いくさと忍びの日々

家の中には、軍事転用技術が溢れている。ペンタゴンが通信施設が破壊されても情報交換が可能になるように開発したのが「インターネット」。
家の中を見渡すと、「ミシン」は機関銃、「ライター」は手榴弾、「掃除機ロボット」は地雷探査機などに軍事技術の一端を推測できる。
さらに手近なところでは、お握り、缶詰、ボールペンやライター、カーディガン、トレンチコート、さらには割烹着までも戦争と関わりがある。
芥川龍之介の「侏儒の言葉」で妙に印象に残った一節がある。
「人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である」。
さて、マッチを重大な発明というには莫迦々々しいが、だからといって軽いこととは思えない。
その発明は、意外にもワットの蒸気機関改良以後の発明だし、年表に「マッチ発明」はまず書かれない。
ライターが初めて登場したのは、1772年のことでマッチに先立っている。
マッチは1826年に、イギリスの薬剤師ウォーカーによって初めて発明された。軸木の先に黄燐を付けた「黄燐マッチ」であった。
マッチに似て、ボールペン誕生は年表に書かれないが軽視できない。しかも、戦争が深く関わっている。
第二次世界大戦のこと、爆撃機などが高空でも航空計算に使える筆記具を必要とした。なぜなら万年筆ではインクが漏れるからだ。
折しも元校正職のハンガリー人がボールペンの開発に取り組んで、完成させた。ある米国人がそれを特許に触れないように改良し、米軍は大量に採用し、爆撃攻撃に大活躍したのである。
さて、1854年にペリーが2度目の来航をしたときに、将軍家にミシンを送った、というものがもっとも古い記録である。
この後、1860年にはジョン万次郎がアメリカからミシンを持ち帰っている。ちなみに、日本で最初にミシンを扱ったのは、天璋院だといわれている。
1881年に東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に国産ミシン第1号として展示された。
大正時代から、日本でもミシンの量産がはじまったが、量・質ともに「シンガー」などの輸入品にはかなわなかった。
第二次世界大戦が始まると家庭用ミシンの製造は禁止され、戦時中、ミシンは「軍用ミシン」のみ製作されることになる。
1945年に終戦を迎えると、国内で大ブームとなったものが「家庭用ミシン」だった。
国内に100社を超えるミシンメーカーが乱立し、トヨタや三菱も参入した。そして銃をつくる機械装備をもつジューキも製造へと乗り出した。
ジューキの創設は1938年12月で、太平洋戦争中に陸軍が使用する「九九式小銃」を生産するために設立され、1943年に東京重機工業株式会社に改称した。
当時、ミシンの市場はドイツやアメリカのメーカーが席巻し、80社もの国内工場がつぶれた。ジューキは外国のミシンをコピーしながらも、なんとか生き残っていた。
ジューキは、数社を渡り歩いた技術者の小塚忠(ただし)を採用した。小塚は、振動の少ないミシンの開発に成功し、いつものように別会社を移ろうとした時、目が釘づけになったのは、ドイツ・カフ社の「穴かがり」ミシンの構造であった。
一瞬にしてボタン穴をつくり、世界最高の性能といわれた。
小塚は、かつて設計した農耕機のエンジンのノートを見て「カム」の仕組みを思いついた。
針とメスをふたつの動力で独立させるのではなく、ヒトツの動力にすればいい。連動するような仕組みにすれば針があがる瞬間にメスで糸が切れる。
この「カム」の仕組みは、機関銃つきの戦闘機で、銃弾をプロペラの間に通過させる技術でも使われているものだった。
プロペラが機銃の射線を塞いでいる間、機銃の発射を抑える装置で、自らプロペラを破壊しないよう射撃をプロペラの回転に合わせる「連動装置」が組み込まれていた。

1853年、クリミア戦争に砲兵少尉として従軍した若き日のトルストイは「セヴァストポリ物語」で戦場の悲惨を生々しく描いた。
セヴァストポリ要塞は黒海に突き出たクリミア半島南端のロシア海軍の基地で、18世紀末クリミア=ハン国を併合したロシアのエカチェリーナ2世が築いた。
そして、ロシア軍とトルコを支援する英仏軍はクリミア半島で激突した。
セヴァストポリ要塞をめぐる攻防戦は陰惨を極め、要塞に立て籠もったロシア軍は349日めに、力カラつきて降服した。
ロシアの「南下政策」はまたしても失敗に終わったのだが、この戦争で看護婦として参加したのがイギリス人女性ナイチンゲールである。
敵味方に関係なく傷ついた兵士を看病したので「クリミアの天使」とよばれたが、ナイチンゲールの真骨頂は、むしろ冷静な情報分析とそれに基づく環境改善にあった。
戦場から還った彼女はこの経験を生かして近代看護学を確立し、1880年には看護専門学校(ナイチンゲール・スクール)を設立している。
