身体拡張と思考自律

つけネイルもつけマツゲもコンタクトもカツラもかなり進化しているらしいが、所詮それはカラダの一部の「代替物/装飾物」にすぎない。
ところが今、人間は「身体を着る」ことをはじめたようだ。
着るからには「脱ぐ」ことも可能なのだが、脱ぐことを忘れるか脱ぐのが不安なほど、体の一部と化している。つまり、モノの「身体化」が進んでいるということでえある。
ここでモノとは、インターネットと繋がったモノで、その代表スマホは、あたかも人間の手のひらの一部と化したかのようにも見える。
スマホはメール、画像、音楽、語学学習、地図情報にカメラなど、何にでも利用できばかりか様々なアプリを導入することによって、「身体性」は飛躍的に拡大する。
昔の軍国主義教育で、死んでもラッパを放さなかった少年の美談は、今や死んでもスマホを放さなかった若者の哀話へと転じるかもしれない。
そして最近では、人間が身に着ける様々なモノ(例えばクツ)などのインターネット化(IOT)が進んでおり、人間はすっかり異なる「能力」を身につけたかのような錯覚にさえ陥る。
ある会社では、希望する社員にはあらかじめ体内に注射で微小なチップを注入しておき、手のひらをかざしてドアを開けるなどの手間が省けるような「生体認証」を行っている。
ところで、ITを活用して「誰も見たことのない」装置やアートを次々と開発し、「現代の魔法使い」と呼ばれる人物がいる。
落合陽介という人物。現在30歳にして筑波大学学長補佐、助教を務めながら、コンピュータとアナログなテクノロジーを組み合わせた視覚的作品やAIを使った研究開発で様々な企業とコラボレーションする会社の代表を務めている。
最近、テレビ番組「情熱大陸」で紹介されたが、落合陽一の父親は国際ジャーナリストで作家の落合信彦。
その仕事の内容といでたちとが父親とはあまりにもかけ離れてるため、かえって興味がわいた。
父親の落合信彦は、東京の定時制高校を卒業した後、アメリカに渡り柔道などを教えつつ石油ビジネスで成功をおさめ、その時得た情報をもとに「国際ジャーナリスト」としての評価を確立した。
その兄の落合秀彦は、先にアメリカに渡り空手流派のうちの一つ「和心流」を創立したことで知られる。
現役時代には全米空手選手権で5回連続優勝を果たしている。
落合信彦の息子の落合陽一は、服を選ぶ時間を節約するため黒の服装で身をかため、その姿が何かにおびえる鳥のようなイメージにも映った。
父に勧められ、幼い頃よりニーチェからカミュ、キルケゴールまで哲学や文学、歴史の古典に親しみ育ったという。
その落合陽一が、取り組んでいる技術のひとつに「網膜投影のメガネ型HMD」がある。
これによって近視も遠視も老眼の人も見えるようになるというもの。
この技術につき、番組では簡単な説明があった。
目はよく「カメラ」に例えられるが、モノを見るとき、我々はモノを「光」として認識している。
瞳を通して入った光は「網膜」という膜の上に像を結ぶ。網膜はちょうどフィルムにあたり、角膜と水晶体がピントを調節する役割をしていて、水晶体がカメラのレンズにあたり、厚くなったり薄くなったりしてピントを合わせている。
近視は多くの場合、「眼軸長」(角膜から網膜までの眼球の長さ)と呼ばれる眼球の奥行きが異常に延び、像が網膜より手前で結んでピンボケになる。
同様に老眼や遠視も「水晶体」による調節ができづらくなることにより起きている。
ならば、水晶体によるピント調節をすることなく、「直接」網膜に光を届けることによりモノを見るというのが「網膜投影」の考え方である。
これが実用化すれば、どんな視力の人でも視力矯正が必要なくモノを見ることができるようになる。
しかも、「網膜投影のメガネ型HMD」は、レンズなしの軽量なフレームを目の少し上に固定しておくたけですむという。
現在、この「網膜投影」以外にも、「見る」ということに関しては、様々なアプローチが行なわれていて、指でモノを操作する時代から、目の動きだけでモノを操作する「魔法使い」のような世界が生まれつつある。

スマホは身体化が進み人間の体の一部に近くはなったとはいえ、手に持ち、指で画面をなぞる等の操作を行う必要がある。
そのため、手のひらに載せて落ちないようにしている点、画面を見るのにある程度の距離を置く点など、人間の動きの「自由度」を奪うため、カラダの一部とはなりきれていない。
