太平洋戦争の勝者である連合国にとって、日本というの小さな島国は、異様で理解しがたい強国と映っていた。
なにしろ、黒船で太平の眠りを覚まされてから、わずか40年で、眠れる獅子と畏怖された「清」を撃破したのだ。
その後、欧米列強の一角である「帝政ロシア」を破り、第一次大戦でも勝者となるなど、向かうところ敵なしの勢いだった。
占領軍がその強さを東洋の神秘と恐れ、日本の精神文化にもその一因を求めたとしても無理からぬことだ。
武道に始まり、歌舞伎の「忠臣蔵」や「勧進帳」、剣術映画、そして、はり灸までも、彼らは危険と見なし禁止しようとした。
当然のように「将棋」も、そのターゲットとなった。
1947年夏のこと。東京、丸の内、皇居お壕端に「連合国軍総司令部(GHQ)」の本部、第一生命ビルが今も当時の面影を残したまま立っている。
そこの入口に立ったのが、升田幸三。29歳。
戦時下の軍に属しながらも、生きて終戦を迎えた升田。野武士を思わせる風貌に似合わず、その生業(なりわい)は「将棋指し」である。
升田は、GHQがなぜ自分を呼び出したのか、相手の真意をはかった。それは、「将棋抹殺」のための儀式にちがいない。
GHQ担当官の質問が始まる。「日本の武道は危険なものではないか」。
将校達は、太平洋戦争において形勢不利であっても、「最後の一兵」まで戦おうとする日本兵の姿と将棋を重ねていたのかもしれない。
さらに面白い質問をしてきた。「チェスと違い、将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するものではないか」。
西洋のチェス、中国のシャンチー、朝鮮半島のチャンギなどなど色々あるが、その中で、たった一つ、将棋だけが相手から取った駒を自分の駒として使えるルールを持っている。
GHQはそこをついてきた。升田は、「取った駒を使えぬチェスこそ、捕虜の虐待ではないか」と、逆に反論した。
そこへいくと、日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。「将棋では、つねに全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想だ」と応じた。
「しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせるのだ」
これぞ「民主主義」の精神ではないか。
通訳の言葉を聞き、口をぽかんと開ける将校達。もはや、どちらが尋問しているのかわからない状況。
将校達は、反対に魅了されたように聞き入り始めた。
話は、酒、チェス、血圧から政治まで、話は多岐にわたり、5時間にもなった。
話は、長時間に及んだが、日ごろから長時間の大局をする升田にとってはなんでもない時間だった。
升田が話した相手というのは、GHQナンバー2、日本国憲法の草案にも関わったホイットニー准将であった。ホイットニーは、フィリピンにおける戦いで、日本軍と直接戦う経験をしている。
かくして、「将棋」は一度も途絶えることなく生き残った。
升田幸三は、大山康晴名人と終生のライバルであり、その実質的な後継者といわれるのが、「ヒフミン」こと加藤一二三である。
今日の日本人にとっても、食糧難で長く食べられなくなることを想定してみて、つらいものといえば、「お寿司」もそのひとつではなかろうか。実際、そんなことが起きた。
つまり、お寿司が日本から消えかかったことがあったのだ。
終戦で日本全体が食糧難であった。連合国軍GHQは様々な政策を行い、ついに米をつかった飲食店の営業を禁止した。
これでは「寿司屋」ができなくなると、お寿司屋達は悲嘆にくれた。
「寿司食いてぇ~」の思いは日本人共通のもの、そこで、東京の店主が集まりある話し合いをした。
ある寿司やの当時の回想録によれば、米をうまい飯にするのが一番得意なのが寿司屋なのだから、しっかりとGHQに陳情しようということになった。
ところが、GHQに何度お願いしてもOKしてもらえなかった。
それでも、その灯を守りたいと引き下がらなかった。
そして彼らは、ある「秘策」を思いついた。そのことを示すのが、浅草の寿司屋に残されていたひとつ看板。それは、「寿司持参米加工」という看板であった。
つまり、寿司屋を飲食店としてではなく加工業、「寿司を作るだけの店」として許可を得たのである。
火をたく木をもっていけば、安く泊まれる「木賃宿」を思い浮かべるが、配給のわずかな米をもって寿司屋に詰め掛ける人の姿があった。
とはいっても、もっと大きく本質的な問題があった。配給で米や魚がなく、寿司ネタ手に入らなかったのだ。
方々をまわって寿司ネタをかき集めた。ならづけ、かまぼこまでも使った。
マグロの代わりにマスなどの川魚がつかわれた。タイは入手できないので、白身はフナ。フナなど川魚は骨が多くさばくのにも一苦労だったが、寿司屋自ら川に行って捕ってきた。
アサリの身はいくつも重ねて少しでも豪華に見せ、たまごのオボロは、おからを混ぜてボリュームを出した。