ところで、この壮絶なクリミア戦争で後世に名を残したのはナイチンゲールばかりではない。
クリミア戦争のバラクラヴァの戦いにおいて勇猛な突撃を行ったイギリスの国陸軍軽騎兵旅団長がいた。
その名は英の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルである。
司令官として参戦したイギリス軍のカーディガン伯爵は、負傷兵が着やすいように「前あきのセーター」を考案した。
保温のための重ね着として着られていたVネックのセーターを、怪我をした者が着易いように、「前開き」にしてボタンでとめられる様にしたのである。
この服は、男爵の名前をとって「カーディガン」と名づけられた。
映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが着ていたトレンチコート姿は、「ハードボイルド」のイメージを植え付けたといってよい。
第一次世界大戦のイギリス軍で、寒冷な欧州での戦いに対応する「防水型」の軍用コートが求められた。
その原型は既に1900年頃には考案されていたが、「トレンチ(塹壕)」の称は、このコートが第一次大戦で多く生じた泥濘地での「塹壕戦」で耐候性を発揮したことによる。
確かにトレンチコートは、軍服としての名残を多分に残している。

クロワッサンはフランス語で「三日月」を意味し、形状が名前の由来となっている。
生地の生成に手間がかかるためかつては高級パンの代名詞であったが、現代では機械で成形することが可能になり価格が大きく低下、一般家庭でも親しまれるパンとなった。
ではなぜ「三角形形」のパンを作ることになったか。1683年にトルコ軍の包囲を打ち破ったウィーンで、トルコの国旗の三日月になぞらえたパン、クロワッサンを焼き上げたという。
トルコなんか食っちゃえということか。
クロワッサンはそのまま食べることが多いが、切り込みを入れてサンドイッチにも使用される。
また「サンドウイッチ」は、戦時食と近いものがありそうだが、実際はどうであろう。
第1代サンドウィッチ伯爵であるエドワード・モンタギュー提督の指揮する艦隊が1660年、国王チャールズ2世をイングランドに連れて帰る途中に「サンドウィッチ」に停泊したことから、サンドウィッチ伯爵の地位を獲得した。
その孫のサンドウッチ伯・ジョン・モンタギューが、1762年のとある日、カードギャンブルに没頭し、食事時間を省略するためにスライスしたパンの間に肉を挟んで持ってくるように頼んだ。
やがて、伯爵の友人たちも「サンドウィッチと同じものを」(same as Sandwich!)と頼むようになり、手軽で人気のあるパンが誕生したのである。
しかし伝記作家によると、海軍、政治、芸術と大忙しだったために、サンドイッチは、賭博台よりは執務の最中に仕事机で食されたのが真相に近いらしい。
ともあれ「サンドウィッチ誕生」を記念して、5月12~13日に、サンドウイッチの町が位置するロンドン南東部のケント州で祝賀行事が開催される。
さて、日本のカレーライスはインド式を直接コピーしたのではなく、インドを植民地にしていたイギリス様式をまねたもので、その上で日本海軍の水兵達の口にあうようにアレンジされていったもの。
世界を股にかけていたイギリス人船乗り達は航海の時シチューを食べたいと思っていたが、味付けに使う牛乳が長持ちしないためにシチューと同じ具材(肉、人参、ジャガイモ、玉ねぎなど)で日持ちのする香辛料を使った料理として「カレー」を考案した。
これが、イギリス海軍の「軍隊食」として定着していった。
明治期の日本海軍は、イギリス海軍を範として成長していたので、栄養バランスが良く調理が簡単なカレーに目をつけ艦艇での食事に取り入れた。
最初は、イギリス水兵と同様にカレーをパンにつけて食べていましたが、何か物たりず小麦粉を加えてトロミをつけてご飯にかけたところこれはイケルということになり、以後その様式が日本海軍の軍隊食として使われていった。
「辛味いり汁かけご飯」の誕生である。
以上が現在のカレーライスの発祥の経緯ですが、今では毎週金曜日の昼食に北海道から沖縄まで、4万5千人の海上自衛隊員が一斉に「カレーライス」を食べているのだという。
そして日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、故郷にもどった兵士達が家庭に持ち込むことによって全国に広がっていった。

我が福岡市の薬院に近い小さなホテルが、外国人客がネットに「ニンジャがいる」と書いたがために評判になったことがある。
日本人なら、旅館に泊まって、風呂から部屋に戻ったら食事の用意がしてあったり、布団がひいてあったりして驚いたという体験をもつ人も多いだろう。
しかし外国人客にとって人影も見当たらないのに、いつの間にかなされる行き届いたサービスに、「まるでニンジャがいるようだ」と感じるらしい。
