玄海ドサイズム

最近、登見丘高校のダンス・パフォーマンスやDA PUMPの曲「USA」の振り付けにつき「ダサかっこいい」という表現がよく使われる。
「ダサイ」の語源は、埼玉県民には失礼なことに「だからさいたま」に由来するなどという説がある。
ただ、この言葉が定着したのも、ニュアンスが近い「ドサ」という言葉があったからではなかろうか。
その「ドサ」という言葉は、「小屋の中に雨が土砂のように降る」「土に座る」など語源は諸説ある。
「ドサまわり」という言葉にあるように、地方や田舎をさげすむ俗語でもあるが、あてのない日々を送る旅役者にとって、しみじみ染みる言葉なのだそうだ。
その点、青森の普段着「ボロ」に似ている。ただボロは、かつて貧しさを象徴する言葉であったが、今や「ボロ」の美しさが世界で評価されている。
最近の新聞の記事に紹介された一人の座長は、「俺たちの世界にはドサイズムがあふれている。恥じることはない」と語る。
4歳にして初舞台、16歳にして座長になったというその人は、今も地方の健康ランドで激しい立ち回りを演じるが、その名刺には「ドサ役者」と書かれている。
この座長は、日本の社会は人と同じようにすることを強いるところがあり「みんなと一緒」をヨシとする風潮へのアンチな思いを語っている。
なにしろ、大衆演劇には「堅気(かたぎ)」でないアウトローが登場する。
過酷な運命に立ち向かう中、不幸な生き方を選ばざるをえなかった人々。その人々には、やむにやまれぬ事情と思いがある。そのことを、大衆演劇は教えてくれる。
社会から侮蔑され、白眼視されてきた者が一瞬の光芒を放つ。
それを見て観客はスカッとするのではなろうか。それは、「非日常」を生きている男たちへの憧れでもあるにちがいない。
また、芸能は本来、庶民のものであり、大衆演劇の役者には、どこか「権威に与(くみ)したくない」という意識がある。
それは、我が地元・博多の商人の気風と幾分通じるものがある。
1907年7月末から8月にかけて与謝野寛、平野萬里、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎の五人は連れだって九州北西部を旅して、旅先から新聞に29回にわたり「五足の靴」の署名で寄稿している。
この「五足の靴」の中に、博多っ子の性格を物語る興味深い記述がある。
「博多は古来生々主義の地だ、歴史や道徳宗教は博多の眼中に無い、彼らは異種族を侵掠することを喜んだ、八幡船はこの力盛んに錨を抜いた、倭寇の根拠地は博多であった。秀吉はこれを奨励したが、家康に至ってはこれを制することが、度をこえた。
殊に藩主黒田氏は小心にして、隼の如き博多人の翼を矯めたることが甚だしい。これに不平憤懣の気は迸って、博多人は一図にひねくれた快楽主義の人となった。町ごとに催すにわか狂言は多く外来人たる福岡藩士の失策を脚色した」。
ここでいう「生々主義」とは、自己中心でも利他でもなく自他共に生きる生き方で、博多っ子を「ひねくれた快楽主義の人」と断じたのは面白い。
さて博多は、基本的に商人の町であった。旧き歴史をもつ誇り高き博多商人にとって、中津から黒田氏を新たに藩主として迎え入れることは、ある種の屈折が生じたとしても不思議ではない。
那珂川から東を福岡ではなく、依然として「博多」とよび慣わしたのは、そうした博多商人の矜持をうかがわせるものである。
「博多にわか」は、商人達がお面をして顔を隠し藩役人の失策などを軽い笑いにしたところから生まれた。
そこで使われるお面の目が鋭くはなく垂れ目でトロンとしているところがなんともいえない。
そしてこのお面こそは「博多ッ子」気質を示しているのではないかと思う。
また藩としても、博多商人のその程度のカタルシスを認めざるをえなかったのであろう。
実は、福岡に隣接する佐賀にも「にわか」は伝わった。「佐賀にわか」で有名な筑紫美主子一座は、玄海灘に面した福吉ビーチホテル近くの「玄海温泉センター」をホームグラウンドにしていることを聞いていた。
我がホームページでぜひとも筑紫さんを紹介したいと思ったが、資料が乏しく直接御本人と会って話を聞く他ないと思った。
福岡市・姪の浜から唐津に向かう筑肥線のJR福吉駅近くで道行く人に筑紫さんの家を尋ねると、筑紫さんの息子さんが住職をしている愛仙寺がお住まいであることがわかった。
さっそく愛仙寺を訪れたころ、あいにく筑紫さんは不在であったが、お弟子さんが筑紫さんの自伝「どろんこ人生」を貸してくれた。
そしてこの本ではじめて筑紫さんの生い立ちとその波乱の人生を知ることができた。
筑紫さんは大正12年旭川生まれで父はロシア革命を逃れた白系ロシアの軍人、母は佐賀生まれの日本人であった。
筑紫さんは三歳の時、母親の親戚で佐賀に住む古賀佐一氏の家に養女に出され、養父母の愛情に育まれながらも混血児として差別に苦しみ続けた。
