「生産性」乱発

最近、自民党議員の同性パートナーは生産的ではないという発言があった。人の結びつきを「生産性」でおさめるところは、戦前の国力増強をめざす「生めよ増えよ」のスローガンを思い浮かべる。
そんな時代にあって、「産児制限」を訴えた山本宣治は、1929年に右翼によって刺殺された。
さて、「生産性」をめぐる問題発言は、単なる自民党の一女性議員の言葉ではなく、最近の安倍政権に巣食う「雰囲気」と無関係ではないように思える。
というのも、安倍政権下での「生産性」にまつわる発言は、他の場面でも波紋をよんだからだ。
例えば、金田勝年前法務大臣は、「反対のみを叫んだり時間稼ぎ目的の野党ではなく建設的で提案型の野党は国会を活性化し"生産性"を飛躍的に高める」と発言した。
この文脈で「生産性」とは、法案成立率を高める邪魔をするなとでもいわんばかり。
2015年6月に文部科学省が、国立大の組織改革案として「教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換」を各大学に通達したことが波紋をよんだ。
この通達は、国立大学は税金で運営されており、「生産性」の高い働き手の育成に税金を使うべきで、文系学部の教育や研究は、理系と比較して成果が出るまでに時間がかり財界が要望とストレートに結びつかない。つまり「生産性」が低いので廃止したり転換したりすべきというわけである。
そもそも、学校教育の指針は誰が決めるのだろうか。
国民より権限を付託された政権与党すなわち自民党がその指針を定める。
文部省は、その指針に基づき教育内容の詳細を定めるので、民主主義の建て前どおり「国民が決める」といいたいところだが、政権与党の教育方針に実質的に大きな影響を与えるのは、自民党のスポンサーたる「財界」(政治献金の供給者)なのである。
自民党が長年政権に居座っているため、財界が「どんな働き手が欲しいか」という要望などが、文教委員会や教育審議会を通じて、教育内容に反映されることになる。
とはいえ、時代に応じて財界が求める「生産性を高める人材」の質も変わってくる。
1950年代の高度経済成長の入口期には、大学進学率も低く、「金の卵」とよばれた集団就職など、工場で働く均質で周囲に歩調が合わせられる人材。
ある時期には、特に大卒者に対して国際性をもつもの。また別の時期には、自由な発想をもつもの、最近ではコミュニケーション能力の高い者など。
高度経済成長期には、終身雇用や年功序列のため企業は人材育成に多大の出費を行った。
しかし、グローバル化がすすみ労働が流動的になると、企業は「人件費」をコストとしかみなくなる。
そして即戦力を期待して、いまや人材育成コストを学校教育に転嫁しようとしている。
その代表例が、小学校からの「英語教育」であろう。
ところで安倍首相が議長を務める「人生100年時代構想会議」で、「無償化」は格差の固定化を防ぐための政策であり、対象はそれに役立つ大学、つまり「企業が雇うに値する能力」の向上にとり組む大学に限るべきだといった考え方がでた。
さらに、内閣官房の担当者は「真理の探究をやるので実務は関係ないという大学に、公費で学生を送るのは説明がつかない」という驚きの発言もあった。
小中高の学校教育は、財界の意向を反映するとしても、大学は「真理を追及する場」として政治とは距離をおく「独立の府」であることに価値があったのではないか。
一体いつごろから、大学教育までも自民党のスポンサーたる財界の意向に染まるようになってしまったのか。
ここで時代を遡れば、文明開化が終わり、国家建設から国家の保守・管理へと重心がシフトする中で強化されたのは「法科系」ゼネラリストの養成だった。
しばらくは法科系エリートによる国家の管理が進められていくが、第一次世界大戦に向かう軍事力強化の時代になると理科系研究所の設立数が劇的に増加するとともに、「理工系」学部が重視されていく。
戦争がない時代の国家を管理するのは法律であり、国家は「法科系」学部偏重になるが、戦争が近づくと法律は疎んじられ、武器製造のための技術活用目的などで「理工系」学部偏重となる。
ちなみに、大戦後は「経済発展」を目的に理工系学部偏重の体制が引き継がれ、高度経済成長期までに大規模国立大学の教員は7割が理系という理系中心の組織となった。
そして、2004年の国立大学法人化の前後から進められてきた産業競争力重視の大学政策を背景に、大学も経済成長に教育で貢献しなくてはならないという前提が広く受け入れられるようになってしまった。
文部科学省は大学改革の狙いに、イノベーション(技術革新)創出と「生産性向上」を掲げている。
また、予算の配分でも、大学や研究者間の競争を重視する傾向が強まり、文系より理工系重視、その研究内容においても基礎研究より実用的研究重視にシフトしている。

「ベスト オブ ブライテスト」。訳すと賢者の中の最高の賢者、あるいはその下で働いた最もIQの高い人たちのこと。
