サイレント・レクイエム

最近、スカイツリーを借景に映える「浅草寺(せんそうじ)」が東京観光の目玉となっている。
その浅草寺近くの国際劇場はもともと「松竹歌劇団(SKD)」の本拠地であった。
SKDには、後に草笛光子・淡路恵子など後に女優として活躍する人達がいたが、1970年代に入ると娯楽の多様化などに伴い、本拠地・浅草と共に斜陽化していく。
それでも、「はとバス」の観光客を相手に、なんとか興行を続けてきた。
その後、ミュージカル劇団への再編おこなうなど試行錯誤を重ねたが、赤字経営と団員数の減少により、劇団も存続を断念し、1996年ついに解散のはこびとなった。
SKDの本拠地・国際劇場跡地には、現在「国際ビューホテル」が建っている。
浅草全盛期の賑わいは追憶の中に沈みそうだが、浅草寺境内でとても意外な記念碑と出会った。
「映画弁士塚」というもので、一時代を築いた花形であったにもかかわらす、トーキー(音声映画)の出現とともに、まるで泡沫のごとく消えていった「映画弁士」の名前を記した記念碑であった。
「映画弁士塚」は、1958年、当時の新東宝社長・大蔵貢により建立され、明治・大正期において無声映画が盛んだった時期の活動写真の弁士100余名の名が刻まれている。
石碑には、弁士時代の「朋友」たちを顕彰するためとあり、「題字」は当時の鳩山一郎首相が書いている。この場に立つと、弁士の声が響くように思える。顕彰碑は、いわばサイレント・レクイエム(鎮魂歌)。
トーキーの出現が、弁士たちを無用の存在にし始めたのは、1930年代初期のことである。
それまで映画は全てサイレント(無声映画)で、それに説明を加える「活動弁士」は、映画の主演俳優より以上のスターであった。
映画館は有名な弁士を専属に抱え、その名を謳い観客を集めていた。つまり、弁士の「良し悪し」は即観客動員に影響したのである。
このため当時の映画館には必ず舞台があり、弁士は舞台上でナナメに構え、奥のスクリーンと観客席を交互に見ながら語った。
大正から昭和初期にかけての最盛期には、全国で数千人もの活動弁士が活躍していたという。
当時は憧れの「花形」職業であり、活動弁士を志す人も大勢いて養成所もできた。
しかし、活弁が隆盛を極めたのは、日本映画史のなかでも非常に短い期間にすぎなかった。
トーキーが日本で初公開されたのは、1929年の5月で、新宿の武蔵野棺で、この時の観客は驚きをもって画面を見入った。
スクリーンから直接に、音楽や人間の言葉が飛び出してくるということ自体、夢想だにしなかったことだからだ。
観客は以後トーキーの虜になってしまい、弁士がクビになるのは「時代の流れ」であったといえる。
弁士達の中で、「時代の趨勢」と諦めてさっさと転職した人もいたであろうが、その多くは時代の波に抗って戦い、抵抗した。
弁士の首切りが始まった1932年4月で、「反トーキー・ストライキ」が決行された。
映画館従業員組合の連中が、浅草大勝館に寝具を持ち込み、籠城の態勢に入って、スト組は、浅草電気館の二階から二千枚のビラを撒き、大騒動となった。
その後、東京市内の弁士200余名、楽士300余名が団結、映画界始まって以来の大ゼネストとなった。
しかしトーキーを阻止できるものではなく、結局大半の活動弁士が廃業に追いこまれ、その一部は漫談や講談師、紙芝居、司会者などに転身した。
黒澤明の実兄にあたる須田貞明は、転身を図ることもできず、ストライキによる「待遇改善」の要求に失敗し、精神的な挫折から自ら命を絶った。
転身組の中には、徳川夢声、大辻司郎などは漫談家となって古川ロッパと組み、浅草常盤座に「笑いの王国」を旗揚げして一世を風靡した者達もいる。
それでも、客席で他の観客とともに笑ったり、泣いたり、感動したりする、通常の映画ではあまり感じることができない「一体感」は、「活動弁士」ならではのものであったにちがいない。
だから「活動弁士」というものの存在は日本独自の文化に根ざしたものであり、日本においてのみこうした「活動弁士」の文化が発達したのであろう。
そこで思いつくのは歌舞伎の舞台である。
歌舞伎の上演では、浄瑠璃と呼ばれる三味線伴奏による語りが加えられている。
それは、俳優の演技や台詞とは別に、状況を説明したり、人物の心情を表現したりするというもので、義太夫節に代表される。
無声映画と弁士の語りの関係というのは、この歌舞伎と浄瑠璃の関係にも似ている。
また、講談や落語、浪花節など、日本には独特の「話芸」があるが、活弁はこれらとも共通点が多い。
例えば、講談は「七五調」の言い回しで構成されるが、昔の活動弁士たちの多くも、「七五調」で活弁を行っていた。
日本人にとって親しみやすい「リズム感」を採り入れたことで、活弁は日本人の琴線に触れることができたのだろう。ただし、活弁には特に決まった型がなく、全てが「七五調」だった訳ではない。
