逃げない脱獄囚

「サウダージ」という言葉は、ポップミュージッックの定番曲として馴染みがあるが、その意味はポルトガル語で「望郷」あるいは「思慕」である。
ポルノグラフィティの二人組は広島県因島出身で、広島は歴史的にブラジルと交流が深く、特に因島に近い呉市は今でも在日ブラジル人の非常に多い。
ポルトガル語を使ったのは、故郷への思いに絡めて、異国の人への憧れがあったからかもしれない。
最近、この因島に近い向島に注目が集まった。
一人の脱獄犯が逃走をはかったためだが、彼は空き家に隠れ続けつつ、泳いで広島市内にわたりついには逮捕された。
彼の脱獄の動機に多少でも「サウダージ」的要素があれば、ぴったりの舞台ではあったが、その動機は刑務官の扱いに耐えきれなかったからだという。
刑期終了も近いのでもう少し我慢できなかったのかと思う一方、警官とマスコミが取り巻く中、小さな島で逃走を続けた心折れることなき逃走劇は、驚嘆に値するといいたいところだ。
実は、この脱獄囚もともと逃げるのは得意であったようだ。121件の窃盗を繰り返し5年前に福岡で逮捕される前も、警察の手を逃れるために、ひと月ほど山の中などを逃げ回っていたのだという。
さて、刑務所での虐待に抗して脱獄をした青年を描いたものに、「ショーシャンクの空に」という映画がある。
若くして銀行の副頭取を務めるアンディは、妻の交際していた相手を射殺したという「冤罪」でショーシャンク刑務所に収容される。
しかし、その不思議な魅力と銀行家としての手腕を生かして次第に周囲を変えていく。
そして親子ぐらい年は違うものの、無二の友となるレッドと出会う。
アンディは、金融の知識をいかして 「スティーブンス」という架空の人物を作り上げ、虐待を重ねる所長のマネーロンダリングまで行うようになっていく。
そんな中、入所してきた窃盗犯のトミーに アンディは勉強を教えることになる。
高卒資格を取るまでに成長したトミーだが、アンディの「冤罪」の真相を知っていることが分かると、刑務官らに殺されてしまう。
なんと、アンディに不正貯蓄を行わせていた所長が、アンディが刑務所から出られては困るという理由からであった。
それから1ヶ月後、アンディは突然脱獄をはかる。房内に貼られたポスターの裏側にロックハンマーで穴を掘り続け、彼は嵐の夜20年目にしてついに脱獄した。その前に、仮出所がせまるレッドとの再会を誓う。
脱獄したアンディは、架空の人物「スティーブンス」になりすまし、不正処理していた所長のお金を引き出すと同時に、不正を行った所長らを告発する。
新たな名前と多額の財産を手に入れメキシコへと逃亡し所長への復讐を果たすアンディの姿に、してやったりの痛快さがある。
その後、友人レッドに仮出所が認められ、アンディが待つ約束の地へ向かい、再会を果たした2人は互いの友情を確かめ合うラストは感動的であった。
ところでこの物語で、収容所長はアンディの「冤罪」を知ることになるのだが、それはアンディーの妻の交際相手の殺害について真相を知る人物が入所してきたためである。
彼は別の刑務所でアンディーの妻を殺害したという男の話を聞いたと証言したのである。
そこで、アンディーは「無実」を看守に取り合ってもらおうとするが、前述の理由で無視されついに脱獄を敢行するに至る。
この「ショーシャンクの空で」はフィクションであるが、この映画を見て日本のある冤罪事件を思い起こした。
1949年8月6日の夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の夫人(当時30歳)が刃物で殺害された。 警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕が途切れた所に住んでいた男性、当時25歳を逮捕した。
男性はアリバイがあるとして容疑を否認したが、着ていた開襟シャツに付着していた血痕などを証拠としてこの男性を起訴した。
そして1953年に最高裁懲役15年の刑が確定した。
ところがこの事件は大きく展開する。
三島由紀夫割腹の衝撃的ニュ-スが広がっていたある日のこと、別の刑務所で、受刑者達の「犯罪自慢」が行われていた。