ところが最近の「ウェアラブル・コンピュータ」は、PC本体・デイスプレイ等をほぼ「身体の一部」として身にまとうことができる。
例えばメガネ、コンタクト、指輪、時計、靴、スーツ等に組み込んで利用する。
それはコンピュータとの通信技術と人間が装着した特殊な端末で可能になったものであるが、人間の時々の意志をどのように端末に伝えるかが、技術的に大きな課題となる。
指の動きでスマートフォンを動かしたりメールを送ることができる「指輪型端末リング」、メガネに映る風景をスマホ経由でネットに送信し、友人と共有できる「テレパシーワン」、脈拍数や血管年齢なども常時計れる「イヤホン」などもある。
また目の動きは脳と連動しているため、集中度などをはかる指標となる。そこでメガネの鼻パッド二つと眉間部分に仕込むセンサーによりその疲労度を知ることができる。
このメガネをかけると、視線の動きから集中度や疲れ具合が分かったり、自動車の運転時の眠気をモニターし警報を出して居眠り運転を防いだりできる。
何しろ、デスプレイは曲げたり巻いたりしても鮮明に表示できるものが開発されているので、カバンの中に丸めておいてもいいし、身にまとう感じで使うこともできる。
また、服に見えないくらい薄い電池を張り付けて、街中を歩いているだけで電源を確保できる。
ところで日本は、2050年に国民の約4割が65歳以上の超高齢化社会を迎え、手足が思うように動かせなくなる人の割合も増える。
ウェアラブルコンピュータの中には、体の反応をセンサーで探知して動くものが登場しており、装着型またはアシストスーツやパンツで歩行を補助したりするものも登場している。
例えば身障者向けあるいは介護向け補助装置をまるで衣服やスーツのように身につけて自由に動くことができる。
こうしたウェアラブルの中で発展が最も著しいのがメガネに情報機能をつけたもので、映画「ターミネーター」のような世界が現実化しているといって過言ではない。
朝起きてその専用メガネをつけると今日のニュースのヘッドラインが片隅に流れる。
また車に乗るとカーナビのように実際の道に矢印が表示され、眠気がすれば警報音のピーという音が耳奥からか聞こえてくる。
また満員電車で疲れたときは、ズポンについたアシスト機能をONにすれば長時間たったままの状態を楽に維持することができる。
退屈しのぎに、どんな平面でもいいからそこの一点を「長見する」と映画モードにきりかわり選択メニューが表われ、まばたきの回数でメニューを選ぶことができる。
それで、通勤の電車の座席でじっとカバンの表面に映し出された映画を、誰にも気づかれずに本人だけで楽しむことができるのである。
また仕事上外国人と会話すると、その「同時通訳」がメガネの片隅に表示される。
休日にメガネを着用して外出をすると、目的のデパートにいく道筋を矢印でもって表示する。
口コミのあるレストランの前を通るとそのグルメ口コミ情報が表示されたりする。
また目線の動きを止めて「長見する」と写真が何もせずに撮影できたりする。
デパートの建物を見るだけで、その建物の中のどのフロアにどんな店があるかがメガネの片隅に表示されるし、スーパーで食料品を見れば、色分けで賞味期限・消費期限も表示される。
人ごみのなかでストーカー歴やら窃盗歴のある人物の接近を教えてくれる(可能性さえももある)。
ウェアラブルコンピュータによる「身体性」の拡大、すなわち「見る/触れる」などの人間の身体機能は飛躍的に拡大・延長していると考えられる。
そして今起きている身体性の拡張は「新しい自分」を身にまとう感を抱かせる。
その「極限」をいえば、眼球に直接埋め込まれ、脳に直結したディ書かれたスプレイの実用化などさえも議論されているという。
そうなってくると試験問題を「長見する」ことによって送られてきた解答を書いたとしても、それはその受験生の「能力の一部」という感じにもなり、不正をしているという自覚は生まれないかもしれない。
こうした身体性の拡大は、戦時にはより強烈に発揮されることが想像できる。
少々時間は遡るが、2001年10月8日に始まったアフガニスタン侵攻およびイラク侵攻で、「小型衛星通信機」を装備した兵士を投入している。
ペンタゴンが解析した情報を、組織の命令系統を経ることなく、直接前衛にいる兵士1人1人におくり、情報を受け取った兵士は、上官の命令を待つことなく、自らの判断で行動できるようになったのである。