サイレント映画の時代、活動弁士達は、他者と差別化を図っていた。それが結果的に、全体のレベルアップへと繋がり、活弁はひとつの「話芸」として成長していったのである。
それは、バスガイドから声優やナレーターなどその他の「声」に関する仕事の中に今でも生きている。

活動弁士達の語り口は、当時から紙芝居にも生かされた。
浅草に隣接する東京・荒川区は「紙芝居発祥」の地といわれ、当時二百人以上の業者がいて、子供達がいる処、必ず「紙芝居」が演じられていた。
その中に1952年の第1回紙芝居コンクールで優勝を果たして森下正雄がいた。
森下は1923年、荒川区日暮里で生まれた。父親も紙芝居の名人で、この世界でただ一人叙勲を受け、それを95歳まで続けた人だという。
子供達は、駄菓子を食べながら、古びた木枠の「舞台」で繰り広げられる「勧善懲悪」の物語にジット見入っていた。
しかし、高度成長とともに街角から空き地や路地が消え、子どもたちが家の中に閉じこもるようになると、紙芝居はしだいに姿を消していった。
テレビを始めラジオや漫画などの娯楽の普及につれて紙芝居は人気を失い、紙芝居師の数は激し、荒川でも次々に紙芝居師が廃業していく中、森下は伝統文化を守るため、現役の「紙芝居」師を貫き続けた。
夫人は森下の意志に理解を示し、困窮する家計を内職で支えた。
森下の家は駄菓子屋だったので、午前中にお菓子の仕入れや仕込みをする。
森下は、子供の夢とロマンを残すため、「紙芝居児童文化保存会」を結成した。
かつてのように街頭で紙芝居を演じるのではなく、公民館、老人ホーム、日本全国の祭りなどのイベントに自ら出向き、一つの「出し物」として紙芝居を披露するスタイルへと移行していった。
悪漢どもに囲まれて絶体絶命の大ピンチ、だがそのとき、高らかな笑い声とともに、必ずやヒーローが駆けつける。
そんなヒーロー「黄金バット」を名口調で子供達に語り続け、50年を経た1990年の春、森下は喉に異常を感じた。
声がカスレて出てこない。病院の診断は「喉頭がん」だった。一時、声が出るまで回復したものの、医師からは「声帯の摘出」を勧められた。
紙芝居は声がイノチなので、「声帯」を取ったら「紙芝居」生活とも別れなければならない。
結局、森下は、家族の説得もあって手術を受けることにした。
手術を前にした1990年9月10日の夜の病室で、自分の最後の肉声を残すため、テープレコーダーを前に「黄金バット」を独演した。
語りが終わると、同室の患者たち5人から拍手が巻き起こった。
森下と同じように声を失ったこの患者たち五人が、期せずして森下の「肉声」での最後の客となった。
それでも森下が懸命にリハビリに取り組んでいた時、「送り主不明」のカセットテープが森下の元に届けられた。「消印」は四国の丸亀市であった。
森下はかつて巡業で訪れていた丸亀でのことが思い浮かんだ。
そしてテープには、黄金バットなどを含むかつての「名調子」で、六話が録音されていたのである。
また「これを使って子供たちに紙芝居を演じてほしい」との手紙が添えてあった。
森下は、この「自分の声の贈りもの」を受けた時、「感激で涙が止まらなかった」と語っている。
テープの声に合わせて口を動かす訓練をすれば、「現役」を続けられる可能性がある。
森下は音声に合わせて口を動かし「紙芝居」を行う新しいスタイルを考案した。
そして声を失った森下の「紙芝居」は以前より更に朗らかな表情や表現力に磨きがかかり、子ども達はもちろん大人達も引き込んでいったという。
そして2008年12月85歳に亡くなるまで精力的に活動した。

2018年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」では、鈴木亮平演じる西郷隆盛の父・吉兵衛に風間杜夫、母・満佐子に松坂慶子、西郷のライバルである大久保一蔵(利通)の父・次右衛門を平田満が演じる。
風間、松坂、平田の3人の共演は1982年公開の名作映画「蒲田行進曲」以来35年ぶりとなる。
つかこうへい脚本、深作欣二監督の「蒲田行進曲」の中で印象的だったのは、新撰組が討幕派のアジト「池田屋」を襲撃した乱闘場面の撮影である。
この映画の土方歳三役の衣装を着て役を演じるのは、銀ちゃんという「花形」役者・倉岡銀四郎(風間)である。
銀ちゃんには華があり、舞台やスクリーンでも映えるのだが、最近は人気に陰りがみえる。
そんな中、スキャンダルを恐れて、恋人の小夏(松阪)を押しつけられたヤス(平田)だが、ヤスにとって銀ちゃんは、役者人生に対して美学をもった輝ける存在であることに変わりはない。
そして、小夏の愛情は、心優しい「大部屋俳優」のヤスへと移っていく。
ヤスは銀ちゃんに、「新撰組」のクライマックスで、高さ数十メートルの階段を斬られた役者が転げ落ちる「階段落ち」をすることを提案する。
