アメリカの原型

アメリカ野球と日本野球のストライク・ゾーンは、少々違う。
日本野球ではベース上を通るボールがストライクと決められているが、アメリカ野球の場合はそれよりも「外角寄り」に決められている。
なぜか。強打者ほど厳しいコ-スを攻められるのは、日米野球共通。つまり、強打者ほどデッド・ボールの危険性が増すということだ。
デッドボールによる怪我は、本人の野球生命に関わるだけではなく、球団の興業収入にも関わってくる。
そこでアメリカでは、ストライクゾーンは、「外角寄り」に定めたのである。
またアメリカ野球では、近年ボール1つ分「ストライクゾーン」が広がり、ピッチャーに有利にしている。
野球はファミリースポーツであり、遠くから球場へ車で足を運んでいる観客が多い。
そんな中、2時間半を超えるナイトゲームは問題アリで、早く決着がつくように「ピッチャー優位」のルールに変えたのである。
アメリカは、ルールをある目的に沿って柔軟あるいは「戦略的」に変える。これは、アメリカで生まれた「プラグマティズム(実用主義)」の思想と無縁ではないだろう。
そうした意識は国民的ルールである「憲法/法律」にもあてはまる。
もともと憲法は、市民達が自分達の権利を侵害されないように国王の権限を制限するためのものであった。
アメリカでは、イギリス本国のかけるの茶法や印紙法をきっかけに、「代表なくして課税なし」をスローガンに 、自らの「権利」を守るべくアメリカ独立のために戦ったのである。
イギリスの紅茶を拒絶し、その代替品としてお茶感覚で飲める薄味のアメリカンコーヒーが生まれたのである。
そして現代においては、ルールの主人公たる市民意識の上に「コーポレートガバナンス」の考えが生まれた。そのベースには、経営者は会社をすべて牛耳っているので会社という組織を使って何をしでかすかわかったものではないという警戒感ある。
会社という組織を使って危ないことをされたら、会社の危機に直結する。そこで経営者を統治しようということである。
ところで、あらゆる競技はルールの中で競われる。ルールを変えることは、いままでの努力も実績もすべて無しにするに等しい。
勝てないか負けそうな相手に勝つには、「ルール」を変えることに優るものはない。
1998年長野五輪で、日本は金メダル2個、銀1個、銅1個と「圧勝」して国民を歓喜させた。
しかし、前回のソチ・オリンピックで、レジェンドといわれる葛西選手がようやく銀メダルをとるまでの間、長い不振が続いた。
その原因として国際ルールの変更があげられる。
ヨーロッパのスキー連盟は、1998年よりスキー板の長さを「身長プラス80センチ」から「身長の146%」へとルール変更をした。
長いスキー板は、技術的な困難さえクリアすれば、空気の抵抗力が大きい分、飛行距離は延びる。
つまり新ルールは長身選手に有利で、比較的「背の低い」選手の多い日本には不利となる。
こういうルール変更の場合には、選手の安全や健康を守るという「大義名分」が前面に打ち出されるが、実際は日本ツブシの巧妙な謀略だったのだ。
一方、日本野球はベース上の膝から胸までの四角形こそがストライクゾーンというルールを変えようとはしないだろう。ルールはルールの為にあると考えがちだからだ。
ただ、アメリカの「ルールは人の為にある」というぐらいの柔軟さならまだしも、アメリカのビジネスの発想「ルールはアメリカの為にある」という露骨さにはついていけない。
それは、日米「経済戦争」においてもいかんなく発揮されることになった。
しかも欧米を中心とした国際ルールの変更の「理由」は正論に見える。スポーツの世界ならば見る側を楽しませるため、国際経済ならば「フェア」な世界を築こうとしてしているように見える。
しかし、その裏側にはライバルを潰すという「戦略」が隠されている。
その一方で、日本人は近代国家形成の過程の中で「ルール」の主人公たりえたことはほとんどない。
こうした国際ルールの変更は、スポーツの世界ばかりではなく、「プラザ合意」や「BIS規制」のような経済的国際ルール(もしくは尺度)の変更をも連想させる。
なぜなら、「大義名分」をかかげながらも、日本経済を充分に不利な状況に追い込む結果となったからだ。

