「鳥獣人」戯画

2018年、平昌オリンピックで、金メダルをとった羽生選手は、「陰陽師(おんみょうし)」をテーマに踊った。
「陰陽師」といえば、古代中国の「陰陽五行説」を用いて吉凶を占った人で、古くは安倍晴明が有名である。
京の朝廷には「陰陽寮」という陰陽道を統括する役所があり、そこの長官は明治維新まで晴明の子孫である「土御門(つちみかど)家」が務めた。
この土御門家を頂点にして、江戸時代には全国各地に「陰陽師」がいたことが知られている。
ところで、東京・築地の場外市場には、何軒かの老舗「玉子焼屋」がある。中でも「山勇」と「丸武」が有名店である。
ちなみに、フリー・アナウンサーの山岸舞彩の実家が「山勇」、テリー伊藤の実家が「丸武」で、両店はわずか100メートル程度しか離れていない。
そんなテリー伊藤のご先祖は千葉県山武郡横芝光町の出身だという。
横芝光町の伊藤家といえば、小説「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫が有名である。
数年前のNHKの「ファミリー・ストーリー」で、番組の取材班はテリー伊藤の母親の実家がある南房総市の「鳥海(とりうみ)家」に向かった。
村人から「ねぎとん」という屋号で通っていた伊藤家の祖先をさぐるため、神棚の奥の開かずの扉を開くと、そこから約250年前の古文書が出てきた。
そこには「陰陽家」を意味する言葉である「ねぎ(禰宜)」という文字と書かれていた。
つまり、テリー伊藤の母親の実家「鳥海家」も土御門家から認可を受けた「陰陽師」であったのだ。
実は、千葉県・房総という地は、中臣氏とともに天皇家の祭祀をつかさどった「忌部氏」と深い関わりをもっている。
房総の中心的な町といえば、戦国期の「里見八犬伝」の舞台である館山(たてやま)だが、 この地には古代に遡ると面白い事実がある。
記紀によれば、縄文時代の終わりごろ「忌部」(いんべ)氏が現在の徳島県(阿波)から海を渡って館山に辿り着いたと記されている。
そういうわけで、「阿波」(徳島)と「安房」(南房総)の地名のよみ「あわ」と共通しているのだ。
忌部氏は上陸した館山を本拠地としてここから北上したため、南ほど都に近く、北に行くほど都から遠ざかることになる。
「上総」が南に「下総」が北にあるという、地図のうえでは上下が「逆さま」になったわけである。
そして館山周辺の多くの神社には、安房神社、洲崎神社、下立松原神社など「忌部氏」の神々が祀られている。
ちなみに、この忌部氏が流れ着いた地点が館山市の「布良(めら)海岸」で、この風景こそ青木繁が「海の幸」という名画を描いた場所なのだ。
とこで、忌部氏がなぜこの辺りまで北上したかが大きな謎だが、その一つの理由と考えられるのが「大麻(おおあさ)」である。
実は、神道においては大麻は罪穢れを祓うものとされている。それは、強い生命力は魂の象徴であり、神の「依り代」と見られていた。
エジプトのミイラを包んだのも麻、またイエス・キリストの遺体を覆った「聖骸布」も天然素材の麻であることが聖書に記されている。
そして、神道における大麻の使用は、聖域を囲む結界のための麻紐であったり、注連縄や神殿に吊るしてある鈴の縄として、現在も使用されている。
忌部氏は、祭祀職としてこうした「御弊」をつくるために、麻の生産に携わり、阿波徳島や房総の地を拠点にしたのであろう。
そのため、下総や上総の「総」は、もともと麻の「房」(ふさ)を意味するものであったと推測される。
神道では「清浄」を重視しており、大麻は穢れを拭い去る力を持つ繊維とされ、1948年にアメリカの占領政策によって大麻取締法が制定されるまでは、日本では大麻(おおあさ)の成分を抽出した薬が漢方薬として市販されていたので、現代とは隔世の感がある。
しかし、忌部氏が大麻を求めたとしても、どうしてわざわざ黒潮に乗って東国にいく必要があったのだろうか。それほど遠くにいかなくとも、例えば阿波徳島などもっと近くにも良質の麻が育つはずである。
その理由は、麻の用途は、注連縄など聖域を作るだけのためではなかったのである。
実は、忌部氏は実は「天語連」(シャーマン)として古代朝廷に仕えたのである。
忌部氏が阿波徳島の大麻ではなく、安房(千葉南房総)の大麻を求めた理由は、彼らが単なる繊維としての大麻を求めたのではなく、シャーマンとしてより「幻覚性」の強い大麻を求めたことが考えられる。
というのも、西日本の麻は幻覚作用が弱く、東日本の麻はそれが強いからである。
「忌部」氏の祖先をさらに遡ると、北方ユーラシアあたりのシャーマン文化との関わりが推測される。そして、シャーマン文化は「鳥」と関わりが深い。
