異文化リメイク

「すべての道はローマに通ず」という言葉があるが、これはローマから街道が帝国全土に張り巡らされたという「空間的」な意味でいわれる。
しかし、この言葉を少しかえて「すべての事象はローマに通ず」とすれば、奥深い歴史を語れるのではなかろうか。
なぜなら、我々が使っている法律用語、国家機構に関する言葉の多くはローマ起源だし、政治家・役人・属州・管区といった法治国家を組織する要素からしてもローマ人が考えたもの。
また、軍団・分隊・歩兵・騎兵・砲兵・師団・大隊といった軍隊用語でさえもローマの遺産である。
ローマ帝国の技術文明にもとづく住環境の良さインフラのレベル、高度な生活水準などは、その遺構から推察できる。
その一方で、道徳の退廃、政治への無関心とポピュリズム的傾向、努力嫌いとか教養の低下とか、伝統の軽視なども、結構今日に通じる気がする。
そしてなんといっても現代の暦は、グレゴリオ13世が1582年に制定した「グレゴリオ暦」が現代世界の標準暦となっている。
さて、古代ローマを表すのに「パンとサーカスの都」という言葉がある。
思い浮かべるのは、古代ローマ社会と1980年代の日本社会とが相通じるという冊子のこと。
経団連の土光敏雄会長がその冊子に感銘して、各界の指導者に配ったこともあった。題して「日本の自殺」。
ローマは、広大な属州から搾り取った富がどんどん流れ込んで、その富がローマ市民に分配された。
したがってローマ市民であれば、何も財産がなくても食べるに困らず、娯楽も無料で楽しむことができた。
ローマの皇帝は、民衆の支持もしくは軍人に支持されてこそ安泰であったため、ばらまくだけばらまいたのである。
また皇帝達は、「人気取り」のために国家の祭りや記念日を増やし、そういう祝日祭日に市民は「サーカス」を見て楽しむことができる。
ここでいう「サーカス」とはアクロバチックな曲芸ではなく、血なまぐさい見せ物であった。
それは、「剣奴」といわれる奴隷達に、相手を倒すまで戦わせるという見世物であり、刺激を求めるローマ市民にとってこの上ない楽しみであった。
その出場者を育てるのを目的とした「剣奴養成所」までも作られた。
こういう見世物の現場こそが、イタリア最大の観光地・コロッセウムであり、収容人員は5万人にも達した。最下階にはライオンの檻が設置された。
また皇帝や軍人達が行う市民サービスとしてもっとも身近なものが皇帝の名を冠した「公衆浴場」であった。
カラカラ帝の造った「カラカラ浴場」が世界遺産となっている。
かくして、浴場を建設した皇帝を冠した公衆浴場はローマ市内至る所にあり、皇帝の人気取り政策の実態を今日に伝えている。
さて公衆浴場といえば、日本にも「銭湯」があるがそれとは大きな違いである。近年の映画「テルマエロマエ」のおかげで、ローマの公衆浴場のメージがある程度日本人にも浸透するようになった。
「テルマエ」とはラテン語で「浴場」で、「ロマエ」はローマのことだから「ローマの風呂」という意味のタイトルになる。
物語は、古代ローマの浴場設計技師のルシウスが、設計の行きづまりに悩み、現代日本の風呂へタイムスリップしてしまう話である。
ルシウスは、彼のデザインがマンネリで古臭いと批判され、公衆浴場(銭湯)、個別の浴場、露天風呂といった各回ごとに現代日本の浴場へとタイムスリップし、物語が展開でする。
そして、ルシウスの目に新鮮に映ったのが昭和の匂いがする「ペンキ絵」「フルーツ牛乳」「脱衣籠」などのある日本のお馴染みの風景であった。
ローマの浴場は、現代でいうならば、大理石の風呂をもつスパつきフィットネス・クラブとかスポーツ・クラブとかに近いであろう。
入場するとまずトレーニング・ルームがあって、そこでレスリングしたり、球技したり、円盤投げ、やり投げの練習で一汗流す。
次はマッサージ・ルームにいき、ここで身体をほぐしてもらって、いよいよ入浴する。
低温サウナで慣らしてから高温サウナへと進み、身体をきれいにして暖まったところで、最後はプールでひと泳ぎする。
このあと遊戯室や談話室に入って、チェスみたいなゲームをしたり、空腹になれば食堂へ行き一日を過ごすのである。
これだけの娯楽を楽しみながら、その入場料はすこぶる安い。
映画「テルマエ・ロマエ」でも公衆浴場での食事シーンがあったが、我々日本人が一番「違和感」を覚える場面だったかもしれない。
人々は寝そべって、箸もフォークもスプーンも使わずに手づかみで食べる。手が汚れるので、それを食事服で拭うがここで使うのが、汚してかまわない「食事服」である。
特に、貴族達の宴会となると、属州やら植民市から、大量の食糧がとどけられるのだから、度外れていたことはいうまもでもない。
宴会となると、金持ち達は食事服に金をかけ贅をこらす。
その高価な食事服を惜しげもなく汚してぽいぽいと捨て、1回の宴会で何回も着替えたりする。
映画では描かれなかったその後先はもっとすごい。
