賢妻か悪妻か妖妻か

日本人の「国際指名手配犯第1号」は誰か、御存じでしょうか。
さぞや凶悪犯かと思いきや、「人見安雄」という緻密な作風で知られる洋画家で、1999年には、「国際芸術文化賞」を受賞しているほどの実力者。
同年10月肝臓ガンで59才でなくなったが、その経歴は波乱万丈そのもの。古美術窃盗団の一員として、国際指名手配「日本人第1号」となったのだ。
外国で13年間の逃亡生活をするが、その間、生活の手段として絵を描いて売り始めた。
ところが思いのほか絵が売れたがゆえに、人目につく存在となってしまったことが、自首・逮捕のきっかけとなる。
さて、人見安雄とは、本当はどういう人物だったのか。もともと感受性豊かで、正義感の強い少年だったようだ。
戦後まもなくの小学校で、欠食児童も多い中、金持ちであることをひけらかす同級生のボールを隠した。
そのボールは持ち主に返すが、それ以降「泥棒」呼ばわりされ、登校拒否に陥ってしまう。
そこからが、人生の転落の始まり。ボタンの掛け違えのように、生まれ持っての手先の器用さが災いして、万引きやスリを働くようになる。
やがて少年感化院、少年院、特別少年院へと送られる。
こういう場所で、逆に悪に染まっていくのは、「巨人の星」の漫画家・梶原一騎の少年時代と重なる。
しかも人見は、院において「矯正」と名のついた抑圧に反抗し、逃亡を繰り返すなどして教官の心証を一層悪くしていった。
また少年院での悪友との「関わり」から犯罪を覚え、その腐れ縁のために犯罪を犯し「前科三犯」の黒い履歴がつくことになる。
それでも、人見はイケメンであるうえ、運動神経も備えた人物だった。出所後、「社交ダンス」の世界に入るやまもなく頭角を現し、数年でプロともなってダンス教室の講師にもなっている。
しかし「前科」があることから冤罪事件が起こり、親にも認められていた女性とは破局する。
とはいえ、新たに出会ったプロのダンサーとの2年越しの交際を成就させ結婚する。だがこの時「前科」があることは隠していたという。
夫婦二人で安定した生活を築こうと「人見商事」という衣料品店を開き、夫婦とも社交的なだけに店の経営は順調に軌道に乗っていくかと思われた。
しかし、かつての悪友が、警官に対し殺傷未遂事件を起こす。人見は、その事件には直接関わっていないものの、窃盗品の保管と売人を行っていいたため、いずれの日にかは余罪が判明し、逮捕される運命が待ち受けていた。
妻は、警察の身辺捜査の気配に夫を問い詰めると、夫が「指名手配中」であることが発覚する。
夫がその経緯を正直に話すと、妻の応えは「自首の勧め」でなく「逃亡の勧め」だった。
店をたたんで作った500万円を手に1973年から国外逃亡生活13年間におよんだ。
香港、ベトナム、台湾、タイ、フランス、スペイン、そしてギリシャへと渡り歩く。
その間、逃げるだけというわけにはいかなかった。香港、台湾ではダンス会場に行き、地元の名士と交流し、仕事を紹介してもらったりした。
しかし、逃亡者であるため、仕事も長くは出来ず、入出国では、異常な緊張を強いられた。
ベッドで休む時も、脱走できる準備を整え、靴を履いたまま寝た。
そして1974年、ギリシャに辿りつく。英語さえおぼつかない「逃亡カップル」が、そこで生きていくのは並大抵のことではなかった。
逃亡1年目で金は底をつき、日々の食費に困る中、手慰みに描き始めた油絵をギリシャの米軍基地で売り出した。
それが予想外の評判となり、その後個展を開くや100点すべて売りさばくことができるほどだった。
しかし、名前が知れ、現地の警察が踏み込んだ時、画架をいくつか重ねて高壁を乗り越え、間一髪で脱走したこともあった。
人見はギリシアで画家としての生活基盤を得たものの、日本に帰る望みを妻に打ち明けた。
妻も同意し、1987年ギリシャで自首、日本に護送され「懲役3年6月」の刑期を全うした。
人見は、刑を終えた後、日本で9年間、画家として生き、その絵は多くの人々の目にふれることとなった。
さて、人見に「逃亡をすすめた」元プロダンサーの妻だが、悪妻なのかと思っていたら、素晴らしい「賢妻」だった。
