「戦後」は続くよ

2015年は戦後70年という節目を迎えたが、「戦後」は一体いつまで続くのか、という議論が湧き起っている。
「戦後はつづくよ どこまでも」なのだが、それは戦後に敷設された「同一軌道」を幾分ブレながらも、走り続けたということか。
世界の常識では、「戦後」とはせいぜい10年程度だし、実際、日本でも1956年にでた「経済白書」には「戦後は終わった」と記されてある。
この年、石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞をとったが、そこには戦争の影さえもない裕福な家庭の若者達がテニスやヨットで享楽的に遊ぶ群像を描いていた。
それでも日本で相変わらず「戦後○年」という言い方がまかりとおるのは、国のカタチたる「憲法改正」が一度も行われていないことや、日本が終戦後につくられた国際秩序に収まっていることもひとつの理由であろう。
「民主と愛国」の著書で知られる評論家兼ギタリストの小熊英二氏が面白いことを新聞に書いていた。
「戦後」という言葉を「建国」と読み替えると、その意味がわかると。つまり「戦後70年」とは、「建国70年」ということだ。
小熊氏によれば、日本国は、大日本帝国が滅亡したあと、「戦後」に建国された国である。
そして国の骨格(コンスティチューション)たる日本国憲法の前文は、国民主権と平和主義という2つのコンセプトを掲げている。
その前提にあるのは、戦争の惨禍の後にこの国は建国された、という共有認識である。
その意味で、日本国憲法の最重要条項は、第1条と第9条だという。
なぜなら、天皇を「主権の存する国民」の統合の象徴と位置付けた第1条と、「戦力」放棄をうたった第9条が、前文に掲げられた国民主権と平和主義の国を具体化する条項であるからである。
したがってこの2条項の「改正」は、国の骨格の組み替えになる。
とはいえ日本国は、国内条件だけで成立してきたのではない。戦争の惨禍を経て平和主義を掲げた日本国は、国際的には「東京裁判」と「日米安保条約」という要件の下で成立したということだ。
まず「東京裁判」なしには、日本国の国際社会復帰はありえなかったし、当時の国際情勢では、東京裁判と第9条なしに、第1条の前提である天皇の存続もありえなかった。そして第9条は、米軍の駐留抜きに実在したことはない。
したがって「日本国」とは、第1条、第9条、東京裁判、日米安保の四つを車輪をして、同一軌道をなんとか走ってきた「戦後」体制ということである。
安倍首相が「戦後レジーム」の見直しを言い出し、戦後国際秩序に対して抵抗して見せたが、オバマ大統領叱られて撤回し、以後は「対米追従」に終始するようになった。
小熊氏によれば、上記4車輪のひとつが抜けるかバランスが大きく変われば、列車は軌道をはずれ「戦後」は終わるという。
もしこの4つの車輪で走行を続けるならば、なんらかの紛争に日本が関わっても、「戦後」は続くだろうと述べている。
たしかに小熊氏のいうがごとく、「戦後」とは「戦後体制=新生日本国」を指すものとすれば理解しやすい。
しかし「戦後が続く」ことの奇妙さの本質は、1945年の敗戦以降「新生」を前面にうち出すのではなく、せいぜい「戦前」とは対の「戦後」という控えめな表現ながら、それが生命力を保ち続けているということである。
「戦後」が今なお続く理由につき、小熊氏とは全く異なる観点から述べたい。
それは、日本が戦後に「建国された」どころか、逆に古代から連綿と続くある種の「精神的傾向」に基づくことによるのではないか、ということである。
それは、日本が相変わらず「鎮護国家」であるということだ。
太平洋戦争が終わっても、戦後70年たっても戦没者の鎮魂(慰霊)は絶えることなく今なお続いている。
そのことは、天皇のパラオ訪問、首相や閣僚の靖国神社参拝や、全国各地の鎮魂碑や慰霊碑に今なお手向けられる花束によっても知ることができる。
日本では、心の戦後処理がいまだに終わっていないということでもある。
したがって前述の憲法および国際秩序の4車輪のバランスが崩れたぐらいでは「戦後」は終わるようなものではない。
もし「戦後」が終わるとするならば、太平洋戦争の鎮魂や慰霊を脇においやるほどの重大な紛争や災害が起きる時なのかもしれない。

昨年ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏は「忘れられた巨人」という本を書いている。
イシグロ氏は、この小説に取りかかろうとしていた時、英国やアメリカ、日本、その他の色々な国の人々が忘れたいと思っている出来事について考えていたという。
どの国も忘れたいほどの巨人を埋めこんでいて、それを呼び覚ますことにどれほどの価値があるのかという問題を提起した。
最近、個人レベルでも、わざわざ蒸し返さなくてもよいことを持ち出して周囲を困惑させている芸能人もいるが、国家レベルでも、忘れられた方がよほど平和に済むことをわざわざ引きずりだして、意図的に対立を引き起こしている国もある。
