サムソンの目玉

ひとりの人物に、建国の精神や美学が込められたシンボル的存在というものがある。
スイスのウイリアムテルがその典型であるが、アメリカのフランクリンや日本の源義経もそれにあたるかもしれない。
スイスは小国であり、昔からの「国家的課題」は「独立」であり、そのことは今日に至るまで「引き継がれて」いるからである。
14世紀、オ-ストリア・ハプスブルク家は、強い自治権を獲得していたこの地域の支配を強めようとして、ゲスラーというオーストリア人の代官を派遣した。
ゲスラ-は、その中央広場にポールを立てて自身の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制した。
しかし、テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になる。
ゲスラーは、クロスボウの名手であるテルが、テルの息子の頭の上に置いた林檎を見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束した。
そしてテルはクロスボウから矢を放ち、一発で見事に林檎を射抜いたのである。
そしてこの事件が「反乱の口火」となり、「スイスの独立」を実現したのである。
そういうわけで14世紀のウイリアム・テルは、今なおスイス人にとって「独立のシンボル」ともいえる。
しかし、文学者が社会が抱えた負の要素や矛盾を体現するように描かれた人物像というものもある。
1910年代、日本の近代化に学ぼうと、中国人留学生が日本に滞在した。
特に、神楽坂・飯田橋あたりは、中国人留学生達が母国の行く末を案じながらも、革命への血をたぎらせたところで、中国・辛亥革命の拠点のひとつともいえる。
中国の文学者・魯迅は飯田橋に近い宏文学院を卒業したが、中国人留学生が多く住む東京をはなれて一人仙台に向かい、現在の東北大学医学部に学んだ。
ところが、魯迅はこの大学で彼自身の人生を転換せしめるような決定的な体験をする。
ある日のこと大学の階段教室で幻灯の上映が行われ、中国人が日本人に銃殺されているシーンを見たのだが、周囲の日本人学生の喚声があがる中、その銃殺現場の周囲にいる中国人民衆の無表情さ・無関心さに大きなショックをうけた。
そしてこの時、彼自身の内部で憤怒と恥辱が入り混じった感情をおさえることができなくなり、医学を学んで人間の体を直すよりも、中国人の精神を正す文学を志すという劇的な転回をする。
この幻灯のシーンの中の民衆の姿をシンボリックに描いたのが彼の代表作「阿Q正伝」である。
彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。
そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。
これは、西洋列強に国土を食い荒らされても「中華」の思考方法によって一向に自身を変えようとしない中国の病巣を「阿Q」に体現させたものである。

トランプ大統領のイスラエルの「エルサレム首都承認」の報道で、なぜか唐突に思い浮かべたのが、旧約聖書のサムソンという人物。
この人物がイスラエルと戦闘を繰り返す、ガザ地区(現在パレスチナ暫定政府)出身だからかもしれない。
サムソンはれっきとしたユダヤ人だが、聖書はどうしてこんな人物のためにページをさくのか(士師記13~16章)、と思うほどの人なのだが。
もっとも、韓国のトップ企業名前ともなっているし、ハリウッド映画(「サムソンとデリラ」)にもなるほどだから、人並み優れた面もある。
しかし個人的な印象をいえば「恥おおき人生」というほかはない。
「出エジプト記」にあるモーセそしてその後継のヨシュアが世を去ったあと、イスラエル全体を統率するリーダーが不在となっていた。
そこで、その時々、必要に応じ、神によって立てられた小リーダーが「士師」と呼ばれる人々で、サムソンも士師の一人である。
このサムソンが生きた士師の時代は、イスラエルが強大な異教国ペリシテに支配され、その偶像におかされて、主なる神への純粋な信仰が失われ、神の国の一国民としての共同体意識が薄れ、「各自が、自分の目に正しいと見るところを行う」(士師記21:25)牧者を失った時代であった。
サムソンは生まれる前から御使いからのみ告げによって予告されたナジル人(神への献身者)として生まれて、彼の使命は「イスラエルをペリシテから救い始める」こと(13:5)であった。
イスラエルの人々は、ペリシテから武器を奪われ、鉄を精製して武器を造ることも禁じられて、サムソンはある時、武器として手にしたロバの顎の骨で、ペリシテ人とひとりで戦い、1人で千人を倒したという。
そんなサムソンの怪力ぶりに苦しめられたペリシテ人は、サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わし弱点を探らせる。ペリシテの女デリラの誘惑に負け、その秘密をついに明かしてしまう。
そして、その怪力の秘密は長髪にあり、それを剃り落されたなら、怪力は失われ、並みの人とおなじになると打ち明けた。