そのことは妻が書いた本「許される日はいつ~ギリシャに潜んで13年」を読めば、一読瞭然。
夫への思いやりとその深慮には比類なきものがある。
例えば、「逃亡」をすすめた理由は、刑務所にいる仲間との腐れ縁再復活を恐れたため。
食べ物を買うお金がないと言えば又泥棒をするかも知れない。そこで、食費に困っても夫には今までの食事を供し自分は食せず衰弱。
絵が売れたと聞いて、妻は鍋とまな板が買えると喜んだ。それは、食べ物を買うのでなく、自分が夫に料理を作ってあげられるからだった。
夫が帰国したいと聞いて、妻ははじめて自首を勧めた。絵が売れれば「泥棒」はしないだろうかわりに、有名になってしまえばいずれ逮捕されるのが、目にみえるからだった。
指名手配犯の夫ではあっても、夫の魅力特に「潜在能力」に捨て難さを感じたのか、夫の矯正の見込みが出来るまで共に逃亡生活なんて、なんという女性であろうか。

「あばたもえくぼ」という言葉があるが、「あばた」とは天然痘発疹のあとが残るものだという。
天然痘は、16世紀のヨーロッパではすでに猛威を振るっていて、当時子供を中心に多くの人々の命をさらった。
さらに、流行地のヨーロッパから中南米に持ち込まれると、感染は爆発的に拡大し、アステカ帝国やインカ帝国滅亡の原因は、侵略者との戦いもさることながら、天然痘などの新しい感染症の影響が大きかったといわれている。
1796年、イギリスの医師ジェンナーは、「牛がかかる牛痘に感染した農民は天然痘にかからない」という言い伝えにヒントを得て、ある少年の皮膚に傷をつけて牛痘にかかった農民の発疹の膿をすり込んだ。
その後数十例の症例を重ねて効果を確認し、1797年にその成果を発表した。
この種痘に使われた膿は、今でいえば「ワクチン」にあたる。ヒトからヒトへ接種して引き継がれたワクチンは、1848年に日本にもたらされ、全国に普及していく。
1956年以降、日本国内で天然痘の発生はなく、WHOは1980年に天然痘撲滅宣言を行った。
ジェンナーが子供を実験台に使ったという話を本で読んだことがある。しかし厳密にいうと最初に行ったのは、ジェンナー家で働いていた貧しい労働者の子どもに対しであり、その成功を確かなものにするために、自分の子供を含む8人の子どもに実験を行ったというのが真相である。
医者が身内を医療の実験台に使うということは、ありそうなことではあるが、江戸時代の医師・華岡青洲の場合、母親と嫁が人体を実験台に提供したという点で異例であり、有吉佐和子作「華岡青洲の妻」に描かれてあるとうり、その実験の裏側に姑と嫁との壮絶な確執があった点で、異様でさえもある。
江戸時代後期。紀州(和歌山県)の紀ノ川沿いに代々医者を勤める華岡家があった。
当主・青洲が京に遊学中、青洲の母・於継(おつぎ)が近郷の名家の娘・加恵を青洲の嫁に迎えた。
於継は当初、加恵を大事にし、その睦まじさは人も羨むほどで、青洲の妹、於勝や小陸にも加恵はよく尽くした。
ところが、青洲が京より帰郷すると、その様子は一変した。青洲をめぐる嫁と姑の争いは激しさを増し、妊娠した加恵を里に戻そうと於継は段取りをつけほどになる。
その頃、青洲の妹・於勝が乳癌を患う。於勝は青洲に切開手術をしてくれと懇願する。
紀州一の名医と言われるまでなっていた青洲は麻酔薬の研究に没頭していたが、薬はいまだ完成せず、手術をすることはできなかった。
そして於勝は死去し、「人が病で死ぬのは、いつも医術が至らぬからなのだ」と失意のどん底に陥る。
さて、華岡青洲はどうして「麻酔薬」を完成にそれほどこだわったのだろうか。
それは、眠っている間に手術ができる薬を完成させたいということにつきる。
当時、曼陀羅華を人が飲むと狂乱して死ぬと言われていた。さらには、1800年ぐらい、もしも乳房を取れば命に関わるとも考えられていた。
しかし、麻酔薬が完成すれば病原の腫瘍を取り除くことができ、青洲の妹の命を奪った乳がんだって治せると考えたからである。
青洲は、他人が治せないものを治す。それが自分の医業との信念をもって、麻酔薬の研究に心血を注いだ。