テリー伊藤の実家「鳥海家」を思い出していただきたい。実は、中央アジアの草原の路が幻覚剤大麻を用いたシャーマン文化があったのである。
シャーマンは、弦楽器を奏で、夢幻の中に神の声を聞き、「託宣」として語った。神憑り状態になったシャーマンは、祖霊や死霊の存在する異次元の世界、あるいは天上の神の世界を語る。
シャーマンにとって、様々な動物は、死者の魂の容器、または神々の顕現と考えられていたため、動物の言葉を習い、その声をまねすることは、あの世や天上界と交通し得る能力に等しいとみなされた。
特に、鳥の言葉は通常、蛇や呪的動物と見做されている動物を食べることによって習得され、鳥の言葉を習得をすることは自然の秘密を知り、予言をすることができるとされていたのだ。
そこで、シャーマンは鳥を象った衣裳とその呪術的飛翔の儀式を行い、"鳥そのもの"になる。
鳥を媒介にして、鳥海家と忌部氏との関係が想定され、さらにはそのシャーマニズムの特徴によって、中央アジアのシャーマニズムとの関係が推測されるのである。

人間と動物の「戯画(漫画)的風景」といえば、5代将軍・徳川綱吉の「生類あわれみの令」を思い浮かべる。それに負けず劣らぬ戯画的風景がある。
1728年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清(中国)の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。
国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを買えるのは、幕府や大名に限られていた。
そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って「御用伺い」をした。
幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、「発注し」取り寄せていたという。
メス・ゾウは上陸地の長崎で死亡したが、オス・ゾウは長崎から江戸に向かい、途中の京都では、中御門天皇(なかみかど)の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が「無位無官」であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。
この象の「発注」主は徳川吉宗で、とにかく新し物好きで海外の産物に溢れんばかりの好奇心を示した人物であった。
サトウキビの栽培を試みたり、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励するなどしている。
また酪農も推奨し、珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。
とはいっても「生きた象」が日本に渡来したのはこの時が初めてではなく、5回目であったという。
ただ、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたという点で、従来の場合とは異なるところである。
歴史にのこる最初は、1408年で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着した。孔雀2対などと共にインドゾウが献上されたとある。
吉宗が招いた象も1730年6月には早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、「浜御殿」で飼われたという。
もちろん、相当な飼育費がかかったと推測されるが、1741年4月、江戸中野村の源助に下げ渡され、見世物になった。
翌年暴れまわって騒ぎを起こすなどしたこともあり、この年の末には21歳の波乱の「ゾウ生」を閉じた。
「官位」までも頂き天皇謁見の栄誉に与った象ではあったが、末路は寂しいものだった。
ただ象がやって来たのが江戸の大衆文化の勃興期にあたり、歴史上これほど多くの人々の目にさらされた点で、この象の上に出るものはいなかった。
中国からやってきたこの象は、様々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野にも題材を提供し旋風を巻き起こし「レジェンド」ともなった。

現代において、一般に動物の捕獲される場面を目にすることはほとんどない。
「人魚伝説」の元となった沖縄の海に棲むジュゴンだが、その肉は牛肉以上といわれるほど美味らしい。