18歳で幼い頃より習い覚えた踊りをもとに「佐賀にわか」の世界に入り、20歳年上の古賀義一氏との結婚を機に一座を結成し、夫亡き後は文字どおり女座長として東奔西走の活躍をしてこられた。
最初の訪問から約1ヵ月後、今度はアポイントをとって筑紫美主子さん宅に伺ったところ、息子さんと共に会っていただいた。
初対面の筑紫さんは、つつみこむようなあったかさの中にも、どこか凛としたものを感じさせられる方であった。
そして寺の裏の地下にある大仏のところに連れていってくださり、こわれかけた鳥居をみせてくださった。
この鳥居は天神にあった伊藤伝右衛門・柳原白蓮夫妻の邸宅(銅御殿とよばれていた)の鳥居だったが、銅御殿が火事で全焼し、次にここに住みついた人が、この鳥居で子供か怪我するといけないから筑紫さんにひきとってもらえないかという話かあったという。
筑紫さんがその鳥居を見にいったところ、そこにほられた製作者の名前から、筑紫さんの亡くなったご主人の実家(佐賀市蓮池の石屋)でつくられたものであることが判明した。
その奇縁に驚いた筑紫さんは、自宅にこの鳥居を大切に保存することにしたそうである。
筑紫さんとの出会いから2ヵ月後、福岡市中央区浄水通りのメルパルクホールでの「筑紫美主子60周年記念公演」を見に行った。
「案山子」と題した公演で出奔した息子と親との情愛を描いた舞台で、おかしくてどこか哀しい、ひきこまれるような舞台であった。
そしてメルパルクホールを超満員にした筑紫さんの人気の秘密を初めて知る思いであった。
かつて自宅を訪問した時には筑紫さんはか細く歩くのがやっとといった感じであったが、舞台では別人のように迫力があり動きも機敏であった。
その芸人魂のすさまじさに感嘆したが、筑紫さんは2013年に93歳で亡くなった。

福岡県芦屋町には、中世の時宗信徒の念仏踊りが始まりとされる「芦屋役者」と呼ばれた集団がいた。
大衆演劇はサービス精神が旺盛で、役者の体温が伝わってくるような親近感が魅力であった。
その一方で、社会的偏見と経済的事情から明治中期に解散したが、役者魂は着実に受け継がれた。
石炭景気を背景に、昭和初期、筑豊地方には劇場が数々生まれ、芝居好きの炭鉱労働者たちがヤンヤの喝采を送ったという。
テレビの普及や娯楽の多様化の影響で戦後衰退するが、大衆演劇が注目が集まったのは、80年代、東京・浅草から梅沢富美男らスターが出て人気が再燃する。
当時の2倍にあたる130の劇団が現在、日本の各地で興行を打っている。
そして、常設劇場は現在全国に57館。3分の1の19館が大阪府内に集まっている。
意外なことに、我が地元・福岡の芦屋役者の始まりは、中世の「踊り念仏」だという。
「踊り念仏」の祖・空也は、空也は京都の人だが姓氏は明らかではない。
903年の生まれで、醍醐天皇皇子とも常康親王の子だともいう。
21歳のころ尾張国分寺で出家して空也と称し、国内をまわって道路修理・架橋・廃寺再興・死体埋葬また井泉を堀るなど慈善救済事業につとめた。
京都で「市聖(いちひじり)」 と呼ばれながら念仏教化をつづけ、絡東に一寺を建てた。
六波羅密寺(西光寺)である。927年に没している。
空也は天慶年間(938~946)供88名をつれて芦屋に来たと言い伝えられている。
「芦屋歌舞伎の役者町跡」の石碑には次のような説明文が刻まれている。
「平安時代諸国遍歴の空也上人に従って当地に来た供人達を祖先とする念仏衆の人々は、1605年藩主の御茶屋跡であったこの附近の地を賜り寺中町を形成し、いつしか歌舞伎を手がけ各地を巡業し、芦屋役者の名声を博したが、明治の末期に廃絶した。当安長寺は、初め空也堂として役者町の人達が建立したものである」。
芦屋において空也上人は、毎日迂々に立ち、鰐口を敲きながら、腰には瓢箪をぶらさげて、手振り模様もおもしろおかしく念仏踊りをやっては、善男善女を集めて仏教のおしえをといていた。
ところが或る日のこと、空也上人は突然18名の供人を置きざりにしたまゝ、薄情にも京都に帰えってしまった。
たちどころに困ったのは18名の者で、明日からの生活もどうしてよいか判らなかった。
思案に暮れた結果、見馴れ聞き覚えた空也上人の念仏踊りを真似ながら、辛くもその日その日の生活を凌ぐことになった。
この附人(つきびと)たちの子孫が江戸時代になって歌舞伎を手がけ、有名な芦屋役者になったのである。
明治中期ごろまでは盛んで津々浦々を巡業し、かたわら若者たちに歌舞伎や踊りの手ほどきなどをして、村芝居の興隆にも大いに貢献した。
在の「安長寺」は初め空也堂として、役者町の人達が建立したものである。
安長寺につき、書に「寺中町に在。 西空山極楽院と云。 光明寺に属す。 空也堂なり。 上人の木像并ならびに古画像あり」とある。
安長寺の東側一帯の町を以前は寺中(じちゅう) 町と言われていて、芦屋歌舞伎の役者たちが住む役者町であった。
