哀切のレジェンド

朝日新聞の「折々のことば」で知られる哲学者の鷲田清一は、「その人」の名をよく覚えていたという。
雑誌「思想」に掲載された論文「フッサール現象学と相互主観性」を書いた西田厚聰(あつとし)という人の名を。
鷲田氏がよく記憶していたのは、自分の卒論が同じテーマだったからだが、鷲田氏が驚いたのは、その人が後に東芝の頂点に立ち、東芝を崩壊に導いた西田社長その人だったからだ。
2017年12月、東芝の社長・会長を務めた西田厚聰が、急性心筋梗塞のため、73歳で亡くなった。
西田社長は、異色な経歴の持ち主だった。1943年、三重県に生まれ。東大受験に失敗し、早稲田の政治経済学部に進むも、大学院は東大の法学政治学研究科にすすむ。そして、西洋政治思想史を研究した。
西田は嘱望されていた学究の道を断ち、教授には「私のことはお忘れ下さい」と書き送っている。
卒業後、西田はイランに向かった。国費留学生として東大にやってきていたイラン人女性と恋に落ち、彼女を追う格好で、テヘランに辿り着く。
ちなみに、東大のイラン人国費留学生といえば、歌手のMayJさんの母親もそうであった。
西田はイランにおいて、東京芝浦電気(現東芝)と現地法人の合弁会社に就職した。
そこで才能を見込まれ1975年5月、東芝に入社した。時に31歳。中途採用で、社長にまで昇りつめたのだから、相当な異端児である。
東芝に入った西田は、欧米の販売会社を13年間渡り歩いた。
二番になるのが大嫌いな性格のため、パソコン事業を興し、世界初のノートパソコン「ダイナブック」を欧米で売りまくった。
“お公家集団”と揶揄された東芝では、西田のアクと押しの強さは際立った。それゆえ逆に重宝され、「パソコンの西田」の異名をとった。
テヘランからやってきたその男は、2005年6月に社長にまで昇りつめた。
西田体制下の4年間で、東芝セラミックス、東芝EMI、東芝不動産、銀座東芝ビルなどを次々と売却する。
その一方で、西田は06年2月の米原子力プラント大手、ウェスティングハウス・エレクトリック(WH)のアメリカの原子力発電の巨人・ウェルチング・ハウス(WH)社の株の77パーセントを54億ドル(当時の為替レートで約6600億円)で買収した。
WHの価値は、普通には2000億円で、積んでも3000億円だというから、東芝は相場の3倍を提示してライバルを振り落としたことになる。
原発は温暖化を招かない「クリーンなエネルギー」として見直されつつあったために、西田のこの買収劇は、「快挙」として讃えられた。
さらに重電系のアナリストは、2030年までに世界で150基が新設され、市場規模は30兆円に達するというバラ色の「原発市場予測」さえ出した。
電機大手のデジタル分野での競争力低下に頭を悩ませ経済産業省は、「原発輸出」の旗振りをし始めた。
そして東芝は、原発は世界首位に、半導体は国内首位で世界3位となった。
この時期が西田の絶頂期ではあったが、2つの事業いずれも特有のリスクがあったのである。
半導体は価格と需要の変動が激しく、2008年秋のリーマン・ショック後の需要急減で価格が70%も下落し、東芝の半導体事業は赤字に転落した。
西田は会長に退いたが、辞任会見で「引責辞任」とは口が裂けても言わなかった。
指名委員会は西田の後任社長に佐々木則夫を指名した。佐々木は原子力畑を歩き、原子力発電事業のエキスパートで、WH買収の立役者でもあった。
しかし次第に、東芝には過ぎ去りし栄光しかないWHという企業に6600億円を価値があったのかという疑問が渦巻いていった。
つまり、明らかに過大評価したWHの買収で、東芝のバランスシートはいたんでいたからだ。
折しも2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故起きた。
それでも佐々木は強気だった。
東芝は多くの原発技術者をかかえていたために、絶体絶命の危機を救う「救世主」のように期待されていたからだが、世界の原発建設計画のほとんどが中止または凍結されることになった。
後に、西田・佐々木は、不正会計問題を端緒とした東芝経営問題の責任を問われるが、西田の答えは意外とあっさりしたものだった。
「事故が起きなくても原子力事業は同じような問題が起きたんじゃないでしょうか。先延ばしされただけじゃないかな。すべては経営の問題だから」と。
具体的にいうと、普通一般の会社ならば、3500億円の「のれん代」を回収できる見込みのなくなったこの時点で、「減損処理」をするはずである。
佐々木社長は、現実には新規の受注は止まってしまったというのにWHは原子炉のメンテナンスと燃料供給が主な供給源だから、新規の原子炉建設が少しぐらい遅延しても減損にはならない、と相変わらず強気の姿勢をくずさなかった。
そして不自然なバランスシートは、誰の目にも届かなかった。
2013年2月に行われた社長交代の会見は異様なものだった。
