帰って体験する「癒し」がよく描かれていた。
エリザベス・タウンの人々は、誰もがその男を癒そうなど思っていないし、励まそうとも思っていない。家族や人々は、時にふざけたり、乱暴に若者と接するのだが、そこには微塵の邪心もない。
さて、日本の明治期、過剰人口にあった地方農村青年が東京に出て行くという新しい人々の移動が起きていた。
地方からでて大志を抱いて東京にでたものの多くは夢破れたり、煩悶の中に過ごしていくものも多くいた。
明治時代に、福岡県朝倉出身で「帰省」を書いた小説家。むしろ詩人としての名前の方が知られている宮崎湖処子である。
「帰省」は当時の大学生で読まぬものはいないといわれたベストセラーとなり、「帰省」の前に「帰省」なく、「帰省」の後に「帰省」なし、といわれたほどに賞賛された。
この作品が、当時の上京し挫折した若者の気持ちを代弁していたからだ。
当時の若者にとって田舎から東京にでていくということは、今日とちがって「ひと旗あげねば、故郷には帰れぬ」という 悲壮な決意をして出立した。
したがって、東京に出て行った青年達は、故郷に帰ることを夢見る一方で、何もなく帰郷するのは自分の「敗北」を受け入れることを意味していた。
1863年、宮崎湖処子は、朝倉三奈木の富農に生まれた。西南戦争の1877年、三奈木小学校を卒業し、その年の秋に丁丑義塾に入り漢籍を学ぶ。
15歳の4月、開設されたばかりの県立福岡中学校に入学し、寄宿舎生活を送った。
後年発表する「半生の懺悔」によれば「文章などただ『末技』にすぎぬ。当今の時勢国家を経営し一身の功名をなさんとするには、是非とも政治家、但は代議士、但はギゾー氏のような政治学者とならねばならぬと思いこんだ」と記しているように、政治に関わることを志として上京する。
上京後東京専門学校政治科(現早稲田大学)に入学、1887年に卒業。その後半年程帝国大学の専科に在学した。
東京は同じ野心をもつ地方青年らで溢れ、志の転換を余儀なくされて精神的経済的危機に陥った宮崎は、その救いを求めてしばらくの間、英語教師兼家庭教師として現在の千葉県流山市の豪農宅に身を寄せた。
田舎の自然に慰められたり、住み込んだ家の暖かい人情に接したりして、都会生活に疲れた心から一時的に解放される体験をする。
そこで宮崎は、エリザベス・タウンの青年と同じく、父の死去を知るのだがそれでも帰郷せず、父の一周忌に、兄の強い催促でようやく帰省した。
帰省にあたって脳裏を掠めた不安は、政治家になることを夢みて上京した自分が、今の自分を人々に晒した時に、果たして家族をはじめ親戚知人はどのように迎えてくれるか、という不安であった。
しかし、不安とは裏腹に人情と平和のすめる故郷があり、都会とは別世界の田園の理想像桃源郷の故郷が存在したのである。
さらに幼馴染の女性の優しいもてなしをうけ、その女性こそが後の「宮崎夫人」ともなる人であった。
6年ぶりの帰郷は、湖処子の心に故郷礼讃を育くみ、その体験が「帰省」を書く契機となった。
1890年6月「帰省」として民友社より刊行され、故郷を賛美する田園文学の最高峰として絶賛を浴びたのである。
宮崎の故郷に近い甘木公園内に立つ宮崎湖処子の詩碑は、現皇大后陛下が皇太子妃時代、湖処子の詩「おもひ子」に曲をつけられた「子守り歌」の記念碑である。
個人的に朝倉出身の宮崎湖処子という作家を知ったのは、アメリカの作家ワシントン・アーウイングについて調べたところ、その評論に「宮崎」の名があったためである。
ワシントン・ア-ヴィングは、19世紀前半のアメリカ合衆国の作家で「スケッチブック」という本を書いている。
そのなかの短編「リップバン・ウインクル」は、「故郷喪失」物語といってよい。
リップバン・ウインクルという男が、山へ狩りに行き小人に会い酒をご馳走になり夢心地となり、どんな狩りでも許されるという素晴らしい夢を見た。
ところがその夢がクライマックスに達した頃に、惜しいことに目が覚めてしまった。
辺りを見回すと小人はおらず、森の様子も変わっていた。
ウインクルは慌てて妻に会うために村へ戻ったが、妻はとっくの昔に死んで、村の様子も全然変わってしまっていた。
つまりウインクルが一眠りしてる間に何十年もの歳月が経っており、すべてが変わってしまっていたのだ。アメリカ版「浦島太郎物語」、つまりウインクルは、故郷喪失者となったのである。
実は、このアーウイングと前述の宮崎湖処子は、「故郷」というテーマで重なるが、宮崎は、アーヴィングが実際に体験したといわれる「悲恋実話」を紹介している。
アーヴィングは恩師の遺児である踊り子を青年時代にあずかり、同じ屋根の下で生活するうちに、2人は愛しあうようになった。
アーヴィング家は格式ばった家柄であり、妻が踊り子では困ると思い恋人に仕事をやめさせた。
