bookreader.js

民主化で咲く

生物の世界に「極相」という言葉がある。山を登るにつれて植物の風景が変わっていく。
いつのまにか知らない風景が、目の前に広がっていてハットする。その意味で、民主主義は「極相」に似ている気がする。
時代ごとに、民主主義の内実が変化することを教えてくれたのは、先日亡くなった評論家の西部邁(にしべ すすむ)氏。偽善や欺瞞が大嫌いという性格だった。
1980年代に登場した「大衆民主主義批判」は、民主主義なら良しとする大勢に、大胆に切り込んだ。
確かに民主主義は、経済力や権利意識の拡大を推進力に高みに行くはずだったのに、今日にみるごとく政治家の質の劣化を含め、逆方向に向かっているように思える。
とはいえ、我々は暴力や血を流すこともなく「政権交代」がなされる民主主義以上の政治体制をいまだ見いだせないでいる。
懐かしむのは、日本人が素朴な気持ちで民主主義を歓迎した時代に、傍らに咲いた小さな花々のこと。

長崎ハウステンボスに行った時、「ひとつの石碑」が目についた。長崎でフォークダンス(厳密には米国発祥のスクウェアダンス)を指導したウインフィールド・P・ニブロというアメリカ人の「記念碑」だった。
ニブロは、コロラド州デンバー出身で高校教師を経て、第二次世界大戦後に連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育官として来日した。
1946年6月~1948年10月、長崎軍政府教育官として、それまで「男女別学」であった旧制中学校・高等女学校の「男女共学化」を強く推進した人物である。
1946年秋に長崎の県幹部との会食中に、日本側が披露した踊りの返礼としてアメリカのフォークダンスである「オクラホマミクサー」を自ら踊ってみせ、これに興味を示した出席者たちに手ほどきをしたのが始まりと言われている。
このダンスが長崎から全国へと人気の広がりを見せ、学校の授業や職場のリクリエーションとして活用されていった。
終戦直後、人々が娯楽に飢えていただけに、こうした歌や踊りはまたたく間に各地に伝播していったのである。
この「ミクサー」とは、欧米の社交ダンスやフォークダンスにおいて複数の男女ペアがパートナーを順に換えながら踊るダンスのジャンルである。
使われる音楽は、日本においては「藁の中の七面鳥("Turkey in the Straw")」の楽曲に固定されているが、でアメリカ民謡のメドレーの形で使われる中の一曲である。振り付けと同様に日本での独自のアレンジが施されている。
なによりも、男女が手をつないで踊ることで、「男女7歳にして席を同じゅうせず」という意識から、「男女ペア」でそれも相手をいれ替えて踊るために、当初は目も眩まんばかりの体験だったに違いない。
日本に「男女同権」という意識を植え付ける意味でも大きな意識改革となったことは間違いない。
日本にフォークダンスを伝えたニブロ氏は2007年3月8日、コロラド州デンバーの自宅で、95際の長寿をもって亡くなった。
ちなみに、「オクラホマ」とは、当初は全米のインディアン部族のほとんどを不毛の地に強制移住させる目的で作られた州であった。チョクトー族インディアンの言葉「okla」と「humma」を合わせたもので「赤い人々」を意味する。
つまりインディアン達の居留地となっていたが、1889年、白人達にも解放されることになった。
ここを「ヒストリック・ルート66」を南西のテキサス州との州境から北東のカンザス州の州境まで,昔と同じ経路で走破することで、「古きアメリカ」を体験できるのが魅力だという。
実は、このダンスがなぜ「オクラホマ」なのかはよくわかっていない。
ハウステンボスでは、毎年4月にニブロの名を冠した「ウインフィールド・P・ニブロ記念 佐世保・ハウステンボス フォークダンスフェスティバル」が開かれている。
GHQ以外にもアメリカの在日団体であるYMCAやYWCAなども「野外レクリエーション」普及の一環として、日本でのフォークダンスの普及に力を入れていた。
1963年に来日したイスラエル人女性グーリット・カドマンが、現地の踊り方をそのままに日本で指導し定着させたのが「マイム マイム」である。
意外なことだが、「マイム マイム」は、「戦場」で生まれたメロディの1つといっていい。
1940年代後半、世界に散ったユダヤ人が「シオニズム運動」によって現在のイスラエルの地に戻ってきた。
これからパレスチナの住民との激しい戦いが予想される中、ユダヤ人開拓者が「水源」の乏しい乾燥地に入植し、水を「掘り当てた」時の喜びを歌にしたものである。
ちなみに"mayim"はヘブライ語で「水」を、また"be-sasson"は「喜びのうちに」を意味している。
マイム・マイムの原題は"U’sh’avtem Mayim"。
直訳すると「あなた方は水を汲む」という意味である。
歌詞は旧約聖書のイザヤ書第12章「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」をそっくり歌詞として用いた。
そして、このフレーズの「リフレイン」が、人々の喜びを盛り上げていく。
ところで「マイム・マイム」の振り付けは、誰かが本来の「意味合い」から離れて「独自」に考案したものではない。
掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、”Mayimmayim be-sasson”と歌いながら井戸に向かって駆け寄っていく。
とはいえ、「マイム マイム」に登場する「水」が、パレスチナでの激しい戦闘の末、つまり血で獲得した土地の「井戸水」だったとしたら、この歌の音色も全く違った響きで聞こえてくる。