そうした情報が末端の兵士まで瞬時に共有できるようになったので、情報の把握、命令、行動、報告等かつて軍隊という組織の中で行われていたことが、兵士という「個人」の中で完結するようになった。
そしていまや、兵士一人一人が小型核兵器や化学兵器などの大量殺戮兵器を「携帯する」ようになったのである。
こうした兵士に、ある種の「有能感(もしくは全能感)」をモツナといわれる方が難しく、そうした心理が危険なものと化す場面でさえも起きそうだ。
そしてこうした兵士が抱く「仮装有能感」というものは、現代人とも無縁なものではない。
実際に現実社会を生き抜くのはなかなか大変なことだが、生きづらさゆえにこうした「仮想的有能感」に拠り所を求めた人々による様々な事件が起きている。

人工知能(AI)の進歩は目覚ましく、囲碁や将棋の世界では、もう人間は人工知能に勝てなくなってしまった。
芸術家や作家そして学者もその例外ではない。レンブラントの画風を完璧に再現したり、文学賞の一次審査を通過するなどもしている。
また、学者たちが行ってきた研究が、人工知能によって置きかえられていく可能性もある。
先日、哲学者の森岡正博氏が、哲学の研究がAIに置き換わる可能性について新聞に書いていた。
何しろ、人間存在の根源を問う哲学とAIはあまりにもかけ離れた世界と思われる故にそれはありえないという気がしたが、森岡氏によればそうでもないらしい。
なにしろ哲学は「考える」ことそれ自体が仕事内容のすべてであるから、案外と囲碁や将棋と近い分野であるともいえる。
ということは哲学も、囲碁や将棋と同じ運命をたどるかもしれないということだ。
実際、過去の哲学者の「思考パターン」の発見は、人工知能のもっとも得意とするところである。
古代より、プラトンとアリストテレスは哲学の二大潮流であるが、その思考パターンは次のようなものである。
「プラトン主義」では、人には「犬」とはどういうものかという概念(イデア)が与えられており、それに合致する動物が犬であるとする。
そこで重要なことは、「犬」という概念をつかむことである。
一方、「アリストテレス主義」では、マズ「犬」と呼ばれているたくさんの動物を詳しく「観察」する。
そうするとそれらには、それぞれ異なるところもあるが、それらスベテに「共通」する要素が浮かび上がってくる。
それコソが「犬」とはどういうものかという「概念」を生み出すというわけである。
つまり両者の違いのエッセンスは、「プラトン主義」は、永久「普遍」なるものが実在することであり、「アリストテレス主義」は、「個物」を離れた「普遍」など存在しないということである。
またカント流の「思考パターン」についても、個人的に思いつく要素がある。
例えば、カントの倫理学に「定言命法」というのがあって、いついかなる場合でも、絶対的に従わなければならない「倫理的な命令」である。
カントはこの「命令」が神が命じるからそうすべきといったのではなく、皆がそれぞれの意思にしたがって生きているとして、自分の行為を「普遍化」したらドウナルカ考えてみて、導き出せるものだといっている。
そしてカントは、他人を道具や手段として扱うことを「悪い」ことだとした。
こうしたカントの思考パターンを織り込んだ「人工知能カント」アプリなどを開発すれば、研究者が「人工知能カント」に問を発して、その答えを分析することでカント研究の一助とすることは大いにありそうだ。
つまり、この段階では、人工知能と哲学者の幸福な共同作業が成立するともいえる。
この段階から、人工知能に過去の哲学者たちの哲学的な思考を可能な限り抽出させると、人間が考えそうな哲学的思考パターンが勢揃いすることになる。
こうなると、もう人間によるオリジナルな哲学的思考パターンは生み出されようがないまでになるかもしれない。
しかし根本的な疑問が起きてくる。この哲学的人工知能はほんとうに「哲学」を行っているといえるか。
そもそも哲学は、自分自身にとって「切実な哲学の問い」を内発的に発するところからスタートするのである。
たとえば、「なぜ私は存在しているのか?」とか「生きる意味はどこにあるのか?」という問いが切実なものとして自分に迫ってきて、それについてどうしても考えざるを得ないところまで追い込まれてしまう状況こそが哲学の出発点なのだ。
