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言葉の違和感

兵庫県養父(やぶ)市は、「藪医者の産地」を看板にしている。福岡県の星野村が「日本で一番星が美しい里」を謳い文句としているのと比べ、なんと屈折した市なのか、などと思ってはならない。
「藪医者」とは、もともと名医として知られた養父医者だったのだから。
江戸時代のはじめに活躍した長島的庵は、死にそうな病人を生き返らせるほどの名医で、但馬国養父で地域医療に熱心に取り組み、後に将軍徳川綱吉の主治医になっている。
その評判は広く各地に伝わり、多くの医者が養父の名医を見習うようになり、「養父医者」は名医を示すブランドとなった。
しかしこのブランドを「悪用」する者が現われ、優れた技術がないのに「自分は養父医者である」といって信用をえる者が続出した。
「養父医者」の名声は地に落ちて「薮医者」となり、現在のように意味が反転したという。
また落語では、「風がふくと薮が揺れる」ということから「風邪をひくと薮医者にいく」という意味をかけた洒落がある。
さらに、薮の下にあるような医者を「土手医者」、薮に飛んでくるような医者を「雀医者」とも呼んでいる。
また、藪は先が見えるが土手は先が見えない、とかいった解釈で医者の水準を表すなどもしている。
他にも、方言からもともとの意味が変化した言葉に「せこい」がある。
風邪の時や運動後、空気の通り道が狭く感じる、流れを遮る「せく」から、息苦しさを表す「せこい」ができたようだ。
そのうち「せこい」は、役者や芸人の間で「客種が悪い・景気が悪い」といったことを示す隠語となり、しだいに「けち」という意味が強くなっていった。
医者にみてもらった芸人が「せこい」といわれ、それを謝礼が少ないことをいわれたと勘違いしたのかもしれない。
そこで、あんあまり細かくケチって周りをこまらせることを「セコハラ」なんかいう言葉ができてもよさそうだ。
ちなみに徳島県では、いまでも「マラソンはせこくなるので嫌い」「もう年だから階段を上るのがせこい」という具合に、幅広い世代で口にしているという。
さて、せこい人は「ビタ一文ださない」なんていうが、この「ビタ」も歴史に由来する言葉だ。
日本の本格的な貨幣経済は平清盛による宋銭の輸入から始まったが、14世紀に成立した明は退嬰(たいえい)的な政権で、鎖国を行い貨幣ではなく「実物」で財政を運用しようとしたので東アジア全体に銭が不足した。
「ないならつくる」しかないというわけで民間が中国の銭をまねてビタを作り始めたのである。
ビタとは、「鐚銭(びたせん)」とよばれた粗悪な銭貨のことである。
すると、自然に「撰銭(えりぜに)」が起こり、ビタは受け取れないと応答するようになる。
そこから、「ビタ一文」という言葉が出た。
「ビタ一文」は、電子マネーや仮想通貨など、現金が消える世界では「死語」になっていくのだろうか。そうとも限らないのが言葉というもの。
例えば、「江戸前」とは、江戸前すなわち「江戸湾」でとれる寿司ネタのことだが、いまや回る寿司の世界では、ノルウエーやモロッコやカリフォルニアの寿司ネタが多く、実態を反映しない「江戸前」も死滅してもよさそうだが、新鮮な寿司の代名詞として「江戸前」という言葉は消えないであろう。
他には、「太陽の子」のように、外で遊ぶのは健康な子であったが、オゾン層の破壊やPM2.5などのせいで外で遊ぶのはむしろ不健康。
家の中で楽しく遊ぶのが健康な子なのだが、元気な子と太陽が結びつくことになっている。
大事なことは、使いなれた言葉を使い続けると感覚が麻痺して、現実との乖離やズレが生じても気づきにくくなるということだ。
その一方で、最近面白いと思うのは、結びつきにくい言葉をつないで新たな視点を教えられること。
「ダサかっこいい」とか「キモかわいい」などの言葉のおかげで、新たな感覚で現実をとらえることができる。