また、「忍びの術」は、「おもてなし」というカタチで、現代においても生きているのかもしれない。
ところで「伊賀忍者/甲賀忍者」という歴史に名を残す集団がいるが、いずれも近江か大和にかけて生まれた特殊技能集団である。そこは、戦国の時代にもっとも大名たちが覇を競いあった地域であった。
伊賀は山に囲まれた閉鎖的土地柄からか統一権力が生まれにくく、土豪・地侍がそれぞれ小党を組んで互いが争っていた。
その時に生まれた夜襲・放火・諜報術が、後の伊賀者・甲賀者の誕生につながる。
江戸時代に入り、天下泰平の時代となって、忍者が活躍するいくさがなくなってしまうと、忍者の末裔や流れを汲む人たちは、忍術を伝えていくために無数の流派を立てていった。
忍術に高い価値があるからこそ、後の時代に残そうとしたのだろう。 忍者の教科書ともいわれる「万川集海」「正忍記」「忍秘伝」などがある。
小説や映画、漫画などでは、ドロンと消えたり水の上を走ったりと、忍法を使う黒装束の「超人」として描かれてきたが、それらの本から浮かび上がる忍者の姿は、とても地味である。
忍者は、手裏剣などは実際に使うことは少なく、手足頭を引っ込めて丸くうつぶせになる「うずら隠れ」などの「隠れ身の術」、「のろしやあぶりだし」といった「伝達術」の訓練をしている。
要するに、忍者は自然や周りの環境に応じて創意工夫しながら生き抜くサバイバルの達人。
また忍術書には、「兵糧丸」という食べ物について書かれている。1日に4、5粒食べればおなかを満たして活動できるというもの。
その成分は朝鮮人参やシナモン、でんぷんなどが入っていて、機能的な効果があることが科学的に証明された。
その他、忍術書には酒に酔わない方法、しゃっくりを止める方法、耳に虫が入ったと時どうすればいいかなどが書いてある。
また、忍者は不測の事態にも臨機応変に対応する能力や集中力を常日頃から養う。
ろうそくの炎をじっとみる。音を立てずに歩く「忍び足」、指先の感覚だけで何かを当てるなどの五感を鍛える特訓をする。
最近、たまたまレストランにあった「おもてなしの極意」という本を読むうち、これは「忍者の教科書」ではないかとさえ思った。
その本の見出しには「気配を感じること」「自らの存在を消すこと」とあり、まるで「忍びの者」の生き方のように思えた。
実際、こういうサービスの在り方こそが、外国人に「ニンジャがいる」と思わせるのではなかろうか。
「おもてなし」の極意は、「こちらの気配は消す」こと。
「おもてなし」されていることも、「おもてなし」していることもお互い一切感じない、感じさせないこと。要するに「忍びの術」に徹することである。
ところで、東京駅には世界を驚かす「奇跡の7分間」というのがある。
「新幹線1両を1人、7分間で清掃と掃除」で注目を集めている企業、JR東日本の子会社で、新幹線の掃除を担当している鉄道整備会社である。
視察だけではなく、米国のスタンフォード大学、フランスのエセックス大学の学生たちが、研修にやってきて、制服を着て、掃除の実習をしている。
日本人の乗客でも、そのキビキビ動作に感心してしまうが、外国の客にとっては、その動きは信じられないようだ。
たまたまホームで待っていた30人くらいの外国人客から大きな拍手と歓声が沸き起こった。そして「ブラボー、ニンジャ」という声さえあがった。
実際「ニンジャ」は世界で知られた存在のようだ。それは、日本から世界に発信された「アニメ・コンテンツ」によるものが大きい。
イスラムでは、女性が身にまとうのが、体を覆い顔を隠す「ヒジャブ」。どういうわけか、この「覆いもの」に「ニンジャ」という名前がついている。
イスラム今日では、男は異教徒との戦い(ジハード)に出征中、女性達は「ニンジャ」を身に着けて、家庭を守った。
その意味で、日本の「割烹着」とも似ている。
日本の戦時下、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが国策として推進された。
そうして満州事変後に銃後を守る女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
割烹着はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
ところで近年 サッカーにおいて、日本チームが活躍すると、海外メディアはかつて「ニンジャ サッカー」といった表現をしていたことがある。
そこで、忍者の故郷「伊賀・甲賀」あたり出身のサッカー選手を調べてみた。
すると、ナント我が地元アビスパ福岡監督・井原正巳が「甲賀市出身」であることが判明した。
それ以外にも、元サッカー日本女子代表監督・大橋浩司(伊賀市出身)、中田一三(甲賀市出身)、西村弘司(伊賀市出身)、なでしこジャパンの宮崎有香(伊賀市出身)など。
実際に、「忍者の末裔」がいて不思議ではない。