外部から入力されたデータの中にパターンを発見したり、人間によって設定された問いに解を与えたりするだけならば、それは「哲学」とは呼べない。
ここでの問題は、AIが人間の指令を離れて「自律的な思考」を行いうるかという点に帰着するが、自律性には幅があって人間のより良い判断、より迅速な意思決定の手助けになるなら問題はない。
だが残念ながら、米軍は自律型ドローンの実験にも着手しており、「ターミネーター」に登場するような自律型兵器システム、すなわち人間の命令を受けずに人を殺せるロボットの出現はそれほど遠くないといわれれている。
アマゾン・ドット・コムは、複数の自立型ロボットが互いの動きを察知し、倉庫内の荷物移動を同時進行で行うシステムを導入している。
このように、AIの「思考自律」は進んでいっているが、人工知能が自らに「何ゆえに我は存在するのか」と問い始めたとしたら、そのとき人工知能は哲学をしているといえる。
もちろん、彼らが人間の過去の思考パターンを蓄積したうえで発する問いや応えだとしても、それはあまりにも奇妙で、我々の心にまったく響かないかもしれない。
しかし、少なくとも、自由意志に基づいた自律的活動と、普遍的な法則や真理を発見できる思考能力が、「人間の証(あかし)」とは言い切れぬということだ。

例えば、古代ギリシアの哲学者プラトンは、実体(イデア)と現象を説明するために「洞窟の比喩」をもって説明している。
それによると、地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。
明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。
人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。
入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。
火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。
壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。
洞窟に住む縛められた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを「実体」だと思い込んでいる。
「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。
同じように、われわれが現実に見ているものは、イデア(=実体)の「影」に過ぎないとプラトンはいう。
また時代を下って、アイザック・ニュートンの次のような「比喩」もある。
「私は浜辺で遊ぶ子供だった。時々、滑らかな小石や綺麗な貝殻を拾い上げて楽しんでいたが、真理の大海は手付かずのまま、私の前に広がっていた」という有名な譬えである。
ところで、最近の「ビッグス粒子」の発見は、質量を持たない素粒子が集まってどうして「重さ」を持っているかを明らかにする「世紀の発見」といわれる。
しかし個人的には、人間はまだソンナことさえワカッテいなかったのかという驚きの方が強かった。
あのニュートンも、この世のほんのワズカなことした知りえないということを知っていた。
それは、ソクラテスが「私は自分が何も知らないことを知っているだけだ」と言った言葉を思い起こす。
ソクラテス、プラトン、ニュートンら人類の「最高の知性」は、人間の「知の限界」をよく認識していたということだ。
その点、ドイツのカントは、「知の限界」を意識ツツ哲学した人といえる。
近代に至って、カントはヨーロッパ大陸の「合理論」とイギリスの「経験論」を統合した「近代哲学の大成者」といわれている。
古来哲学の中で、神の存在とか、死後の世界とか、宇宙の始まりとかの問題を扱う分野を「形而上学」という。
古来、これらの問題に様々な天才たちが挑んできた。
例えば前述の「イデア」論で有名なプラトンも、この問題に答えを出したと信じた一人である。
しかし、カントは、こうした天才哲学者たちのやり方を、「理性には何が出来るか/何が出来ないか」をよく吟味もせずに、ヤミクモにこうした問題を解こうとしたと言った。
ところで、カント以前に西洋哲学の間ではこれら「経験論」と「合理論」が激しく衝突していた。
この両者を批判し、「統合」しようとしたのがカントである。