研究を始めて十年後、青洲はようやく曼荼羅華(まんだらげ=チョウセンアサガオ ) と草烏頭(そううず=トリカブト) とを使った麻酔薬を完成させる。
実験に使ったのは当初猫だったが、確かな成果は中々得られず、それを見かね実験台となったのは於継だった。
青洲は母親の老齢を思い、実験薬に草鳥頭 ( トリカブト ) は使用せず薬の昏睡具合だけを試す。
無事に目を覚ました於継は、青洲の最初の実験台になったことを誇ることに、加恵は強い対抗心を覚える。
そして、加恵は、青洲がまだ実用に可能な全身麻酔薬の実験ができていないことを案じ、自分こそが真の実験台になると言いつのる。
我々男性にとって、こんなことが、嫁・姑の争いに発展するのかと信じがた話だがいが、母と妻の言い争いを聞いていた青洲は、二人とも実験に使うことを決心するというのも、なんともすごいことである。
そして半年後、青洲は本当の意味での麻酔薬の実験を、加恵を使って行った。
弟子たちは青洲の実験の危険性を知り青ざめた。
3日目に加恵は目を覚ますが、麻酔薬の副作用は甚大で健康状態を取り戻すのに半月を要した。
過酷な実験に耐えた加恵を青洲は優しくいたわり、それを目にした於継は強く嫉妬する。
そんな時、青洲と加恵の一人娘、小弁が10歳で夭折した。その悲しみに耐えていた加恵は、青洲の最終的な実験に自らを捧げる。
「通仙散」と名づけられた麻酔薬は成功するが、二度の実験に身を捧げた加恵は視力を失う。
そして加恵をいたわり続ける青洲を見ていた於継もまた、力尽きるように亡くなった。
壮絶というか、異様というか、そんな華岡家の人間同志の確執の中で、「全身麻酔」下での手術への第一歩が記されたことになる。
アメリカ・シカゴには「国際外科学会 栄誉館」というものがあり、人類への貢献度が高い科学者を称える資料館である。この栄誉館に一人の日本人医師が選ばれている。
それが華岡青洲で、青洲がいなければ医学は50年遅れていたと称賛されている。

終戦からまもなく出された「流れる星は生きている」(1949年)は、満州から日本に引き揚げた人々の実体験を語ったもので大ベストセラーとなった。
この本の著者は「藤原てい」で、夫は戦争中満州にあった気象台に勤めていた。
日本の敗戦が決定的になり、男は軍の動員命令があって不在。女ばかりとなった観象台(気象台)にあって、藤原ていと三人の子供達は、他の家族と共に日本への決死の逃避行を行った。
「流れる星は生きている」が大ベストセラーになったことに一番刺激を受けたのが夫の藤原寛人である。作家に転じて「新田次郎」のペンネームで知られるようになる。
ちなみに藤原夫妻の次男は「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦である。
新田次郎(藤原寛人)は、長年気象庁で気象観測の実務に携わってきた。富士山測候所に勤務した体験をもとに、小説「芙蓉の人」(1975年)を書くが、実体験にもとづくだけに、富士山頂の冬の苛烈さの描写には、鬼気せまるものがある。
実は「芙蓉」とは、美女を意味する言葉で、富士山が別名「芙蓉峰」とよばれることと、測候所に生きた人々の生き様を重ねて表したものである。
さて、小説の主人公である野中到(のなかいたる)は、筑前国(福岡県)早良郡鳥飼村で黒田藩士野中勝良の長男として生まれた。
野中は日本に高地観測所がなく、様々な自然災害を防ぐことができないでいることを憂い、私費で富士山頂に気象観測所を設置することを志し、1889年、東京大学予備門(後の第一高等学校、東京大学教養学部)を中退して気象学を学んだ。
野中到の父・野中勝良は東京控訴院(現東京高等裁判所)判事であったため、そうした息子の志について容易には理解しなかった。
その父親が心を動かしたのは、同じ福岡市出身の東京天文台長・寺尾寿の言葉であった。
寺尾は東大物理学科出身で、フランスで天文力学を修め、29歳の若さで東大星学科教授に就いていた。
その長男である寺尾寿は、初代国立天文台長として日本天文学会をつくった人物。
続く次男・享が法学博士で東大教授、三男・徳は医学博士で、四男・隆太郎は弁護士で裁判官という「スーパー・ブラザーズ」である。