また、カンピョウやシイタケなど、少しでも華やかになるように色合いにも工夫を凝らした。
寿司屋は、もっとお客さんの笑顔をみたい一心でひねり出したアイデアだったが、そんな過程で新しい寿司ネタの発見にも繋がった。
その代表が、戦後の苦境の中で、キュウリを使った「かっぱ巻き」が生まれた。
ではなぜ「かっぱ巻き」という名がついたのか。
河童が好物がキュウリらしい。ではなぜマグロをまいた寿司を「鉄火巻き」というのか。
鉄火巻きの「鉄火」は、もともと真っ赤に熱した鉄をさす語である。
マグロの赤い色とワサビの辛さを「鉄火」に喩えたもので、木質の激しいものを「鉄火肌」や「鉄火者」というのと同じであるのだそうだ。
寿司屋の様々な工夫で、食糧難の時代、一度は消えかけたお寿司の灯は守られた。
1949年4月、日本野球連盟総裁だった正力松太郎(読売新聞社主)が米大リーグに倣い、球団数を増やして2リーグ制を導入する構想を表明したからだ。
これを機に毎日新聞や西日本新聞、近鉄、大洋漁業などが続々と加盟を申請し、遅れじと西鉄も10月に申請したのである。
この年の夏、西日本鉄道株式会社第四代社長を引退後も影響力絶大だった村上巧児は、戦後復興に尽くす福岡の人々に明るい話題を届けようと、「日本一の球団を作れ!」と社員達に檄を飛ばした。
西鉄は1946年6月に社会人野球チームを発足させていたが、社員らはこの日を境に球団結成に動き出した。
当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、3交代制の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。
朝夕ラッシュ時以外の電車やバスの乗車率も上がるはずだと考えたのである。
正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。
困った村上は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎元総理の父)に助けを求めた。
麻生は村上に、それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいとアドバイスを与えた。
そして村上は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎を密かに訪ねたのである。
その後村上は、西鉄事業部に親戚筋の中島国彦という人物がいた。
中島は、旧陸軍仕込みの行動力を買われ、球団設立の特命を担い、白洲との折衝役をつとめた。
中島は上京する度に、24年1月に発売されたばかりの福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参した。
白洲はこの博多の珍味を非常に気に入り、パンに塗って食したという。
その後、白洲やGHQが正力や野球連盟にどんな圧力をかけたのかは不明だが、とにもかくにも加盟交渉は急にスムーズになり、1950年11月にパ・リーグへの加盟を果たした。
そして1954年にパ・リーグ初優勝、56年からは日本シリーズ3連覇を成し遂げた。
これだけの短期間で黄金時代を築いた背景には、中島らの強力な「選手獲得」の働きがあったればこそである。
1年目は巨人から福岡・久留米商出身の川崎徳次投手を引き抜いた。
川崎は球界の情報に精通していたこともあり、翌年には川崎投手に交渉させて三原脩監督の招聘に成功した。
次には青バットで有名な東急フライヤーズの大下弘選手で、約7か月もの折衝を重ね移籍させている。
新人獲得では、南海ホークスの名将である鶴岡一人監督が目をつけた選手を狙った。
その一人が、大分・別府緑丘高の稲尾和久投手で、大分出身だった西鉄の初代社長から当時の別府市長に入団を勧めてもらったという。
また香川・高松一高の中西太選手を入団させるため、高松に行くたびに、母親が行商していた野菜を定宿の旅館にすべて買い取らせ、坂道でリヤカーを押す手伝いをして信頼をえて、早稲田大への進学を志望していた「怪童」を翻意させた。
はじめ球団名は「西鉄クリッパーズ」(高速帆船の意)とした。参戦1年目の25年は7球団中5位に終わったが、2年目は、セ・リーグに所属する西日本新聞社所有の「西日本パイレーツ」を吸収し、「西鉄ライオンズ」に改称し、そこに総監督に招かれたのが、読売巨人軍を戦後初の優勝に導いた名将、三原脩であった。
ところで、西鉄ライオンズの栄枯は、産炭地の盛衰とよく重なっている。
3年連続優勝後の1959年~60年には三池炭鉱争議が起き、その後石炭産業は斜陽化する。
そんな時代背景だけに、1963年の前半終了時点で首位と14、5ゲーム差からの奇跡の逆転優勝は産炭地の人々にも希望の光となった。
しかしこの時の優勝からまもない1963年11月9日、福岡県最南部の都市・大牟田を悲劇が襲った。
三池炭鉱三川坑(大牟田市)の鉱炭じん爆発事故が起き、犠牲者458人と一酸化炭素中毒患者839人を出したこの事故は産炭地の衰退を決定づけた。