その結果、デリラの膝枕で眠っている間に髪の毛は剃り落とされ、その「怪力」は失われてしまった。
そればかりか、ペリシテ人の捕虜となり、目を抉り出され、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる惨めな状態に落ちてしまう。
その後、ペリシテ人の指導者たちは、彼らの神ダゴンを祭る祭りを開催し、会場となる大会堂に国中のペリシテ指導者を集め、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言って偶像ダゴンをたたえた。
その時、サムソンは大会堂の中でペリシテの指導者たちの前で戯れごとをさせられ、笑いものにされる。
そこで、サムソンは、盲人となった彼の手引きをしていた若者に頼んで、大会堂の二本の大黒柱に寄りかからせてもらい、主に「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈って、「ペリシテ人と一緒に死のう」と柱に寄りかかると、その会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかり、自らも命を失うが、その時に倒したペリシテ人の数は彼がそれまで殺したよものより多かったという。
旧約聖書によれば、サムソンは「ナジル人」と書いてあるが、「ナジル人」とは、聖書に登場する、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。
彼は神により、生まれる前からイスラエルの士師となる使命が与えられており、その頭に決して剃刀を当ててはならないと命じられていた。
サムソンの「怪力」の秘密は髪そのものの価値というより、その誓いを守りとおすことにより神との関係を保つということを意味していると思われる。
したがって牢獄のなかで髪が伸びることの意味とは、捕らわれのの身に落ち込んでいる間に、神との関係が修復していったことを意味する。
ペリシテ人は、サムソンの髪が伸びるのに気が付かなかったのだが、「ペリシテ」とは今日の「パレスチナ」を意味し、イスラエルとパレスチナはいまだにその争いを続けている。
このサムソンの起伏に富んだ人生につき、最近ハタと思いついたことがある。
サムソンの生涯が、ほぼイスラエルの過去と未来をそのまま体現、つまり「凝縮」されたものだということだ。
そのことを、次の四点について考えてみたい。
①サムソンがペリシテの女性デリラの誘惑にはまるとはどういうことか。
②サムソンが「足かせ」をかけられるとはどういうことか。
③サムソンが「目をくり抜かれる」とはどういうことか。
④サムソンが死を間際にして多くのペリシテ人を殺すとはどううことか。
以上のサムソンを「イスラエル」に入れ替えてみて、気づくことはサムソンは、実はイスラエル(ユダヤ人)の歴史そのものなのだ。
ペリシテ人デリラの誘惑とは、イスラエルが何度もその陥穽にはまり込んだ、バアルやタゴン神崇拝などの異教の神々の誘惑とみることができる。
「足かせをかされる」とは、古代のバビロン捕囚から中世のヨーロッパのゲットー、近代のヒットラーによるホロコーストまでの歴史がそれを表している。
また、「目がくりぬかれる」とはエルサレムを異教徒の支配下にあったり、国際管理下にあること。
また、サムソンの髪が伸びてその力を回復しペリシテ人を数多く殺すとは、1948年イスラエル建国後の4度の中東戦争でイスラエルがアブラハムに委ねられた土地を回復しようとしていることを思わせる。
しかし、最後の場面でペリシテ人もろとも建物の下敷きとなって死ぬが、この場面はこれから起きることを「暗示」(預言)しているようにもみえる。

トランプ大統領のエルサレムのイスラエル首都承認宣言についてふれたい。
現在、ソロモンの神殿のあったところにイスラム教徒の岩のドームがかかっていた。
BC586年には「新バビロニア」によって征服され、その後、勢力を伸ばしてきたローマ帝国によって征服さて、ユダヤ人たちは離散し、614年にはペルシャによる侵攻。636年にはイスラム帝国が占拠する。この7世紀ごろからはアラブ人もこの地に入ってくるようになり彼らはイスラム教徒になっていく。
結局、エルサレムという場所はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と3宗教の聖地ともなって、これがイスラエル、パレスチナ問題の出発点となる。
キリスト教徒は11世紀の後半から十字軍を遠征させ聖地奪還を目指すがこれに失敗。
そして、16世紀にはイスラム教のオスマン帝国の支配が400年も続き、この地域をペリシテの名にちなんで「パレスチナ」と呼ぶようになる。
第一次世界大戦が始まり、オスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと対立し、この時にイギリスがとんでもない約束をしてしまう。
まず、イギリスはアラブ人に対して「イギリス軍に協力するなら君たちの国家をつくるのに協力する」と持ちかける(1915年フセイン・マクマホン協定)。