その中で弘前大学教授夫人の殺害は自分がやったという者があらわれたのだ。
軽犯罪では他の受刑者になめられると思ってつい口が滑ったのかもしれない。
それを聞いていた受刑者が出所後に新聞社に「事件の真相」を通報したのだ。
そして真犯人は時効が来る時を確認の上、自分が「真犯人」であることを告白したのである。
1976年に再審が開始され、証拠となった血痕は人為的捏造の可能性が高いと裁判所は判断した。1977年2月15日、発生から28年後、男性にようやく無罪判決が言い渡された。
男性は年老いた母親や支援者のもとで無罪を勝ち得ることができたと感謝の意を表した。
「幸福でなくてもいい。普通の人生を歩みたかった」という言葉が印象に残った。

「セキュリティ破り」とはコンピュータの世界で、セキュリティの欠陥をついてデータを盗みとるようなケースをさす。
ただ実行者がデータを使用することではなく、ただセキュリティの欠陥を当事者に知らしめるのが目的というのなら、この人の行為は犯罪というよりも、「セキュリティの穴」を見つけたという点で、相手方の安全に寄与したということもいえる。
「フェイス・ブック」のマーク・ザッカーバーグを主人公とした映画が「ソーシアル・ネットワーク」である。
彼はハーバード大学運営理事会によって、コンピュータのセキュリティを破りインターネット上のプライバシーや知的財産の規約に違反したとして処罰されたことがあった。
映画の主人公は、自由で公然とした情報の利用を可能にすべきと考えていたことを主張したうえで、主人公は自分は罪をおかしたのではなく、「セキュリティの穴」を見つけたのだから、むしろ感謝されてしかるべきだと主張する場面があった。
実際、理事会側からの訴訟は公的には行われず、その後ザッカーバーグはSNAサイト「フェイスブック」を立ち上げるとともに大学を休学し、その1年後に中退している。
さて、因島の脱獄囚とザッカーバークのセキュリティ破りとを合わせたようなソ連からの亡命者があったのを思い出した。
亡命者は空軍での生活の劣悪さに耐えきれなかったという単純な動機で領空侵犯を行ったのだが、日本の国防上の「穴」を知らしめると同時に、日本の役所の問題点までも浮き彫りにした出来事であった。
1976年、ソ連防空軍所属のミグ25戦闘機数機が、ソ連極東のウラジオストク近くにあるチェグエフカ空軍基地から訓練目的で離陸した。
そのうちの一機が演習空域に向かう途中、突如コースを外れた。
これを日本のレーダーが13時10分頃にトラエ、「領空侵犯」の恐れがありとして、急遽航空自衛隊千歳基地のF4EJ機が「スクランブル」発進した。
北海道の函館空港に接近し、市街上空を3度旋回したあと13時50分頃に滑走路に強行着陸した。
パイロットは「抵抗の意思」のないことを明らかにするため、空にむけて空砲を一発うった。
そして警察が到着すると共に函館空港周辺は、北海道警察によって完全封鎖された。
北海道警察の取り調によれば、ミグ25戦闘機にのっていたのは、ヴィクトル・ベレンコ空軍中尉で、この時、残りの燃料はほとんどなくなっていた。
べレンコ中尉はアメリカへの亡命を希望していることを語り、その後、希望通りアメリカに亡命した。
ベレンコの亡命理由については、「待遇の悪さと、それに伴う妻との不和による衝動的なもの」という説が有力である。
ところで、このミグ戦闘機侵入という突発事態は、日本という国がもつ様々な問題を国民に突きつけることになった。
その第一の問題は、日本の「防空網」の脆弱さである。航空自衛隊は地上のレーダーと空中のF4EJ機の双方で日本へ向かってくるミグ25機を捜索した。
しかし、地上のレーダーサイトのレーダーはミグ25機が低空飛行に移ると「探知」することができず、またF4EJ機のレーダーは「ルックダウン能力」つまり「上空から低空目標を探す能力」が低いことが判明した。
そのため、ミグ25戦闘機は航空自衛隊から発見されないまま、やすやすと侵入できたのである。
この事件ではパイロットが「亡命目的」での侵入であったことが幸いしたが、「攻撃目的」であったらならば重大な事態を引きおこす危険性が露呈したのだ。
このため、日本のレーダー網や防衛能力が「必要最低限」にすら達していないという批判がなされた。