そして1997年3月に閉山した。
しかしこうした悲劇の中、1965年大牟田から甲子園初出場を果たしたた三池工業高校の優勝は、人々を勇気づけた。
三池工業の監督は原辰徳現巨人軍監督の父・原貢である。
原貢は吉野ケ里遺跡近くに生まれ、鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退しノンプロの東洋高圧大牟田(現三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任した。
原監督は無名校を初出場にして全国大会優勝へと導き、三池工フィーバーを起こしたのである。
その後、東海大学の創設者で総長の松前重義の招きで東海大相模高校野球部監督に就任し、「東海大相模」の名を全国に轟かせた。このチームで1年からレギュラーで3番を打ったのが原辰徳である。
ちなみに広島の緒方耕市監督は鳥栖生まれで鳥栖高校出身、西武の辻発彦監督は小城生まれの佐賀東高校出身である。
広島で、戦後初の地方特別自治法「広島平和都市建設法」が成立した。
それを実現したのは、自ら被爆体験をもつ浜井初代市長であった。
被爆時点で浜井は、「配給課長」の役職にあり、自らも原爆症に苦しんでいた。
それだけに市長就任以来広島を「平和のシンボル」として復興させることがいかに国にとって大事なことかを説いてまわった。それは、国から予算を引き出すための「戦略」でもあった。
浜井は何度も国会に陳情に赴き、有力議員を夜がけ朝がけで訪問し「平和都市」建設の予算を獲得しようとしたが、いつも「財源」と言う壁に阻まれていた。
これでは自分が市長である意味がないのではと、何度も「辞職」を考えたという。
そうしたある日、人々の話を聞くうちGHQに働きかければ何とかなるのではとヒラメき、当時のGHQの国会担当に「法案」を見せたところ「素晴らしい」という応えを受けた。
これを機に「広島平和都市建法」実現へと歯車が動き出したのである。
しかし、人々の気持ちはいまだにバラバラだった。
どうせ金を使うなら、この焼け跡はこのままにしておいて、どこか別のところに新しい町をつくることを考えてはどうかといった意見もあった。
百年は人が住めないといわれていたからだ。
一方、市民の住みなれた土地に対する執着を断ち切るのは、そんな生やさしいものではなかった。
たとえ行政がどうであれ、計画がどう立てられようと、市民たちは続々と焼けただれた町に帰りはじめたのである。
復興局も審議会も、こういう市民の姿を見ては、計画の完成を急がないではいられなかった。
新しい街づくりの為には、いままでの住宅地にソノママ人々が住み直すだけでは何の発展もなかった。
バラックを立て住み始めた人々に立ち退いてもらうことも必要であった。
浜井市長の長男は、突然押し入ってきた「立ち退き」反対の怪しい人々との等の口論が恐ろしかったと語っている。
しかし、浜井市長といつも対立する立場にあった市議会議員は、浜井市長は誰よりも腹が据わっていて根性があったと語っている。
ヤクザまがいの人間に匕首(アイクチ)付けられようと、「どうしてもやらねばならぬのじゃ」といって広島の未来にむけた「都市設計」を開陳した。
そのうちに、ヤクザ達もその話に聞き入った。
1947年4月、公職選挙による最初の広島市長となり、同年8月6日に第1回広島平和祭と「慰霊祭」をおこない「平和宣言」を発表した。
1948年から式典はラジオで全国中継されるようになり、この年はアメリカにも中継された。
浜井は、原爆で死ぬべきはずの人間が、生き残ったのだから、自分の人生をすべて「広島復興」にささげようと覚悟していた。
浜井が「死んだつもり」で広島復興に賭ける姿は、癌宣告をうけて公園設立に命をかけた黒澤明の「生きる」の主人公と重なるものがある。
そして浜井は、まず広島市民の心を一つにすることが大事だと「平和の祭り」をすることを思いついた。
また、この「広島平和都市建設法」の成立に、一人の福島県人が加わり助力したという奇縁がある。
福島県人というより「会津人」という方が理解し易いが、会津といえば戊辰戦争で鶴ヶ崎城落城により灰燼と帰した。
白虎隊士の「唯一」の生き残りの飯沼貞吉の弟を父にもつ内務官僚の飯沼一省は、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任した。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務め、都市計画に関連する国の行政に協力した。
とくに1949年制定の「広島平和記念都市建設法」については、法案の提出に尽力したという。
戊辰戦争の敗戦で荒廃した会津人と被爆した広島人とが共感し合うのものがあったに違いない。
1968年2月26日、広島平和記念館の講堂で開かれた、広島地方同盟定期大会に出席し、不動の信念と抱負を訴え終えた直後、来賓席に戻ると同時に心筋梗塞で倒れ他界した。62歳であった。