当時3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかった。
野中到の父親である勝良は、たまたま東京天文台長の寺田寿から、「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」と聞いてから俄然息子を応援するようになり、その資金捻出のため、福岡県の旧宅を売り払った。
野中は1893年に、福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子と結婚し、この妻千代子が富士山測候所の建設に果たした役割ははかりしれない。
野中と妻千代子との間には当時2歳の娘・園子がいたが、野中が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると、妻千代子は姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。
千代子から見て、野中の計画は綿密だが、食料や衣料の準備に甘さがあると感じたからである。
御殿場でそれらの調達を担当しながら、自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようとひそかに決意した。福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛えた。
ただ、野中がいかに気象観測のエキスパートであったとしても、野中夫妻は山に関してはまったくの素人であった。
氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出されたりしたこともある。
さて、藤田寛人は作家活動を続けながらも、同時に気象庁職員として長年勤めて1966年に退職するが、公務員時代の最後の大仕事が、気象庁測器課課長として携わった富士山頂の気象レーダー建設であった。
それは、野中夫妻が最初に気象観測を行った地点において取り付けに成功したものである。
つまり、明治期の野中夫妻の80日を越える「冬季観測」の成功という先例の上に建つもので、藤原にとって野中夫妻は、尊敬する先輩という範疇を超えた存在であったといえる。
富士山に気象観測レーダーの建設責任者となったが、そこには世界最初の高層観測所という名誉のために、国家の為に見返りを求めずに打ち込む姿があった。
そして、野中一家の誰もが、前人未到の「高層観測」という同じ方向に向かった。
息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財を投げうって息子の夢を支え、それに従う妻がいた。
新田次郎(藤原)は、彼らの姿を「芙蓉の人」いうタイトルに込めた。

始めに実験に臨んだのは母親で、30分後、こん睡した後、意識を失った。
しかし、使用した麻酔薬は効き目の弱い睡眠薬のようなもので、麻酔薬の使う薬草は曼陀羅華と烏頭。
どちらも毒性が強い。配合を間違えれば命に関わる。
青洲は加恵を使って本格的な実験に臨んだ。使用した薬草は猛毒の曼陀羅華と烏頭が、およそ8:2。
危険を承知で行われた。薬の効果はすぐに表われた。
加恵の昏睡状態は3日間続いた。麻酔薬は効いた、しかし3日間もの昏睡は患者の体力を奪う。
決して満足いくものではなかった。晴天の空を黒い雲と見間違える加恵。加恵の体に異変が起きていた。
そんなこともつゆ知らず青洲は研究に没頭した。加恵を使った2度目の人体実験が行われた。
研究を重ねて作り出した麻酔薬は「通仙散」と名付けた。少しの焼酎で割って飲みいれた。
加恵は2時間ほどで麻酔にかかり意識を失った。麻酔薬が完成した。しかし加恵が目の痛みを訴える。
加恵は視力を失った。2年後、母も実験の影響で体調が悪化、そのまま息を引き取った。
1804年10月13日、麻酔薬を使った初めての乳がん摘出手術が無事成功した。ちなみに華岡家の9代目は現在、北海道で麻酔科医として働いている。
医師でありながら妹を救えなかった青洲の気落ちは大きかった。