経験論者たちのように、人間のあらゆる「先入観」を悉く排除しようとしたら、究極的には「実体」すら懐疑的にならざるをえない。
また一方、当時の合理論は「理性的に思考することで全てを認識できる」と経験によって知ることを軽視していた。
これに対してカントは、「理性は経験対象の認識能力に限定される」という立場をとった。
例えば我々は。時間や空間などの「経験」によらない認識の様式があり、そのフォーマットにのっとって事物を受け取り、経験し、「対象」を意味あるものとして構成しているとした。
カントは人間が対象を認識するワクによって、初めて対象は意味をもつ対象として出現するのである。
我々が主観でもって物事を構成して認識するまでは客観の物事は名づけようもない混沌とした無意味なもの(モノ自体)だということである。
つまりカントの考えは、「対象に従って認識が生じる」のではなく、「認識に従って対象が生じる」というものであり、 カント自身は、この逆転の発想を「コペルニクス的転換」と名付けた。
カントは、そこから展開して「理性の限界」を見極める「理性批判」の哲学を推し進めていく。
そして、科学的認識や道徳的価値や美的判断の「理性的根拠」を究明した。
だから、理性の限界を踏み越え、神や魂のような「形而上学的」な対象を認識しようとする試みは、無謀な試みであるとして批判したのである。
例えばカントの哲学でもって、キリスト教の倫理を考えたらどうなるであろうか。
例えば、カントの倫理学に「定言命法」というのがあって、いついかなる場合でも、絶対的に従わなければならない「倫理的な命令」である。
カントはこの「命令」が神が命じるからそうすべきといったのではなく、皆がそれぞれの意思にしたがって生きているとして、自分の行為を「普遍化」したらドウナルカ考えてみて、導き出せるものだといっている。
またカントは、他人を道具や手段として扱うことを「悪い」ことだとした。
カントのこうした形而下の「倫理思想」に、聖書の黄金律、「汝と同じように汝の隣人を愛せよ」とか「汝にして欲しいと思うことを汝の隣人になせ」という言葉を思い起こす人は少なくないだろう。
カントは「神の言葉」といった形而上の話を、できるカギリ「神抜き」で導き出そうとしたということがいえる。
ただカントは「理性」の枠で捉えられる対象を限定するあまり、人間には(霊的)「直感」によって直接ものごとの本質に迫る能力があるということには、意識が及ばなかったようにも思える。

プラトンはそうした「言葉の意味」において、本当に正しい「絶対的な意味」というものが存在すると考えた。
そしてソノ「絶対的な意味」とは、「イデア」というものと対応するものであった。
この「イデア」は、人の思考を離れ、現実の世界を離れて、「永遠不変な存在」として実在するとした。
つまりは「言葉の意味」をつかさどる「言葉の魂」のようなものが存在すると考えた。
プラトンにれば、「イデア」とは真の実在であり永遠不滅のものであり、それは「ロゴス」によって近づくことが可能な「真理」であった。
プラトンは魂が「輪廻転生」するとし、人は生前や死後において「魂の世界」に至り、そこでイデアを直接「見知っている」としたのである。
プラトンはイデアに気づき、イデアに近づくことを、イデアを「想起する」という様に表現する。
例えば、三角形は様々の形があるが、それを三角形と認識されるのは、人に「三角形」のイデアが保持されているからである。
つまり、人は魂の内にイデアの「記憶」を秘めており、それを思い出すことができると考えたのだ。
これは人は、生まれつき「正しい知識」を保持しているという考え方である。

ところで、キリスト教・神学上の「一大転換」は、古代教父以来続いてきた「プラトン主義」から「アリストテレス主義」への転換であるといわれている。
その立役者がトマス・アクィナスがうち立てた「スコラ哲学」である。
カトリックの「古代教父」の時代、プラトンの流れをくむ「新プラトン主義」が隆盛をきわめた。
それは古代教父の代表的人物アウグスティヌスが「(新)プラトン主義者」であり、その神学にもソレが反映されていたからである。
以来11世紀頃までも、「プラトン主義」がキリスト教神学の主流をしめていたのである。
この「プラトン主義」の陰で、忘れ去られていた「アリストテレスの哲学」が、古代ギリシャ哲学を学んだイスラムの学者達によって「再発見」され、やがて西ヨーロッパにもたらされる。