1605年、藩主の御茶屋跡であった此の附近の地を賜わり寺中町を形成し、安長寺はこれら芦屋役者を壇徒としていた寺である。
また、屋町に残る記録によれば、1688年には空也堂安長寺として再建され、其の後どのような経緯からか再び時宗へ改宗している。
また、寺には江戸中期の 芦屋役者が使用していた楽太鼓などが残っている。
記録によれば、1848年の寺中町人口は284人、67軒であった。
そして1903年、申し合わせを行い、各座一斉に解散している。
一遍上人から数えて約700年、確実に資料に残っている時点から約300年後のことであった。
解散の理由については、職業的偏見がその理由の一つと昔から指摘されてきた。
もう一つの要因は経済的なところにある。
1744年 芦屋役者は、上方役者・豊前役者などと競合していたようだ。
芦屋役者は芦屋から他国の役者の排斥を求める願いを出し、藩はこれを認めている。
地元芦屋で開かれる芝居ですら独占できず、藩の威光・権力に頼る事もあったようだ。
さて、芦屋といえば、現在、競艇場があるが、それに関連する前史がある。
黒田長政は1600年に筑前に入封すると、交通の要地である芦屋津に多くの藩船をつなぎ、御船手の士(黒田水軍の水夫)を常駐させる。
御船手屋敷があったのは現在の船頭町付近であったと思われる。
戦国の風残るころ長政は当時最強の船、安宅船(戦艦のようなもの)を作らせ「伊勢丸」と名付ける。
以後も芦屋津は軍港として重要視され藩の軍船160艘の内80艘が芦屋津に置かれていた。
福岡藩が水軍を重視したのは、1641年より、佐賀の鍋島氏と交代で長崎の警備に当たらなければならなかったことが理由の一つであった。
幕末、黒船が長崎へ来た際も芦屋浦の水夫が徴用され、長崎へ送られている。

芦屋役者は全国を旅したが、芦屋周辺には「大衆演劇」以外にも全国的に広がった文化が存在する。
NHKの番組「あまちゃん」は、海女(あま)という存在に光をあてたが、そのルーツは芦屋に近い宗像の鐘崎(かねさき)である。
鐘崎には、海女の装束を纏った女性像があり、その足元には「海女発祥」の地を示す石板がある。
鐘崎は、魏志倭人伝でも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになった。
五島列島・対馬・壱岐・朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。
そして各地で漁を教え、住みついていった。
江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
実は、「あまちゃん」の舞台となった伊勢志摩の海女は北九州を拠点としていた海人族安曇(あずみ)氏の女であり、安曇氏が山東半島から朝鮮半島西岸経由で北九州に到達しており、潜水技術も済州島辺りに滞在していた安曇氏の海女から鐘崎の宗像氏の海女に技術が伝承されたと考えられる。
鐘崎は日本の海女(海士)の発祥の地と言われていて、700年ほど前は対馬の守護代宗氏の領地、鐘崎の海人はそのつながりから対馬で漁業権を得て潜水漁を行っていた。
さて「芦屋役者」発祥地の安長寺はひっそりと伽藍を構え、 門前の道路は結構車の往来が激しいが、そのすぐ裏手には遠賀川の河口が広がる。
遠賀川流域以外に他藩へも出かけ旅興行していた芦屋役者で、こうした役者の芝居小屋(現代は健康センター)周りをドサまわりという。
また芦屋には「旅行商人(たびゆきしょうにん)」という存在がある。彼らがいつどのようにして生まれたか、詳しい資料は残っていないという。
こうした「旅行商人」が最も盛んになったのは文政・天保年間(1818~44年)であった。
芦屋山鹿の舟は、まず生蝋(きろう)やくり綿などの遠賀川筋の特産品を芦屋から伊万里へ運び、そこで「伊万里焼」を仕入れた。
当時の芦屋山鹿には裕福な商屋がたくさん軒を連ねており、最盛期には伊万里焼の3分の1を旅行商人があつかっていたほどであった。
佐賀の伊万里は鍋島藩の御用窯で、三方を山に囲まれ、もう一方の入口には関所が置かれ、至高の技術の漏出を防いだという。
そして「旅行商人」は瀬戸内を大坂へ、また山陰、北陸から遠くは蝦夷、松前(北海道)まで交易に出かけ未踏の地なしといわれるほどあった。
もともと個人経営で資本も巨大でなく、苦労の多かった「旅行(たびゆき)」は他窯業地の成長、明治以降の国内交通網の整備などによって衰退し、明治末には「旅行」の名は歴史から消えていった。
さて、鐘崎の西方沖に浮かぶの筑前大島で、宗像三神のひとつの「多岐津姫命」を祀る中津宮がある。
筑前大島は、遠藤周作の「沈黙」でロドリゴのモデルとなったキャラ神父が漂着した場所である。
宗像三神は、日本書紀に登場する女神であるが、このあたりが日本の「海女発祥の地」であるというのも、面白い因縁である。