西田会長は社長の条件として様々な事業部門を経験していることと、グローバルな経験を持っていることを挙げ、原子力畑一筋で、海外経験が少ない佐々木社長について、東芝全体を見られるのかと公然と批判したのだ。
これに対し佐々木は、業績を回復し、成長軌道に乗せる役割は果たしている。ちゃんと数字を出しているのに、赤字経営で引責辞任した西田に文句を言われる筋合いはないと反論した。
つまり、当時の会長と社長が互いを批判し合う異常事態に陥ったのである。
結局、指名委員会は、田中久雄を後継社長に指名した。田中は西田のパソコン事業の資材調達を担ってきた裏方だった。
ノートパソコンの絆で西田が田中を引き上げたといえるが、西田が実権を握る指名委員会は、もうひとつの重要な首脳人事を決定した。
常任顧問の室町正志を取締役に復帰させた。室町は2012年まで東芝の副社長を務めていたが、一度退任したOBが取締役に復帰するのは初めてだった。
室町は半導体部門のエキスパートで、やはり西田が社長だった当時の右腕だった。
2014年、西田は会長を退任したが、代わって室町が会長に就任し、15年に会長と社長を兼務し、西田の人脈で固める政権構想が成就したといえる。
しかし、この構想はすぐに暗転した。不正会計が発覚し、佐々木、田中と共に西田も引責辞任した。
西田・佐々木・田中の3人は派閥抗争に血道をあげ、現在では「東芝をダメにした三悪人」と呼ばれている。
一周遅れてレースに参戦した西田は、それをバネにしてがむしゃらに働き、次々と前を走るランナー達を追い越していった。
能力の高さはもちろんのこと、西田には他を圧倒する気力があったことがうかがえる。
その意味で西田は、よくも悪くも、「昭和」という時代の臭いのする成り上がり人生を見事に体現した人物だったともいえよう。

1978年2月に発覚した日米・戦闘機売買に関する汚職事件ダグラス・グラマン事件で、国会の証人喚問に立った宣誓の署名において、その人の手が震えてなかなか署名できなかった人物。
その人、海部八郎はライバル商社の間にまでも、その才能は響き渡っていたが、意外にも東芝の西田厚聰と同様に学究肌の人だった。
父は、元は師範学校の英語教師で、その後、浅野物産の幹部になり、高給取りだったため海部の家庭の生活水準はかなり高かった。
神戸大学時代のゼミの恩師は、「海部は非常な読書家で読むのが実に早く、よく勉強している点では学年で一番、もちろん成績も一番。本人が希望すれば大学に残そうと思っていた」と証言している。
海部は、神戸大学(元神戸経済大学)を首席で卒業した後、日商岩井(当時は日商)に就職した。
米国日商の駐在員となって、平均睡眠時間3時間の猛烈な仕事ぶりで船舶輸出の実績を上げる。
そして、自衛隊が設立された後の戦闘機の輸入や旅客機の輸入で大きく商権が広がった総合商社の主戦場、航空機取引に転じ、わずか40歳にして取締役東京航空機部長に就任し、伊藤忠商事の瀬島龍三らとしのぎを削った。
ボーイングの航空機ビジネス、船舶ビジネスでは、財閥系商社からも恐れられる存在であった。
ただ海部は強面の風貌とは反して、若手の意見を聞き、部長の段階で滞っている案件があれば海部に陳情すると、すぐにその部長は怒鳴りつけられ、翌日には決裁が下りたという。
海部の型破りなスタイルに、機械部門の若手社員の多くが心酔し、ダブルのスーツを着て、社内を肩で風を切って歩き、自らを「海部軍団」と呼んだという。
ところで商社マンとは、一体どんな存在なのだろう。国内で安穏と生活我々にはその実態を掴みがたい面がある。
例えば華僑やユダヤ商人、アラブ商人、世界の海千山千の商売人と競いつつ、現地の有力者との駆け引きで、日本の国益を分捕ってくる者達。これでも、その過酷さは表すのに十分ではないかもしれない。
その実態を幾分知ったのは、個人的には1980年にNHKで放映された山崎勉。夏目雅子主演のテレビ・ドラマ”ザ・商社”であった。
このドラマは、松本清朝の「空の城」(くうのしろ)をテレビドラマ化したものであった。
さて、飛ぶ鳥を落とす勢いの海部の前に暗雲が立ちこめたのが前述のダグラス・グラマン事件である。
日米の政争のあおりを食らい、1979年にダグラス・グラマン事件で外為法違反、偽証罪の容疑で逮捕され、日商岩井副社長を辞任することになる。
ただし、取締役の地位には、役員任期満了まで留まり続けた。
ダグラス・グラマン事件で、海部の隠れ家のマンションに捜査の手が及んだ時、踏み込んだ捜査員が見たものは部屋一杯に敷き詰められた鉄道模型だった。
捜査員達は、絨毯のうえを模型機関車が走り回り、BGMとして部屋にあった童謡のメロディが流れる場面を容易に想像することができたであろう。
海部は、1980年に日商岩井を退任後も、複数の会社社長を歴任し、1994年に70歳で逝去する。

2018年10月16日のニュースで知った、「地面師」らの積水ハウスからの55億円詐欺は、我らをバブルの時代に引き戻した感がある。