そうした流れを受け止めたのが、上述のアベラールというような人物であったのだ。
さて、古代ギリシアの「プラトンとアリストテレス」の思想的対立は、中世ヨーロッパにおいては、「装い」も新たに「普遍論争」として展開する。
それは「実在論」と「唯名論」との「対立」といいかえられるが、両者の論争を「犬」という概念に置き換えて考えてみよう。
「プラトン主義」では、人には「犬」とはどういうものかという概念(イデア)が与えられており、それに合致する動物が犬であるとする。
そこで重要なことは、「犬」という概念=「ロゴス」をつかむことである。
一方、「アリストテレス主義」では、まず「犬」と呼ばれているたくさんの動物を詳しく「観察」する。
そうするとそれらには、それぞれ異なるところもあるが、それらスベテに「共通」する要素が浮かび上がってくる。
それコソが「犬」とはどういうものかという「概念」を生み出すというわけである。
つまり両者の違いのエッセンスは、「プラトン主義」は、永久「普遍」なるものが実在することであり、「アリストテレス主義」は、「個物」を離れた「普遍」など存在しないということである。
したがって、アリストテレス主義では、「個物の観察」を何よりも重視することとなる。
こうして、名前の背後の「普遍の実在」を肯定するプラトン流の「実在論」と、そうした「普遍の実在」を否定するアリストテレス流の「唯名論」という考えが二つ成り立つわけである。
では、こうしたものの考え方を「キリスト教」に導入したらドウナルのだろうか。
「プラトン主義」的立場からは、与えられた啓示としての「聖書」から世界を見ようとするのに対して、「アリストテレス主義」的立場からは、この世界の観察から「神の存在」と「神の働き」を見いだそうとする態度になる。
したがって「プラトン主義」ではキリストの受肉や十字架や復活の「歴史性」はあまり重要性をもたず、永遠の「神の言」としてのイエス・キリストに重点が置かれる。
逆に「アリストテレス主義」では、逆に「イエスの歴史性」つまり「十字架の死」や「復活」などが非常に大きな意味をもってくる。
しかし歴史的・感覚的に把握できない事柄については、「認識」(または信仰)を得ることができなくなる。
アリストテレス的立場によれば、有限の「自然的理性」では「三位一体」や「贖罪」といった真理を「認識」することはできない。
しかし、有限な存在が無限の存在を「類比」(アナロジー)によって理解することは可能だとしている。
天における事柄も、地上における事柄によって、「類推」が可能であるということか(この辺よくわかりません)。
ともあれ、スコラ哲学は、キリスト教とギリシア思想の融合とは結局、信仰と理性との「調和」を図ろうとした試みであり、それが「普遍論争」をマキオコシたのである。

さて、前述のアベラールは1122年に「然りと否」の中で自身の思想を書いている。
アベラールは、さまざまな説に対して、それを支持する根拠と反論する根拠をあげて、双方に論争させるという体裁をとっている。
アベラールが何ヨリ重んじたものは、事物に関する「結論的な見地」というより、それについて議論する「論理的」な過程の方であり、人間の推論の様式としての「形式論理」のあり方を深く研究するようにもなった。
スコラ哲学の体系的な営みは、このようなアベラールの姿勢に始まっているといってよい。
アベラール自身は、「普遍の問題」については「唯名論」の立場すなわち「個物ノミ」が存在するという立場に立っていた。
さまざまな事物は相互に似ていることがあるが、その類似点そのものがまたある「一つの存在」なのだと導く「実在論」は誤りであるとした。
それは「類似性」に対して人間が付した「意味」というレッテルにすぎないとしたのである。
だから「普遍」は「個別」を離れては存在しないし、「個別」を通じて「普遍的なもの」を理解しようとする人間の「認識作用」を重視した。
それは、「観察」を重視したアリストテレスの立場に符合している。
こうしたアベラールの思想の延長上にある「スコラ哲学」の大成者トマス・アクィナスは、プラトンの思想を土台とした伝統的神学と、「再発見」されたアリストテレスの哲学を、その「神学体系」に導入して統合したのである。