「ベスト オブ ブライテスト」という言葉には、皮肉混じりのニュアンスがある。
なぜなら、アメリカ合衆国をベトナム戦争の泥沼に引きずりこんでいったホワイトハウスの「最良にして、最も聡明な」はずの人々を克明に描いたドキュメンタリーのタイトルだからだ。
こうした「ベスト オブ ブライテスト」の下で国の安全保障に関わった人々は、2000年代に入って、世界経済を危殆に頻せしめるほどの大きな「過ち」を犯すことになる。
2008年のリーマン・ショックである。
つまり、世界中をサブプライムローンの泥沼に引きずり込んだ「元軍事産業」に従事していた金融工学の創造者達のことである。
核兵器や宇宙開発競争が下火になった時代であったから、軍事産業の科学者達が次の活躍の場を求めてウォール街に流れ込んだためである。
「経済学」は、ある価値を所与としてそれをいかに合理的・効率的に実現するかという学問で、経済学自身の価値といえば効率と効用である。
最近の金融の世界では確率論に基づいた計量分析が重要視され、多くの金融機関は、最優秀な頭脳をもつ「クォンツ」たる素質を持った理系人材の登用に躍起になった。
彼らは、金融工学を創造し、証券化商品やCDSといった新たな金融商品を生み出し、世界のマネーをウォール街に呼び寄せていく。
その技術は結局、金融取引につきものの貸し倒れなどのリスクを自在に操る技術である。
「証券化」はリスクを一つに集め封じこめ沈殿させ、CDSはリスクをまったく関係の無い「第三者」に肩代わりさせ、ゼロにするというものだった。
「リスク・ゼロ」への熱狂的な幻想が撒かれ、リスクがあるからこそ抑えられていた欲望が解き放たれ、いつのまにか金融工学は「モンスター」と化した。
そして、サブプライム・ローン大量に生み出され破綻したのも、その「想定」の根本的な欠陥があったからだが、それを見えなくしたのも、何らかの「想像力」「想定力」が欠如していたからにちがいない。
つまり、複雑な金融の世界を「理系的発想」(確率論にもとづく理論)で捉える点に欠陥があったのではなかろうか。
個人的には、複雑な金融の世界を己の「合理性」にのみ依拠して、リスクに挑戦しようとした人物を思い浮かべる。
終戦まもなく「光クラブ」を経営して破綻・自殺した東京大学の学生で山崎晃嗣という人物がいた。
東京大学の学生と「金貸し」業は不似合いな感じだが、山崎はそういう評価をも「超えられる」合理的精神の持ち主だったようである。
山崎は日本マクドナルドの創業者・藤田田(ふじたでん)と東大で同期生であるが、最近、あるジャーナリストが日本マクドナルド元社長の藤田田と「光クラブ」社長の関係について書いていた。
そこで示されたインタビューで、藤田自身が次のように語っている。
「私は光クラブの社員ではなかったが、山崎を尊敬していたし、山崎に資金を融通していたことも事実。私は今まで山崎ほど頭のいい人間にお目にかかったことがない。そういうと、山崎が『お前ほど心臓の強いヤツに会ったのははじめて』と、答えたことをおぼえている」と。
山崎は、戦後の混乱期に1948年、東大在学中にヤミ金融「光クラブ」を設立させ、商店主らに高利で金を貸し付け、事業を急拡大させて世間を驚かせた。
この人物に代表されるように、反社会的で無責任な若者たちは「アプレゲール」とよばれ、三島由紀夫の「青の時代」や高木彬光の「白昼の死角」のモデルにもなっている。
山崎は、「私は法律は守るが、モラル、正義の実在は否定している。合法と非合法のスレスレの線を辿ってゆき、合法の極限をきわめたい」といった言葉を残している。
価値観が転倒し、拝金主義が蔓延した時代の「申し子」であったが、東大法学部出身で、金融業の世界で合理性を追求してリスクさえも抑え込めるとした点で、現代の「クゥオンツ」達と重なるものがある。
結局山崎晃嗣は、「物価統制令」違反などの容疑で逮捕され、それがキッカケとなって事業が破綻し、青酸カリを飲んで自殺している。

文系的発想や能力は、日本のアニメコンテンツすなわち「クールジャパン」の輸出の面で大きく貢献している。
最近、「細身のジーンズをはく女性は、スマートフォン保険を成約しやすい」という記事をみかけた。
確かに、ポケットが小さいとスマートフォンを落として壊しそうだ。読みが深いナと思ったら、スマホ決済アプリ「アリペイ」で集めた5億人超の購買履歴から割り出した傾向なのだ。
今や、AIやビッグデータは、人間の想像力や直観力、長年の「熟練技」などと「代替」しうるともいえる。
とはいえ、世の中が科学技術の進歩についていっていないと思えることは、法の整備や制度設計、つまり人間の生活に科学技術見合うように制御できてイナイ面が目立つ。
その典型が原発であるが、それ以外にも、遺伝子検査や、ビットコイン、ドローンから無人自動車などの法整備などの課題が目白押しである。