その一方で、ドイツの大統領ワイツゼッカーの有名な言葉が思いおこされる。
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」。つまり、史実に向き合うこと、その史実を記憶することの大切さをといたものである。
イシグロ氏が小説で主題にしたことは、「その過去を忘れることが最善なのか。 それとも自分はその過去と向き合うべきなのか」と思い悩む人々に関する問題を提起したということだ。
イシグロ氏の「忘却の価値」に思いを新たにされる一方で、これまでの大きな恐怖や不正義に対処せずして、安定した民主主義社会を築けるかということもある。
確かに正義の実現のためには、過去と向き合うことは大切であるももの、前進するために、結束を守るために、コミュニティが分裂して内戦に陥ったりするのを防ぐために、過去と決別することも大切なのだ。
世界中で、暴力と内戦の連鎖に陥っているのは、彼らが過去に起きたことを忘れられないからで、イシグロ氏は「忘れる」ことの価値を提起した稀有な小説家だともいえる。
「忘れられた巨人」では、そのことをファンタジーやメタファーをふんだんに用いて、人々の想像力を喚起する手法で著した。
「忘れられた巨人」の舞台設定は6世紀あるいは7世紀らしく、アーサー王が姿を消した後のブリテン島である。
主人公はアクセルとベアトリスの老夫婦で、勝者である側のブリトン人で、なぜか同族の集落から排除の対象になっている。
その原因が何であるあるのか、当人も村の住民も分からないのであるが、それは「霧」によって、誰もが過去を失ってしまっているからだ。
島には、グエリグという雌竜がいて、その吐く息によって忘却の「霧」となって、ブリトン島を覆っているためである。そんな中、老夫婦は意を決して、息子を訪ねる旅に出る。
道中の風景や出来事には意味深長なシーンがさしはさまれている。例えば、アクセルとベアトリスが川に着き、舟で渡してもらおうとする時、前に渡ろうとした夫婦が別れ別れになってしまっているのを見る。
その理由は、船頭が夫婦にそれぞれ、もっとも重要だと思う記憶を尋ね、合致した場合だけ夫婦を同じ舟で渡すのだという。
次々と困難に会いながら、老夫婦は息子のいるはずの村を目指しながら、なぜか竜退治に巻き込まれて行くことになる。
その道程で、アクセルは自分がアーサー王の下で法をつかさどる役目であったが、裏切りを行ない、逆にアーサー王を面前で罵倒した人物であったことがわかる。
その結果、戦いによる多くの人の殺人、虐殺。などが起きるのだが、霧がその殺戮を忘却させることでどうにか平和を維持するこができている。
かろうじて保たれていたサクソン人とブリトン人の平和は「忘却」の霧が人々を覆っていたからであった。
そして重大なことは、その雌竜はいまや危殆に瀕しているということだ。
それをいま殺したら、そこからは何が生まれるか。そして結局は、「忘却」の霧を吐き続けていた竜は退治された。
これによって何が起こるか。それは明らかである。再びの戦乱。殺し合い。憎しみの連鎖である。
そしてアクセルとベアトリスという老夫婦の間で起きた、昔の記憶さえもが蘇ってくる。
それは、二人にとって、苦くて辛い記憶であった。
イシグロ氏によって、日本社会にも「忘れられた巨人」の存在について考えさせられた。
何十万人の日本兵が異国の地から帰還した。しかし彼らはどれくらい見たこと、聞いたこと、やったこと、やらなかったことを語ったのだろうか。
きっと胸の中に封印したに違いない。それを語ったところで、誰も幸せにならないし、新しく生きなおすには過去を消し去ることの方が大切なのだ。
人間は、それほど自分自身と向き合うほどには強い存在ではなく、忘却こそがかろうじて生きる術ということもありうるからだ。

梶井基次郎の短編「桜の樹の下には」の冒頭の言葉「桜の木の下には死体が埋まっている」という言葉にも似て、日本という国にもイシグロ氏のいう「埋められた巨人」がいる。そして、そのことを痛切に思い起こさせる場所というものがある。
30年ほど前に、東京裁判の処刑地となった巣鴨プリズン刑場跡地に行って驚いたのは、この刑場跡地に隣接してサンシャインプリンスホテルが立っていることである。
サンシャインシティの高層ビルの真下の小さな公園内の「永久平和を願って」という石碑がその場所を示している。
ただ説明書きなどは一切なく、ここで遊ぶ人々はそのことに気づく人さえも少ないが、いくつかの花束がたむけてあることが史実の重さを思わせる。
西部グループの総師・堤康次郎は、皇族の一等地を買いその高いステイタスをもつ土地にプリンスホテルを建てていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがそれであるが、そうした観点からみると、サンシャインプリンスホテルの立地はとんでもないところにある。この「逆説」をどう解釈すべきであろうか。