スポーツの歴史は、ある部分、差別と偏見との戦いでもある。
日本では、サッカーやマラソンなどで女性アスリートの活躍が目立つが、さすがに「レスリング」や「重量挙げ」に女性選手が登場した時はかなり驚いた。
しかし今ではあたりまえになってしまった感がある。
それを思うと、スポーツはかなり女性の「社会進出」に貢献した部分が大きいのではないだろうか。
日本にはかつて、女性が体育競技をすること自体、ある種の「偏見」と戦ねばならない時代があった。
人見絹枝は、1928年初めて女子競技が認められたアムステルダムオリンピックに出場した。
女子800m走に出場した人見は、最後まで競り合った末に、見事「銀メダル」に輝いた。
オリンピックで初めて日本人女性がメダルを獲ったものの、日本では「冷たい視線」が待ち受けていた。
日本ではいまだ、女性が短いズボンを履いて素肌を出して、男の様に走るなど、もってのほかというような風潮があった。
それでも人見は、未来の後輩達・女子陸上選手達を守ろうと頑張りぬいた。
それは日本の女優第一号・川上貞奴(さだやっこ)の立場と似ていた。
1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で「女形」が死亡する事態が生じた。
興行主から女の役は女性がするべきで「女形」は認められないと拒否されたため、急遽代役を務めたのが、日本初の「女優誕生」となったのである。
その貞奴が「自分ができなければ、女性が俳役になる道は開けない」と語っていたが、人見も同じように「自分が成績を残さなければ、女性選手の道はない」といっていたという。
「ナデシコ」第一号となった人見はその後も数々の大会に出場する傍ら、選手の育成や公演を行い、若い選手達を連れて海外遠征を行なうため懸命に働いた。
そして1931年、疲労がたまり体調を崩し、肺炎となりわずか24歳でこの世を去った。
現在、高校野球で当たり前のように目にするプラカードを持っての入場や、吹奏楽演奏、勝利者チームの校歌斉唱などは、人見の発案によるものである。
そして、女学生が動きやすいように「セーラー服」が生まれたのは、そうした民主化の過程のヒトコマといえるかもしれない。
現在の福岡女学院は、1885年福岡市呉服町に「英和女学校」として生徒数二十数名で発足した。
その後、天神校舎・平尾校舎を経て現在地の福岡市南区日佐に1960年に移転した。
1915年にアメリカからエリザベス・リー校長が9代目の校長として着任した。
以後、途中帰国を含め計11年間、福岡の地にとどまり、中央区平尾(現在の九電体育館あたり)への校舎移転やメイ・クイーン祭(五月の女王)などの学園祭創設など、多くの足跡を残した。
新任のリー校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボールやバレーボールを指導した。
ところがこれが思わぬ「不評」を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマで、これでバレーやバスケットをやると、どうしても汚れてしまう。
「この間洗濯したばかりなのに、もうこんなに汚れてしまって!」ぐらいならまだしも、「すそを乱して飛び跳ねるているようでは、嫁のもらいてがなくなる」といった「苦情」まで寄せられた。
生徒達の表情はスポーツを通して日増しに明るくなるのに「反比例」して、悪評は日毎に増していった。
頭を抱えたリ-校長は、着物とハカマに変わる「新しい制服」はないかと探し始めた。
いろいろ洋服屋をねたり、雑誌をめくったりしたが、なかなかいい制服は見つからない。
思案のあげく、リー校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日したおりにトランクに入れてきた「水兵服」を思い出した。自分のトランクの中にこそ、大ブレイクの火種が潜んでいたとは。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋のところに行き、リー校長持参の水兵服をモデルに「試着品」を作らせた。
そして保護者にも披露しつつ「試作」すること8回、ようやくリー校長の「GOサイン」が出て、生徒150人分を3ヶ月がかりで縫い上げた。
そして、このセーラー服姿は、街行く人々の注目を集めた。
やがて函館のミッションスクールからの照会があり、洋服屋の主人は北海道に1ヶ月の出張となる。
さらに東洋英和(東京)・プ-ル(大阪)・九州女学院(熊本)・西南女学院(小倉)などから続々とサンプルの依頼が届き、洋服屋主人は「セーラー服づくり」に東奔西走の日々を送ることになる。
エリザベス・リー校長が「心血を注いだ」セーラー服のは全国の先駆けとなったのである。
この時完成した「セーラー服」は、現在の福岡女学院の制服とほとんど変わらないということは、リー校長のセンスの先進性を物語っているといえよう。