今、社会で一番必要なのは、社会全体のパースペクティブに基づく「未来ビジョン」で、この「未来ビジョン」にもとづいて、人はAIに何をさせるか、どんな問いを解かせるかといった設定をすることになる。
そこには、公正さや生命観など人間存在そのものを掘り下げることが必要で、それにことが哲学や倫理や歴史などの「文系的知見」の出番がある。
例えば、「精子バンク」利用者は最初は子供に恵まれないカップルが多かったが、しだいに未婚女性とか同性愛者に変わったことでおきる「選択の自由」をどう考えるかだ。
彼女らがバンクに聞きたがる質問の断然トップは、「ドナーは誰に似ているか」ということである。そしてドナーの写真や「子供時代の写真」も見ることができる。
まるで、「オンラインショッピング」の感覚で身長・髪や目の色などの条件を出せるのもこの会社のウリである。ちなみに数少ない日本人のドナーの中に「浅野忠信似」というものがあった。
近年、日本社会はドローンという技術に意表をつかれた感がある。
ドローンの応用は、少し想像しただけでも、ピザの宅配から、防犯用まで、際限なく広がりそうだ。
しかし最近、ドローンが首相官邸近くの建物侵入したりしたように安全保障上の懸念、落下事故や、映像が本来の「防犯」以外の他の目的で使われる懸念もある。
法でどう規制するかが問題だが、規制しすぎるとその良さが失われる。
最近のロボットは、脳と機械をつなぐ「ブレーン・マシーン・インターフェイス」とよばれる技術が脚光をあびている。
電動車イスに座り、頭に脳波を読み取る装置をつけた利用者が水を飲む実験では、黙ったまま念じると、約6秒で脳波を解析。
電動車イスが室内にある水道水の蛇口の前まで移動した後に、上半身に装着したロボットが利用者の腕を伸ばしたり、曲げたりして、コップに水をくんで口元まで運んだ。
研究チームによると、「水を飲みたい」という脳波はあいまいで読み取るのが難しいため、利用者には「手を動かすイメージ」を念じてもらいスイッチとして利用するのだというという。
さらに進化したものに「ブレインネット」というものが登場しており、人間の脳を直接インターネットにつなげ、会話の際に感情、ニュアンス、ためらいなど、心理状態の情報まで全て伝えられる。
人々の極めてプライベートな思考や感覚を共有できるようになる。つまり、心でビデオゲーム、コンピュータ、家電を操作することができるようになる。
こうした状況の中、「つい他のことを考えて」起きる危険や問題について、従来の「法理」で対処できるだろうか。
また、ロボットが家庭内にはいってくると、人間と「接触する」場所で動作することになる。
家庭では、地雷探査の技術を応用した掃除ロボットが実用化されているが、寝ている人の髪を吸い込んで離れなくなったという事件がおきている。
従来、機械は人間の命令で動くものであったが、今や機械が「独自の判断」で動自立型ロボットの場合、それによって起こされる事故やトラブルをについて誰が責任を負うのかという新たな問題が起きている。
例えば、これらは既存のPL法で対処できるものだろうか。
ロボットが普及するためには、事故を起こした場合に、すべてが製造者責任ということになると企業側にとっては大きなリスクとなり、ロボットもなかなか普及していかない。
日本が技術的に素晴らしい「介護ロボット」をつくったとしても、それが普及できないひとつの理由は、関連する役所の認可が降りず、それに向けて法整備ができていないからだ。
最近の自動車は、「自動操縦」ということが行われており、人間は自動車というロボットに運ばれているという見方さえできる。
人間の運転なしで走行できる自動車とは、レーザーレンジセンサやカメラで走行場所の3Dマップが作られることで、人間が運転するよりも安全性は格段に上昇するのだという。
しかし、その機械に対する信頼の高さが大きな事故に繋がる、いわば「モラルハザード」が起きる。
例えば、都会のヒート熱などが原因で「誤作動」することもないとはかぎらない。
機械(ロボット)は責任はとれないから、人間が責任をとることになるが、それでは「作った人間」「売った人間」「所有する人間」「操作する人間」など、日本ではその責任につき検討すらされていないのが現状のようだ。
また、日本では1974年までYS11など国産機を作っていた時代があったが、最近ではHONDAや三菱など自動車会社が「小型飛行機」を作る時代。
海外では「空飛ぶ自動車」が実現しつつあるが、日本で普及するなら、その管轄は国土交通省の中の自動車局なのか、航空局なのか。
ともあれ「生産性」一辺倒に傾いた技術開発が社会を混沌に導くのは明らかである。
今、トランプ大統領が、国際秩序を無視した「アメリカ・ファースト」を唱えて混乱を招いているように、「未来ビジョン」の共有なくしては、世界が危険な状態に陥ることが予想される。
その「未来ビジョン」においては、文系知の総力をもって理系知の暴走を防がねばならない。