給仕が配った嘔吐薬を飲んそれを吐き出しながら、何時間も延々とおいしいものを食べ続ける。
宴会の主催者は金に糸目を付けず、珍味をどこからでも手に入れてきて、風変わりな調理を施す。
要するに、彼らにとって散財することこそが「ステータス・シンボル」だった。
さて、「テルマエ・ロマエ」というの作品を書いた漫画家ヤマザキマリは、1967、東京都に生まれる。母親がヴィオラ奏者として札幌交響楽団に在籍していたことから、幼少期を北海道千歳市で過ごした。
父は指揮者であったが幼少のころ死去した。
14歳の時、母親に勧められて1ヶ月ドイツとフランスを一人旅した際、老齢のイタリア人陶芸家と出会い、旅をしている理由(芸術のため)を話すと、「イタリアを訪れないのはけしからん」と叱られる。
実は、この出会いは、ヤマザキにとって色々な意味で「運命的」といえる出会いであった。
ヤマザキは、高校生の時、そのイタリア人陶芸家に招かれて17歳でイタリアに渡り、フィレンツェのイタリア国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で美術史と油絵を学びながら11年間過ごした。
ヤマザキは、21歳の時日本に一時帰国するが、スキー旅行に向かう途中、交通事故にあい全身打撲で肺胞が潰れる重症を負うなど、振幅の大きな人生を歩んでいる。
フィレンツェ在住一体時には学生アパートの隣室のイタリア人の詩人と恋愛をする。妊娠発覚後、その詩人とは別れ、男児を出産してシングルマザーとなった。
漫画を描き始めたのは、生活費を稼ぐためであった。
1996年、イタリア暮らしを綴ったエッセー漫画でデビュー。2002年、イタリア旅行をすすめたイタリア人陶芸家の孫と結婚する。
後にイタリア文学者となる14歳年下の夫こそが「テルマエ・ロマエ」を描くきっかけを与える。
ヤマザキ夫妻は、シリアのダマスカスや北イタリアでの暮らしを経てポルトガルのリスボンに暮らしていたが、その後夫がシカゴ大学で比較文学を研究することになりシカゴに転居している。
イタリアでの生活時に同居していた夫の家族の壮絶ぶりをギャグにして綴ったエッセー漫画や、自叙伝的昭和のノスタルジックストーリーなどを講談社の雑誌で連載。
実は、ヤマザキの夫は、ローマ皇帝の名前を全員言えるほどの古代ローマおたくで、日常会話でも古代ローマの話題が当たり前のように出るほどであった。
そういう家庭環境の中、古代ローマをモチーフにしたギャグ漫画「テルマエ・ロマエ」が誕生する。

多くの物語が聖書からインスピエーションやイマジネーションを得ている。
古代ヘブライ王国の王ソロモンの知恵は、江戸時代の北町奉行・大岡忠相の「大岡裁き」という名判決の中にも見られる。
一人の赤子を自分の子だと主張する二人の母親に、大岡が切って二つにすればよかろうというと、一人の母親が「赤子をあの女にあたえてください」という。
大岡は、そういって譲った母親こそが真の母親だと判定するが、この話は旧約聖書「列王記上3章」に登場する話とほぼ同じである。
ところで映画「エデンの東」は、スタインベックの同名の小説の一部を借りて制作したものである。
愛らしく純真なアロンとひねくれ者のキャルという兄弟がいる。
町育ちの美しい少女アブラと仲睦まじくなっていくアロンを横目に、ジェームズ・ディーン演じる孤独なキャルは自分でも分からない何かを探し求め、深夜の街を徘徊しはじめる。
兄は優等生で何をしても父親のお気に入り。なのに弟キャルは父親に気に入られようと色々するが、すべては裏目にでて逆に父親に怒られるばかり。
キャルは、失踪した母を追っていくと、母親が港町で娼婦をしている事実を知る。そして父が自分に向けている目線こそが母親を追いつめ、母は家を出たのかもしれない、などと思う。
キャルは自分の抱える混沌をぶちまけるかのように、母親の真実を兄に伝え、純真一徹な兄は発狂し、父親もそれがもとで亡くなる。
この映画で、悪人といえるほどの人間はいないのに皆滅んでいくのは、「エデンの園」から追放されたさまよえる人間の姿なのか。
さて聖書は、兄弟間の確執の話が多いが、一番古くてよく知られた話が、「カインとアベル」の物語である。
なにしろカインとアベルはアダムとイブとの間に生まれた人類創生2代目という古さである。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
物語は、神への捧げモノが神に顧みられなかったカインが、神に受け入れられたアベルに嫉妬逆上し、殺害するという話である。人類は二代目にして殺人を犯したわけである。
アベルの捧げモノが気に入られ、カインの捧げモノが気にいられなかった理由は、聖書の記述からは読みとれない。
ただ違いをいうと、カインは地の産物を持って「供え物」としたのに対して、 アベルは群れのういごと肥えたものを「供え物」とした点である。