要するに、主役の銀ちゃんに「華」を持たせるシーンだが、落ちる役者は無傷ではすまない。
階段落ちの役者がヤスに決まり、撮影日も近づくにしたがい不安になり、小夏は撮影所に赴行くが、門の前で産気づき病院に運ばれる。
ヤスは死への恐怖を乗り越えて、立派に階段落ちの演技をする。病院に運ばれた小夏が意識を取り戻すと、そこに満身創痍でも元気なヤスが居て、女の赤ちゃんを抱き微笑む。
「蒲田行進曲」に滲む哀感ににて、サーカス団のひとりの若者を描いた、忘れがたい映画がある。
ところで日本の三大サーカスといえば、岡山の「木下大サーカス」、大阪の「ポップサーカス」、北海道の「キグレサーカス」である。
「キグレサーカス」は1942年に創業、団員は約40人。10m以上の高さで行う空中ブランコ、鉄球の中を走るバイク曲芸、ピエロ、ジャグリング、シーソー、一本綱、アニマルショーを中心としていた。
3500人収容大型テントで開催してききたが、残念ながら、2010年10月9月に最終興行となった。
娯楽の多様化に伴う集客減が影響して資金繰り悪化が原因である。
1980年公開の映画「翔べイカロス」は、「キグレサーカス」でピエロをしていた青年(栗原徹)の短い生涯を描かいたもので、実話をもとに制作された。
主役はさだまさしが演じ、主題歌である「道化師のソネット」はさだの代表曲のひとつとなる。
この映画の原作は、草鹿宏となっているが、この草鹿宏という人は、平林敏彦という知る人ぞ知る「詩人」なのだという。
草鹿宏は、少年向けの本も書き、「翔べイカロス」ではピエロの哀感を描いた。
ちなみにピエロとクラウンの違いは、同じくサーカスや大道芸に登場するトリックスターだが、目に涙のマークがあるのが「ピエロ」、ないのが「クラウン」なのだという。
主人公の「クリちゃん」こと栗原徹は写真家をめざして被写体になる素材を求め、サーカスに写真を撮りにきたのだが、サーカスを見て、そこで生き生きと働く人々に魅せられ、頼み込んで働かせてもらうことにした。
そして、当時日本のサーカスではまだ幕間のツナギでしかなかった「ピエロ」という役柄に興味をもち、サーカスでお客さんを呼べる主役にピエロはなり得るのではないかと思った。
そして先輩のピエロ役に教えを請うて練習をし、綱渡りや曲芸など、コミカルなだけではないピエロ像を創作し、栗原は他のだれも真似できない後ろ向きでの綱渡りを行うこともできた。
「クリちゃん」を演じたさだまさしは、実際のサーカス団員と食事を共にし、体中にアザを作って芸の練習に励んだという。
綱渡りなどの演技もみな、本当に危険な箇所以外は、さだ本人が行って文字通り「体当たり」で演じている。
結局、さだは栗原に同化し、栗原が目指したピエロになろうとしのだ。
そしてクリちゃんは、サーカス暮らしの中で次第に芸の魅力にとりつかれ、自分が関わり動いていく過程の中で、彼はピエロという「生き方」を愛するようになる。
また、厳しい訓練を重ね、高綱渡りの曲芸に観客の拍手と歓声が贈られたとき、彼は生きていることを実感した。
そして「キグレのピエロ・クリちゃん」はいつしか大人気となり、彼はますます難しい危険な演技に挑戦するようになっていく。
サーカスのテントにはいつもクリちゃん見たさの子供たちがたくさん訪れ、子供たちのニコニコ顔がテント一杯にあふれる日々であった。
しかしある日、彼は非常に難度の高い綱渡りの最中に落下。テントに響き渡る観客の悲鳴。凄惨な現場を子供たちに見せないために、照明が消され暗転する。
あと数メートルでゴールだったので、下でネットを用意していた係員は直前でネットを片付けてしまっていたため、それが事故につながった。
裏に運ばれたクリちゃんは、途絶え途絶えに、こう言う。「子供に知らせるな!」。
クリちゃんの心を理解した同僚の団員が、急いでクリちゃんの扮装に着替え、メイキャップして舞台に踊りながら飛び出していく。
落ちてしまったはずのピエロが元気に出てきたので、観客は大喜び。「な~んだ演出だったのか」と。
その夜、病院で、クリちゃんは亡くなる。
翌日、子供達の間では「くりちゃん死んだの」「いや生きてるよ ちゃんと立ちあがったんだから」といった会話がかわされた。
栗原は短い生涯を終えたが、それでも日本のサーカスを画期的に変えた「功労者」ともいわれている。
だが栗原には大それた思いはなく、サーカス団員の誰かの子供が、いつもぐじぐじ泣いているのを見て、「キミが笑ってくれたら、ボクも楽しくなって笑える。だから泣いてないで、ボクのピエロを見て笑ってよ」という気持ちで、若い青春をサーカスに賭けているだけの青年であったようだ。
映画のラストシーンで流れた、さだが歌う「道化師のソネット」は、この物語(実話)の感動をこのうえなく盛り上げた。
♪笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために♪。