その嚆矢ともいえる「おやじギャル」という言葉は、漫画家の中尊寺ゆつこが、雑誌に連載していた「スイートスポット」の中で生まれたもの。
バブル期当時は女性の社会進出が目立ちはじめ、働くOLたちはそれまでオヤジの趣味 (居酒屋飲みやギャンブルなど)と言われていたことにもどんどん手を出していった。
現在テレビで放映中のCMで「おじさんとおやじの違い」というのがでてくるが、「ちょい悪おじさん」は、かっこいい年長者。
その一方で、「おやじギャグ」のおやじは色々不具合の多い年長者をさすように感じられる。
「おやじギャグ」を連発する年長者には、「ギャグハラ」なんという言葉で自戒を促すのも一手ではないでしょうか。
言葉の結びつきが、実態を伝えものごとを変えていくケースもある。
1980年代に、「卓球」というスポーツを一新するぐらいに変えたのはひとつの言葉であった。
タモリの「笑っていいとも」で、卓球は「根暗(ネクラ)」という言葉に結び付けられて語られることに、日本卓球協会は危機感を抱いた。
イメージを明るくすることに努力し、ユニフォーム、卓球台、ピンポン玉までカラフルにした。
その効果は大きく、福原愛ちゃんらが看板となって人気が出て、最近ではプロリーグまでも立ち上がっている。
タモリのネアカ・ネクラの区分は、ラジオ番組「オールナイト日本」で広まったものだが、タモリはその時に含蓄のあることを語っている。
「根が明るいやつは、なぜいいのかと言うと、なんかグワーッとあった時に、正面から対決しない。必ずサイドステップを踏んで、いったん受け流したりする。暗いやつというのは真正面から、四角のものは四角に見るので、力尽きちゃったり、あるいは悲観しちゃったりなんかする。(中略)でもサイドステップを肝心な時に一歩出せれば、四角なものもちがう面が見えてくるんじゃないか。そういう時に、いったん受け流したりして危機を乗り越えたりなんかする力強さが出る」。

今時の若者は、意図せず「古語」を使ってそれらを普及させている。
「やばい」「ビビる」「ムカつく」「マジ」など巷にあふれる若者言葉。実は語源は平安時代や江戸時代にさかのぼる古い言葉であり、若者はその使い手なのだ。
「ビビる」が使われ始めたのは、なんと平安時代! 大軍が動き、鎧が触れ合ったときに「ビンビン」という音が響くことから「びびる音」と呼んでいた。
平家がいっせいに飛び立つ小鳥の音を、源氏軍が攻め込んだ「びびる音」だと勘違いして、ビビって逃げたという話は有名で、江戸時代には「はにかむ」という意味でも使われていた。
江戸時代に芸人の楽屋言葉として使われていた「マジ」という言葉。
「マジ」は「真面目」「真剣」「本気」といった意味からきており、1980年代に入ってから、若者を中心に流行していきた。ヤンキー風には、「まじぇ~~↗」と濁って伸ばすのが正しい。
平安時代後期から使われていた「ムカつく」は、体調がすぐれないときに使う言葉。
胃が胸やけを起こしていたり、吐き気を催している状態のことを指す。
今でもその通りの意味で使われることもあるが、1970年後半以降は「腹が立つ」という意味合いで使われてきた。
「やばい」は 自分にとって不都合な事態が起こりそうな状況を表す。
その由来は、牢屋や看守を意味する「厄場(やば)」という言葉にあり、そのようなものと関わりそうな危険な状況を示すことからくる。
江戸時代ごろから泥棒などの間で使われたとされる。
戦後、一般にも広く使われるようになり、最近は「すごくいい」「魅力的」という肯定的な使われ方もされるようになった。
さらには「しかとする」は、無視する、仲間はずれにするなどという意味だが、これも古い語で、”シカト”とは、特定の対象(主に人)を無視することを指すヤクザの隠語が、一般にも使われるようになったものである。