この事件を契機に、それまでは予算が認められなかった「早期警戒機」E2C機の購入がなされている。
第二の問題は、日本の自衛隊と警察の間で管轄権の違いによる「縦割り行政」の行き過ぎが明らかなった。
ミグ戦闘機の侵入事件の際には、「領空侵犯」は軍事に関わる事項であるが、空港に着陸した場合は警察の管轄に移行することになっている。
警察によって封鎖された空港現場から、その「管轄権」を盾に陸上自衛隊員は締め出されたのでる。
しかし非常事態に際してそんな管轄権を問題にしている場合ではなく、協力体制の構築の方が必要ではないのかということである。
第三に、この事件については明白な「情報隠し」があり、役所の隠蔽体質を明らかにしたことである。
事件終結後、日本政府は対処に当たった陸上自衛隊に対して、同事件に関する記録を全て破棄するよう指示した点で、当時の陸上幕僚長は自らの辞意をもって抗議したという。
一方、ミグ25戦闘機侵入事件では、日本国内ばかりではなくソ連国内においても、様々な波紋を投げかけたようだ。
当事件の調査のためチュグエフカ空軍基地を訪れた委員会は、現地の「生活条件」の劣悪さに驚愕し、直ちに五階階建ての官舎、学校、幼稚園などを建設することが決定された。
この事件は、極東地域を始めとする国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの「待遇改善」の契機ともなったのである。

因島の脱獄事件のニュースを聞いて、白鳥由栄(しらとりよしえ)という人物を思い起こした。この人物は、「脱獄」が逃走することに結びつかない点で、因島の脱獄囚とはモノが違った。
それは、「逃げない脱獄」という意味で「破獄」。コンピュータの世界の「セキュリティ破り」に近いものがあった。ただし外側から破るでではなく内側から破る。
白鳥は刑務所側の万全と思われる「セキュリティ」を打ち破り、脱獄を繰り返すことによって、結果的に、所内での人権意識のアップに貢献したともいえる。
作家・吉村昭は小説「破獄」で、白鳥をモデルに佐久間清太郎という脱獄囚について描いている。
戦中の日本の食糧事情の悪化は刑務所にも影響し、人不足は看守の質の低下を招いていた。
冬期の厳しい寒さは凍傷によって体調を崩した囚人が大勢おり、時として非人道的な扱いを受けていたのである。
そして白鳥は1936年から11年間に4度の脱獄を成功してみせたのである。
白鳥は超人的な体力はいうにおよばず、緻密な頭脳とを併せ持ち、その脱獄の手口は大胆且つ繊細であった。
3度めに収容された網走刑務所は、究極のセキュリティをもっており、建物の造りも堅牢で過去に一度も脱獄の例もなかったのである。
再逮捕され収監されるやベーブルースの「ホームラン」予告のごとく「脱獄宣言」を行いそして実行したのである。
白鳥は新たに刑務所に入るや、脱獄に必要な体力を養うことを欠かさなかった。
手足の強靭な筋力を使って壁を4本の手足で壁を圧しながら10メートル上の天井の窓まで到達できたのである。
また脱獄するためのアイデアも想像力に溢れており緻密だった。
また刑務所側をアザ笑うかのように、はずした手錠をきちんと廊下に並べ看守達を驚愕させた。
風呂の熱ででフヤケた手に、錠をおしつけて型をとるなどして手錠の「合い鍵」を作る。
なんといっても圧巻は、味噌汁を毎日手錠に吹きかけ腐らせていった点である。
さらに貧乏ゆすりのフリをして、膝に挟んだ食器の破片で毎日床板を切り取ったり床下からトンネルを掘り脱獄した。
ただ、この白鳥も刑務所脱獄後には意外とあっさりと捕まった。逃走というものには関心はなく、「破獄」といったほうが適切であろう。
また脱獄でもされたら、刑務官の昇進やその家族の生活にまでひびいてくるのである。
そして、身体を鎖でつながれた網走刑務所の脱獄後には、熊に喰われたのではないかという噂もたった。
こんな寒いところで身体を隠しても食糧はなかなか手が入らないし、「三食保証」つきの刑務所の方がよほど楽であったのか簡単につかまっている。
殺人を犯した白鳥という男に人権意識といったものがあったのか定かではないが、とにかく自分を人間として扱わない刑務所に対して「脱獄」という形でストライキしているかのようでもあった。