そのジュゴンの掴まえ方というのがすごいらしい。
まずは海の中でダイナマイトを爆破させジュゴンを気絶させる。
さっそく人間が海にもぐりジュゴンに抱きつき、いちはやく二つ鼻の穴に栓をして窒息死させる。
さて、近年日本のイルカの「伝統的な漁法」が、国際的な批判がなされた。
その漁法、まずは「船班」が、湾内を自由に泳いでいた群れをゆっくりと岸へ追い立てながら、網を狭めていくなかで、水深も数十センチほどになり、勢い余って岸に乗り上げてくるイルカもいる。
次にウエットスーツ姿の「海班」が浅瀬に上がってきたイルカの尾びれにロープをかけ、このロープを受け取った「陸班」は、岸に張った長い網につなぎイルカの動きを抑える。
イルカの尾びれの力はとても強力で、作業を危険なものにする。おとなしいフリをして、突然大暴れすることも多い。
そこで、動きの少ない間合いを見て、脳と脊髄をつなぐ大動脈および神経を切断することで絶命させることが多いので、海は「血」に染まる。
屠殺されたイルカたちは、小型船で魚市場まで運搬され、刃渡30センチの大包丁と補助用の手鈎を使い、人力で解剖されることになる。
一方、「水族館行き」のイルカは、岸に追い立てられている個体から購入側の希望に沿うものを「海班」が選ぶらしい。
世界動物園水族館協会(WAZA)が日本のイルカの追い込み漁が残酷だとして、日本の水族館に対し、日本の「伝統的な漁法」で捕獲したイルカの入手をやめなければ協会を除名処分にすると通告してきた。
日本動物園水族館協会(JAZA)はこれに応じて、多くの水族館が依存しているこの方法での入手の禁止を決めた。
個人的には、欧米人の「動物愛護」の感覚は理解しがたいものがあるが、その背景にヨーロッパ中世に行われた人間と動物の戯画のような「動物裁判」があったことが思い浮かぶ。
かつて、ドイツ・ロマンチッック街道にあるヨーロッパ中世の街ローテンブルクで「中世犯罪博物館」を訪れたことがある。
罪人への刑罰のひとつに動物のお面を被らせ見世物にするというのがあり、そのお面が牛・豚・狐など多彩であったのが印象的であった。
このような人間への刑罰は、13~17世紀前後の中世ヨーロッパでは、「動物裁判」というものが流行したことと無関係ではないかもしれない。
「動物裁判」とは、その名の通り罪を犯した動物を、人間と同じく裁判にかけて処罰するというもの。
罪状と判決は様々で殺人罪のブタや、破門宣告を受けたバッタ。弁護士の力量で無罪になったネズミなどが存在した。
もちろん記録に残っていない動物の処罰も数多く存在するから、島流しにされたヘビなんかもいたかもしれない。
これらの「動物裁判」は頻繁にあったわけではないが、残存資料に残されている動物裁判の履歴は、有罪となったものだけでも9世紀から19世紀にかけて合計142件記録されている。
特に動物裁判が活発だったのは15~17世紀にかけてで、裁判の合計件数は122件となっている。
特に裁かれる多かった動物はブタ。
中世のブタは、現在のブタと違いキバが生えイノシシに近い獰猛で、その上農村ではブタを放し飼いにしていた。そのため、ブタが暴れまわり人間を殺傷するのは珍しくなかったという。
動物裁判の流れは、当時の人間に対する裁判とほぼ同等で、犯罪が確認された動物は憲兵隊によって逮捕され、裁判所の監獄「ブタ箱」に投獄される。
多分、2、3年に一度のケースのために動物専用の監獄を作るのも面倒だし費用もかかるので、人間と同じ牢にいられれた可能性もある。
罪を犯して服役したらブタと同室になり、騒音と臭気に悩ませられる可能性もある。
現代の刑務所では、罪が重い奴のほうが偉いとかいう不文律のある監獄もある。
仮に窃盗程度で捕まったら、隣のブタは殺人罪なのだから、シャバでもダメ人間なのに監獄でも"ブタ以下"ということになる。
監獄にいれられたあとは、検察官が被告を起訴し、それが受理されると弁護人が任命され、被告は出頭を命ぜられる。
その後の裁判の流れも通常と同様に、罪状が読まれ求刑を求められ、無罪か有罪かの判決を受けた。
有罪の場合、大抵は絞首刑となる。
ただ、必ずしも一方的に裁かれるとは限らず、昆虫裁判でもちゃんと弁護人がいて、弁護人によって弁護され情状酌量で無罪になったり減刑になる場合もあった。
当時では、殺人が行なわれるとそれが動物によるものであっても人間によるものであっても無生物であっても、正式に裁かれなければ神の怒りに触れると考えた。そのため、このような「動物裁判」が発足したと考えられている。