花札で10月(紅葉)の10点札が、そっぽを向いた鹿の絵柄であることに由来する。この事から転じて、博徒の間で無視の隠語となったのだという。
また、若者のSNSのやり取りでも古語が使われている。
ツイッターなどで「良き良き」はよく見かけるが、昔も「よきかな、よきかな」って重ねて使うことも多かったようだ。
また、「御意(ぎょい)!」なんていう大仰な言葉を使う人も結構多い。
最近、「なんでやねん」など方言でキャラをつくる「方言コスプレ」なるものが流行っているが、これは方言ならぬ「古語コスプレ」。
この「御意」は了解という意味。本来の意味は”お考え”。立場や位が高い人に対して使う言葉なのだが、現代の「御意」に尊敬の念はホボホボないといってよい。
さて、「御意」と来たらどう返すかだが、「大儀であった」「痛み入る」「かたじけない」などを候補にあげたい。
ところで最近NHKの番組「チコちゃんに叱られる」で教えられたのが、「あっかんべい」の由来である。
個人的には「ぼーとする」の由来も教えてほしいところだが、江戸時代の浮世絵に子供があっかんべいをしているものがある。
博多の櫛田神社の絵では、風神が雷神によびかけをして「あっかんべい」をしている。
これは、安土桃山時代から起こった「防災ギャグ」とでもいうべきものか。
平安時代の「大鏡」にも、「あっかんべー」をすることが 赤目をして子供を脅すという一文があったという。
赤目をするとは、指で目を下方に引っ張って赤い部分を見せ、「べいー」は、べろと勘違いされてべろをだすようになった。
奈良の元興寺などでは法師が鬼を追い出す際に「赤鬼」を装ったことなどから生まれた仕草なのだという。
、 そこで思い浮かぶのは、「アインシュタイン舌出し写真」である。
アインシュタインは大の写真嫌い。人前ではめったに笑顔を見せた事がなかったと言われている。
さて問題の写真は、72歳の誕生日に、通信社の記者によって撮影されたものである。
車で夫妻に挟まれて座っているときにマスコミの執拗なリクエストに舌を出したというもの。 写真が使い物にならないよう、わざと「あっかんべー」をした瞬間を撮った”奇跡の一枚"だった。
そういえば、かつて日本医師会のドンとよばれた武見会長の怒り寸前の写真を見たことがある。
この写真は、撮影者がわざとシャッターをおろさず、いらついて怒る寸前まで待ってとった写真だという。
それを写すのには、さぞや勇気がいったことでしょう。
さて「いらいら」という言葉だが、この「いら」はトゲ、いらくさを意味し、葉や茎の裏側にトゲがある。
触れると不快になるのでイライラする。今でも山口県&鹿児島県ではトゲをイラという。
長崎県ではクラゲのことをイラ、金平糖のとげもイラというらしい。

言葉が実態と乖離して違和感を覚える状況はいくつかある。
ナポレオンに、「我が辞書に不可能の文字はない」という言葉があるが、「我が辞書に辞書という文字はない」とかいうと、明らかに矛盾する。
仮に「自衛隊」という言葉を憲法に書き込むことの矛盾は、それと同じくらいに明白である。
国連下での国際貢献ばかりか、同盟国との間の集団的自衛権まで自衛隊という言葉を憲法にいれたら、憲法9条の”国際紛争を解決する手段としてはいかなる武力も行使しない”という条文と明らかに矛盾が生じるからだ。
最近、衆議院議員の発言で問題となった「同性パートナーは生産性がない」という発言は、その内容以前に人の命を製品であるかのように「生産性」という言葉を使った点に違和感が生じた。
昔から常套句が日本語を殺しているということが言われているが、通訳が訳すのに苦労した「善処します」という言葉がその典型である。
最近閣僚の不祥事や失言が多いせから、謝罪会見で多いのが、「遺憾に思う」とか「不徳の致すところ」という言葉である。
こういう言葉に中身がないことは皆感じている。
言葉の意味に即していえば、「遺憾」は”残念に思うこと”。また「不徳の致すところ」は自分に"徳がたりないこと"。