昨年、バブル時代の実話をリアルに書きつづった「住友銀行秘史」(講談社)により、戦後最大級の経済事件と言われた「イトマン事件」が再注目を浴びた。
著者は元・住友銀行幹部の国重惇史という人。
この事件が発覚したキッカケは、大蔵省の土田正顕銀行局長あてに送られた告発文だった。
その内容は、「イトマンが抱える不動産案件の多くが固定化し、すでに金繰りが急速に悪化しており、このままいけばイトマンの経営のみならず、メインバンクである住友銀行への影響も避けられない」というものだった。
差出人は、「イトマン従業員一同」とあったが、実はこの告発文の送り主は國重惇本人だった。
その人物が書いた「住友銀行秘史」だけに、事件の真相に迫るものであった。
「イトマン事件」とは、大阪市にあった日本の総合商社・伊藤萬株式会社(後にイトマンと社名変更)をめぐって発生した戦後最大の不正経理事件である。
当事、繊維系の中堅商社だったイトマンは繊維不況で業績が悪化しており、メインバンクの住友銀行から常務の河村良彦を社長として迎えた。
繊維だけでは業績回復は難しいと考えた河村社長は、スイミングスクールや玩具の自販機事業、居酒屋のフランチャイズなど多角的な経営に乗り出した。
しかし、失敗する事業も多く、河村は起死回生の一手として不動産事業の拡大に舵を切った。
イトマンが不動産事業に力を入れているという情報を嗅ぎつけ、急速に磯田と河村に接近してきたのが伊藤寿永光である。
当時の住友銀行会長は磯田一郎。元ラグビー日本代表選手で「向う傷を恐れぬな」と激をとばし、社員からは「天皇」とまでよばれていた。
そんな磯田会長の落とし穴となったのは、伊藤寿永光という好男子風の男を家にまでやすやす招き入れた点である。
伊藤はいつも笑顔で如才なくふるまったが、磯田会長と知り合ったのは、「地上げの実績」であった。
それは磯田会長が、山口組の若頭と親しくした結果であり、伊藤は「ヤミ社会」と接点をもつ人物であった。
伊藤は毎朝、磯田家に通い得意の料理をふるまい、磯田家の人々と朝食をとるまでになる。
磯田にとって、伊藤が自分の息子であるかのような可愛い存在に見えてくる。そして伊藤を住友銀行の関連会社イトマンの常務に据える。
磯田からすれば、腹心であるイトマンの河村社長の下に、可愛がっている伊藤を常務としておけば、イトマンのコントロールは磐石となるという腹づもりだったのかもしれない。
ところで磯田のひとり娘は東京プリンスホテルで画廊を開いていた。しかし娘の画廊経営は、付け焼刃のようなもので、うまくいくはずもなかった。
そこで、なんとか娘を成功させたいと思うあまり、磯田は娘のことを伊藤に頼んだのである。
海千山千の男と、世間知らずのお嬢様の関係がどのようなものであったか、容易に推察できる。
それ以上にこの話は、伊藤にとって願ったりかなったりの儲け話であった。
絵画の取引を材料に、いくらでもイトマンのカネを引き出せる口実ができたからである。
当時の伊藤は雅叙園観光の仕手戦に失敗して資金繰りに窮しており、イトマンを介して住友銀行から多額の融資を受けて、その多くを焦げ付きの穴埋めに流用したのである。
伊藤はこの頃、雅叙園観光の債権者で大物政治家や暴力団組長と関係のある人物らを河村社長に引き合わせている。
伊藤は彼らと見せかけだけのゴルフ場開発や計画性のない地上げにイトマンの資金を投入させ、自身の関連会社を経由して巨額の利益を得ていた。
そしてその伊藤のもとに、いろいろな絵や不動産を持ち込んだのが、以前からつきあいのあった許永中である。
許は河村に資金繰りを安定させるために効果があると美術品や貴金属への投資を持ちかけ、自分が所有する美術品を総額676億円で買い取らせた。
これらの美術品には偽造された鑑定評価書が付けられており、市価の2~3倍の値段が付けられていたのである。
伊藤と許は、それらを担保に巨額の融資を引き出す。
イトマンの決裁権は社長の河村にあったはずが、いつのまにか実権は常務の伊藤が握り、許と共にやりたい放題でイトマンを喰いつくすのである。
1991年元日に朝日新聞が絵画取引の不正疑惑をスクープし、同年7月に大阪地検特捜部が伊藤、許、河村を含む6人を特別背任などの容疑で逮捕した。
そして2005年に実刑が確定している。
裏社会の人間とメガバンクのエリート行員という組み合わせは、一見不釣り合いに見える。
住友銀行の天皇と称された磯田と、その腹心である河村による絶対的なワンマン体制が、保身を優先させる行員を黙らせ、ヤミ社会がつけ入り込むスキを生んだといえようか。
ここで紹介した西田厚聰は「ミスター原発」、海部八郎は「ミスター商社」、磯田一郎は「ミスター銀行」といえるほど光彩を放った。
とはいえ彼らの起こした不祥事は、昭和を体現した彼らの時代が過ぎ去ったことを意味する。
ただ彼らを、単に「レジェンド」とよぶには、哀切の念の方が優っている。