現代人は、昆虫に破門宣告をしたり強制退去を命じても、それにどんな意味があるかと思うが、当時の人々は大真面目であり、中世のコスモロジーの中では破門宣告にも何らかの意味を感じたのだろう。
ただ、動物と人間を対等に扱うこうした「意識」は、中世の古い話とばかりに看過してはいけない。
現代においても「自然の権利裁判」といのがあった。
アメリカのクリストファー・ストーン博士が山地のリゾート開発を止めるための訴訟に際し、「樹木の当事者適格――自然の法的権利」という論文を書いて支援したことが発端と言われている。
主として絶滅危惧種や天然記念物が指定され、日本では沖縄のジュゴンや渡り鳥のオオヒクシイ、奄美のウミガメなどが裁判所に提訴されている。
しかし、日本では「動物に原告の資格はない」として全て却下されている。
欧州では1960年代に問題提起されて、より快適にストレスなく飼育しようという「アニマル・ウェルフェア(動物福祉)」の考え方が広まった。
最近、日本でも「動物福祉」ということがいわれるようになった。
日本人は、1年間に平均300個あまりの卵を食べているが、狭いケージに押し込められて、日光にもあたらず、羽も自由に広げられず、餌のみ与えられている鶏の悲惨な実態を知っているだろうか。
多くの国で鶏が自由に動き回れる平飼いが主流となり、アメリカでもケージ飼育を規制する州が増えており、日本でも遅まきながら、東京オリンピックに向けて農水省が養鶏のヒアリングを始めている。
「ケージ・フリー」の卵や肉は、安全でおいしいにちがいない。ただ、この「ゲージ・フリー」を「消費者主権」の立場からではなく、「命の尊さ」の思想として広まって欲しいものだ。
たとえ人に食べられる命だとしても、それが自然な「命の連鎖」に近づくことなのだから。

シャーマニズムとは、シャーマンがトランス状態(入神状態)であの世の霊的存在からのメッセージを伝えたり、シャーマンに霊的存在を取り憑かせて語らせるというものです。儒教では、子孫が祭司として先祖の霊を呼んで“儀式(招魂儀式)”を執り行いますが、そのとき地上の子孫がシャーマンのように神がかりになったりすることはほとんどありません。一般のシャーマニズムでは職業シャーマンが招魂をしますが、儒教ではその役割を子孫が果たすことになります。子孫にとって“招魂儀式”は最も重要な行事であり、その場には血族が一同に集まることになります。子孫の中では長子(長男)がシャーマンに代わって祭祀の中心的な役割を果たすため、儒教では長子が特に重要視されます。儒教では血族の存続が何よりも大切にされ、血脈(血筋)が絶えることは先祖全体が救われないこと・不幸になることを意味します。こうして儒教の「先祖崇拝」と「血縁重視」は、異常なほどの熱を帯びることになるのです。 古代中国では、人間は死によって魂と肉体が分離し、魂は肉体から離れると考えられていました。これが古代中国人の「霊魂観(鬼神論)」でした。儒教は、こうした当時の人々の霊魂観(鬼神論)を土台としています(*この霊魂観は、大枠においてはスピリチュアリズムの内容とほぼ一致しています。ただし具体的な内容については、古代中国の「鬼神論」とスピリチュアリズムの「霊魂観」では大きく異なっています)。 さて、古代中国の「霊魂観(鬼神論)」において重要な点は、肉体が腐敗した後に残された“骨”を依然として死者の肉体と見なす、ということです。儒教の“招魂儀式”では、天から先祖の霊魂を呼び、地上に残された骨に憑依させることで霊と肉が一体化し、地上に先祖が再生するとします。それによって先祖は、地上で再び自分の子孫と出会い交流することができるようになると考えるのです。これが儒教の“招魂儀式”の意味であり、儒教における特殊なシャーマニズムの内容です。こうした点から儒教では、死者の骨をとても大切なものと考え、死体は火葬ではなく土葬でなければならないとします。 孔子は、古代から存在してきたおどろおどろしいシャーマニズム、淫祀邪教というべき原初のシャーマニズムを「先祖崇拝」と「先祖の救い」を目的とした儀礼的シャーマニズムへと引き上げました。儒教の喪葬儀礼は事細かく規定されており、厳格に営まれます。孔子は、こうした「先祖供養」という限定的シャーマニズムの土台の上に、子孫としての生き方の規範や家族倫理・血族倫理という思想を積み上げました。先祖崇拝と親や血族に対する心がまえを理論化し、礼法をつくり上げたのです。こうしてでき上がった儒教の先祖崇拝の儀式や倫理道徳が、その後の中国人の伝統として存続することになりました。