それくらい言葉で、心のこもった謝罪ができるとは思えぬが、我々はこれらの言葉に慣れすぎている。
したがって、「それってどういう意味ですか?」とツッコミを入れるのも悪くはないが、それをやると「予定調和」の世界では、逆に空気を読めない人ということになることが多い。
国会での答弁で、言葉のやりとりで新しい可能性を探るという本来の議論の様子が乏しいのは、現在の政権が”多数”の上に安住しているということが大きいであろう。
それは次のような国会での問答に表れている。
菅官房長官は「総理のご意向」と記された文書を”怪文書”と評した。怪文書とは出所もわからないその”存在”が怪しい文書なのに、後に文書の存在が確認されるや、怪文書とはその”中身”が「不可解な文書」という意味で使ったと弁明した。
それ以上に重大なのは安倍首相の「共謀罪」に関わる発言で生じた「そもそも論争」。
個人的には「そもそも」を、”当初から”、”もともとは”というように解釈している。
」 安倍首相は、「そもそも犯罪を目的とする集団でなければ(共謀罪の)対象にならない」と答弁し、民進党の議員が「それだとオウムはそもそも宗教団体なのだから、対象にならないことになるのではないか」と質問を受けた。
安倍首相は、「実際に辞書で調べたら"そもそも"という言葉には”基本的に"という意味もあるのでぜひ知っておいていただきたい」と答えた。
共謀罪は明白なテロ集団を取り締まることを目的としたものかと思ったら、この答弁で「基本的に罪を犯すことを目的とする集団」というように、対象範囲が一気に広がった感がある。
「そもそも」という言葉には、”発端”の意味はあっても、”基本的”という意味はないのだが、安倍総理の解釈で閣議決定されたという。
ところでSNSは、常套句を生産し流通させる最強のシステムだとも言える。
時間とタイミングにせかされ、たくさん「いいね!」がついたり、拡散されたりする言葉を発するよう駆り立てられる。
勢いの強い言葉が他の言葉を押し流し、結局のところは便利な常套句と化して繰り返し使用される。
無数の言説が行き交うSNS時代にあっては、「しっくりこない」と腕組みしている暇なんてない。
戦争が起きた時には必ず常套句が氾濫している。日本では「鬼畜米英」や「バスに乗り遅れるな」などの言葉で、敵意や憎悪を煽り、感受性を麻痺させ、ほかの可能性への想像力を抑え込み、人々をただ一つの道へと誘う。
そのひとつの表れがヘイト・スピーチである。
言葉は本来、新しい視点を獲得し、新しい可能性を開いていくのだが、この状況の中にあっては言葉が干からびてしまう。
それがこの世の中を”せこく”している気がしますが。

さて日本社会では、古語にせよ方言にせよ、若者の”毛づくろい的”なコミュニケーションに役立っているが、世界的にみると、地方語の弾圧が戦争にまで発展することがある。
その証左が、東京池袋西口に立つ「ショヒド・ミナール」という碑だが、一体どんな経緯があるのか。
1947年、イギリス領インド帝国が崩壊し、イスラム教徒の多い地域が「パキスタン」として独立した。 ただ、インドを挟んで東西パキスタンに分離するが、東パキスタンの人々が一番憤慨したのは、土地の母語である「ベンガル語」を否定されたことであった。
1952年2月21日には、抗議する人々に対して警官隊が発砲、多くの命が奪われ、東パキスタンのパキスタンからの独立戦争に繋がっていく。
そして誕生したのが「バングラデシュ」で、首都ダッカには、ベンガル語を守るシンボルとして、ベンガル言語運動の犠牲者を追悼する国定記念碑である「ショヒド・ミナール」が立っている。
1980年代ごろから、池袋周辺の地域では、小さな町工場や中小企業で働くバングラデシュ人たちが増えてきて、池袋にも「ショヒド・ミナール」が立つことになったのである。