その一方ではユダヤ人の金融資本家から資金提供を受けるために「お金をだしてくれるならユダヤ人の国家を作るのに協力する」と約束をする(1917年バルフォア宣言)。
そしてユダヤ人はパレスチナに帰還をはじめ、アラブ人との争いが頻発する。
結局、イギリスはどちらも裏切り、パレスチナを「委任統治領」とするが、1947年、第二次世界大戦後にはイギリスがパレスチナにおける治安維持能力を失い撤退するとこの地を国連の決定に委ねることにした。
国連が出した決断は「パレスチナ分割案」でユダヤ人にかなり有利な分割案となったが、そこにアメリカの意向が働いた。
アメリカには「ユダヤロビー」といって人口はそれほど多くはいないが、大統領選に重要な地域であるニューヨークなどに多く住んでいるユダヤ人たちがいる。
アメリカでは1948年に大統領選が控えており、この国連分割案にそって1948年にはイスラエル国が独立宣言されることになる。
ちなみに、この時のアメリカ大統領はトルーマンである。
このことにアラブ人が黙ってるはずもなく、近隣のアラブ諸国に力を借りイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発。
この時にエジプトが攻め込んだのが今の「ガザ地区」。そして、ヨルダンが攻め込んだのが「ヨルダン西岸地区」で、現在のパレスチナ自治区とされている場所である。
この戦争はアメリカの支援もありイスラエルが勝利するが、このガザ地区、ヨルダン川西岸地区も1967年の戦闘によりイスラエルに占領されることになる。
国連により撤兵勧告を出されるが、イスラエルは聞く耳持たずで、未解決の状態が続いた。
しかし、1993年にパレスチナ暫定自治協定により、平和共存の道がみえたが、調印したイスラエル首相ラビンは暗殺されてしまう。
ユダヤ人ガザ地区からは出て行くことになるが、ヨルダン川西岸ではむすろユダヤ人の人口は増えている傾向にある。
この「契約の箱」が失われることの重大さは、旧約聖書「Ⅰサムエル記」に記載されている。
この時代にイスラエルの民は、他の国と同じように人間の王を求め、はじめてイスラエルに「王制」が導入されることになる。
最初の王としてサウルが立てられたが、その「礼拝態度」はきわめてお粗末だったといってよい。
ペリシテ人(パレスティナの語源)によってそれが一時的に奪われた時の事態を想起すればよくわかる。
その時、イスラエルは打ち負かされ、「契約の箱」はペリシテ人に奪われてしまい、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」という「神の臨在」喪失の時代を迎える。
その一方で、「契約の箱」はペリシテ人に奪われる結果となるが、反対にペリシテ人はこの箱の故に「疫病」に悩まされ、多くの者が打たれたという。
そこでペリシテ人は、その箱をアシュドテ、ガテ、エクロンへとたらい回しにし、結局、「契約の箱」は贈り物をつけられてイスラエルに送り返された。「契約の箱」がペリシテ領内にあったのは「7ヶ月」であったという。
結局「契約の箱」は、奪い取ったペリシテ人には「災い」をもたらし、イスラエルはそれを「取り戻す」に及んで「その力を回復」したことがわかる。
しかし、AD70年ごろイスラエルは、ローマ帝国に攻め込まれ、「契約の箱」は行方不明である。
その一方で「黙示録」には、それが見い出される預言がなされており(ヨハネ黙示録11章)、彼らはソロモンの秘宝とともに探し出そうとしているのである。
さて、新約聖書(使徒行伝1章)に、復活したイエスと弟子が食事をした場面で、弟子が「イスラエルを回復なさるのはこの時ですか」と聞く場面がある。イエスは弟子に「その時と場合は、天にある父のみがあらかじめ定めたことで、あなたがたの知るかぎりではない」と応えている。
イスラエルの復興で思いつくのは、19世紀から続いた「シオニズム運動」の結果として1948年になったイスラエル建国である。
しかしユダヤ人の観点からすれば、ガザ地区やヨルダン川西岸などアブラハムに委ねられた領地の回復に加え、ヨハネ黙示録11章にあるとおり、「契約の箱」が再びエルサレムの神殿に収めらえることにこそが完成であり、現状はダルマに目玉が入っていない状態にある。
そればかりか、エルサレムのソロモン神殿はイスラム教徒(旧ペリシテ人)によって破壊され、跡地は占拠され岩のドームとなっている。
イスラエル人が、首都エルサレムなしで「完全復興」はほど遠いと思っているのは確実で、結局エルサレムとはクリヌカレた「サムソンの目玉」そのものなのだ。
また、「契約の箱」が失われているイスラエルは、国際世論の批判をうけながらパレスチナ自治区への入植を増やし領地回復のために悪戦苦闘しているものの、古代ヘブライ王国と同様にパレスチナ人(ペリシテ人)のテロに悩まされ続けている。
ちなみに、サムソンの出身地ガザ地区はパレスチナ過激派「ハマス」の拠点である。
以上、サムソンの波乱の生涯をイスラエルの歴史の「凝縮版」として読み直す時、サムソンに親しみがわくばかりか、当時はみえぬ人間の歴史が聖書が示すように展開をしていることに驚かざるをえない。