終戦間もない1946年のある日のこと、福岡県久留米市(当時は浮羽郡)の田主丸町にひとりのアメリカ人がやってきた。
彼の名はジエームス・ヘスターで、久留米にあった駐留米軍の教育課長として働いていた。
このアメリカ青年は、田主丸の村人たちに「民主主義とはなにか」を流暢な日本語でわかりやすく語った。その晩、ヘスター氏の宿となったのは老舗の「造り酒屋」若竹屋酒造であった。
若竹屋の十二代目、林田博行氏はスキヤキをつつき、酒を飲みかわしながらヘスター氏と夜遅くまでこれからの町づくりについて語り合った。
林田氏が、なぜアメリカ人はそんなに体が大きいのかと尋ねると、ヘスター氏はミルクや肉など良質なタンパク質をいっぱいとっているからだと答えた。
そしてヘスター氏は、将来を担うこどもたちの身体をつくることが大切で、乳牛がこれからの地域振興につながるので、できるだけ牛を集め立派なこどもたちを育てなさいと提案した。
林田氏が、こんな田舎でも牛を手に入れることができるかと問うと、ヘスター氏は北海道には多くの牛がいるので、我々も最大の援助をしようと米軍の協力を約束した。
こうして3年間で200頭もの乳牛が田主丸へとやってきた。しかし牧草の不足から田主丸の酪農は8年で行き詰まってしまう。
実は、この8年間がとても大きな意味をもつのだが、多くの酪農家は再び田畑へ戻り、新たな農業の指針を建て直そうと模索した。
そして、田主丸の農民達の牧場経営への頓挫が思わぬ「副産物」を生むことになった。田主丸の再生のためには、農民もこれからは勉強しなければと、研究者をよんで新しい技術を身につけようとした。
そして越智通重という研究者と出会うことになる。
越智氏は、品種交配により新しい葡萄品種「巨峰」を生み出した前述の大井上康博士の一番弟子だったのである。
そして47人の農家が出し合った開設資金をもとに、越智先生を招いて「九州理農研究所」を設立した。田主丸の農民がつくりあげた九州理農研究所は、全国でも例のない農民による農民のための研究所であった。
彼らを中心に、より高品質な巨峰の栽培を追及する「果実文化」という機関紙も発行されていた。
越智氏が師匠の大井上博士から受け継いだ「栄養周期説」とは、あらゆる植物は発芽から枯れるまで同じ育ち方をするのではないので、その段階に応じた手入れや施肥をするというものだった。
農民たちは毎日のように研究所に通い、議論し、時に越智が愛する酒を酌み交わしながら、巨峰栽培の情熱を語り合っていた。
越智氏は彼らと研究をすすめるにつれ、大井上博士の遺志「巨峰」をこの地で花開かせることができるかもしれないと考えるようになった。
この土地が山砂まじりの排水性の高い土であるうえ、不思議と十分に肥えた地力を備えていたからである。
実はその土には、アメリカの「民主主義」を説いた教育課長ヘスター氏との出会いで導入された牛達の糞が染み込んだものだったのである。
その後、越智氏生が持ち込んだ葡萄の苗木は、悲願の大粒の実をつけることに成功した。そして田主丸は、全国初の「観光果樹園(果物狩り)」という商法を編み出し、「巨峰ワイン」を生むなどして「巨峰のふるさと」として知られている。
実は、ヘスター氏との出会いから53年後の1999年は「巨峰開植40周年」であるが、田主丸の農民達はヘスター氏の消息をたどった。すると驚くべきことがわかった。
ヘスター氏は、田主丸を訪れた翌年に帰国し、その後再釆日して1975年には東京青山の「国連大学」の初代総長として、その創設に関わっていたのである。
さらには、グツゲンハイム財団のトップとして、アメリカ教育界の重鎮であることも判明した。
農民達が手紙を出すと、若竹屋酒造の十二代目の林田氏のもとにヘスター氏からの返事が届いた。
そこには、田主丸の産業へ思わぬ寄与ができたことへの驚きと喜び、そしてできるならば田主丸を訪れてみたいとの一文が記されていた。
林田氏は、ヘスター氏が日本に来ることになったら、またスキヤキを一緒に食いたいと返事を書いた。もちろん巨峰ワインとともに、である。
そうして、その年の秋の「巨峰ぶどうとワイン祭り」で林田氏とヘスター氏の二人は再会した。
アメリカ民主主義が田主丸に放牧を引き寄せ、放牧は失敗に終わったものの、それが巨峰つくりに相応しい土に変えていたとい予想もできない展開である。その意味で、巨峰は「民主主義の果実」といえるかもしれない。
福岡県田主丸の巨峰畑の一角の越智先生自宅跡には、この町に巨峰を最初に実らせた「越智先生感謝の石碑」が立つ。