儒教の土台は、先祖霊の招魂儀式を中心とする「先祖崇拝」というシャーマニズムであり、これが儒教の宗教性の特徴と言えます。 しかし儒教は、今述べたように一般のシャーマニズムとは違って神がかり的な要素を排し、礼法を中心とした“招魂儀式”を営みます。招魂儀式は、子孫としての守るべき礼法が付け加えられて“倫理的儀式”にまで引き上げられることになりました。 「オーストラリアと北米では、他所と同様に親近霊と守護霊とが動物の形をとるのが圧倒的である。それらはいわば、西アフリカの「叢林霊」や中米およびメキシコのナグアル(nagual)とパラレルなものである」(上:171) 「トゥングースのシャーマンは補助霊として蛇を持っているが、巫儀の間に爬虫類の運動をまねようとする。また補助霊としてつむじ風を持っているシヤーマンはつむじ風のように振る舞う。チュクチとエスキモーのシャーマンは狼に変身する。ラップ人のシャーマンは狼、熊、馴鹿[となかい]、魚になる。セマング族のハラが虎に変わることができるのは、サカイ族のハラクラクやケランタン族のボモールと同様である。」(上:171) 「動物の形で補助霊があらわれること、それと秘密の言語で対話すること、シャーマンがかかる動物霊に化身すること(仮面、身振り、舞踊、など)は、シャーマンが人間の状態を放棄する――換言すれば、「死ぬ」ことができる――ことを別の方法で示しているという点である。悠遠の昔から、ほとんどすべての動物は他界へ霊魂を伴い行く導き手として、または、死んだ人間の新しい形として考えられてきた。「祖先」であるにせよ、「イニシエーションの師匠」であるにせよ、この動物は他界と真実にして直接的な関連を象徴している。おびただしい数の世界中の伝説や神話で英雄は動物によって他界に運ばれて行く。新加入者を背中に乗せて叢林(地下界)に運んだり、顎にはさんだり呑み込んだりして「殺して復活させる」のは常に動物である。最後に古狩猟民の宗教の支配的特徴をなす人間と動物との間の神秘的連帯性を考慮しなければならない。これによって、ある種の人間は動物に変形し得、その言語を解し、その予知力と神秘力とにあずかることができる。シャーマンはいつでも動物の生活様式にあずかることができ、ある意味で人間界と動物界との離婚がまだ起こらなかった、かの神話時代に存在した状況を再現するのである」(上:172) 「守護霊はシャーマンをして変身を可能ならしめるのみならず、シャーマンの「写し」でもあり、第二の自我(alter ego)でもあるわけだ。この第二の自我はシャーマンの「霊魂たち」の一つであり、「動物の形をした霊魂」――もっと正確には「生命霊」なのである。シャーマンたちは互いに動物の形で対決し、もしその第二の自我が戦いで敗れると、シャーマンもやがて死んでしまう。」(上:173) 「未来のシャーマンはそのイニシエーションの過程で、巫儀の間に精霊たちや動物霊たちと交通するための秘密言語を習得しなければならない。彼はこの秘密言語をその師匠からか、もしくは自分自身の努力――つまり精霊たちから直接に――よって習得する。……して用いられ到。どのシャーマンもそれぞれ自分に固有の歌を持っていて、それを精霊に懇祷する際に詠唱する。秘密言語が直接問題にならぬ所でさえ、その痕跡は、例えばアルタイ語族におけるように、巫儀の間に繰り返される理解し難いリフレインの文句のなかに見出される」(上:174) 「この秘密言語が実際に「動物言語」か、動物の啼き声に由来することが非常に多い。南米では、新米のシャーマンはそのイニシエーションで動物たちの声をまねることを習得しなければならない。……カスタニェはキルギス・タタールのバクサがテントのまわりを走りまわり、跳ね、唸り、飛ぶ行事を記録している。バクサは「犬のように吠え、参会者の臭いを嗅ぎ、牛のように吠え、羊のように唸り、叫び、メーメーと啼く。また、豚のようにブーブー言い、ヒヒンと言ったり、クークー言ったり、驚くべき正確さで動物の啼き声や、鳥のさえずりや、その飛ぶ様子を真似し、そのすべてが聴衆に深い感銘を与える」と。」(上:175) 「多くの伝承において、動物との親交や動物の言葉を理解する例のあることは、楽園的徴候を示している。初めのとき、すなわち神話時代には、人々は動物と平和に暮らし、動物の言葉を解した。聖書の伝承の「人間の堕落」に比すべき原初的破局のときまでは――人間がこんにちそうであるように、死ぬべきものとなり、性を持つものとなり、自らを養うべく働かねばならなくなり、動物と敵対関係に入るまでは――、そうではなかったのである。」(上:177) ==================