アメリカ建国の面白さのひとつは、近代国家が出来上がるとはどういうことなのかを知ることができることにある。
ヨーロッパ史でズシリと重きをなす古代帝国や中世社会をスキップして、新大陸にて「State(州)」が作りあげられ、それらをさらに上位で結びつける形で「合衆国」ができる経過は、「社会契約思想」のサンプルとしても興味深い。
そのことは、「州警察」ばかりか「州軍」が存在し、暴動の鎮圧や山火事の鎮圧に活躍している姿に思わせられる。
アメリカにメイフラワー号やってきた101人によって「メイフラワー契約」(1620年)が結ばれた。 (ちなみに「101匹ワンちゃん」の由来である)。
「神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。これを制定することにより、時々に植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する」。
こういう合意を経て成立した国とは対照的に、自然にできたかのような日本はルールを契約として意識されることはなかった。
そしてアメリカが感覚として51番目の州(日本)に作った憲法を「神棚」に奉るように大切にしてきた。
ところで、米語で「フェア(公正)」という言葉は、公平に機会が与えられるという「機会均等」を意味する。
西部開拓の時代は「早い者勝ち」のいわば”アニマル・スピリット”的世界なのだが、次々やってくる移民に対してそれを抑制しようとする「機会均等」が、公正な立場として養われていったのだ。
その基盤の上に、「アメリカンドリーム」が生まれる。
また思い起こすのは、日本が戦時中満州に進出した頃、同じく満州の権益を狙うアメリカが掲げた要求は「門戸開放/領土保全/機会均等」だった。
これは遅れて中国に進出したアメリカが、自分にも他の列強(日本)と等しく権益を得る機会に与りたい、という要求である。
アメリカに遅れて移民した人々の「思い」と、遅れてアジア中国に進出したアメリカの意図が重なっているようだ。
日本が満州で南満州鉄道を建設して鉱山などで利益を得ているのと同じように、アメリカは長春・大連間の鉄道を日本政府から買収して共同経営を計画(ハリマン計画)したり、アメリカ資本によって満鉄並行線案などを提案したことによく表れている。
そして今日のグロ-バリゼ-ションというのは結局、アメリカが世界的なビジネスを展開する上での「機会均等」を要求しているということだ。
1980年代の日米貿易摩擦において、日本側は関税を十分下げたし、輸出も充分自主規制したと主張したが、それはアメリカ的公正である「機会均等」の観点から見れば不十分なのだ。
なにしろアメリカ人は日本という国で日本人と同じようにビジネスがしたいのだ。
ということは公共事業の指名入札や系列関係などの様々な慣行がそれを妨げているのならば、それらをすべ撤去しなければアメリカ的観点からは公正とはいえずに、日本は依然「アンフェア」ということになる。
それが日本への経済面での要求「構造改革」要求として表れ、それに応じたのが「前川レポート」だった。
日本政府の役人とか外交の担当者がアメリカに留学して、グローバルな思考、自由貿易の正しさなどアメリカに都合のいい考え方を摺りこんで日本に「送り戻せ」ばこれでもう完全にアメリカの意のままに動くという戦略である。

アメリカは経済力が落ちたとはいえ、軍事力を背景としてその「政治力」は依然として強い。
交渉において、どちらの国の制度に合わせるかといった場合に、両国の「政治力」で決まるというほかはない。
1980年代ごろ、アメリカはもうフェアな市場競争では他の国、特に日本企業には勝てなくなったのでルールを変えさせることで自国に有利にするという戦略をとり始めた。
BIS規制とは、国際業務を行う金融機関は、自己資産の総資産に占める割合を「8パーセント」以内に収めるというルールである。
このアメリカ発の規制が日本で適用されるのは1992年、つまりバブルがはじけて日本が不良債権の蓄積に喘いでいた時期なのである。
一応BIS規制という「ルール」は、イザという時に国民を守るためのルールつまり、銀行がむやみに「貸し出し」をしていくと、銀行が破綻ことがあった時に預金が返ってこない時のためにという名目がある。
わざわざ「金融庁」といった役所をもうけて徹底させたのだが、そこにはアメリカの「政治力」が働いたことが考えられる。
また、「BIS規制」が日本に適用されるという「ルール変更」と同じような効果をもったものとして、国際的な「会計基準」の適用がある。
「複式簿記」の考え方は、人類が生んだ三代発明の1つとも言われている。
しかしこれは、「時価会計」の考え方と大きく異なる。
アメリカは会長の業績評価を含めすべて時価会計で、簿価会計などというものは存在しないという。
時価会計は「企業の透明性を高める」という名分がたつものの、結局、アメリカによる企業買収に都合がいいのが「時価会計」ということだ。
WTOにおける国際貿易のルールでは、関税がかかる物品だけじゃなくて、サービスとか金融とか投資とか政府調達とか広範な領域にソノ範囲を広げていった。
相手の国の制度やルール、法律を自国の企業に有利なように変えさせる交渉に変わっていった。
台頭する中国への脅威と、「公平」でない経済への不満は、トランプ政権以前から米国にマグマのようにたまっている。
特に中国の国家ぐるみの知的財産の侵害に対抗するべく、中国への圧力を支持する声は与野党を問わずに高い。
一方、中国は「AIIB(アジアインフラ投資銀行)」を2015年に発足させ、中国主導でアジアの開発を進めていこうとしている。
現在の中国共産党に「独裁統治」は、国民からの支持なくして安定できない。
重要産業は国有企業が担い、それが党の地盤でもある。国有企業が国際競争に負けたりすれば、自国経済をコントロールできなくなる。
だから中国は、一部業界で他国製品に関税をかけたり外資による投資を規制したりして自国の雇用や産業を守る政策をやめられない。
自分が輸出する局面では相手に自由貿易を訴えても、自らの市場に入ってくるものには規制や障壁を設けているのが実態である。
また、トランプ次期大統領がTPP(環太平洋パートナーシップ協定)への不参加を表明していることは、中国にはありがたいことであろう。
TPPは中国抜きで環太平洋の国々が連携し、伸長する中国に対抗していこうという動きなので、アメリカ離脱で中国はシメタと思っているはずである。
ただ、トランプが得意とするディール、「二国間交渉」などでは、商慣習なども含めてどちらの国の制度にあわせるかといった場合に、両国の「政治力」で決まるといってよい。
したがって、アメリカが中国の製品(鉄鋼・アルミ)に対する関税引き上げは、政治力を背景にした優位を確信しているからなのか。それとも中国からの報復をまねいたとしても、トランプが自らの支持基盤たるラストベルトの回復を意識せざるえないからだろうか。