あるいは、エデンの園の出来事以来、地はのろわれたともある。
、 さて映画「エデンの東」は、父親に何事も受け入れられる兄と、受け入れられない弟がいて、弟は兄を結果的に死に追いやってしまう。
「エデンの東」は、この「カインとアベル」の物語を下敷きにしているといわれている。
映画のタイトル自体、カインが神の前を去って住んだ場所「エデンの東」からきている。
また、登場人物の「キャルとアロン」という名前の近似からも、それがうかがわれる。

伝説の野球アニメ「巨人の星」(原作・梶原一騎、作画・川崎のぼる)が、インド・ムンバイを舞台に、野球をクリケットに置き換えてリメイク。
「スーラジ ザ・ライジングスター」のタイトルでインドでのテレビ放映が始まった。
ローマ風呂と日本の銭湯との間のタイム・スリップも斬新なアイデアであったが、星飛雄馬のドラマをインドに移し替えるなど一体誰がどうして思いついたのかという疑問がわく。
このインド版「巨人の星」の誕生秘話を本として出された人物が、古賀義章という人。
古賀氏は、講談社100周年記念事業における社内公募によって「クーリエ・ジャポン」の創刊編集長を務め、それ以前には写真集『普賢岳写真集』『場所―オウムが棲んだ杜』などを発表するなど、企画力と実行力にあふれた人物のようである。
そんな古賀氏が、講談社・国際事業局担当部長としてインド事業に取り組む中で、今まさに成長期にあるインドが発するエネルギーと、国技「クリケット」に熱狂するインド国民の姿を見て、高度経済成長期の日本において同じように野球と「巨人の星」に熱狂した自分自身を重ねあわせることによって、この「企画」は生まれたのだという。
古賀氏は自らの肌感覚で、インド人がクリケットに対して持っている感覚は、かつての日本人が野球に対して持っていた感覚と変わらないと感じる。
そして、『巨人の星』をクリケット版にしたなら、60年代、70年代の日本のように、人々を熱中させられるはずだと着想した。
ところが古賀は、身内である講談社でさえも「そんな夢物語にはつき合えない」と誰からも相手にしてもらえず、パートナーシップを結んだ広告代理店には途中で逃げられるなどの苦渋も味わった。
それでも一人ずつ、一社ずつ賛同者を見つけ、時にはNHKと新聞をも巻き込んでニュース報道してもらうことで「既成事実」を作り上げていく。
思い浮かべるのは、業界全体を敵として病と闘いながらも、周囲を巻き込んで「沈黙の春」の出版にまでこぎつけたレイテェル・カールソンのことである。
彼らは、「勝算」よりも情熱や正義によって押し出されていた部分が優ったということである。
その気概がなければ、通らないはずの「無理」を通すなんてできないことである。
さて、日本版「巨人の星」と「スーラジ ザ・ライジングスター」との違いで興味深いところは、日本とインドにおける環境や文化の相違をどう解釈し、「移し変えるか」ということである。
例えば、「巨人の星」の代名詞ともいうべき、「ちゃぶ台返し」「大リーグボール養成ギプス」「大リーグボール」などの小道具を、インド版のクリケットという競技においてどのように当てはめていくのか、ということだ。
何しろ「ちゃぶ台返し」は“食べ物を粗末にする行為”に、「大リーグボール養成ギプス」は“拘束具”としてしかインド人には解釈してもらえなかったという。
だからといって、それらがもし描かれなければ、もはや「巨人の星」のリメイクとはいえなくなる。
結論から言えば「ちゃぶ台返し」はコップだけがのっていたテーブルをはね飛ばす「テーブル返し」に、「大リーグボール養成ギプス」はバネではなく自転車の廃チューブを使うことでクリアした。
また、インドのアニメクリエイターが毎度決まって「なぜ、そんなにギプスにこだわるんだ?」とか「そこまでテーブル返しこだわのか?」と訴えてくる。
その疑問は当然といえば当然といえるが、そこを納得させ、双方に満足のいく表現を見つけていくところに、 異文化を乗り越えて共通理解をえる醍醐味が存するのである。
その他、クリケットにおいて魔球は成り立つのか、花形満や左門豊作のキャラは、インドでどのように描かれるのか興味深い。.
しかしこれだけのことを描くにしても、日本の時代劇に歴史家による「時代考証」が必要なように、専門家の文化考証が必要なのではなかろうか。
こには一般には想像できないような、インドの文化・宗教への配慮が必要であったに違いない。
また、星飛雄馬がクリスマスパーティを主催するものの誰も来なかった、という伝説のエピードであるが、宗教上の問題からも「クリスマス」というわけにはいかないし、同調圧に弱い日本人社会の悲哀は、インド社会では理解できるものであろうか。
ちなみに、この「インド版巨人の星」の制作者・古賀義章氏は、佐賀県吉野ヶ里町出身。佐賀西高校から明治大学へと進学するが、奇しくもかつての「巨人の星・原辰徳」の父親で東海大学野球部監督の原貢氏も吉野ヶ里町生まれである。