例えばトマス・アクィナスは、アリストテレスの「原因→結果」の認識プロセスを、「神の存在」を証明するために用いている。
事物の中には、他のものによって動かされるだけのもの、自ら動くとともに他のものからも動かされるものとがある。
動かされるものは他の何者かによって動かされるのであるが、その動かすものを限りなく遡っていくと、我々は他から動かされずに他のものを動かす何者かに行き着かねばならない。
この「他からは動かされずに、他のものを動かすだけの存在」ソレコソが「神」なのだとトマス・アクィナスは主張した。
それが「第一原因」だが、この論証の方法は、アリストテレスの「原因→結果」を導き出すシカタによく似ている。
トマス・アクィナスはアリストテレスに依拠することにより、「神学」からできるかぎりアイマイな要素を抜き去り、それを「学問的な基礎」の上に立たせようとしたのだった。
アリストテレスの思想において、重要となる概念は「観察」と「論理」、そして「因果」である。
一方、プラトン哲学においては、感覚を使って得られる知識は誤信を生むと考えられていたため、「観察」はムシロ軽視されていた。
これには天文学者や生物学者としてのアリストテレスは天文学者であり生物学者でもあったから、そうした経験から、プラトンの「イデア論」のような感覚を軽視する理論は、アリストテレスには受け入れがたいものであったにちがいない。
さらにプラトンは「魂」を「肉体を離れても実在する霊的な存在」であると説いた。
だが、アリストテレスは、「魂」というのは、肉体を離れては存在しえない、生物の機能、性質のようなものであると考えた。
つまりはアリストテレスにおける「魂」とは、「生体機能」もしくは「生物特有の性質」という意味で用いられている。
こうした視点に立って、アリストテレスのいう「魂」についても、その機能や性質を観察し、論理的因果的な考察を行っている。
その意味から、最古の「心理学者」といってもいいかもしれない。

近世哲学はデカルトの「我思う 故に我あり」に始まるとされる。
このデカルトは、まず「疑いようのないもの」として「我の意識」ということだった。
世界を「神」からではなく、「我」から説明しようとしたという意味で、精神的な「コペルニクス的転換」となったわけである。
さて、デカルト以後「神」をコトアゲしない哲学が主流となっていった。
トマス・アクィナスは、人間の信仰のうちで「理性」によって語られるべき部分と、「啓示」によってノミ語られる部分とを「分け」ていた。
神の存在や魂の不死は「理性」によって議論されうるが、「三位一体」や「聖餐における化肉」といったことがらは、「理性」によってではなく、「啓示」によって始めて語られるとしたのである。
近代に至って、カントはヨーロッパ大陸の「合理論」とイギリスの「経験論」を統合した「近代哲学の大成者」といわれている。
そのカントは、そうしたトマス・アクイナスの態度にナライ、考察対象となる「形而下の問題」と、考察対象とはならない「形而上の問題」とを区別した。
しかし、そんなカントでさえも、キリスト教に強く支配されていたといっても過言ではない。
例えば、カントの倫理学に「定言命法」というのがあって、いついかなる場合でも、絶対的に従わなければならない「倫理的な命令」である。
カントはこの「命令」が神が命じるからそうすべきといったのではなく、皆がそれぞれの意思にしたがって生きているとして、自分の行為を「普遍化」したらドウナルカ考えてみて、導き出せるものだといっている。
そしてカントは、他人を道具や手段として扱うことを「悪い」ことだとした。
しかし、カントのこうした「倫理思想」に、聖書の「黄金律」といわれる「汝と同じように汝の隣人を愛せよ」「汝にして欲しいと思うことを汝の隣人になせ」という言葉を思い起こす人は少なくないだろう。

ウエブカメラを除く、海外から女性の声が聞こえる。パスワードで守られていないウエブカメラ。 パスワード設定せず使われている。パスワードを設定すると、家電の乗っ取り。カメラが遠隔操作され、特別なプログラムである命令をだすとパスワードをみつける。カメラに内蔵されたプログラムのミスをついてパスワードを獲得する。IOT。
IOTの多くはセキュリティが脆弱で、パスワードが読み取られウイルスが侵入する。それが次々に拡大し、ひとつの命令で感染した家電から、特定のコンピュータを一斉に攻撃するためにダウン指定しまう。