アメリカはかつて「モンロー主義」という外交政策をとっていた。
1823年に、ジェームズ・モンロー大統領が発表した原則で、アメリカ大陸にある国に対して、ヨーロッパは口を出すな。そのかわり我々もヨーロッパに口を出さないからと宣言した。
この孤立主義をアメリカはその後、長い間、守り続けきた。
実際、1914年に勃発した第1次世界大戦で、ヨーロッパにおいてドイツが軍事力によってどんどん勢力を拡大しても、アメリカは参戦しようとしなかった。
しかし、イギリスの貨客船がドイツの潜水艦に撃沈され、アメリカ人を含む大勢の犠牲者が出てドイツに対する非難が高まりようやく参戦する。
その第1次世界大戦が終わったときに、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は、あまりに悲惨な世界大戦を経験して、なんとか世界から戦争をなくそうと、国家間の関係改善のため国際連盟を提唱する。
しかし、結局このウィルソンの考えはアメリカ国内では承認を得られず、国際連盟を提唱したアメリカが、不参加ということになる。
アメリカの議会には、なお「モンロー主義」を貫こうとする議員たちが多く、世界の政治と関わることなく、自分たちのことに専念すればいいという伝統があった。
第2次世界大戦のときも、ナチスドイツのヨーロッパの席巻にもかかわらず、アメリカは戦争に加わろうとはせず、日本がハワイの真珠湾を攻撃して初めて、アメリカは、ドイツ、イタリア、日本に対して「宣戦布告」をした。
結局、アメリカには本来、世界のことに無関心でいようというの原型としてあるのだ。
ところが第2次世界大戦が終わると、ソ連を中心とした巨大な社会主義圏ができ、戦場となったヨーロッパなどは疲弊していて、ソ連に対抗し得る国はなく、このままでは資本主義を掲げるアメリカそのものの存続が脅かされる。
これはいけないということでソ連に対抗し、アメリカは世界に軍事力を展開していくことになったのだ。
世界の警察官であるほうが、アメリカの歴史の中では、例外的なことなのだ。
移民が建国した国であるアメリカは、もともと外国人を無制限に受け入れていたが、人口増から1870年代以降、徐々に選択的・制限的となり、1920年代には、大統領がイタリア系の「大半は殺人犯や酒類密売人」だと言い切ったこともあった。
それが60年代の公民権運動で状況は一転。人種差別がタブーとなり、65年には国の門戸を再び開く「移民法」が制定された。
職業上の技能をもっていること、アメリカ国民または在留資格をもつ外国人の血縁者が国内にいることなどを条件に「移民ピザ」が発給されるようになった。
ただし、70年代以降、アジアと中南米を中心に合法移民だけではなく不法移民が爆発的に増加する。
実は、アメリカの原型とは、意外にも他国に干渉せず自国のことに専念することなのだ。
歴史を振り返る限り、トランプが大統領になったのも、アメリカの眠っていた「原型」を呼び覚ますことであったともいえる。
ただし、今日のアメリカがその「原型」から見て大きく揺らいでいるのは、「機会均等」の理念である。格差は拡大し、アメリカの「分断」はさらに進行している。
移民たちがるつぼの中で「1つのアメリカ」になるという理想は今、大きく揺らいでいる。

スキーにはノルディックという種目があるように、本家である北ヨーロッパ以外の選手がメダルを独占するなどありえないからであろう。