それを調べるうち、サンシャインプリンスホテル設立の経緯には、いくつかの興味深いエピソードがあることを知った。
堤康次郎が亡くなって2年後の1966年、長男・堤清二は、井深大(ソニー)、今里広記(日本精工社長)、小林中(後のアラビア石油社長)らの財界人を巻き込んで「新都市開発センター」を設立し、池袋の地に本格的な60階建の超高層ビルの建設を計画した。 特筆すべきことは、このビルが当時すでに劇場・美術館、映画館、水族館などを含んだ総合文化施設と位置付けられていたことだった。
このことが、マスコミに発表されると各方面から反響が起こったが、その中には堤清二が「予想もしない」ところからの反応もあった。
それは、戦後最大の政界フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫からの電話だった。それは堤清二にとって不吉な電話だった。
なぜなら西武百貨店は、天皇の第五皇女をアドバイザーとして雇っていたことから、右翼の執拗な攻撃を受けていたからだ。
連日、右翼の宣伝車が西部百貨店の正面玄関に陣取っては、拡声器のボリュームを一杯にあげて、「皇族を商売に利用する奸商、堤清二に天誅を」と叫び続けていた、そんな最中での児玉誉士夫からの電話だった。
電話の内容は、巣鴨拘置所が取り崩される前に一度中をみたい。そこで清二に案内を乞いたいというものだった。
堤清二といえば東大在学中に共産党にのめりこんだこともあり、左翼ならまだしも右翼の巨頭からそんな電話がかかるとは予想すらできなかったにちがいない。
当日、巣鴨拘置所の正門前で、清二は秘書と二人で児玉の到着を待った。児玉は巨大なキャデラックから線香の束を手に持って降りてきたという。
堤の前で児玉は「今日は面倒をかけます」と頭を下げた。敷地内を歩きながら児玉は、ぼそぼそとつぶやいた。「僕はこの棟にいたんだ」「あっちの棟には東条さんが」「岸はさんは、いつも元気よくこの庭を散歩していた」といったことをつぶやいた。
小一時間も歩き、児玉はある一角に来ると線香に火をつけ、花束をたむけて手をあわせた。 そして堤に「今日はありがとう。長年の胸のつかえがいくらか軽くなった」と、礼を口にした。
この時の堤と児玉との「出会い」を境にして、右翼の街宣車の姿が、西武百貨店の前からピタリとこなくなったという。
しかし堤清二、この新都市計画には、それ以上の大きな試練がやってくる。1973年のオイルショックで、参加を表明していた多くの企業が撤退し、計画の取りまとめ役であった堤清二の経済人としての信が問われた。
そしてこのとき、清二が頼ったのが異母弟の義明で、清二からすれば凡庸で子供扱いしていた間柄だっただけに、当時39歳の清二がもっとも頭を下げたくなかった相手だったに違いないが、結局、堤義明がこの計画を引き継ぐことになる。
さて、A級戦犯と指定された人々に対して天皇がどのような感情をもたれていたかは個人的にはよくわからない。
ただアメリカの世論の中には天皇の処刑論さえでており、A級戦犯達は連合軍によりわざわざ皇太子(現天皇)の誕生日をねらってこの地で処刑されたのである。
したがって、巣鴨プリズンの刑場跡地は天皇・皇族にとって悲痛の場所にちがいないのである。
この土地の上に巨大で先端的なビル群をつくりだし、この土地のイメージを一新し過去の記憶を一掃することは、堤一族のそれまでのホテル建設のための皇族の一等地買収とそう大きく矛盾するものではないとも思った。
少なくとも天皇・皇族の「負の思い」を閉じ込めたこの土地のイメージが一新されたことは間違いない。そしてこの場所には「サンシャイン」という名がつき、日陰の場所から日のあたる場所に変わったのである。
まさにこの土地こそ「巨人が埋まった」場所である。
さて近年、日本の閣僚の靖国公式参拝につきアジア諸国の反発は大きく、アメリカまでもが不快感を露わすようになった。
しかし、中国人の死生観は、日本人の死生観とは根本的に違っている。日本では、人間は誰も死によって罪を逃れるが、中国は人間が亡くなっても罪は罪で、決して消えることはない。
例えば、日中戦争で日本政府と組むことによって彼なりに和平を追求した汪兆銘は「売国奴」として、手を後ろでに縛られ頭を垂れる像が作られ、中国の観光客はその像を棒で突っついたり、ツバを吐きかけたりもする。
中国人は人が亡くなると魂になると考えるため、靖国神社には「好戦の魂」が漂っていて、靖国神社に参拝すると、再びその「好戦の魂」が蘇って、日本人は再び戦争を起こすのではないかと考えるのである。
一方、日本人の祈りの方向性は「安らかにお眠り下さい」なのである。蘇って欲しくないのである。
魂が鎮まってほしいからこそ、非業の死をとげたものを「英霊」として重きをおいてなだめるのである。
つまり、巨人を鎮めて「埋める」ことなのだが、外国人から見れば「巨人を覚醒させる」かに見えるのは、もどかしくも皮肉な話ではある。