ある日、踊り子の友人から連絡が入り、母親が急病で倒れたために、急遽「代役」の申し出があった。
ところが、アービングは舞台をやめたはずの許嫁が再び踊っている姿を発見し、激しく責めたため許嫁は、弁解の言葉も残さずに家出する。
アービングは深まりゆく愛情と自責の念に苦しみながら許嫁を探すが、行方不明のまま10年の歳月が流れていった。
アービングはスペインに公使として赴任していた時に、腸チフスにかかって尼院から特志看護婦が訪れた。
その献身的努力でアービングは九死に一生を得るが、この女性こそあの「踊り子」だったことが後に判明した。
彼女は名も告げずに立ち去り、アービングは退院後、やっとその女性を探し出すと、彼女は看病中に腸チフスが感染し、アービングの看病もむなしく亡くなった。
アービングはこの出来事以来、独身を守り続けたという。
この話、どこまでが「実話」なのか正直疑問なのだが、多くの人々がこの悲恋の実話に涙を流したのも事実。
アーヴィングの悲恋に感動した人は社会主義者の安部磯雄をはじめ、黒岩涙香は「人情美」という小説に翻訳し、徳富蘇峰は「断腸」を書き、永井荷風は「歓楽」という作品に使用した。

故郷喪失のカタチは様々だが、「故郷」を見失うほどの放浪者(エグザイル)」であった人もいる。
大正ロマンを飾る画家・竹久夢二は、1900年2月、岡山から北九州の枝光に転居し、創業時の八幡製鐵所で「図工」として働いていた。
竹久はわずか1年あまりで単身上京するが、家族はその後もなお1924年(大正13年)頃までこの地に住んでいたという。
スペースワールドの裏側には、「竹久夢二通り」があり、その道沿いに10点あまりの竹久作品のレリーフが埋め込まれた一角がある。そして山王の三叉路近くの病院あたりに「竹久夢二旧宅」の石碑がある。
また、森光子の舞台の方で有名な「放浪記」の作家である林芙美子さんは、下関生まれだが北九州門司で育った。 林がよく使う言葉に次のようなものがある。
「宿命的放浪者  人生いたるところ木賃宿ばかり 一切合切、いつも風呂敷包みひとつ」。
林芙美子作「放浪記」が長く人々にに、放浪する身に沁みる哀感が物語の伴奏音となり、それが不思議と読むものを元気にしたり癒してくれる。というより人は本来だれもが「エグザイル的」存在であることに気がつかされるからか。
そもそも林が下関で誕生された経緯そのものが彼女の宿命を暗示している。
彼女は、下関市田中町のブリキ屋の二階で生まれた。父は四国伊予の行商人で、母は九州桜島古里温泉の自炊旅館の娘・林キクである。父が行商の途中、古里温泉で母と恋仲になった。
この時、父21歳、母は36歳ですでに3人の夫をもったことのある女性であった。
キクは他国者と一緒になったというので鹿児島を追放され、二人は放浪の旅にでた。そうして下関にやてきて芙美子が生まれたのである。
しかしまもなく若い父は芸者と馴染みとなりこれを家に囲ったために、キクは怒って芙美子を連れて家を出て、北九州の炭鉱町を転々とし、行商していた沢井という男と一緒になった。
新しく芙美子の養父となった沢井は実直な性格で芙美子を実子のように可愛がった。
芙美子は8歳で長崎の小学校に入学以来、養父の行商の旅に伴なわれて、木賃宿を泊まり歩く生活を続け、卒業までに十数回転校している。成績はほとんど最下位であったという。
少女時代に広島・尾道の小学校で資産家の息子の岡野という少年と淡い恋に陥り、岡野が大学に入ると、芙美子は岡野との結婚を夢見て上京しする。
カフェの女給などしたが、結局は家族の反対もあり捨てられ、逆境の割には純情だった芙美子の性格を「虚無的」に変貌させたようだ。
その後、複数の男性と出会いと別れを繰り返すが、手塚縁敏という信州出身の画家との出会い終生のよき伴侶となった。
実は、自身の体験談を綴った「放浪記」が1930年に刊行され大ベストセラーとなり莫大な印税がはいった。この頃から彼女はもはや「放浪記」の主人公ではなくなり、27歳にしてようやく生活も安定し豊かな気持ちでいることができた。
満州や台湾に旅に出ることぐらいだったが、そうした安定を得た生活の中でも、林芙美子の視線は、なおも深く内面の「エグザイル性」を見極めようとしていたようだ。
それは単なる行商における放浪ではなく、社会の底辺を流れていく庶民の女性達の心の内面にむかっていった。
この間、 夫の手塚が気まぐれな芙美子を温かく包み込み、いわば女房役に徹したことが、芙美子の文学の大きな支えになっていたようだ。
しかし、書くことを急いだ感さえある林芙美子の死はあまりにも突然に訪れた。
1951年、心臓麻痺で急死した。享年47。その3年後、母キクが87才で死去。さらにその後、愛児も15歳の時、事故で亡くなっている。
下関市田中町五穀神社近くに林芙美子生誕地碑がある。