小説「破獄」には、次のような場面が描かれている。
白鳥は布団をか頭からかぶって寝るのを常としていたが、看守が規則を守らぬ白鳥に苛立ち頭を出すように注意すると、子供の頃からの癖だから大目に見てくださいという。
さらに看守が声を荒げて規則厳守を要求すると「そんな非人情なあつかいをしていいんですか。痛い目にあいますよ。あんたの当直日に逃げられると困るんじゃないですか」という。そのうち看守が根負けするのである。
さて秋田刑務所脱獄後、白鳥は2週間ぐらいして知り合いの東京の戒護主任のもとに自首してきている。
検事が、なぜ戒護主任のもとに自首してきたのかと問うと、白鳥は「主任さんは、私を人間扱いしてくれましたから」と答えている。
また、秋田刑務所破獄の動機については、看守は横暴で囚人を人間扱いしないので、処遇の改善を司法省に訴えるため破獄し、上京したという。
さらに、最も酷いあつかいをする看守の当直の夜をわざと選んで破獄したとも言った。
4度の脱獄を成功させた白鳥を、戦後に近代的な刑務所設備を備えた東京の府中刑務所が迎え入れた。
ここで白鳥に脱出されては、府中刑務所の面目丸つぶれとなり、その存在意義さえ疑われるのだから超厳戒態勢であたった。
施設の特別強化もはかられたが、人間とは思えぬ白鳥の能力を前にして、当時の府中刑務所・所長は「大英断」をくだした。
厳戒態勢を敷くのをやめて、白鳥に対してきわめて人間的な扱いをほどこしたのである。
一般の囚人の中にいれ作業も一緒にさせた。
すると、脱獄の機会としてははるかに可能性が増したにもかかわらず、待遇改善後には白鳥は脱獄の兆しすらみせなかったという。
白鳥は1961年52歳で仮出獄し刑期満了後、1979年に71歳で亡くなっている。
白鳥がこの世にあって最も情熱をたぎらせたのは「破獄」であり脱獄ではなかった。
そして網走刑務所の歴史の中で、白鳥由栄の名前は、もっとも不名誉な記録として刻まれている。

白鳥という男に、人権意識といったものがあったのかどうか知らないが、とにかく自分を人間として扱わない刑務所に対して「脱獄」という形でストライキしているのである。
しかし脱獄はしても、逃げおおせるというのは白鳥といえどもなかなか難しかった。
網走刑務所脱獄後は、熊に喰われたのではないか、という噂もたった。身を隠しても食糧はなかなか手が入らないし、三食保障つきの刑務所の方がその点では楽であった。
秋田刑務所脱獄後は、2週間ぐらいして知り合いの東京の小菅刑務所の戒護主任のもとに自首してきている。検事が、なぜ戒護主任のもとに自首してきたのかと問うと、白鳥は「主任さんは、私を人間扱いしてくれましたから」と答えている。
さらに秋田刑務所破獄の動機については、看守は横暴で囚人を人間扱いしないので、処遇の改善を司法省に訴えるため破獄し、上京したという。最も酷いあつかいをする看守を窮地におとしいれようとして、その看守の当直の夜を選んで破獄したのだ、とも言った。
4度の脱獄を成功させた白鳥を、戦後、近代的な刑務所設備を備えた府中刑務所が迎え入れた。この白鳥の受け入れについて刑務所は超厳戒態勢であたったといってよい。また脱獄でもされたら、刑務官の昇進やその家族の生活にまでひびいてくるのである。施設の特別強化もはかられていったが、人間とは思えない白鳥の能力を前にして脱獄の不安は消えず、当時の府中刑務所・所長は大英断をくだした。
厳戒態勢を敷くのをやめて、白鳥に対してきわめて人間的な扱い方をほどこしたのである。
一般の囚人の中にいれ作業も一緒にさせた。機会としてははるかに脱獄の可能性が増したにもかかわらず、待遇改善後の白鳥は脱獄の兆しすらみせなかったのである。
白鳥は1961年52歳で仮出獄し刑期満了後、1979年、71歳で亡くなっている。
内部から湧き出る反抗のエネルギ-の凄まじさを感じさせる白鳥のことであるからなどと考えようとしたが、やめた。
なぜなら、ハ-ドルの高い脱獄にはこの男を刺激するえもいわれぬ魅力が潜んでいたかもしれないし、白鳥は「破獄」に最も情熱をたぎらせる男だったのかも知れない、とも思った。